世界を変えるまで...そして変えてから... 作:ペンギンって可愛いですよね
夜の米花町。
工藤邸を出た新一は、冷たい風を受けながら歩を進めていた。
「……ここか」
依頼人から渡された地図を頼りに辿り着いたのは、都内の一角にある大学附属研究所。
昼間は何の変哲もない学術施設に見えるが――夜になると、窓のいくつかには灯りが残っていた。
カメラを構え、望遠レンズを覗く。
白衣の人影が資料を抱えて廊下を行き来している。
その中に――見慣れた横顔があった。
「灰原……」
声には出さず、唇がわずかに動く。
真剣に資料を抱えて歩く彼女の姿は、かつて「組織」にいた頃の影と重なりながらも、確かに別の光を放っていた。
――だが同時に、新一の視線は別のものを捉える。
研究所の裏口から、スーツ姿の男が二人。
夜更けに、資料らしき箱を車に積み込んでいた。
(……やっぱり怪しいな)
シャッター音を殺しながらカメラを構える新一。
その背筋に、ひやりとした汗が伝った。
―――――
同じ頃、研究所の廊下。
灰原はファイルを抱え、白い蛍光灯の下を歩いていた。
どこかで足音が響く。
「……誰?」
振り返った瞬間、すぐ近くの角からスーツ姿の男が現れた。
「またお会いしましたね、博士」
昨日声をかけてきた投資会社の男だった。
にやりと笑いながら、再び名刺を差し出す。
「考え直していただけませんか? あなたの研究には可能性がある。我々と組めば――」
灰原の目が鋭く光る。
「……私は、もう誰とも“組む”つもりはないわ」
冷たい声に、男の笑みがわずかに歪む。
「……惜しいですね。ですが――いずれわかるはずですよ」
その言葉を残し、男は足音を響かせて去っていった。
灰原はしばし立ち尽くし、胸の奥にざらつく不安を押し込めた。
―――――
研究所の外。
カメラを構える新一は、不意に気配を感じて顔を上げた。
ガラス越しに見えた――灰原の影。
彼女もまた、一瞬だけ窓越しに夜の闇を見上げる。
そこに誰かがいることを感じたかのように。
互いに、声は届かない。
だが足音と視線は、確かにすれ違っていた。
―――――
工藤邸に戻った新一は、撮った写真を机に並べた。
そこには裏口で資料を運ぶスーツ姿の男たち。
そして、その背後に映り込んでいた一枚。
灰原の研究室の窓。
彼女が、ひとり静かに外を見つめている姿だった。
新一はしばし沈黙し、やがて小さく呟いた。
「……灰原。お前の道にまた、影が迫っているのかもしれないな」
胸に残るざわめきは、決して眠らせてはくれなかった。
―――――
研究所の会議室。
昼下がりの窓から光が差し込む中、数人の教授と研究員が集まっていた。
灰原はファイルを抱えて、静かに資料を提示する。
「これが、前回の実験データよ」
淡々と説明を続ける彼女に、年配の教授がうなずいた。
「……素晴らしい成果だ。しかし、資金の申請はやはり厳しいな」
別の若手研究者が口を挟む。
「外部からの出資話があるんですよね? 投資会社から」
灰原の表情が一瞬で冷えた。
「その件は断ったはずよ」
会議室に重苦しい空気が落ちる。
資金難にあえぐ研究所にとって、投資会社からの出資は魅力的に映っているのだろう。
だが灰原にとって、それは過去の亡霊を思い出させるものだった。
(私はもう、誰かの都合で研究なんてしない。二度と――)
胸の奥で強くそう言い聞かせた。
―――――
その頃、工藤邸。
新一は机に並べた写真を睨みつけていた。
「裏口から運び出されていた箱……あれは試薬か、資料か」
一人呟きながら、写真を拡大する。
写っていたラベルは、一見するとただの化学資材に見える。
だが――その一部に、微妙に偽装されたコードが印字されていた。
「これ……昔の組織のラベルに似てる」
胸に嫌な汗がにじむ。
組織は壊滅した。だが、その研究の断片を狙って新しい勢力が動いているのかもしれない。
そしてその矛先は――灰原。
「……灰原。お前を、また利用しようとする連中がいるのか」
言葉にしてみると、胸のざわめきはさらに強まった。
―――――
夜。
研究所の駐車場。
灰原が帰ろうとすると、またあの黒い車が停まっていた。
窓が下がり、昨日の男が笑みを浮かべる。
「博士、まだ考え直してはいただけませんか」
「何度言わせるの。私は――」
言葉を遮るように、後部座席から別の人物が姿を現した。
白髪混じりの壮年の男。
その鋭い目が、じっと灰原を射抜く。
「君の研究は、我々の未来に必要だ。必ず手を貸してもらう」
ただの勧誘ではない。
その声には、命令にも似た圧があった。
灰原の背筋に冷たいものが走る。
だが彼女は一歩も退かずに言い返した。
「……私は、私の意思でしか研究しないわ」
沈黙が数秒。
やがて車の窓が閉まり、エンジン音とともに闇に消えていった。
残された灰原は、小さく息を吐き、夜空を見上げた。
(工藤くん……あなたなら、この影をどう見るのかしら)
その視線の先。
闇に潜む別の影――新一が、研究所を見張り続けていた。
互いに気づかぬまま。
だが確実に、二人の道は再び交差へと近づいていた。
―――――
深夜の研究所。
静まり返った廊下に、規則正しい靴音が響いていた。
白衣を脱ぎ、荷物をまとめようとしていた灰原は、ふと異変に気づく。
「……?」
カードキーを持たぬはずの時間に、研究室のドアが開いたのだ。
現れたのは――黒い作業着の男たち。
無言のまま部屋に踏み込むと、机に置かれたデータ端末に視線を走らせた。
「っ……!」
灰原の指が反射的にキーボードに走る。
一瞬で暗号化プログラムを起動し、ファイルを閉じる。
「勝手に触らせると思う?」
男たちは何も答えず、無造作に彼女を押しのけようとする。
細身の身体が壁に叩きつけられ、息が詰まった。
(やっぱり……狙いは私の研究データ……!)
必死に立ち上がり、パスワード入力画面を閉じたまま、端末を抱え込む。
―――――
同じ時刻、工藤邸。
新一は机に並べた写真と資金ルートの資料を見比べていた。
「……不自然に流れている金。しかも研究所のセキュリティ業者にまで繋がっている」
胸にざわめきが走る。
(まさか……研究所そのものが乗っ取られ始めてるのか?)
立ち上がり、コートを羽織る。
そのとき、机の上のスマホが震えた。
表示された名は――阿笠博士。
「もしもし、博士?」
『新一くん、大変なんじゃ! 哀くんが……研究所にまだ残っとる! しかも何やら不審な車が周りをうろついとるようでな……!』
博士の声は震えていた。
新一の心臓が大きく跳ねる。
「……灰原!」
短く叫ぶと、彼は駆け出していた。
―――――
研究所の中。
灰原は男たちの一人に腕を掴まれ、必死に振りほどこうとしていた。
「離してっ……!」
だが力の差は歴然だった。
倒れ込んだ彼女の耳に、男の低い声が響く。
「抵抗するな。我々は君の研究を未来に繋げるだけだ」
「未来……?」
その言葉に、灰原の瞳が一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに冷たい光に変わる。
「それは――人を操るための未来でしょう」
その瞬間、研究室の照明が不意に消えた。
闇の中、誰かの足音が響く。
灰原は息を呑んだ。
(この気配……まさか……)
暗闇の中、鋭い声が走った。
「そこまでだ!」
――工藤新一の声。
暗闇に響いた声に、灰原の瞳が大きく見開かれた。
(……工藤くん!?)
非常灯が点き、赤いランプが研究室を照らす。
ドアの前に立つのは、子どもの姿をした江戸川コナン――いや、工藤新一。
「灰原、下がれ!」
迷いのない声に、灰原は咄嗟に端末を胸に抱えて後退する。
その前に立ちはだかるように、新一が足を踏み出した。
―――――
男たちが動いた。
一人が新一に向かって腕を伸ばす。
だが次の瞬間、閃光弾が小さく弾け、白い光が部屋を覆った。
「ぐっ……!」
男たちが目を押さえる。
新一はすかさず灰原の腕を取り、声を低くした。
「出口まで走るぞ。こいつら、本気でデータを狙ってる」
「……またあなたに助けられるのね」
灰原は息を呑みながら皮肉を返す。
だがその目には、ほんのわずかに安堵が滲んでいた。
「助けるのは当然だろ。お前は――俺が守る」
一瞬の沈黙。
だが答えを返す暇もなく、背後から再び男たちが迫った。
―――――
非常階段を駆け下りる二人。
コンクリートに響く靴音と、追いかけてくる足音が混じり合う。
「……研究所の内部まで入り込んでるなんて、予想以上ね」
灰原の額に汗が滲む。
「だから言ったろ。最初からきな臭いって」
新一は息を切らしながらも、冷静に周囲を確認していた。
背後から伸びた腕をかわし、灰原を庇うように身体を滑り込ませる。
その瞬間、灰原の胸にかすかな痛みが走った。
(……やっぱり、私はまだ一人じゃない)
―――――
非常口の扉を蹴り開けると、夜風が二人を包んだ。
外には依頼人が仕向けたのか、黒い車が数台待機している。
「やれやれ、歓迎が手厚いな……」
新一が息を吐く。
灰原は端末を強く抱きしめ、唇を結んだ。
「工藤くん、もしものときは――」
「バカ言え。『もしも』なんて言葉は、俺といるときに使うな」
その声に、灰原は小さく目を細めた。
「……相変わらずずるいわね」
次の瞬間、車のドアが開き、男たちが再び二人を取り囲む。
緊張が張り詰める。
夜の研究所に、決戦の足音が迫っていた。