それは例えるなら今にも降り出しそうな曇空の中の世界。陽の光のほとんどを遮られているせいで色を認識させる力も弱くなり、視界には白と黒とそのスケールで描写された世界が映っている。
意識もどうもぼんやりとしている。ここにいる理由、ここまで来た手段、前にいた場所がどこだったかさっぱり分からない。夢が現実か分からぬままゆっくりと首を回して周囲を確認してみた。コロニー9やテフラ洞窟ではない。シュルクの記憶にあるどんな場所とも似つかない謎の場所である。雲か
そして隣には自分以外の誰かが立っていて——。
「え……は、シュルク!?」
端正な顔立ちと緩やかなウェーブがかった金髪なんて容姿を態々表現するまでもない。その姿はこの世界では鏡や写真でなければ見ることの叶わぬものだが、見間違えも忘れもしないものでもあった。
「……えっ、誰!? 僕!?」
その言葉だけで今の俺の姿がどんなものであるかを大いに物語っている。エイルが肉体を持つのならばシュルクと全く同じ姿形になるらしい。色々と複雑な気持ちだ。
「エイルだ! お前の中にいるアレ!」
「エイル、って……。でも何で僕達別々になって……」
そもそも俺達が別の肉体を持って行動するなんて出来ないはずなのだが……と考えたところで、俺はこの状況と場所が何であるかを記憶の中からようやく掘り当てた。
答えは実に単純だ。現実世界ではないからだ。夢というか精神世界というか、ある存在がシュルクの精神に接触を試みた時にのみ夢のような空間として描かれる物理的には存在しない場所としか言えない。
状況は理解した。しかし俺はてっきり
「変えたいかい?」
シュルクでもエイルでもない声が聞こえてくる。
「え——?」
勿論シュルクには聞き覚えのない声だ。反射的に声のした方向、道の先に目をやれば人影らしきものが一つ立っている。
「——未来」
いきなり問われては答えるどころか内容の理解も追いつかない。しかし此方の無反応など気にせずただ淡々と穏やかに、それでいて間違いなくシュルクに寄り添う何かを感じさせる声色で"彼"は語り続ける。
「望まない未来を変えたいと願うのは人の常さ。そうだろう? シュルクも、
確定した。"彼"は
「未来が
シュルクは抗いたいと願うだろう。
しかし俺は物語の結末を知っているから抗わずともどうにかなることを知っている。だからこの問いに答えるのならば"抗わない"になる。運命められた本質的な流れはどうやったって変わらない。黒い顔付きとフィオルンの件で痛いほど思い知らされた。
「今、モナドは君
"彼"が手を伸ばす。"彼"もまた何かを求めている。
「真のモナドを見つけることができたのならば——それは叶うはずさ。シュルクの願い、エイルの願い、君達が未来を変えた先で本当に望むもの。真のモナドを見つける旅路でいずれ出会うだろう」
伝えるべきことは言い終わったのか、"彼"は背を向けて俺達の後ろを指さした。
——もう、時間だから。
「——シュルク」
背後から幼馴染の声がする。シュルクは振り返ったが俺は"彼"から目を逸さなかった。いっそこの場でどこまで知っているか問いただしてやろうかと思ったが、振り向かずとも俺の視界もシュルク同様真っ白に染まり景色が切り替わってしまった。
小さなスパイドの群れがラインを追いかけている。逃げて逃げて囲まれてしまった先で、ラインの背後からスパイドというには規格外と称しても良いほど巨大な女王蜘蛛が迫ってくる。
「シュルク」
ラインは女王蜘蛛に気が付きバンカーを構えて防御姿勢を取った。しかしその一撃はバンカーを軽々と破壊し、そのままラインの心臓を抉るかのように貫いてしまう。抵抗も碌にさせず、あまりに呆気なく軽々と。
「シュルク……!」
ラインの生命を維持していた鮮血で女王蜘蛛の足が真っ赤に染まる。脚の一つに赤い靴を履いてはしゃいでいるようで、獲物の肉だけでなく血液までも自分の一部として嘲笑っているかに見えて。
世界はシュルクから何もかもを奪おうというのだろうか。
「シュルク!!」
「——ラインっ!!」
やっと意識が覚醒する。モナドを抱えて無理矢理立ち上がればラインは既にスパイドの群れに囲まれている。シュルクもすぐにモナドを抜刀してスパイドを敵だと認識した。
ざっと数えて十匹だが大きさはそこまでではない。ラインがハンマービートで一匹を叩き潰し、その余波で他のスパイドの注意を引きつける。そのままウォースイングでヘイトを維持したままシュルクが一匹ずつ確実に仕留めていく。
焦る必要はない。今見た光景はそもそも場所が違うのだがシュルクは目覚めたばかりなこともあり軽く混乱している。落ち着けとだけ伝え、俺は二人がスパイドを処理するのを黙って見守る。スパイド一匹一匹は大した脅威ではなく数分もすれば全てが息絶えて崩れ去っていった。
「ごめんライン。気が付かなくって……」
「いいって。それよりもお前の方が心配だよ。随分うなされてたぜ?」
恐らく夢の中で聞こえていたラインの声はうなされるシュルクを心配してのものだったのだろう。夢見が悪いならと一旦起こそうとしてくれていたが、その声で逆に近くにいたスパイド達を呼び寄せてしまったと考えられる。スパイドは視覚ではなく聴覚で獲物を探す為に元々声が大きいラインの声に反応してしまった。そこからは焦りからどんどん強く、大きくなる声でシュルクを呼び続け、何回目かでやっとシュルクが起きてくれたといったところだろう。
「どうした? ぼんやりしてよ。目覚めは良くないけどとりあえず先に進もうぜ」
さっさと歩き出してしまったラインに重なるように再びあの光景が映し出される。
『夢じゃないよね』
『……俺に聞いてるか?』
『うん。エイルも同じの見てた、よね?』
『まあな』
夢ではない。近い未来に発生し得る出来事を見せているもの——"
『どうしよう……。ラインに伝えるか、いや……でも、こんなこと伝えても……』
悩む気持ちも分かるには分かる。いきなり本人に対して「この後死ぬかもしれないから気をつけて」なんて気軽に言うべきものではない。何に注意すべきか、何が原因で命を落とすのか等々情報も少ないままでは死の回避は難しい。
それにシュルクはまだ自分が未来を変えられるとは思えていない。フィオルンの時だって逃げろと叫んだのに彼女は逃亡を選ばなかった。自分の働きかけなどでは未来を変えられないのではないかと恐れるのは当然の感情だろう。
「シュルク〜! 何してんだ、早く来いよ〜」
「ごっ、ごめん! 今行く!」
しかし未来は待ってくれない。未来視の光景はもう目と鼻の先まで迫ってきているのだ。
泉の近くには如何にもスパイドの縄張りだろう卵嚢が置かれている空間があった。近場にある物を一緒に取り込む性質らしく、機神兵の残骸まで巻き込まれて繭の形になっている。吐き出された糸もあちこちに残っており、さっきのスパイド達もここからやって来たと考えられる。定期的に身震いするように動いており、中のモンスターは孵化する時を今か今かと待っているのだろう。
「なんか気持ち悪いな。俺こういうの苦手」
「僕も好きではないかな。この形状だからさっきと同じ蜘蛛みたいな……」
——ラインを貫いていたモンスターの種類は何だった?
「……ライン! 離れて!!」
警告ももう遅い。
天井に都合良く開いた穴から真っ白な糸が降ってくる。それは的確にラインを包み込み、そのまま釣り上げて上層階へと連れ去ってしまった。
「まずい……! 急いで探さなきゃ!」
卵嚢の中にいるスパイドに気が付かれるリスクも無視してシュルクは走り出す。洞窟は複雑に入り組んではいるが、どこかから上の階には上がれるはずだと信じて。
『エイル、テフラ洞窟の構造で覚えてることはある!? それかスパイドの弱点は分からない!?』
駆けながらシュルクが訊いてくるが知らなくたってどうにかなるのがこの後の流れだ。実のところ道も入り組んでいないしすぐに上層階にへ向かう手段は見つかる。何の考えなしに走ったって女王蜘蛛の所へ辿り着ける。
『何とかなるからとりあえず走れ』
今は我武者羅に突き進んでいれば良い。俺に干渉の余地はもう無い。
『……なんで、なんでそんないい加減なんだよ!!』
だがシュルクはどうしてか立ち止まってまで怒りを露わにしてきた。俺達の内でのやり取りは現実時間に換算すればほんの僅かな時しか経たないとしてもだ。
『ラインが死んでもいいって言うの!? エイルは未来視が現実になるのを黙って見ているだけでいいの!?』
『シュルクが頑張れば何とかなるんだよ。俺は分かってる』
俺が口や手を出さずともシュルクがラインを死なせないのは決まっているようなものだ。ならば余計な動きをして物語の結末を変えることを避けることに専念すべきだ。俺が足掻いたところで分岐点は何も変わらない。
『何とかなるって何だよ!! そんな上から見てるみたいな言い方して……、ううん、言い方だけじゃない! いっつも落ち着いてて頼りになるけど、でもそれって僕の隣にいてくれるわけじゃなかった!! 一緒にいるのにエイルは世界全部を高いところから見てるみたいだった!! ずっと!!』
その言葉は鈍器で頭部を殴られたかのような衝撃だった。
寄り添っているつもりだった。自分なりに努力していると思っていた。それで駄目だったから手を引いたのだ。自然な考え方ではないのか。
でもその思考自体が誤りであったのだ。
『エイルは僕達を見下してる!! 人じゃなくて盤面で動いている駒がどうなるか観察してるだけだ!! 君は僕達を"人間"として見てなんかいない!!』
自分は上位世界にいて他の者は単なる演者に過ぎない。自分は用意された物語を読んでいるから彼らには大きすぎる干渉は出来ないし、作者ではないから物語の本質を折ることも出来ない。そう思っていた。
『僕達は生きてるんだよ!! 駒でも道具でもない!!』
しかし中途半端な存在であるが故に
人はそれを何と称するだろう。今の俺が持つ知識と記憶では他の作品で似たような存在がいても具体例は挙げられない。
しかし俺はそんな自分自身をある単語で言い表せる。
舞台での演目をただ楽しみ、時には感情移入して喜んだり悲しんだりもする。不満があれば上位者権限で乱入しちょっとした変化が起こるか実験する。けれどもその行為は決して大きな枠組みには影響しない。世界を維持したまま、閉じられた世界で無邪気で残酷に命を弄ぶ。どうしてそんなことをするのかと演者に問われたら答えはただ一つ。
「面白いから」
そんな存在は後の世で"メビウス"と呼ばれることになる。正体は永遠の今を望む意思の集合体ではあるが、世界の構造に身を任せて未来へ進むことを放棄したのだから俺は奴らと同じ存在だろう。
俺は手に持っている膨大な情報の椅子にただ座って踏ん反り返っていた。決まり切ったシナリオの上で大したこともせず、先を良くしようと本気で動いてなどいなかった。
世界を良い方向にしたい? どうせ最後はハッピーエンドだから何をしても何をしなくても同じ? 上手くいかなかったからもう変に触るのはやめよう? 勝手に手を出して途中で勝手にやめると?
『僕はもう何も失いたくない!! ラインを死なせたくないんだ!! 君に何とかなるって言われても安心できるわけない!! だって未来視はラインが死ぬって言ってきた!! 僕が何とかできなかったらラインは死んじゃうんだ!!』
俺はシュルクさえも単なる推しとして、物語の登場人物としてしか思っていなかったのだ。これはもう誰かによって執筆されたデータ上での物語の域をとっくに超えているのにもかかわらずだ。
シュルクは、この世界にいる者達は全員が"生きている"。そんな当たり前のことさえも俺は理解さえしていなかった。零れ落ちる命もそれは元の物語では救えぬものだったから仕方がないと切り捨てた。
なんて愚かな思い上がりだろうか。
神でもない己に命を取捨選択する権利などないのに。どんな形であっても、たとえ異物として放り込まれたとしても、今の俺はこの世界の一つの意識体であり登場人物なのだ。もう世界を箱の外から観測する存在ではないのだ。箱の外を考えて"人間"は生きたりしない。
『……そう、だよな。……あぁそうだ。俺は……ずっと間違ってたんだな』
望みが僅かな変化だったから現実は応えてくれなかったのではないか。逃げ道があるからと覚悟も意志の強さも足りなかったのを世界の枠組みは見抜いていたのではないか。水面に波紋を作るほどの小石さえも投げてはおらず、ただ砂粒を撒いて結果を出したと勘違いしていたのではないか。
あの時俺はムムカに微かな変化を期待して行動した。フィオルンの死に対しても彼女を死なせない道があるのではないかと考えて干渉を試みた。これ自体にザンザの妨害はなかった。因果が変わらないという結論だろうが、俺が誰かの死を回避したいと願うことは拒まれなかった。
つまり俺の腹の底はザンザに漏れていないと考えても良いのではないか。シュルクにも伝えたことはないから、俺がこの先の展開の大筋を知っているのは知られていない可能性の方が高いのではないか。
ならば俺がやるべきことはもうただ黙って見ていることではない。
世界で生きる以上、因果の流れが更に良い方へ流れるまで足掻き、駆け回り、世界の全てを掻き回すくらいに暴れ続ける。救える命にどれだけみっともない姿になろうと手を伸ばし、掴んで絶対に離さない。何もかもを投げ出すのは俺のやれることを全てやりきって、それでも駄目だったのを悟ってからでも何ら遅くない。
違う、それも違う。駄目だと決して認めてはならない。
諦めるな。己が心が傷ついても、骨が折れても爪が剥がれても片目を潰されても腕の一本を吹き飛ばされても心臓を撃ち抜かれても。最高のハッピーエンドを求めて、どんな壁にぶち当たっても絶対に心で敗北を受け入れるな。
一度でも手を出したのだから今更引くなんて選択肢はとっくに消え失せていたのだ。演目を観劇することをやめて舞台に上がったのに、まだ観劇者面でいるなんてのはもう許されない。
ああ違う違う違う! この世界は劇場などではない! 現実なのだ! その尊大で傲慢な自惚れの何もかもをこの瞬間に全て捨ててしまえ!
未来を求めて抗い続けろ! 一つの命に正面から死ぬ気で向き合ってみせろ!
『……走れ! 真っ直ぐ行けば地底湖が見えてくるから正面の蔦をよじ登って上層階に行け!!』
——絶対に立ち止まるな!!
今のシュルクと、これからのエイルに送る言葉だ。
『エイル……』
『助けるんだろ! ラインを死なせないんだろ!! ああそうさ! 何とかなるんじゃない!! 俺達で何とかしてみせる、何とかするしかないんだ!!』
本来の物語ではシュルクが最善を尽くそうと必死になって動いたからラインは助かっただけ。そこに予定外の存在が組み込まれたのなら、そいつも含めて
腹の奥底を隠すことだけ忘れずにいればいい。それ以外は誰かにみっともないと嘲笑われるくらいに抵抗してやる。それだけが俺達の内側で本当に"人間"を見下すあの邪神の鼻を明かす唯一の方法だ。
『シュルク! 俺の持ってる知識でお前を支えてみせる! お前の望む未来へ連れていくと約束する! だから……お前の持つ、お前自身の
いずれ手にするそれを、もう心の内に芽生えかけている未来を切り開く確かな力を。
『……うん!』
見えなくとも、差し出した手は間違いなく握られたのだ。