ラグエル大橋
鼓膜に張り付くかのように粘っこい笑い声がする。鼓膜から耳の底へ、そして身体の奥へと潜り込んで蝕む錯覚さえしてきた。剥がしたくても剥がせないもどかしさ、徐々に明瞭になってくる笑い声が心身の不快指数を上げていく。
笑い声は何かを伝えている。どろりとした声が耳から鼻へ、喉を伝って詰まらせて、それでも中に行こうと食道から胃へ向かおうと蠢いている。
びく。びく、ん。
身体が歪なリズムで脈打つ。もう押し込めない、押し込まないでくれと身体から拒絶されてそれが吐き出される。入り込もうとした時にはまだ誰かの声だった何かは、今や汚泥に似た物体と成り果てて地に落ちた。
口の端から垂れる唾液を拭き取る気力もなかった。ただぼんやりと、目の前で地面に這いつくばった汚泥もどきが小さな泡を立てている様子を眺めていた。
ぱこ、り。
弾けた泡から赤褐色の
「お前のせいでみィ〜んな俺のエサになる! 滑稽だなァ、英雄気取りのクソガキが!!」
「——ッハ、ァ……ッ!」
「うおっ! ……大丈夫か?」
びくんと身体が大きく跳ねた。その衝撃で意識が覚醒する。
身体の右側面に感じる温かい人肌と聞こえてきた声に反応して、軽い混乱に襲われつつもそちらへと視線を向けた。
「ライン……あれ……? 僕、どうしてた、んだっけ……」
「あの顔付きに振り落とされて池の中に落ちたんだよ。かなり勢いよく落ちたから気絶しちまってたんだ」
未だおぼろげに霞む視界を確認する。岩壁に囲まれているから多分キャンプ地の洞窟の中にいる。目の前には小さな焚き火がある。水の中に沈んでしまった身体を温める為に用意されたものだろう。
身体は薄めのタオルケットで包まれており、自分とラインの配置から彼に寄りかかるようにして意識を失っていたと見た。洞窟内も決して広いとは言えないから、態々余所者を一人横たわらせることは流石に厳しいのだろう。それに対して文句などは無い。
そこまで状況を理解し、やっと意識を落とす前のことを思い出した。
——ああ、そうだった。全く不甲斐ないことにジュジュを連れ去られてしまったのだ。
「そ、れなら早く助けに行かなきゃ……! ぁ、っう……」
「急に立とうとする奴があるか」
事態は一刻を争う。今すぐにでもここを発ちコロニー6へ向かわねばならない。それなのに足に上手く力が入らずすぐに崩れ落ちてしまう。
それでも行かねばならない。赤い顔付きにジュジュが喰われる前に、カルナをこれ以上悲しませない為に。
「……シュルク、貴方一人で背負い込まなくていいのよ」
焚き火を挟んで正面に置かれた木箱に腰掛けた彼女は、眉を下げ誰から見ても痛ましく思える笑みを浮かべた。
その表情を見た途端に申し訳なさと後悔が鳩尾の辺りから湧き出して胸を埋め尽くす。大事な弟を命の保障など何もない状態で連れていかれて、この場で一番不安でどうにかなってしまいそうなのは彼女なのだ。彼女を痛嘆の海に突き落としたのは自分に他ならない。
「ごめん、ごめん……っ、ジュジュ、助けられなかった……。僕がもっと周りを見ていれば、
「ねえシュルク。私言ったでしょ、貴方のせいにするほど落ちぶれてないって」
「でも……!」
「ふふ、ラインの言ってた通りね。すぐ抱え込んで自責思考になっちゃう」
やおら立ち上がったカルナが此方へと寄り、シュルクの肩に優しく右手を置いた。不安げな色は薄らいではいないものの、瞳の中に憎しみやその類の感情は不思議と見えなかった。
「貴方がここに来ていなかったら、今が比べ物にならないくらい酷いことになっていたと思うの」
赤い顔付きの発言から既にこのキャンプ地を把握していたのは判明している。今回はモナドを持つ者がキャンプ地に寄った偶然と、コロニー6付近まで来るのを待ちきれなくなった赤の気紛れが重なった結果でこうなった。
仮にシュルクがここにやって来なかったのならばどうなっていただろう。コロニー6においてシュルクがどんな行動を起こして何かしらの結果を生んだ点の差はさておき、手持ち無沙汰になり暇を持て余した赤は、モナドも無ければ戦闘員さえもごく僅かしかいないここへ嬉々として乗り込んできただろう。共に攻め込んでくる他の一般機神兵が同伴していても、反対に顔付き一体だけだったとしても、赤子の手を捻るよりも遥かに容易にこのキャンプ地が灼き尽くされるのは想像に難くない。
「そうは言っても貴方はなかなか納得しないでしょうけど。……だからね、ジュジュを助けに一緒に行きましょう」
肩に置かれていた右手と下に下ろされていた左手がシュルクの右手を包んだ。
償いたいと願うのならばその為の方法はある。本当の本当に取り返しが付かなくなる前にまだやれることがある。
「最初はカルナには無理するなって言ったんだけどよ、姉としての責任があるって聞かなくてさ。それについてきてくれたら回復エーテルもすっげえ助かるし」
ラインが努めて明るい声で割り込んできた。
どうやらシュルクが目覚めるまでの間にカルナと話をしてコロニー6から脱出した時のガドとのやり取りや、彼女の得意とする戦闘スタイルなど色々と聞いていたらしい。
今はカルナは不安を滲ませているものの落ち着いている。だが赤が飛び去った直後はやはりひどく取り乱していた。ラインは
正常な判断が出来ず今すぐにでも飛び出していきそうなカルナに対し「モナドも無いのに一人で行くのはただ死ににいくだけ」「
下唇の内側を噛んで二人の支えに対しての感謝と自分の情け無さを身に刻んだ。
ふとカルナやラインとはまた違った温もりが足に触れた。
「……おにいちゃん、コロニー6にいくの?」
栗色の髪を二つ結びにした幼い少女だった。一瞬誰なのかと面食らったがすぐに思い出した。処理し損ねた六四式機神兵に襲われかけていた子、ジュジュが守り切った命だった。
「……うん」
「ジュジュおにいちゃん、たすけてきて。わたしのこと、守ってくれたのに……おにいちゃん、つれてかれちゃった……」
少女の目に透明な水の膜が張られてあっという間に零れ落ちていく。ぽろぽろと落ちていくそれは世界で最も小さな滝であり、世界に二つと在ってはならない悲しい水脈であった。
「ぜったい助けてきて! おねがい……!」
この子は目の前でジュジュが赤い顔付きの手に捕えられるのを見ていたのだ。六四式に襲われかけたと思えば救われた。一安心する暇もない短い間に今度は同郷の兄のような存在まで奪われた。
傷ついているのは自分だけではない。家族であるカルナも、助けられたこの子も、そしてこの場にいるコロニー6の者達も皆同じなのだ。
それなのに後悔して謝罪を繰り返すばかりで一歩も進めずにいては怠慢と何ら変わらないではないか。ただ守れなかったで終わるに飽き足らず、前進することを放棄して、咲く可能性があった希望の芽を己で踏み潰す愚行を為そうというのか。
「……助けてくる。ジュジュも助けて、コロニー6も解放してみせる。絶対に」
同じことをラインが言った時には大口を叩いてと不安にもなったが、もうそんな感情は湧いてはこなかった。自分の過ちを償えるのならばどんな大口でも叩いてやる。叩いた上でやり遂げてみせる。
待っているとそっちが言ったのだから待っていればいい。どれだけ洗おうと綺麗にならない首を笑って待っていろ。人を喰い散らかして口から溢れた真っ赤な血で汚れた首を、血よりも赤い深紅の剣で叩き斬ってやる。
『人が黙って喰われるのをただ受け入れると思うな』
シュルクの内なる声のみで零された言葉には紫紺の炎が静かに揺らめいていた。
急ぎ身支度をし、カルナを新たに加えて脱出艇キャンプを発った。徒歩でコロニー6まで向かうとなると一日以上かかってしまう。
歩きながら改めてコロニー6が襲われた際の状況をカルナから聞く。コロニー9との共通点や逆に異なる点、戦いが続いているならコロニー6にはどれほどの人が残されているのか。他には実際に顔付きと対峙した経験のあるシュルクやラインからその特徴なども共有しておく。少しでも確実性を上げるに越したことはない。
様々な話題を広げながら、適宜休憩も挟みつつ進んでいく。ラグエル湖に架けられたラグエル大橋を渡りきった頃、カルナがある一つの疑問を話題に挙げた。
「そういえばシュルクって時々不思議な動きするわよね? 相手の攻撃が来るって分かってるみたいに避けたり、あの顔付きとの戦いだって私に"後ろに三歩引いて"みたいに物凄く的確に指示を出したりしたでしょ?」
その問いにシュルクとラインは目を合わせた。語るべきかどうか数瞬だけ悩んだが、今後の戦いが円滑に進められるようにする為にもここで打ち明けてしまうことにした。
「ちょっと信じられないかもしれねぇけど、シュルクには未来が見えるんだ」
何故かラインが口火を切った。
「未来が……!?」
「ジュジュを助けられたのもそれのおかげさ。シュルクが
少し胸を張りラインの方が得意げにしている。これは自分のおかげだと言いたいのでは勿論無く、自分の親友が凄い能力を持っていてそのおかげで人の命を守れたのを誇らしく思っている表れだ。月並みな言葉だが本当にいい奴だ。
「にわかには信じ難いけど……」
腕を組んだカルナが首を傾げて怪訝そうな顔でシュルクの顔を見る。改めて見ると非常に美人である。でもシュルクは人の美醜で感情に波が発生するような人物ではない。ただまじまじと見られて気まずい、くらいにしか思っていない。
いきなり信じてくれるとは俺達
……と思っていたのだが。
「私は信じたいと思う。実際にジュジュは一度それで助かってるし、今もこうやって助けようとしてくれてる。そんな人達の言葉を無下になんて出来ないわ」
人の縁に恵まれているとしみじみ思う。
言葉を扱う生き物である以上、嘘をつくという行為は必ず付き纏う。出会って一日とも経っておらず信頼関係も碌に構築されていない間柄なら尚更だ。それでも彼女は弟の命を救いあげようとしている行為を見て信を置くに値すると判断してくれた。
故にシュルクも未来視を共に見るエイルも、ジュジュを死なせない結果を出して彼女の想いに応えねばならない。
「それにしても凄いわよね、未来が見えるだなんて」
「僕の力じゃないよ。モナドが見せてくれてる、導いてくれてるんだ。僕自身は別に何も凄くないよ」
シュルクが背中のモナドに手を伸ばし、身体の前で持ってその姿を眺める。ラインとカルナの瞳も自然と真っ赤な大剣を見つめている。
「俺はシュルクの力だと思うけどなぁ。もしも本当に未来視がモナドの
「私もそう思うわ。いくら未来が見えてもそれを利用する賢さがないと無駄になってしまうもの。ラインとか」
「おいおいそりゃ無いだろカルナ! ひでぇよ!」
『俺もカルナに同意』
「あははっ。でも僕はここまで来られたのはラインが力を貸してくれたからだとも思ってる。僕一人じゃ駄目だったよ、ありがとう」
「へへっ、改めて言われるとなんか照れるな」
ラインが鼻の下を人差し指で擦る。照れでむず痒くなったのだろう。けれどもその頬は体温の上昇からか少しだけ赤くなり、素直に親友からのお礼の言葉を嬉しそうに受け止めていた。
「青春ねぇ」
人命が懸かっていることは決して忘れていない。それでも常に張り詰めた空気では息が詰まってしまうから。力を抜ける地点でしっかり余計なものを吐き出して、そこから改めて無駄なく四肢に力を入れて敵に挑むのだ。
束の間の談笑で一休みする権利はシュルクに迷わず渡し——ちょっとだけ内側で突っ込んだが——俺はこの後の流れを細部まで必死に記憶から探していた。
ただ怖い点もいくつかある。流れは本来のものと合流していると見せかけていてその実全く別の道を辿っている可能性が捨てきれない。
一つ目、赤の待つ中央採掘場最深部へ辿り着いた際にジュジュが喰われている可能性。待っているとは言ったが明確な期限は一切提示されていない。ある程度は待つかもしれないが奴は「あんまり遅いと喰うかもしれない」とも言ったのだ。寄り道をせずとも相手の感覚と気まぐれで事は簡単にひっくり返る。
二つ目、ガドの安否。顔付きのユニットとして使用されるホムスの選定基準は正直なところ何も分からない。年齢や筋肉量などで基準を満たせばなのか、遠隔からの通信や指示でエギルが喰う喰わないを決めているのか。最も理想的なのは辿り着いた時点で他のコロニー6の者達を含めて喰われていないことではあるが、因果の波が都合良くプラスの方向へ働くという希望は持たない方が良いだろう。
現時点での介入や抵抗は難しい。喰われずに連れ去られ、機神界で緑の顔付きとしてあまり嬉しくはない再会を祈るしかできない。生きてさえいればその後は選択肢は一気に増えるのだから。
そうだとしても恐れは消えない。常に最悪の可能性をちらつかされたまま歩むのは、いくらそれを考えないようにしても無理がある。自分の観測が届かない事象に対してここまで恐怖するとは正直思っていなかった。見立てが甘かった。
『大丈夫?』
『ん……あぁ悪いな。色々と不安が尽きなくて』
『仕方ないよ。僕もジュジュが殺されてないかずっと怖いから』
細かい思考はシュルクには伝わらないから、エイルが具体的に"何に対して"恐れを抱いているかまでは分からない。恐怖という感情だけを読み取ったシュルクは「エイルはジュジュの死を恐れているのだろう」と結論付けた。間違ってはいないし、ここで変にガドに待ち受けるものを知られても困るのでこれで問題はない。
『とにかく今は急ごう。僕もあの顔付きを許せないのは同じだ。……絶対に"
『そうだな。ああいうのはきっちり"倒"し切らないと永遠に追いかけて来る』
人の足で少しずつ、しかし着実に目的の地に迫っていく。陽が沈み再び昇るのを見てはまた進む。
コロニー6までもう少しだ。