白翼宮に近づいてくる足音に反射的に身構える。しかし幸いにも現れたのは予言官たるアルヴィースであった。
彼は割られてしまった扉のガラスに一瞬だけ眉を
「——異端審問官か」
静まり返った空間では小さな呟きもよく響く。外の音もまた同じだ。再び慌ただしい足音が近づいてくるのを認識したラインはジャンクバンカーを構え、いよいよ戦闘態勢に入ろうとする。アルヴィースの言った異端審問官とやらが何者なのかはさっぱり知らないが、もし奴らへの増援ならば一切の容赦も情けも無しにぶちのめしてやる。そう思っていたのだが、現れた二人組の片割れの顔を見て武器と怒りの矛は自然と収まることになった。
「何事か!」
「皆さん! ご無事ですか!」
「アイゼル!? ……と、その人は?」
アイゼルと共に白翼宮に駆け込んできたのは精悍ながら非常に整った顔をした一人の男だ。服装を見るにアイゼルとは違って兵士ではなさそうだ。精彩な模様が刻まれた布地や、ホムスから見ても相当に柔らかく見える大きな翼からかなりの身分だと推測できる。
「この方はカリアン殿下。メリア様の兄君です」
すんなりと腑に落ちた。つまり彼はハイエンターの王子様だ。
「殿下、既に解決した——と申し上げたいところですが……」
アルヴィースの目つきが鋭さを増す。視線の先にいるのは未だ屈んだままのダンバン——に抱えられたシュルクだ。ダンバンへと歩み寄り、シュルクを覗き込むようにして彼も床に膝を突く。鋭くなった目つきはシュルクを前にすると緩まるも、意識を失っていても伝わるほどに精神的に弱りきってしまった姿を見て、アルヴィースは悲痛な面持ちで唇を強く結んだ。
彼は右手をゆっくりとシュルクの頬へと伸ばした。誰から見ても乾ききらぬ涙を拭おうとした行為であると判断できるにもかかわらず、ダンバンはアルヴィースの手を拒絶するようにシュルクを強く抱え込んだ。
「すまん……。今は……今だけは、下手に親しくない男には触れてほしくない。気持ちだけ受け取っておこう」
「——そうか、分かったよ。すまなかったね」
アルヴィースは腰を上げてカリアンへと向き直る。
「彼らの危難が見えたので急ぎ此処へと参りましたが、御覧の通りに彼らを襲撃した者は既に対処済みのようです。ただシュルクだけはよもやこのような状態とは思いませんでしたが……」
「ただの賊には見えないが……」
「恐らくは巨神教異端審問官。皇家の歴史を裏から支えてきたと言われる暗殺者集団ですよ」
巨神教だとか異端審問官だとかはホムスである自分には分からない。それでも暗殺者集団と言われては穏やかではいられない。何よりそいつが何かしたからこそシュルクはあんなに取り乱したのではないか。
ラインは全部教えろと声を荒げそうになったが、それよりも先にハイエンターであるカリアンが驚きの声を上げた。
「馬鹿な……! 巨神教は単なる——!」
「噂。巨神教が存在していたのは遥か昔、その血筋は絶えたものとボクも思っていました」
どうやら何らかの宗教がハイエンターの中に存在しているらしい。しかもアルヴィースやカリアンの会話から推察するに、ハイエンターの間においても陰に隠れた秘密裏の存在だと思われる。しかもこうして暗殺者を仕向けてきたことからも分かるように、その思想は異常なまでに過激とさえ考えられるだろう。
更にはカリアンの父——皇主ソレアンでさえも、巨神教が現在の皇都において現存しているなどとは考えてさえいない。公的には第四十七代皇主ルミオン皇の治世下にて、その思想の過激さ故に勅命によって解体されている。その時点で教団としての体裁を失っているはずの宗教なのだ。
しかし現実として暗殺者はここに倒れている。ならば今も存在するとしか考えられない。もっともソレアンが把握できていないのは無理もない話だ。異端審問官なる暗殺者集団を抱える組織など存在自体が表の者に知られるなどありえない。たとえ皇主が相手であろうと崇高な使命の為ならば己らの存在を徹底的に隠し抜く。過激な思想を有する集団とはそれを成し遂げるだけの意志の強さを持つものだ。
カリアンはハイエンターの中に存在する巨神教の者がホムスを襲ったことを疑問視していたが、すぐに一つの心当たりを探り当て辛そうに顔を歪めた。己の見たものが信じられないと言いたげに。
「メリアちゃんのにーちゃん! それどころじゃないも!! メリアちゃんが危ないんだも!!」
リキの声でラインやダンバン、カルナもはっとする。そうだ、異端審問官に襲われる直前に
「何だと!? 何故そのようなことが言えるのだ!」
「彼らには未来が見える。ボクと同じなんですよ。厳密にはシュルクが、ですが」
「なんと……!」
ラインは一人葛藤していた。短い時間であっても共に旅をし、協力してテレシアを倒したメリアはラインにとっても既に大切な仲間の一人だ。彼女が危険な目に遭うならば仲間として、人間として助けにいくのが道理だ。
しかし、しかしなのだ。親友である自分さえ見たことがない、最早狂乱と言えるほどの状態に陥ってしまったシュルクを置いていくというのか。彼が目覚めるまで、目覚めたのならば彼が落ち着くまで付き添ってやるのが自分の役割ではないのか。
——いや、違うだろ。
シュルクが目覚めた時にメリアが無事でなかったら彼は己を責める。未来視で知っていたのにそれを変えられなかったと、何もかもを自分のせいにして酷く傷つくに違いない。彼は悪くないのにこうして意識を手放したことさえ責任を感じて、自分で自分を罰して他者の責すら背負っていずれ潰れて壊れてしまう。シュルクの心が完全に崩壊して、本当の本当に取り返しがつかなくなるなんて未来は未来視の能力を持たぬラインでさえ簡単に見えてしまう。
だから親友を本当に守りたいならば、これ以上彼の身にも心にも傷をつけさせないと思うのならば、ここで取るべき行動は一つしかないではないか。
「頼むカリアンさん! 俺達をメリアのところに行かせてくれ!!」
きっとこれが最善の答えだ。メリアを守り切り、彼女が墓所詣でとやらを成功させて皇太子となる。そうなればメリアを取り巻く問題も解決して監獄島へ向かう勅許も下りるに違いない。シュルクが目覚めた時に安心しろと、全部上手くいったぜと笑って言うのが一番の親友の務めだ——!
「ならぬ」
しかし返ってきた言葉は至極単純かつ明確な否定であった。
メリアが臨む墓所詣でとは己が力で成す決まりだ。その中で命が果てたとて天命である。皇主の器に能わなかった、彼女は皇太子として相応しくないと祖霊が審判を下した。それ以上でもそれ以下でもない。そこに第三者の介入などがあろうものならば崇高な皇統に穢れを持ち込むことになる。仮に第三者の助力を得て墓所詣でを成したとしても、不当な手段で皇主となった者には必ず天罰が下る。遅かれ早かれ命を落とすことに変わりはない。
理解の追いつかないことが立て続けに起こっても、礼儀や態度など何とか一線を越えぬよう耐えてきたラインだがもう我慢ならなかった。相手がこの国の王子様だとか凄い偉い人だとかなどもう頭にはなかった。
黙っていれば人が死ぬのに、大事な家族なのに何をそんな細かいルールに縛られてばかりで動こうとさえしないのか! 人が死ぬんだ! 死んだら二度と戻ってこない! そんな当たり前のことがどうして分からない! 自分の両親だって
「あんた本気でそんなこと言ってんのかよ!! メリアなんだぞ!? あんたの妹だろうが!! 家族が死ぬかもしれないってのになんでそんな——!!」
「よせライン」
このままではカリアンに殴りかかりかねない勢いだったラインをダンバンが言葉一つで諫めた。シュルクを抱えたまま、顔だけを向けて。
「それほどまでに重要な儀式なのだろう。俺達部外者が軽々しく口を出していいもんじゃない」
「でもよ……!」
「だがそれはあんたらハイエンターの内での決め事だよな?」
声の調子は普段と大差ないままにダンバンの目の色が急激に鋭くなる。彼の持つ軍刀か、それよりももっと鋭利に。
「俺達はホムスだ。異民族がしゃしゃり出たところで問題はなかろう? それともなんだ、その墓所にはホムスが入っちゃいけないってぇ決まり事でもあるのか?」
「それは、ないが……」
僅かにたじろいだカリアンを見たダンバンは好機と言わんばかりに言葉を続ける。
「なら肩の力を抜けよ。墓所詣でとやらがあんたらにとってどれだけ大切な儀式かは知らん。でもよ、妹の命と天秤にかけて釣り合いの取れるもんじゃなかろう?
——任せろや、俺達に」
それは言外にダンバンもまたシュルクを置いてメリアを助けに向かうという意思表示でもあった。彼もまたライン同様にどの選択肢を取るのか悩んだのだろう。そしてやはりラインと同じようにメリアを助けるという結論に至った。それはシュルクの為でもあり、何より妹を持つ兄としてこのままカリアンに妹を失わせてはならないと思ったからだ。
「……立場を弁えぬ無礼をお許しください、殿下。私は……自分は、このままメリア様が命を散らす未来など望みません。彼らに託したいのです。マクナにてメリア様を助けてくださった彼らを信じたいのです……!」
「アイゼル……」
「ライン殿、ダンバン殿、我儘を承知で申し上げます。どうか……どうか皇位に一切の
「そうか、貴殿があの……」
アイゼルが知っているならばやはりカリアンもダンバンの存在を聞き及んでいた。一年前に大剣の渓谷での戦いでモナドを振るい機神兵団を退けたホムスの英雄であると。
「そこまで知ってたんならあん時助けに……ってのは冗談だ。互いの事情はそれぞれさ。——さて」
そこでダンバンは視線をアイゼルへと移した。
「メリアのことを引き受ける代わりに、ってほどでもないが頼みがある。シュルクのことだ」
「お任せください、と言いたいところですが……。その、自分で良いのですか?」
「この中じゃあんたにしか頼めなくてな。シュルクが起きた時に知らん奴がいたらまた混乱するかもしれん。最適なのはカルナなんだが、シュルクを欠いた状態で行く以上カルナの回復は俺達に必須だ。俺達がいない間に起きたら状況を教えてやってくれ」
「はい! 承知いたしました!」
シュルクを寝台に移し、アイゼルはダンバンからいくつか細かい注意事項を受け取った。目覚めた時に万が一再び錯乱するようならアーツを使ってでももう一度眠らせて良いとも。
幸運にもアイゼルはスリープマインドというアーツを習得しており、その万が一が発生しても身体に傷をつけることなく眠らせる手段を持っていた。剣の使い手でありながら、練度は純粋なエーテル使いであるメリアに遠く及ばずとも一通りのエーテルアーツを習得していたのは幸運であったと言える。
寝室から出る寸前、ラインは振り返って未だ眠るシュルクの顔を見て呟いた。
「……いっつも助けられてばっかりだからさ、たまにはお前がいない状態でも未来を変えてみせなきゃな。ずっと頑張ってきて、それでちょっと頑張りすぎたんだよ。ゆっくり休んでてくれよな」
メリアがいるハイエンター墓所はセンターゲートより転移装置で向かえる。白翼宮を出発した彼らはアルヴィースから墓所についての説明を受けながら目的地へと急いでいた。
墓所には外敵の侵入を拒絶する防衛機構が存在する。どんな理由があれど、それが稼働している中に入るのだから避けることは不可能だ。その点は倒してしまえば良いので大した問題ではない。
寧ろ問題なのはメリアを助ける基準だ。アイゼルから頼まれたように、皇位継承に関して一点たりとも翳りや曇りが生まれてはならない。つまり墓所詣での中で"対象者が祖霊に認められなかった"場合、もう少し言うと墓所の正式な機能でメリアが命を落としそうになった場合は目を
逆に言えば墓所の機能でない"何か"がメリアの命を奪おうとしたならば、遠慮なく彼女の助太刀に入れる。本人の口から聞けなかった以上は想像の範囲を出ないが、シュルクが見た未来視は恐らく後者のはずだ。防衛機構と外部からの敵を見定めることが重要になる。
その為のアルヴィースでもある。彼ならば防衛機構であるかどうかの判断はダンバン達よりも容易だ。また予言官である彼が同伴し、墓所内部で起こった事を正確にカリアンや皇主ソレアンにも報告してもらわねばならない。第三者の視点としても彼の存在は非常に大きい。
アカモートから外へ出たところでカルナがある疑問をアルヴィースに投げかける。
「気になったのだけれど、さっき貴方も未来が見えるって言ってなかった?」
「そうだよ。ボクの家系は代々皇家に仕える予言官の血筋なんだ。未来の姿を見て皇国の危難を回避する役目、それがボクだ。——あ、下の転移装置を使うよ。こっちだ」
エルト海からアカモートへやってきた際に使用したのとは別の転移装置を通る。強い光が一瞬視界を埋め尽くし、それが晴れた時には既にハイエンター墓所のすぐ前だ。
「未来を見るにも色々と準備が必要でね。儀式に近いかな。シュルクの未来を見る力がどういったものかは分からないけど、ボクのよりは凄いと思う。現にこれから起こるという殿下の危難は見えなかったからね」
「それ予言官失格だろ」
普段より幾分か低い声をしたラインの突っ込みにアルヴィースは薄く笑う。
「案外鋭いね。だからボクもこうして来ているんだ。予言官としての責任の取り方ってところかな。実際ボクが見えたのは君達の危難だけだ」
「……シュルクがあんなになったのも見えてたのかよ」
「いいや、ボクは君達が異端審問官に襲われるところしか見ていない。だから許してほしいと言うつもりはないけれど——そこまで露骨に怖い顔をするのはやめてほしいかな」
アルヴィースが苦そうに笑ったのを見て、ラインはようやく自分が相当に怒りを剥き出しにした視線を彼に突き刺していたことに気がついた。理屈では彼に何ら非はないと分かっているのだが。
「君の気持ちも理解できる。大切な親友の痛ましい姿なんて誰だって見たくないものさ」
「そうだも! ライン、オトナゲないも!」
「……そうだな。悪かったよ」
「もー……」
普段ならもっと威勢良く言い返してくるのにそれがない。少しでも重たい空気を吹き飛ばそうとして、厳しい物言いに聞こえぬように努めていつものリキらしく咎めたはずだった。
間違えてしまったとほんの少しだけ落ち込んだリキの頭をダンバンの左手がぽんと優しく叩いた。少なくともダンバンはリキの小さな配慮を分かってくれていた。
——またいつもの空気に戻れるようにメリアを助けに行くんだろう?
——も! 若者達を守るのがオトナの役目だも!
視線だけで互いの決意を感じ取り、無言で小さく頷き合ってもう一度墓所を見据える。そうだ。ここでメリアを守り切らねば何も始まらないではないか。
「とにかく今は殿下の命を守るのが最優先事項だ。さ、行こうか」
***
視界は黒一色、ではないようだ。仄かに赤みがかった黒紅が一面に広がっている。
ああ、多分目が覚めたばかりなのだろう。意識だけが浮上して身体が一拍遅れてついてきたのだ。それならばまずは瞼を持ち上げなければ。
——あれ。
おかしい。瞼が上がらない、色が変わらない。
違う。もう目は開かれていたのだ。上がった瞼を下げることは出来ても、上がったそれを更に上げるなんてのは人間には不可能な動きだ。
それに目覚めたのではない。自分は最初からここで突っ立っていた。どうしてかこんな空間に取り残されて、今の状態を異常だとも認識できずただいるだけ。
音はしない。……しない?
無音とは何の音も鳴り響いていない状態だ。でも、もしも生まれた時からずっと世界に流されている音があると仮定しよう。他の音が全て止んだ時にその音だけが鳴っていても、人はその状態を音が鳴っていると認識出来るだろうか。音は鳴っているけれど無音だと認識するのではないだろうか。
音は、多分鳴っている。この空間は空間を構成する主が生命を終えるその瞬間まで世界の音を鳴らし続ける。胸の音、心臓の鼓動。この
ここで突っ立っているのも落ち着かない。とりあえず右足を前に出す。踏むだけの大地があると理解してすぐに左足もまた前へ、右、左……歩き出す。
ぱた、ぱた。
靴の底が軽い音を立てる。
ぱた、ぱた、ぱた、ぱた——ぴちゃ、ぱちゃ、ぐちゃ、ねちゃ、ぐち、ぬち。
乾いた音が浅い水たまりを蹴るような音になり、それが今度は水を多量に含んだ泥の上を歩くような音へと変わったところで足を止めた。
音がする。身体の音でも足音でもない。遠くから、低い、意味を持った音……人の声だ。
何と言っているのか気になって耳をすませてみた。知りたいという好奇心と知るべきではないという微かな恐怖が腹の内で渦巻く。
——聞き取れない。
人の声は二人分ある。自身の記憶にはない誰かの声は恐らく男性のものだ。そのどちらもがノイズ混じりで、何かを喋っているのは分かるのに内容がまるで理解できない。理解できないのか理解したくないのか。
『顔……い……』
『……索……の生き……り……てよ』
知らないはずの声であるのに妙に聞き覚えがある。どこで聞いたのか。
『おにいさんたち、あの、ぼくになにか、ようじですか』
まだ幼い子の声。この身体で初めて明瞭な声だ。
『神……子って……』
まただ。男性の声になると途端にこうだ。途切れ途切れな上にノイズも酷い。でもやはりどこかで聞いた気がしてならない。
『ぼく、ふつうの
そういえば子どもの方も聞き覚えがある。男性とはまた違う、もう少し遠い記憶で……これは自分の記憶の中にあるものだ。
『自覚……のが……だろ……』
『無……って……か。……ハッ、堪……ァ』
世界は光が当たる場所ばかりではない。この空間のように光が届かぬ場所もごまんとある。
『え、やっ、あの、なにっ、やだ、はなしてくださ……んむぅ、ッ……!』
——それは人も同じだ。
うるさい、心臓の音が。
『う……やぁっ、や、だぁ! いや、あ、ぁっ……!』
己の存在、己の名前、己の記憶、己の存在理由、己の願い。
『や、いやだ、ぁ、ごめんなさいっ、ごめんなさ、あ、あぁ、ん……っ! やぁ、やだぁあっ……!』
——君が、泣いている。
黒紅の空間は君の記憶空間の奥底だ。君が封印してしまった過去の
指先に触れたぬめりを帯びた何かが弾けて俺を包み込んだのだ。未来永劫思い出したくなかった君の記憶が弾けて俺達を分け隔てた。
——幼い君が抵抗も出来ずに泣いている。幼い君が、無垢な君が、何の非もない君が。
手を突っ込んだ。ぬかるんだ地面へと、君の泣き声が聞こえる方へと。
汚れた記憶を詰め込んだ箱はもう壊れてしまった。中身は異物である俺を覆うことで君と分断して君の足首を掴み上げた。君の胎内を暴こうとした。世界の汚いものは純粋な君を求めてしまった。
でも君がそれに応じる必要なんてどこにもない。一方的に向けられた汚らわしいそれを君が受け止める義務なんてない。
潜る。泥の中を必死に進む。泥の中では響く男の声にかかるノイズも全て消えてしまっていた。
『本当、顔がいいガキだよ』『モナド探索隊のたった一人の生き残りだってよ』『神に選ばれた子とか呼ばれてるらしいぜ』『巨神様のお気に入りってか。余計にクるねェ』『自覚無いってのがいいんだろ』『無垢な子ほどってか。ハッ、堪んねえなァ』
モナド探索隊唯一の生き残り、モナドの前で守られるかのように眠っていた幼い子。きっと巨神の加護に違いない。そこまでは良かった。そこまでの感情で終われば何ら問題はなかった。
しかしこの世には自分の想像よりも遥かに汚く悍ましい感情と欲望を抱え、それを発露させてしまう者がいる。綺麗なものは欲しくなる。綺麗な何かを意図的にくすませたい。巨神の加護下にある存在を自らの手で俗世へと引き摺り下ろしたい。あまりに身勝手な欲望の捌け口としてこの幼い子が好みだっただけ。
君は
君に幾重にも絡まり、集中した特異すぎる因果の糸は余計なものまで呼び寄せてしまった。
乗り越えるべき壁でも試練でもない。ただ理不尽で身勝手な暴力など君が背負う必要などない。だから——。
泥を抜けた。重力に従って身体が地面に叩きつけられる。
痛む身体を起こして顔を上げれば、そこは目が痛くなるほどに白磁の色をした世界だった。泥に塗れた俺の目の前には幼い君が力無く横たわっていた。
焦点の合わない瞳からは静かに涙だけが溢れ続けていた。君が表したままに、あれから十年以上が経っていても君は、きみは、とってもちいさなうみでおぼれていた。
「……シュルク」
君が俺を拒むのならばそれでいい。この手を払って今すぐに君の領域から追い出してくれてもいい。
しかし手は君に届いた。拒むだけの気力がなかっただけかもしれないけれど。
「現実って酷いものだな。物語なら描写がなければそれで済むのに。俺の見ていた物語はそうだったから、きっとこの世界もそうだと勝手に思い込んでいたんだ」
君を抱きしめた。正解の行動なのかは分からない。
「これが物語なら伏線も碌にないままに、適当な気紛れで捩じ込まれた重い過去だって笑い飛ばして書き直しを命じることだって出来たのに、まだ盛り上がるタイミングには早いぞって過去を消せたのに。
現実は違う。世界の行く末が見えないと焦る以前の問題がある。俺の知らないところで君は悍ましい傷を負わされた。その上傷を予想だにしないタイミングで抉られて、黙っていれば塞がったままの傷がまた開くなんて。……分かるわけない」
ゆっくりと君の小さな頭を撫でた。ひくりと君の身体が微かに反応する。
「分からないからこそ俺が君の記憶の箱になろう。
君はここで眠り続けてもいい。君を無理やり現実に引き戻す権利を持つ奴はいない。でも……だからこそだ。酷なことを告げる自覚はある、身勝手だと思う。君は未来を掴まないといけない存在だから。
君に向けられた
目的が同じだから旅に同行しているのもあるだろう。でも皆君が好きだから君についていくんだ。君は君が思う以上に沢山の人に愛されている。君に笑って未来を生きてほしい。物語ではないこの二つの世界を君が繋いで、新たなる未来へと導く為にも。
……起きようシュルク、まだ未来は変わっていない」
虚ろな瞳が徐々に焦点を結び出す。
「み、らい……」
掠れて弱々しくとも確かに君の意思で発せられた声。
「仲間が死ぬ未来は変えられていない」
未来視、なのだろうか。この空間に落とされてからの間、ずっと頭の中に一つの映像がある。
ハイエンター墓所にシュルクを欠いた状態で皆は向かってくれた。メリアが危ないという言葉を彼らは迷いなく信じてくれた。テレシアとタルコの襲撃はそのまま、仲間達も全力でメリアの為に戦ってくれる。そこまでは良い。
だがテレシアは悔しいことにこのままでは倒せない。マクナ原生林でホグド、ダミル、ガランを巨神に還したあの波動が墓所の狭い空間で容赦無く放たれてしまう。ライン、ダンバン、カルナ、リキ、メリア、アルヴィース、更には襲撃してきたタルコさえも巻き込んで墓所にいたあらゆる命を消し去る。
モナドがないから、シュルクがいないから。一人欠けただけで未来は呆気ないほどに脆く、簡単に崩れ去る。
「俺もいるから、シュルクが折れそうになれば支えることは出来るから。——もう一度、起き上がろう」
「あ、ぅ……えい、る……」
「……そうだ、君が俺につけてくれた名前だ。君が与えてくれた名前が、この世界で俺という存在の最初の意味になったんだ」
この世界の命を俺が知る範囲以上に掬い上げたい気持ちは今も変わらない。行動原理の芯であることに違いはないし今後ぶれることもない。
でもここで新しい存在意義を見つけられた。
「俺の存在に意味をくれた君の心を守らせてくれ。次の世界に至るその瞬間まで君が君のまま、君だけの
——未来が絶望のままなら書き換えてしまえばいい。未来は、変えられるんだ」
仲間が死ぬ未来を変えてしまおう。君がこの記憶に苦しみ続ける未来も書き換えてしまおう。
「……ん、うん……。ぼく、も、"みんな"がいる、みらいがいい、な」
それでいい。
君は主人公だから、現実の世界であっても確かに世界は君を中心として展開されるから。君がいないと世界は成り立たない。君が光としていられるように、君が目覚める時に元の君に戻れるように俺が君の影を受け持とう。
だから安心して目を覚ましてくれ。美しい碧眼に輝かしい未来を映して笑ってくれ。
抱えていた幼い君を地面に立たせる。君の小さな手が俺の服をいつの間にか強く握っていたのが君の想いだと信じよう。
「いかないの……?」
「今は一緒に行けない。君の——お前の影を仕舞い込まないといけないから」
俺の服を握っていた手をゆっくりと放させた。今のシュルクがいるべき場所はここではない。お前は栄光の未来の中で笑っていなければならないから。
一つ、小さな小さな背中を押した。
「——行っておいで」
「——うん。ぼく、がんばるから。ぜったい、ぜったいにおいかけてきて」
「……善処するよ」