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身じろぎ一つ。質の良い布が擦れる感覚がまだ横になっていたい感情に尾を引かせる。
シュルクは右腕を天井へと伸ばし、すぐに力を抜いて右手の甲を瞼の上にゆっくりと被せた。随分と深く眠っていたらしい。身体の手と足の先に少しだけ怠さを覚えた。
身体は重いのに胸はどこか隙間を感じる。何年か前にぎちぎちに書物が詰め込まれていた本棚を整理した時を思い出した。あの時の本棚はとっくに限界を超えており、形が変わりかかっているくらいに中身を詰め込んでいた。このままでは棚が崩壊するか床が抜けるかのどちらかだとフィオルンに怒られて仕方なく整理したのだったか。
結果的に不必要だと判断された書物を泣く泣く捨て去ったことで本棚は本棚として適切な姿を取り戻したものの、中身が一気に無くなってしまったからつい隙間ばかりに目が行ってしまって少々寂しかったのを覚えている。
しかし今の胸の隙間は整理された本棚を眺める物寂しさとは全く異なる感覚だった。寧ろ何十年も掃除していなかった排水管に付着した油や汚泥を取り除いた時の爽快感の方が近い。
自分は何をしていたのだったか。記憶が途切れており寝台にやって来るまでが曖昧だ。確かやけに焦っていて、行かねばならない場所があるのに邪魔が入ってきて……。ああそうだ、変な襲撃者が部屋の中にやってきたのだった。それと戦っていて——駄目だ、思い出せない。
その前はどうだったろう。何を焦っていたのだっけ。どこかへ行こうと……墓所……そうだ、ハイエンター墓所の場所を知らないから誰かに聞こうという話だった。ではどうしてハイエンター墓所に行かねばならないのだったか。
——メリアが、テレシアに襲われるから……。
そこでシュルクは勢いよく上体を起こした。身にかかっていた掛け布団を薙ぐようにして取り払い寝台から降りる。このままではメリアが殺されてしまう。仲間達はどうしたのか、どうして自分はこんなところで一人眠っていたのだ。
寝台の横に置いてあったモナドを握り締め、扉を蹴破る勢いで寝室を飛び出す。
「メリアは——!」
「シュルク殿!? お目覚めになられたのですね!」
声のする方へ反射的に顔を向けると心配と安堵の両方を孕んだ表情のアイゼルが立っていた。彼の姿を見てシュルクは肩を跳ねさせる。理由は分からなかった。身体が勝手に強張ったのだ。
「ああ、ご安心ください! 自分はシュルク殿に危害を加えたりはしないですから」
「はい……ありがとう、ございます……?」
どうしてそんなことを。アイゼルはメリアの傍にいる優秀な騎士で、自分達にも友好的に接してくれる優しいハイエンターだととっくに知っているのに。
シュルクの抱いた疑問とは別に彼が自覚しないところで肩の力が自然と抜け、強張った身体は確かに普段の状態へと戻っていた。
「あの、みんなは……ラインやダンバンさんは……」
「ハイエンター墓所へ向かいました。二十分程前でしょうか。シュルク殿が"メリア様に危険が迫っている"と伝えてくれたおかげで皆さんがカリアン殿下をも説得して——あ、カリアン殿下はメリア様の兄君です」
「そう、ですか……」
自分以外が全員で向かったのならばメリアを助けるには十分かもしれない。マクナ原生林で一度レオーネ・テレシアと戦っているし、彼らが油断するとも思えない。多分自分は何かしらの理由があって急に意識を失ってしまったのだろうけど、そんな情けない自分のちょっとの言葉で皆は事態を把握してくれたのだ。感謝しかないだろう。
ふと視界が白む。
彩度の弱い世界の映像がシュルクの瞳に流れ出す。場所は最初に見た時と同じハイエンター墓所の祭壇らしき場所だ。テレシアが中央にいてメリアや他の仲間達の姿も見える。
やはり間に合ったのだ。安心したと息を吐こうとしたのも束の間、テレシアは身を震わせたかと思えば祭壇らしき空間全てを覆い尽くしてしまう強力な波動を解き放った。それに触れた仲間達は苦しむ素振りさえ見せずに粒子となり肉体を崩壊させていく。マクナ原生林で一度見た光景、アイゼル以外の者が巨神へと還ってしまったあの攻撃が——。
——行かなければ!
白翼宮を飛び出そうとしてつんのめった。アイゼルがシュルクの左手を掴んでいたのだ。
「待ってください! 無理をさせないでほしいとダンバン殿から言われております! 皆様が戻ってくるのをここで待って——」
「駄目なんです!! このままじゃメリアも、みんなもテレシアに殺されちゃう!!」
アイゼルの目がこれでもかと見開かれた。墓所にテレシアが現れるというのか。その上メリアだけでなく他の者までも死ぬなんて。ではメリアを助けに向かってくれた皆は何の為に——。ただ死にに行ったとでも言うのか。
「お願いします!! みんな……みんないないと駄目なんです!! 誰も死んでほしくない!! みんながいる未来じゃなきゃいやなんです!!」
我儘を通そうとする子どものような言い方だった。アイゼルにとってのシュルクとは理知的な青年だと印象付いていたから余計に幼さを感じたのかもしれない。
それでも大切な主が死ぬと告げられ、その主と己にとっても大きな恩人までもが命を落としてしまうと叫ばれ、目に涙を溜め必死に手を振り払おうとする彼の姿を見てしまっては、シュルクをこの場に留めるなんて道をアイゼルは選べるわけもなかった。
同時に残される側の気持ちも知ってしまった。何よりも大切であるメリアを守る為ならば命など簡単に捨ててしまえると豪語していた。それは今も、今までだって変わりない。でも目の前の少年はこんなに悲痛な表情を浮かべて、仲間が死ぬかもしれない未来を拒絶している。彼はこの場において守られるべき側の人間であり、墓所へ向かった彼の仲間達も彼をこれ以上傷つけさせまいという面持ちだった。
それは彼らが無事に帰ってこなければ全くの無意味ではないのか。
——私にそなたまで喪えというのかアイゼル!!
マクナでテレシアから主を守ろうとした時に彼女は叫んでいた。あの時はそれでも命を燃やし尽くして盾になるべきだと信じていたが、それは誤りだったのだとやっと理解した。
安易に命を捨てる行為は守りたい存在を何よりも傷つける。もしも自分までもが巨神へと還っていたのなら、我が主はその美しく愛おしい
自分はメリアを誰よりも悲しませようとしていたのか。
「……ハイエンターである自分は墓所詣でが執り行われている間、何があろうと墓所へ入れません。ダンバン殿にも、貴方にも頭を下げるしかできません。自分で動きもせずに頼むばかりで不甲斐なく、あまりに横暴だと分かっています。
ですが自分には頼むことしか……貴方に希望を託すしか出来ないのです」
アイゼルには確信があった。ここでシュルクを送り出せばメリアは必ず生きて墓所詣でを遂げる。我が主が皇統を継ぎ、名実ともにハイエンターの希望として民を導いてくれる。だからこそ今彼にかける言葉は主の無事ではない。
「必ず……必ず帰ってきてください。先に行かれた皆さんも、シュルク殿も、誰一人欠くことなく!」
彼らの一人でも失えばメリアは悲しみの色に心を染めるだろう。故に彼女の心を守る為に彼らの無事を祈るのだ。
「——はい。必ず!」
未だ目に零れそうなほどの涙の膜を張りつつも力強く頷いたシュルクの姿を見て、アイゼルはメリアが彼らを頼り信じるに至った理由を見出した気がした。
アイゼルより教えられたハイエンター墓所に向かう道中でシュルクは妙な胸騒ぎを感じていた。目が覚めた時に感じた空洞とは違う。あれは消えたことで安心さえしていたものだが、これはまた別の何かだ。ずっとあった支柱が忽然と姿を消してしまい、安住の空間であった自室がいつ崩れるか分からない状況に放り出されているようだ。
どうしてだろうか。
——
意識が別々のタイミングで覚醒することは珍しくない。精神的に熟睡していたのか、正午になってから彼の意識が浮上してきた時だってある。でも彼はどんなに深い眠りであってもシュルクが呼べば必ず応えてくれた。シュルクが何か不安を抱えていれば長時間放置することもなかった。
今強く呼べばきっと君は応えてくれるだろう。いつもみたいに淡々と喋って、でも感情は豊かで時々うるさくなって、一緒に誰かの命が失われない未来を目指してくれる少し変わった形をした戦友の君が。
——でも今は呼んではいけないと思う。きっと僕は君に頼りすぎていたんだ。
到着したハイエンター墓所の入り口を見上げて唇を強く結ぶ。
君が眠っているのは疲れてしまったからではないだろうか。事が起こる度に無意識の内に君を頼り、もたれかかって進んできていたのかもしれない。隣を歩いていると思っていたのは僕だけで、実はずっと君に背負われてここまで連れてきてもらった気さえしてくる。
足を踏み入れた墓所の中は暗くひんやりとしていた。墓所の参道を抜けて辿り着いた封印の間に立てばどこからか声が聞こえてくる。
「来訪者を確認。ハイエンターにあらず」
ハイエンターの技術が高いのは過去の調査で既に判明している。皇族であるメリアの試練に使われるほどの場なのだから、墓所の防衛機構も高度なシステムであるくらいは簡単に推測できる。ハイエンター以外は入ることさえ許されないと言われても驚きはしない。驚きはしないがそれを受け入れるつもりは無い。
認証装置と思しき物の前でモナドを床に立て一つ、宣う。
「
いいや、こんな格式ばった言い方なんか要らない。
「……メリアを助けに来た。僕にとって大切な仲間を、貴方達にとっての希望を失わない為にここにいる。皇家に連なるハイエンター達……メリアの御先祖様! 一刻を争うんだ! どうか扉を開けてほしい!!」
モナドからアクアグリーンの光が溢れ出す。光は床一面に広がり、周囲に走る光のラインを伝って扉の上部に取り付けられた円状の発光体に到達した。発光体はシュルクの言葉の真偽を判断するかのように三度点滅を繰り返す。
「巨神の剣を継ぎし者よ。貴君の善なる魂に偽りは無いと判断した。我らの希望を託そう。——通るが良い」
「……ありがとう!」
英霊が祭られる間と来訪者を試す間のどちらもシュルクを妨げる様子を見せなかった。足元には黄色く輝く光の道も現れており、墓所そのものがシュルクをメリアの下へと送り届ける為に背を押しているようだ。
——君が起きていたらこの透けた光の道も怖がってたのかな。
試練の間を抜け儀式の間に向かう通路を駆ける中、再び
映像は先程と何ら変わりない。寧ろ未来が現実になるのが迫ってきているせいでより鮮明に映し出されている。
——考えろ! あれを防ぐ方法を!
マクナ同様にあれはタレントアーツではないから"
刀が空を斬る音、ライフルの発砲音、護身杖とエーテルの刃が衝突して弾ける音、テレシアの身を穿つ音。そこに混じる仲間達の未来を掴もうと足掻く声が遠くから、けれど現実の音として聞こえてきた。ここまで来ればもう未来視を受けなくとも分かる。あの瞬間はもう目の前まで迫っている。
防がねば、守りたい、防げない、守れない。どうしようどうしようどうしようどうしよう……!
『奪ってしまえばいい』
奪う、何を。放たれるエーテルを。
テレシアが我らの仲間を奪うなら我らはそのエーテルを奪ってしまえば良いだけの話ではないか。圧縮された超高濃度のエーテルに触れることで生命体は肉体を保てずに崩壊する。だからエーテルがそこから消滅してしまえばあの波動は容易に対処出来る。
「——っあぁああああぁッ!!」
もうこれ以上思考に時間を割く有余は無い。
奪う。そんなアーツは見たことがない。ならば生み出せばいいだけの話だ。今まで幾度となくそうして乗り越えてきた。きっと君も同じことを言うだろう。モナドを信じろ、自分を信じろって。
だから信じるよ。僕を、僕を信じてくれる君を。
——モナドよ、テレシアより放たれるエーテルの全てを、相手さえもその身全てで"喰"らい尽くせ!
儀式の間の扉が幻影のように消え去り視界にソリドゥム・テレシアの巨体が映り込むと同時、深紫に染まった刃から
「モナドッ……"
"喰"のオーラが広がった直後に続けてテレシアの身体からもエーテルの波動が放たれた。しかし菖蒲色の波動は周囲の人間に触れるどころか、テレシアの身体の周囲で白藤色の粒子となってその効果を失っていく。勿論この場にいる者は誰一人として肉体を崩壊させてなどいない。
「シュルク!?」
「お前なんでここに!」
答えるのは後回しだ。先にソリドゥム・テレシアがその異変を自覚する前に"破"で思考読みを封じる。
「今はテレシアの対処が先です!! 角を!!」
ダンバンとリキが跳ぶ。二人の斬撃が同時に思考読み器官に命中し、角はテレシアから分断された。
視線だけで辺りを見回して状況を把握する。皆はテレシアを倒すだけの手段を持つにもかかわらず未だテレシアがここにいる現状から見るに、メリアがマインドブラストを放てない状態にされているはずだ。事実その通りであり、メリアは仮面を着けたハイエンター——巨神教異端審問官に執拗に狙われている。今の彼女はそれを相手取るだけで手一杯なのだ。
異端審問官の仮面を見たシュルクの喉からか細い悲鳴が漏れた。湧き上がりそうになった嫌な何かを振り払うように頭を横に振る。怯えている場合などではないのだ。すぐに再びテレシアへと意識を向け直す。
今までであればメリアを欠いたままではテレシアを倒し切るのは難しかった。しかしモナドに新たなアーツが現れ、それが対象のエーテルを奪う能力であったのだから話はまるで変わってくる。
シュルクの脳内では即座にメリアの力を借りることなくテレシアを消滅させる道筋が練り上げられていく。幸運なことにこいつはレオーネ・テレシアより若干ではあるもののその力を下回る。モナドと仲間達の助力があればこのソリドゥム・テレシアは十分に倒し切れる。何ならメリア側に一人応援を送ってもその確率が下がることはない。
ダンバンにメリアの方へ向かうように頼む。彼は即座に桜花絢爛でメリアに向けられる異端審問官のヘイトを文字通り奪い取った。暗殺者として育て上げられた異端審問官は人の気配に非常に鋭い。それが仇となった。あまりに強すぎる英雄のオーラは繊細な感覚を巨大な圧で強引に踏み付けて全て潰してしまう。こうなってはメリアのみに意識を集中させるなど不可能だ。
ダンバンがメリアに向かった、即ちテレシアの意識を引きつけるのは己だと判断したラインがその行動へ移る。各種攻撃アーツ、オーラ、十八番のタレントアーツとありとあらゆる手段を用いてソリドゥム・テレシアの視線を自分のみに固定させる。
リキは前回同様に小さな身体を生かしてテレシアに捕捉されぬようにちょこまかと動き回る。子ども達への食糧調達で培われたハンターとしての感覚で小さな隙も見逃さず、またそれを取りこぼしもしない。少しでも角の再生を遅らせようと、断続的に毒や冷気を擦り込んで苦しませ続ける。
カルナの回復配分は普段と何ら変わりないと同時に最高の支援でもあった。少しだけ自分に振ってくる回復エーテルが多い気もしたが、それが彼女からの心配の気持ちなのだとシュルクにも分かっていた。
仲間達の支援でテレシアの意識から完全に自身が消えたと悟ったシュルクは"
脳を深々と傷つけられればほとんどの生物はその時点で絶命する。しかしレオーネより劣るとはいえどそこはテレシアである。巨神界の種族でも上位に位置する強力な生命だ。痙攣しながらも暴れ狂い、最期のその瞬間まで本能に従い周囲の生命を刈り尽くそうとするのをやめない。
シュルクの導き出した道筋にはテレシアのその行動さえも視えていた。己の命と引き換えに崩壊を引き起こして、少しでも多くの命を道連れにしようとするのは想定の範囲内だ。
「
刃を突き刺したまま"喰"を発動させた。刃から放出されたオーラでさえテレシアのエーテルを容易に喰らい尽くす。そんな絶大な威力を持つオーラが体内で弾けたのならばどうなってしまうのかなど想像するのは容易い。
内側から身体を構成するエーテルそのものを喰われるテレシアはアンバーホワイトの光を放ち融解し始めた。まるで氷の塊を炎の中に放り込んだかのような速度で巨体が崩れていく。
ただシュルクでも想定外だったのはテレシアの放った光があまりに強すぎたことだった。崩壊の際に放つものとは異なり、近くにいても身体を粒子にまで還元されることはないが、エネルギーの塊であることに変わりはない。
「まずいっ……モナドアーマ——」
咄嗟に"鎧"で防ごうとした瞬間、意識ごとシュルクの身は光に呑まれた。