いつしか異物は喀血となる   作:坂野

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第十章
兄と妹と、おとうと


 日の出と共にエルト海上空を覆っていた分厚い雲は綺麗さっぱり消えてしまった。昇りくる朝日を背負っての帰還という絵面はさぞ爽快なものだっただろう。

 皇女の頬に赤いものが付着していなければ。全員の身体に生々しい傷がなければ。彼らの顔が曇っていなければ。魂を失い形が整っているだけの肉塊と化した皇主陛下がいなければ。

 皇都に一切の被害は無かった。機神兵団は一機たりとも皇都にやって来ることさえなかったからだ。民には皇主陛下が監獄島の機能を引き出し、その尊い命と引き換えにして己以外の全ての命と皇国を守り抜いたからだと伝えられた。

 その発表に対して何ら不満の類いなど抱きはしない。機神兵の最も重要な目的が監獄島に封じられた者であったこと、機神兵団が引き返した真の理由はモナドが解放されたからであることを知っているのは別に自分達だけで良いのだ。

 仮に巨人が殺された後にモナドが解放されなかったのならば、機神兵団はそのまま巨神界侵攻作戦を遂行していただろう。そうなれば真っ先に焼き尽くされるのはアカモートであったのは間違いない。そういう意味では陛下の命が皇都を守ったとも言える。

 ハイエンターが喪ったものはたった一人。民を愛し、民に愛されたソレアン・エンシェント陛下のみだ。

 念の為に先に示しておくが、これまで平和に過ごしていたハイエンターに対して(ざま)を見ろだなんて微塵も思っていない。全ての命は等しく尊いものだ。他者の悪意で身勝手に奪われるなどあってはならない。

 ただ今回の件でようやく彼らは機神兵という存在に脅威を感じ、悲しみと激しい怒りを知った。下層のホムスが受けてきた痛みの一部を心の内に小さくも深く刻みつけられた。

 良くも悪くもこれから事が大きく動くのは確かだ。

 

 

 民は悲しみに暮れる時間を与えられるが(まつりごと)に関わる者はそうはいかない。皇主という国のトップを失い、つい先日には光妃ユミアと巨神教の繋がりも判明したばかりである。

 まず皇太子であるメリアの正式な即位は服喪の後の一年後となった。玉座が空位となる先の一年は、メリアの采配によりカリアン殿下が摂政となり職権を行使する。カリアン殿下もまた民から深い信頼を得ている人だ。記録院と探究院からも不服は一切上がることなく、全院一致でこれを承諾したそうだ。

 次いで国のお偉方は早速対機神界対策に乗り出している。防備を固めるのは勿論として、攻めに転じようという声も出ているそうだ。確かロウランが何かしら動くと記憶しているがどれを指すのだろうか。……ハウレスだろうか、やめてほしい。

 

 窓の外を見やった。監獄島より帰還した昨日は嫌味かというほどに晴れていたのに、今日はまた空が滂沱の涙を地表へと落としている。エルト海の空もまた民を愛していた陛下の死に悲しんでいるのかもしれない。涙とはいくら流そうとも枯れないものだ。落ち着いたかと思いきや、ふとしたきっかけで再び簡単に溢れ出す。

 仲間達の心に刻まれた傷も同じだ。浅い眠りに就いても監獄島での情景が悪夢となり苛んでくる。起きていても溢れてくるのはもっとこうしていれば、ああ動けていればと己を責める後悔ばかり。一瞬だけふと忘れても外の景色には今も監獄島が顔色の一つも変えずに浮かんでいる。忘れさせなどしないと淡々と事実を連ねられて傷を抉られ、いつまで経っても乾かずに塞がりもしない。

 ほんの僅かに助けられたのはこの場が白翼宮ではなく離宮であったことであろうか。メリアの為に作られた離宮はその広さから屋外かのような開放感を持っている。少しだけ、本当に少しだけ息がしやすいような気がした。

 その中で心の傷口から延々と一際多くの血を滲ませ続けているのはシュルクとライン、そして一人になりたいと離宮を出ていったダンバンであった。

 ラインは普段の溌剌とした様子はどこにもなく、ぼんやりとガラス越しに雨の降る空を見上げて立ち尽くしていた。

 シュルクは椅子に腰掛けて力無く俯いている。時々思い出したかのように頭を抱えては小さい声で謝罪の言葉を零したり、どうしてという疑問の呟きを漏らすばかりだ。

「シュルク〜……。おなかぐーぐーで悲しいのかも? この前リキが鳥のヒトから貰ったお菓子あげるも。食べたらきっと、多分ちょっとだけ……嬉しくなるも」

 足元でリキが小さな飴玉を差し出す。食べる気になんてなれないのはリキだって分かっているに違いない。けれど彼は敢えて空気を読まなかった。ノポンの可愛さでシュルクが少しでも和めば万々歳、仮に腹が立ったとしてもその瞬間だけは悲しみは吹き飛ぶ。大人として、親としてリキは道化を演じた。

 それが分かるから、その優しさが小さな飴玉一つにぎゅうっと詰まっていたからシュルクは深い青をした砂糖の塊を受け取った。

「ありがと……。——っ、りきっ……、りきぃ……ぼく、また……また、守れなかった、ぁ……っ」

「……いーっぱい泣いていいも。とーちゃんの胸を貸してやるも」

「へいかを、メリアのおとうさんを……みえてたのに……へいか、死なせちゃったぁぁ……」

 監獄島では立ち止まる瞬間さえなかった。悲しみで足を止めてしまえば即座に黒の手で身を引き裂かれてしまうという極限状態であったから辛うじてシュルクも踏ん張れていたし、メリアに対して進もうとも言えた。だからと言って苦しみを覚えていないわけなどない。

「未来を変えるって、あんな大口叩いてっ、わがまま言って飛び出して……なのに、ぼく、なんにもかえられなかった……」

 陛下は死の運命をどの因果の果てでも変えようのないものだと受け入れていた。心の底から死を覚悟して、誰も恨まずに静かに役目を終えたと目を閉じた。シュルクが責任を感じる必要などないと言ってはくれたが気持ちはやはり別なのだ。陛下は良くても残されたメリアやカリアンが、残されてしまう状況を変えられなかった自分自身が素直に涙の雨を空の果てには追いやれない。

 しかし同時に陛下は悔やむのならばただ嘆いて過ごさないでほしいと願った。涙を流すだけの力をどうか救える可能性が残された者達に伸ばしてほしいと。だからエイルは泣かない。シュルクが泣いて泣いて、その涙で溺れる前に引っ張り上げるのが俺の役割だ。

「それに、なんで……なんでっ……、う、うぅ……うぁぁぁ……!」

「泣くの、抑えるとくるしいも。悲しいとかつらい気持ちにウソついちゃダメも」

 ただ当然ながら陛下の死だけが彼の涙の要因ではない。

「——あの機神兵の操者のことであろう?」

 靴底が床を叩く真っすぐな音がした。進むと決意したメリア自身の意志の表れのように重たい空気の中にそれはよく響いた。

 慌てて乱暴に袖で涙を拭う。陛下を喪って誰よりも悲しんでいるのはメリアであるのに、彼女の前で自分が情けなく泣いているのはあまりに失礼だ。

「無理をするな。父上の為に涙を流してくれて感謝する」

「メリアは……もう大丈夫なのかい?」

「父上のことや皇宮ならば心配は無用だ。私は進まねばならないのだろう?」

「……ごめんね。君に行こうって言ったのは僕なのに」

「いや、悲しむ時間さえも許されないのは酷だ。……彼女がそうなのだろう? 前に話してくれた幼馴染とは」

「うん……」

 この旅の始まりは彼女の——フィオルンの死だった。彼女の手向けにさえならない復讐として故郷を旅立ったのが全ての根源であった。

 その前提が突如として崩壊しかねない衝撃が降りかかってきた。他の誰でもない彼女の存在によって。

「でもよ、あれが本当にフィオルンなら……」

 ラインはその先の言葉までは発さなかった。

 仮にフィオルンが生きていた、もしくは何らかの方法によって息を吹き返したとする。そうなると幼馴染であるシュルクとライン、そして兄でありたった一人の家族であるダンバンに何の反応も示さないのは明らかに矛盾しているのだ。

 忘れてしまったのか。それとも瓜二つなだけで全くの別人であるのか。考え得る可能性の中で最も最悪なのはフィオルン本人であり、記憶も全て有する上で自ら顔付きに搭乗し機神界側の勢力についていることだ。

 答えは彼女から与えられなかった。だからこそ残された者達の想像は暗く濁る汚染された排気によって際限なく膨らんでいく。自分で吐き出したもので自分が苦しんでいる。

「シュルク、答えは私と変わらぬではないか」

「え……?」

 いつのまにか床へと落ちていた視線をメリアに戻す。彼女は微笑んでいた。

「進むのだ。進んで、歩いて、大切な幼馴染を取り返す。取り返してからでも知ることは十分に出来る。再び失う前に、二度と離さぬように」

「メリア……」

 彼女は小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。

 

 その後離宮に戻ってきたアイゼルからダンバンをメルフィカ通りにて見かけたとの報告を受けた。話せば少しは気持ちの整理がつくのではないかとメリアから背中を押され、シュルクは一度離宮を離れてダンバンの下へ向かっている。

 皇都は喪に服す意味合いもあり公共の場の明かりは普段より暗く設定されている。明るい時は美しく清潔な都の印象を受けていたものの、こうして明度を落とされると途端に無機質で不気味に思えてくるから不思議なものだ。

『エイルは……あれがフィオルンだと思う?』

 離宮の転移装置を抜けたところでシュルクに問われた。直接的な答えはまだ出せないが近いものはもう問題ないだろう。

『思う。髪の長さは切られてしまったのか短かったが、顔はどこからどう見てもフィオルンとしか考えられない』

『僕もそう思うんだけど……』

『呼びかけに応じてくれなかったのが理解できなくて精神的に辛いんだろう』

 既に何度も繰り返し陥った感情がまた湧き出る。腹の底が重たく冷え切って、気を抜けば倒れてしまいそうなくらいに。

『記憶がない、別人、忘れた振りをしている。——もう一つ可能性はある』

『……なに?』

『"俺達"と同じ』

 一つの肉体に複数の意識が宿る。肉体本来の持ち主ではない誰かが身体の主導権を握って行動している。突飛な妄想だと笑い飛ばされる(いわ)れはない。具体例がここに"い"る。

『あ……!』

『俺はシュルクがフィオルンを見間違うことはあり得ないと思っている。お前があの人物を見てフィオルンだと確信したのだから形骸としての存在は間違いなく彼女だ』

『じゃあ、誰かがフィオルンの中にいきなり入ってきて……。いや待てよ、僕らと全く同じとも考えにくいか。同じならフィオルンが表に出てくるのはもう出来てるはずだ。誰かが入ってきたじゃなくて……コロニー9でフィオルンの身体を回収した奴がいて、誰かがわざとそこにすっごく強い意志を持つ別の何者かを入れたって可能性も……! 僕らだってその気になれば互いを抑え込めるから……!』

『十分成立する推論だ』

 その先の"何故フィオルンではなくてはならなかったのか"だとか"どうして魂を別の肉体に宿さねばならなかったのか"はまた別の問題だ。何よりそれを含めた全てを知ると決めて俺達は人を斬る決意をした。知るにもフィオルンを取り戻すにも進む道は同じだ。

『それと別でもう一つ。喋っているのがフィオルンでない誰かだった場合、無条件で敵と判断はするな』

 シュルクからはフィオルンの身体を使って好き勝手している誰かにしか見えない。そうであっても情報も碌に持たずに感情だけで判断してしまうと和解どころか理解する領域にも届かなくなってしまう。

『覚えてるだろう。監獄島で白い顔付きだけは俺達を傷つけようとはしなかった』

『そういえば……。それにゾード達を抑えていたし、黒い顔付きに攻撃をやめるようにずっと言ってたね』

『敵か味方は分からない。ただ対話をするだけの価値は十分にあると思わないか』

 短い沈黙が落ちる。復讐という道を必死に走ってきたのに、その道中で機神界の勢力全てを頭ごなしに敵だと言えなくなってしまった。理解はしていてもやはり毎回逡巡をしてしまうのは仕方のない話だろう。その時間を無駄だと否定はしない。シュルクを信じているから黙って待つのが俺の誠意だ。

『……ん。まずは話してみる』

『どうだ? 戻ったらメリアに自分も進むって言えるか?』

『うん……! でもその言い方、なんか僕のこと子ども扱いしてるみたいで嫌だ』

『元の調子に戻ってきたな。いい流れだ』

『論点をすり替えないでよ!』

『はははっ。ほら、ダンバンさんいたぞ』

 気付けば皇宮を抜けてメルフィカ通りにまでやってきていた。時間帯が夜であるせいでアカモートに人の気配はない。おかげで探し人の背中は簡単に見つかった。

 静かに、けれど暗い色はない声で英雄の名を呼ぶ。振り向いた彼は微かに目を丸くしたがすぐに皇都の外へ視線を戻した。

「すまんな。みんなに心配かけたか?」

「いえ。どっちかっていうと僕の方が。フィオルンのことばかり考えて、気を使わせちゃって……」

 一瞬だけ俯くがすぐに顔を上げ、シュルクはダンバンの顔を真っすぐ見つめた。

「だけど少し落ち着きました。まずはとにかく進もうって思ったんです。フィオルンが僕らのことを忘れているみたいに見えても、何もかもが悲しかったり絶望だけだと決めつけるのはまだ早いから。分からないなら聞こうって、フィオルンに会いにいかなきゃ始まらないから」

「そうか。——同じだな」

「え?」

 ダンバンは空を見上げて仄かな嬉しさを滲ませる声で話し出した。

 彼はここで一人悲しみに暮れていたのではない。寧ろ全くの逆である。フィオルンが、たった一人の家族(いもうと)が生きていたことを喜んでいたのだ。

 ダンバンとフィオルンは年齢差のある兄妹だ。ダンバンは現在三十歳、フィオルンは十八歳であり十二歳差がある。その上フィオルンが産まれてからあまり経たずに二人の父親は機神兵の侵攻により命を落としてしまった。母は——語ってくれなかったがつまりはそうだろう。

 そのような状況下でダンバン少年がまだあまりに小さい妹を自分が護ってやらねばと思うのは自然なことであった。兄というよりも父のような想いでこの十八年を過ごしてきた。更にはやはり機神兵の手で両親を奪われたライン、モナド探索隊の唯一の生き残りとしてディクソンに引き取られたシュルクも加わり、血の繋がりが無くとも幼い子達の兄であり保護者として三人の成長を見守ってきた。

「僕、ずうっとフィオルンが羨ましかったんです。こんな素敵なお兄ちゃんがいたらなぁって叶わない夢ばかり見てました。……あ、ダンバンさんが今まで沢山僕の面倒を見てくれたことは勿論とっても感謝してます。今はもうフィオルンにそんな嫉妬とかしてなくて——」

「はは、分かってるよ。……そうだよな、あの頃からずっと一緒にいてくれたんだったなぁ」

 屋内なのだから風など吹かない。吹かないはずなのだが何故かほんのりと故郷の草の匂いが、あの公園の風の香りが鼻を掠めた気がした。

「俺はな——フィオルンを嫁にやるならお前しかいないと思ってたんだ」

「……へ、えっ!? な、なんでですか!? 何もその……僕しかないなんて、そんなの……。ずっと一緒にっていうんなら、その、そう! ラインも、ラインだって……!」

「お前もこういう話題には照れるんだなぁ……。ラインも同じっちゃ同じだけど、あいつはフィオルンには好かれんだろ」

 ——(エイル)もそう思います。

 ダンバン曰く、ラインに対して嫌な思いがあるわけではない。それはずっと近くにいれば自ずと伝わってくるし、彼にとってはラインもまた家族同然の存在でありほとんど弟のようなものだ。ダンバンから見れば昔の少々青い自分を見ているような部分も含めて嫌いではない。寧ろ何だかんだその面も含めて好きではあるのだ。

 だからこそ彼では駄目なのだろう。兄である自分と似た男に最愛の妹を託せるかとなると少し違ってくる。信頼の出来る相手、自分が認められる相手であることは大前提として、自分とは異なる性格や側面を持つ者がきっと妹の為でもある。

「俺はお前が本当に弟になるの、割とやぶさかじゃないんだぜ? 何なら今"義兄(にい)さん"って呼んでくれたっていいくらいさ。ああ、この流れだと婿入りになるか。それも悪くないな」

「あ、う……その、僕……け、けっこんとか、恋も、まだよく分かんなくて……」

「悪い悪い、少しからかいすぎたな。……なあシュルク。失われた命は絶対に還ってこない。それが世界の掟ってやつだ」

 世の掟、世界の摂理はただの人間には覆すことも書き換えることも不可能だ。もしもその書き換えが起こったのならば、人は直面した現象を奇跡と称するだろう。

 僕らは奇跡を目の当たりにしたのだ。

「想像もつかない奇跡の前にしたらさ、どうってことないと思うんだよ、記憶がなくなることくらい。……だから俺もお前と同じだ」

「……はい」

「それにさ、記憶が無くなってるなんて俺は思ってない。小さい頃から一緒に過ごしてきた時間はそんな簡単に消えるもんじゃない。まだちょっと起きたばっかりで夢と現実の区別がついてないだけなんだ」

 きっと彼女の内に全ては残っている。残っているフィオルン自身の記憶を少し(つつ)いてやれば簡単に起こせてしまうくらいに、積み重ねてきた時間と思い出はいっぱいある。

「珍しく寝ぼすけな妹を起こしにいかなきゃな。——力を貸してくれ、頼むぞ」

「はい!」

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