どれだけ寒暖に鈍かろうとヴァラク雪山の寒さそのものは感じていた。塔の外に出れば肌寒いと感じはするのだ。
しかし今は寒ささえ忘れ去ってしまっていた。白い顔付きに乗って現れた彼女にありとあらゆる感覚を奪われている。
もう何も言わずに離れてほしくないから、離れそうな時に君の手を握りたいから。
「フィオルン……! 分かる? 僕だよ、シュルクだよ……!」
「——フィオルン?」
まるで初めてその名を知ったかのように繰り返す彼女を見て心臓の拍動が速くなる。知らないのではない、本当は覚えているのではないか、今この瞬間に思い出してくれるのではないかと不安と期待が交互に胸の内から殴りつけてくる。
「それが"私"の名前?
——ああ、駄目なのか。
モナドを手にしてからの事象の累積により、シュルクの心には数え切れぬほど多くのひび割れが植え付けられていた。その辛うじて独立を保っていたひび割れが一瞬にして連なり、大きな一つの亀裂となって走り出す音が聞こえた。
決意も覚悟も——希望も抱いた。望む結果が得られなくても立ち止まらないと言い聞かせていたつもりだった。だがそれは空想の痛みに過ぎない。いざ現実として直面してしまえば痛みが想像以上に強く鋭いなんて何ら珍しくもない。
頭の中で何度予測して繰り返そうとも所詮は偽物。本物には敵わない。
『代われ。もう一つの
『うんっ……お願いっ……』
果たして"彼女"は俺達の歪な中身を感じ取れるのだろうか。それとも外見上のほんの僅かな違いから見抜いてしまうだろうか。見抜かれても見抜かれなくとも対話する価値がある存在なのは十分に知っている。
大丈夫、
「貴方は、誰?
彼女は、応えた。
「私は——メイナス。今は訳あってこの者の、貴方の呼んだフィオルンという存在の身を借りています」
「本当っ!?」
真名を聞き出せたのに喜ぶどころかシュルクがエイルを押しのけて表へ出てきてしまった。復活が早いのは此方としても嬉しいが落ち着いてほしい。
エイルの気持ちなど露知らず、表へ飛び出した勢いのままシュルクはメイナスへ質問をぶつける。
「借りてるってことはフィオルンは貴方の中にいるの!? いるんだよね!? 彼女と話させてほしいんだ! いっぱい……いっぱい聞きたいことも、伝えたいこともあるんだ……っ!」
しかしメイナスは申し訳なさそうに目を伏せた。理由は分かっている。
「貴方はこの身体にとって大切な存在であったのでしょう。ここに来るまで、貴方のことを考える度に胸が痛んだ理由がようやく分かりました。
……けれど出来ないのです」
「どうして! その身体はフィオルンの……!」
「私も貴方とこの者を出会わせたいのです。しかし彼女の声が聞き取れない。彼女の心はここにあるのかもしれませんが、今の私の力では掬い上げることが出来ません」
「そんな……」
フィオルン自身の精神は目覚めてはいるはずだ。現状も身体の主導権が握れないのとメイナス側に声が届かないだけで感覚自体は機能している。ならばメイナスが掬い上げられないとかは些細な問題だろう。フィオルンの意思がもう少し強くなるまで待っていれば、メイナスの意思が大きく衰弱せずとも俺達と同じ状態に自然となっていくと推測できる。
『悲観しなくてもいい。話している感覚からメイナスはフィオルンを排除しようという気は感じられない。今はこのメイナスという人物と対話を続けてみないか』
『そう……だね。この人は今までの機神兵とは明らかに違うってやっと分かってきた。こんなにちゃんと話せるなんて初めてだ』
一つ息を吸って、もう一度話し出す。
「えっと、メイナス……さん? でいいのかな」
「貴方の呼びやすい呼称で構いません。ただ、一つだけお願いしたいことがあります」
「変なことじゃなければ……」
「他の機神界の者——特に顔付きなど言葉を発する者の前ではしばらくの間、私の名を伏せていてほしいのです」
「それくらいなら別にいいけど……?」
シュルクは首を傾げたがエイルは納得していた。メイナスとしてはヴァネアを除いた機神界人に自身の復活はまだ知られたくないのだろう。今はとりあえずフィオルンというホムスの少女の振りをしている方が何かと都合が良いのは理解している。その程度の頼み事であればシュルクにも特段不都合はない、お安い御用だ。
「協力感謝します、モナドを受け継ぐ少年」
「僕もシュルクでいいよ——メイナス」
彼女の身体や精神に限らず知るべきことは山ほどある。それにメイナスも訪ねたいことはあるだろう。白とこんなところで出会うとは思いもしなかったが、これは嬉しい予想外の事象だ。まずはこの場で出来る問答を繰り返し、今の流れを上手く握って操作できれば——。
内心で歓喜の拳を握りしめようかという瞬間、突如視界が白み映像から色彩が抜け落ちた。
映像は現実とほとんど変わらない。目の前に白い顔付きがいて此方と対話をしているものだ。すぐにでも訪れる未来だと深く考えずともそんなことは分かっている。
そこへ空から落下と変わらぬ速度で降ってきた何かが白の頭を巨大な爪で
"そいつ"は嗤った。作り物である金属の仮面でありながらはっきりと、その内側にいる奴が醜悪に口角を歪ませて。
コロニー9と同じように、黒い顔付きが。
『代われ!!』
シュルクの首根っこを掴んで主導権を奪い返す。
すっかり忘れていた。白がガラハド要塞を発ちシュルクと接触しようとする動きを見ている存在がいたのだ。その部分に関しては俺はどうやったって干渉が出来ない。このまま黙っていれば不意打ちで襲来し、黒はメイナス及びフィオルンを人質にしてモナドを要求する卑怯な手段で攻めてくる。
未来視が現実になるまでどれだけの間があるか分からない。数秒後かもしれないし数分の猶予が与えられているかもしれない。彼女を守る手もあるが皆を呼びにいくのが難しい今の状況では最善手とは言い難い。
「逃げて!!」
どちらが正解だったのかその時になるまで分からなかろうとこちらに賭ける道を選んだ。
「……え?」
「いいから! 黒い顔付きが貴方を追ってきてる! 貴方の行動を不快に思ってるのか知らないけど、奴は貴方に危害を加えることも厭わないような人だ!! 今はとにかくここから離れて!! 今すぐにッ!!」
黒い顔付きの名を認識した途端にメイナスは顔の色を変えた。
監獄島でもこの二人は性格や目的に対しての姿勢も反りが合わないらしかったのをよく覚えている。特に黒の性格上新参者がいきなり
メイナスは黒の内包する凶暴性なども既に察しているだろう。細かい理由は分からずとも、彼の凶爪の標的に捉えられてしまえば事態が悪い方に転がるのは間違いない。
メイナスは機体の胸部を閉じて再び空へと飛び上がる。折角再会出来たにもかかわらず、目の前から二度も
ブースターの風圧に耐えながらもう一つ念を押さんとエイルが叫んだ。
「明日! 大剣の渓谷の手前で待ってる! 貴方を!! 貴方の目的も、
「——はい!」
噴射音と飛び去った風の音で空気が切り刻まれる中でも、彼女が応えてくれた声だけははっきりと俺達の耳に届いた。
『……これじゃ寝れないね』
『まったくだ』
ざわつきどころか胸の中が大暴れしてしまっている。とてもではないがしっかりとは休めそうにないと二人して溜め息を吐いて、小さな希望の光を握りしめ笑った。
翌朝、全員が目覚めた段階で深夜の出来事を大まかに共有した。フィオルンとしての意識がまだ表に出ていないと聞いたダンバンの顔が少々曇りはしたものの、現在身体を動かしているメイナスという人物は信頼に足る可能性があるかもしれないと前向きに考えてくれた。当然ながら彼女が嘘をついている可能性は忘れていない。
話が終わればもうオセの塔に長居する理由は全くない。急ぎ大剣の渓谷の手前に広がる大氷河地帯まで向かう為に出発となった。
オセの塔から大氷河地帯まではそこまで遠くない。周囲のモンスターを下手に刺激しないようにしつつイギニア坂を下ればすぐに広大な雪原だ。
大氷河地帯の中央付近まで来て一度立ち止まる。ゆっくりと周囲を見渡しながら耳もすませてはみるが白の気配はない。到着が早すぎただけならば良いが、昨晩から今朝までの間に黒い顔付きに見つかってしまっていたら事態はまるで変わってくる。捕らえられてガラハド要塞まで引き戻されたならまだ良い。傷を負わされたり、最悪の場合殺されていたら完璧に手遅れだ。世界神の片割れの魂が消滅したとなれば形勢は一気に巨神に傾く。
更には肉体と魂が分離できない以上、メイナスの消滅はフィオルンの死にも直結する。こうなってしまえばシュルクの精神は今度こそ完膚なきまでに叩き折られ、その隙を突く形でザンザが依り代を得て復活してしまう。メイナスの無事を祈るしか出来ないのが歯痒い。
『……防壁!!』
「——っ、モナド"
エーテルの壁が抜刀とほぼ同時に全員を覆うドーム状に展開された直後、頭上で何かが着弾し大きな爆発を生んだ。
何が起こったのか誰も理解できない。背筋に悪寒が走ったと認識する間さえなく「何か攻撃が来る」とシュルクとエイルの両者が強く感じていた。仲間に回避の指示を出すより自分達で壁を展開する方が速いとほぼ無意識で判断したのだ。
爆風で体勢が崩されながらも敵襲であると理解し、アルヴィースを除いた全員が各々の武器を抜く。揃って見上げた先にいたのは我々にとって復讐の始まりの機神兵であり、ある意味ではこの場で最も見たくない存在だった。
「見ィィつけたぜぇええぇ!!」
叫びながら荒っぽく奴が——黒い顔付きが着地する。勿論周囲への配慮など全くないそれにより硬い氷と雪が砕かれ、衝撃で全方位に散らばっていく。必死に目を開いて情報を得ようと踏ん張っていれば、氷が地面に落下するよりも先に黒が爪を振りかざして此方へ突っ込んでくるのが見えた。
咄嗟に"
「あの小娘を追いかけて大正解だったなァ!!」
「フィ——ッ!!」
感情のままに言葉を発そうとしたシュルクの口を無理やり塞いだ。
『下手に喋るな!! 接触したことがバレでもしたら都合の良い嘘で脅してくる可能性がある! 相手に気持ちよく喋らせて情報を引き摺り出せ!』
『わ、かった……!』
上、右側面、下——と見せかけて左斜め上、斬りつけの動作から直前で突きに変更。次々に映し出される未来視に驚く暇さえ与えられない。生身のホムスと顔付きの機神兵では体躯の差からたった一撃が致命傷になりかねず、反撃をしようにも体勢を崩して爪に掠りでもすれば腕の一本が断たれるかもしれない。常に最善の一手を出し続けた結果、今のシュルクでは回避以外に取る手がないのが現実だった。
「先に白いのを見つけたかったがまあいい。どっちみちてめぇらをぶち殺すことに変わりはねぇんだからな!!」
狙い通り。メイナスとフィオルンは無事だ。黒の性格上、此方が暴力などで黙らせない限りは余計なことまで喋りやすい。卑怯な手を使うくらいの頭の良さは持っているのだが、気が大きくなると調子に乗りがちなのが分かりやすい欠点だ。しかも生身より遥かに強靭な機械の身体になったことでその面は余計に増長してしまっている。
一切の油断を捨て去り攻撃をかわし続ければ、絶え間ない連撃の合間に一秒にも満たない隙間が一瞬だけ生まれた。そこをダンバンは見逃さず、シュルクと黒の間に刀を滑り込ませて攻撃を強引に受け止めた。黒の動きが驚愕で硬直したタイミングでモナドアーツを"
不意打ちをしのぎ切り距離が開いたところで改めて全員が得物を強く握る。貴重な時間を無駄にしない為にもモナドを横へ一振りし、全員に"
張り詰めた空気に支配される睨み合いの中で、最初に口を開いたのは現実と向き合う覚悟を決めたダンバンであった。
「——姿を見せたらどうだ、ムムカ!」
黒の胸部が左右に開いたのが答えだった。現れたのは名の通りに、一年前の大剣の渓谷で命を落としたはずのダンバンの戦友であるムムカであった。
「よぉう、久しぶりだなぁ……ダンバンさんよぉ」
ムムカの顔を見て抱いた感情はそれぞれであり、どれもが単純な憎悪や殺意とは断定できない複雑なものばかりであった。
ダンバンは言わずもがな、親しくはないにしろどんな人物であったか多少は知っているシュルクとラインもまた怒りの中に難しい色を見え隠れさせている。
カルナやリキは直接ムムカという人物を知らない。あくまでも二人が知る彼は黒い顔付きとしての側面のみだ。それでも人間であった彼が何故機神側につき、嬉々として巨神界の命を奪えるのかがどうしても理解できなかった。純粋な機械であったならば憤怒に身を任せて破壊してしまえたのに、同じ人間であるが故に最後の一線を越える覚悟を用意せねばならない苦しみが付き纏う。
メリアは父を殺した者の本当の顔を見てやっと斃す存在を真の意味で知った。カルナやリキとは反対に、人であるからこそ父の命に限らず奪ってきた命をその身を以て償わせるだけのやり方があると確信した。法による裁きか個人の復讐による暴力かは決められずとも、単純な機械ではない人間相手ならば罪を堂々と突きつけることが出来る。
ぼすり、と顔付きから飛び降りたムムカの衝撃を厚い雪が受け止めた。金色の機械部品となった両手の指を覆うような
「やっぱ物騒だよなぁ……。モナドってもんはよぉ!」
直後、右腕が鋭く突き出された。しかしその間合いは爪の先さえ誰一人掠らない距離である。大仰な動作で注意を引かせる目論見かと誰もが考えた。そんなものには引っかからない。先に刃を突き立てるのは此方だと、気を抜くことなくムムカの中心から目を離さなかった。
「——っァ、アッ!!」
——シュルクを除いて。
否、シュルクも直感が走る直前まではムムカから意識を逸らすつもりはなかった。背後から攻撃がくるほぼ直感に近い気配、爪から逃れる為の動作、モナドが弾かれる音、両腕に走った電撃にも似た痺れ。その全てを感じ、思考して、動作に持ち込んだのはほぼ同時であった。
手から離れ宙を舞うモナドに手を伸ばそうとして視界が反転した。混乱する中で見えたのはしてやったりと口を開けて嗤うムムカの顔と雪面に突き刺さる真っ赤な剣だった。
足払いを受けて転倒させられたのだと理解がようやく追いついたのは視界いっぱいの雪雲と腹部を踏まれる圧迫感で喘ぎ苦しんでからであった。
「シュルク!!」
「おっとぉ、動くんじゃねぇ。こいつの首、掻っ斬ってやってもいいんだぜ?」
「あ……が、あ……ぁぅっ……!」
踏む足の力が増す。抵抗しようにも喉元に刃物を突き付けられた状態では何もできない。
「
誰一人動くことさえ許されない。ムムカの言う通りに遠隔操作により、搭乗者がおらずとも顔付きが重々しい足音で迫ってくる。
思考を必死に回してこの窮地を脱する方法を探し出す。奴がその気になりさえすればシュルクの細い首など一秒も待たずに切り裂かれる。この際多少の身体の欠損も覚悟するしかない。とにかく死なない為の道を——!
「ひ、っ……!」
——さくり。
顔付きの左の爪が白い地面に突き刺さる。腹部の圧迫感が消えたかと思いきや、今度は四本の爪が開き身体の周囲に突き立てられた。爪の全ては見事にシュルクの身を避けている。顔の両横に二つ、腰の左に一つ、大腿の間に一つだ。
それでも瞬間的に感じた直接的な死への恐怖から、微かながら情けない悲鳴が口から漏れ出したのをムムカは聞き逃さなかった。
「い〜い声と顔するじゃねぇか。今の今まであんなにおっかねぇ顔してた癖に、いざ殺されるとなると青臭えガキの顔になりやがる」
人を収監する檻にしてはあまりにいい加減な造りである。しかしその格子の一つ一つが鋭い刃物であることと人間の手同様に自由自在に操作できるという要素が加わり、内からだけでなく外からも手出しができない強固な檻と化した。
「そこで見てるといいぜ。何の抵抗も出来ずに殺されてくこいつらをよ。全員が死んじまったら最後に……いや、それじゃ物足りねぇよなぁ!?」
雪に刺さったままのモナドを引き抜き、肩に担いだままムムカは続ける。
「抵抗できないように身ぐるみ引っぺがしてさぁ、死なない程度に腕と足も切ってやって? 俺の行く所に連れまわしてやるってのはどうだよ。巨神界の人間が殺されてくのを間近で見せてやるからよぉ、そんでお前がなーんも反応示さなくなったら初めて殺してやるってのはどうだ!?」
俺達だけが苦しみを受けるならばどこまでだって耐えてやる。だがそこに明らかにムムカ自身には何の関係も無い人々の命を奪う行為はどう考えたって必要ないではないか。たった一人の心を壊す為だけに等しく尊い命を奪う理由も正当な権利も存在するわけがない、存在していていいはずがない。
何を喰えばその
「ま、じぃぃっくりとそこで見ておくといいぜ。もしかしたらお前を解放する為に這いつくばって自分を殺せとか頼んだりして? でも死人に口はねぇからよ、殺した後は自由なんだよなァ——」
ムムカがシュルクの顔を覗き込む。眼球は完全に他の者達を認識出来ない位置まで移動した。
そんな大層な隙を
「——好きになると思うな!」
メリアの手から放たれた黄金に輝くエーテルの奔流がムムカを吹き飛ばす。完璧な不意打ちであり担いでいたモナドは手から離れ、受け身もまともに取れずに雪面を転げまわっていく。顔付きの遠隔操作だって碌に出来まい。
爪が動かないとなればこちらのものだ。すかすかの檻から迷いなく抜け出しモナドを受け止める。これで状況は五分五分に戻った。
「迂闊だなムムカ! もう逃がさん!」
かつての戦友への断罪を宣言したかのように、英雄の刀の切先が一際鋭い輝きを放っていた。