ジフムの浜辺と呼ばれるこの場所は陸地側に金属製の壁らしきものが広がっている。仲間を探そうにもまずはこの場を離れなければならないのだが、壁に行く手を阻まれてしまってはどうにもならない。海を進めたら水路で壁の後ろに回り込めたのかもしれない。考えても仕方のないことだが。
因みにそもそもこれは壁ではなく、かつての神話の戦いで落ちてしまった機神の左腕である。
とりあえずと腕の側面を辿るようにして砂浜を歩けば、出発から程なくして浜辺から機神の腕内部へと入る道が見つかった。薄暗くひんやりとした腕の中は少々湿っぽい。何と表現したら良いのか、ただかび臭いともまた違う倉庫の匂いのような空気が鼻をくすぐる。不快なものではなく、どことなく懐かしさを呼び起こさせる妙に好きな匂いである。
腕内部はそれなりに高低差があり、健常な者であっても時折休息が必要になるくらいに厳しい。その点は疲労が溜まりすぎないよう、シュルクもフィオルンも互いを気にかけつつ進んでいた。
それも初めだけだ。小指変圧区を抜けた頃合いで隣を歩いていたフィオルンが徐々に遅れ出した。俺からシュルクに休息の提案をしようとしたのとフィオルンが弱々しい声で不調を訴えたのは同時だった。身体のバランスがおかしいから少し休ませてほしいというお願いは勿論受け入れられ、機神尺骨通路の壁に背を預けて腰を下ろして一旦休憩となった。ただフィオルンは座っていてもまだ苦しいらしい。
「僕が見張りするから休んでて。少しくらいなら寝ても大丈夫だよ」
シュルクにしては上出来な気遣いだった。数分もしない内に穏やかな寝息が聞こえだしたのを確認し、モナドを抱え込みながらぼんやりと通路のどこでもない空間を見つめる。
『みんなはあの後どうしたんだろう。要塞があんなことになって……多分僕らみたいに落ちたとは思うんだけど、気絶しちゃったから何も覚えてないや』
『俺達が無事なんだから同じだと思おう』
メイナスが力を解放したのだから悪い方向には転がっていないはずだ。ただ他の皆は碌に動けないほどの傷を負わされていた為に二人とは落ちた条件が若干異なる。メイナスの力で補えきれずに、命こそあれど骨折などの大きな怪我をしていなければいいのだが。
『それよりも今はフィオルンの方が心配だ。休んで少しでも楽になればいいんだが……』
『やっぱり機械の身体だと勝手が違うよね……。僕じゃ何もしてあげられないの、悔しいなぁ』
『仕方ないさ。仕組みの分からないものをこの場でどうにかしろなんて魔法でも使えないと無理な話だ』
『……そうだね。せめて僕がフィオルンを護らなくちゃ』
柄を持ちモナドに意識を集約し起動させる。幸い難なく起動は出来た。しかしそこに費やす意志の負担は以前より遥かに増している。今までは使いたいと軽く念じるだけ、それどころか最近ではほとんど無意識の領域に到達していた。モナドに手をかけるだけで刀身が開いたものだが、現在ではそれなりに強い集中力が無ければ光を維持するのも厳しいくらいだ。ガラハド要塞から落ちた腕までは相当な距離があるから、ここにまでアポクリファの影響が及んでいるわけではないだろう。となると光を浴びただけでも影響がしばらくモナドや身体そのものに残ってしまうと考えられる。厄介な代物だ。
モナドの起動実験は成功したので一度光を収束させる。ふう、と一息吐いて肩の力を抜いた。
『ねえ、エイルが急いでる理由ってなに?』
『ん、ああ、伝わってたか。フィオルンの体調のことだ』
『確かに具合悪そうだけど……。仕方ないって言ったのはエイルの方だろ。どうしようもないんじゃ……』
『推測というか、勝手な想像と前置きはしておくが一応話しておくか。顔付きに組み込まれた人間についてのことだ』
半分本当で半分は記憶である。
まず記憶に基づく半分の方だ。いくら不慣れな機械の身体と言えど、たかが一時間程度の活動で横たわらねばならないほどに体調を崩すのはおかしな話だ。フィオルンの訴えも「足の関節が痛い」などではなく「身体のバランスがおかしい」だった。一度死んでしまった存在が再び意識と自我を持ち、生前と大差ないどころか生身より強靭な状態で活動できるほどの技術力で蘇った人間がこんな簡単に不調に陥るものだろうか。
何より今までメイナスが表に出て活動している間はこんな様子は全く見られなかった。疲労ではと問われればそれまでかもしれないが今と過去では条件が異なる。
顔付きに搭乗していない。
つまり顔付きに乗っていれば問題はないが、降りてしまえば何かしらの不都合が生じるように作られてしまっていると考えられる。
それが人で言う主要な臓器を欠いた状態と例えられる。恐らくこの後で世話になるであろうリナーダの言葉は今でもよく覚えている。この例えまでは流石にシュルクへは伝えていない。あまりに具体的すぎて自分から何か重要なことを知っていますと告げているも同然だからだ。
『じゃあ顔付きが壊れちゃってるから、このままじゃフィオルンはずっと具合が悪いままってこと!? どうしてそんな作りに!』
『落ち着け。そう作られているとしたら、それには明確な目的や利点があるからだ』
『利点なんてどこにも……!』
『乗せられている側にはない。作った側、機神兵に人間を封じた側——つまり機神界盟主にはある』
ここからがもう半分のエイル自身の勝手な推測だ。
考え得る理由は二つある。一つは単純に人間の方に機神兵のユニットとして重要なものを取り付けていった結果、免疫などの部分が後回しになってしまった可能性。仕方なくこうなってしまったパターンだ。
人体で補えない部分は完全に後付けとなる顔付きの機体で補ってしまえばいいという考え方だ。俺自身は機械への知識があるわけではないから実際のところは分からない。
もう一つ——正直此方の方があり得そうなのが非常に不快だが、意図的にこう作られている可能性だ。
要するにホムスが自分の意志で顔付きから離れるのを防ぐ作りになっている。顔付きに乗っている限りは健康、離れてしまえば不調をきたす。否が応でも顔付きに乗らなければならないように出来ているのではないか。
特にフィオルンやムムカは生前の記憶を消されずに顔付きとして蘇らされた。ムムカは偶然にも機神界盟主にとって都合の良い思想を持つ人材であったが、全ての人間が彼のようにはいかない。無謀にしろ勇敢にしろ、顔付きを降りて巨神界側に戻れるだけの胆力を有した人間を利用してしまう可能性は常に付きまとう。それをさせない為の一種の安全装置の役割になっているのではないだろうか。
『言っておくが答えは作った本人しか分からない。俺の勝手な妄想を情報源として機神界盟主への憎悪を無駄に膨らませるなよ』
『……分かってる。分かってるけど、それなら……顔付きから離れたら具合が悪くなる方も嘘だって、そんなことないって言えるだけの証拠が欲しかった。……無いんだもん、証拠。状況からしてエイルの言う通りだよ。
どんな理由でこうなってたとしてもフィオルンが苦しんでるのは同じだ。そこだけは……どうやっても許せない』
『悪い。推測の段階の情報を共有すべきではなかったな』
『それは違うよ。教えてくれて感謝してる。心配だからって、子どもみたいに扱われて隠されて、僕だけ能天気なまま笑って、隣でフィオルンが辛い思いをしてる方がずっと……嫌だ』
「——シュルク、眠らないの?」
寝息を立てていたはずのフィオルンがゆっくりと上体を起こした。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫。たっぷり休ませてもらっちゃった。シュルクが何か呟いてるような気がして……。でもちょうど目が覚めたタイミングと重なっただけ。気にしないで」
変だ。喉は震わせていなかったはずだ。シュルクもエイルも独り言のように無意識に喋っていたのかもしれないが。
「考え事してたのが声に出ちゃってたかな……。そうだ、何か食べる? 食べたらもう少し元気になるかもしれないよ」
「ありがと。でもそれよりお水欲しいな」
小型の水筒には水がなみなみと入っていた。水の口移しの立場が逆転したことからフィオルンがザクトの泉で汲んでくれていたのだろう。つくづく優しい人だ。
「本当に水だけで大丈夫? 食欲無くても一口くらいは……」
「こんな身体だけど便利なんだよ。お腹空かないの。水だけ飲んでればずっと動けるみたい。体重とか体形維持とか、女の子の苦労が無くなってちょっと得した気分。この身体も意外とスタイルいいもん」
その優しさが周囲に気を使わせまいとわざと茶化す言動に費やされているのがあまりに心苦しい。彼女の優しさはこんなのことの為に存在するわけではないのに。
「——ね、シュルク。……置いてっても、いいよ」
「何で……!」
心配させまいと無理して明るく振る舞うのが空元気であると察されているのも彼女には分かる。どうやったって万全の状態にはなれず、碌に動けもしないのであれば客観的な視点では余計な荷物であり迷惑をかける存在以外の何物でもない。
「もう機神界の身体だからこっちの世界でもうまくやっていけるよ。私、シュルクと違って生活力はあるんだから心配しないで。……だから、大丈夫」
「そんなこと出来ないよ! やっと、やっと会えたのに……!」
膝を抱え込んだまま、フィオルンはシュルクを見ない。見たら揺らいでしまうから、彼の優しさに甘えてしまいそうになるから。
「シュルクの知ってる私はあの時死んだの。そう思って生きた方がきっと楽だよ。……忘れられちゃうのは寂しいから、時々ちょっとだけ思い出してくれたらいいから」
「出来ないよ……っ。そんなの、出来るわけない……。だって、フィオルンはここにいるんだ。いる人を死んだなんて、そう思い込む方がずっと……ずっと苦しいよ……」
滲む視界の中で右手がフィオルンの後頭部に伸びる。壊れ物を扱うようにゆっくりと、彼女が嫌がらないかと恐る恐る様子を窺いながらほんの少しだけ力を入れて抱き寄せた。
「コロニー9でフィオルンが死んだと思った時——悲しかったんだよ。そこで初めて、手遅れになってやっと気付いたんだ。君がいないと嫌だって。
親も知り合いも、生まれてから沢山の人が死ぬのを見てきた。死に別れなんて慣れっこだと思ってた。でも違ったんだ。他の誰でもないフィオルンがいなくなったのが、悲しくて……悔しかったよ」
もっと力があれば、もっと良い判断が出来ていれば。後悔は尽きなかった。今でさえとめどなく溢れてくるのに。
後悔は怒りになった。彼女を殺した機神兵と、彼女が殺される未来を知りながら結末を変えられなかった自分自身への。
怒りは復讐を生んだ。復讐は顔付きの正体と積み重ねられた歴史への無知が加わり、真実を求める戦いへ変わった。
それでも変わらないものはある。目の前にいる彼女が、今腕の中で生きている君が。
「もう、後悔はしたくない。僕が君を護るんだ。迷惑だとか機械の身体とか関係ない。僕がそうしたいから、僕が君の手を二度と離したくないから。
……フィオルンは僕と一緒にいるの、いや……?」
「——その言い方はずるいよ……」
やっと此方を見てくれた。今にも零れ落ちそうなほどに涙を溜めて唇も微かに震えているけれど、彼女は笑ってくれた。
「それにメイナスのことだって放っておけない。フィオルンは彼女の力になりたいんでしょ。だったら僕はメイナスの力になるフィオルンの力になりたい。迷惑でも無理な話でもない。大変だったとしても不幸なんかじゃない。一緒にいられる。なら、幸せだよ。巨神界でも機神界でも、ずっと、ずうっと外の世界へ行くことになっても、君がいれば僕は絶対に幸せだ」
「うん……そうだね。メイナスのお願いも叶えないと彼女にお返ししないで終わっちゃう。戦争を終わらせるなんて大きな話で、いつ叶うかは分からないけど——私も、シュルクがいればきっと……ううん、絶対に幸せ」
シュルクが頷いたのと同時、背後から何か大きな衝撃と衝突音が一帯に走った。見れば五四式月斬型機神兵が二機、八三式捕食型機神兵が一機、更に強襲式堅牢型と索敵型の機神兵が一機ずつ此方を見据えて近寄ってきている。
「フィオルンはここにいて! この数なら僕だけでなんとかなる!」
「でも!」
「そんな身体じゃ無理だ! 僕が君を絶対に護る。……信じて」
返答を待たずに機神兵に向き直る。手にしたモナドを握り意識をモナドに集中させる。
『一世一代の告白はもういいか』
『何言って……!』
『あれを告白以外に取れと言われる方が難しいだろうが。それに俺がいるの忘れてただろう。もう一回気絶したかったよ。
……まあいい。アポクリファの影響でモナドが万全でない今、普段よりモナドに割く意識の割合と負担は大きい』
『分かってる。でもさっき出来たんだからまた同じように——』
『理論上はそうだがそれだと厳しい。モナドの維持だけに意識を割いていたら攻防の動作が疎かになる』
『……どうしろって言うの?』
『怒るな。モナドは意志の力、想いの力をそのまま能力にする』
モナドを使いたい。その気持ちだけでも確かに使用は可能だ。しかし"ただそれだけ"を強力な想いとして放つのはなかなか難しい。
だからもっと根幹の部分に目を向ける。何故使いたいのか、そうまでして使いたい理由は何であるのか。モナド探索隊が命懸けで神剣を求めたのは機神界との戦争に勝利する為、ダンバンが右腕を壊してでもモナドを使い続けたのは皆の未来を掴み取る為。
『シュルクが今モナドを使いたい理由は何だ——なんて今更だろう。ついさっきまで散々近くで聞かされたんだ。試験で出されたら記述問題だろうと満点が取れる自信しかない』
『こんな時に揶揄わないでよ! ……だけど、そうだね。もう後悔はしたくない。ここでフィオルンを護れるのは僕だけなんだ』
眩い光が一つ、凛と立ち昇った。
***
結論から言おう。一振りで計五機の機神兵は全て沈黙した。
機体が大した強さでなかったのかシュルクの想いが凄まじかったのか、はたまたその両方か。何らかの数値と照らし合わせて比較するなどは出来ないから真実がどうであったのかは分からないが。
とりあえず増援の気配もない。まだ陽は高いが日没までに安全な場所を確保せねばならない。その上モナドの出力に問題はないものの身体的な疲労はそこそこある。先ほどの機神兵はあらかじめ決められた範囲を自動で徘徊するものだと考えると、また別の機神兵に襲撃される可能性は非常に高い。二重の意味で早めにここを離れたいところだ。
「フィオルン、立てそう?」
「まだちょっと無理かな。ごめんね」
無理はさせられない。急いでいるのは変わらないが今すぐにここを離れるほどでもない。まだ休んでいても問題はないだろう。再び彼女の隣に腰を下ろした。
「ううん、本当のこと言ってくれて嬉しいよ。もう少しだけ休んでいこっか」
「ん……。あとね、さっきシュルクが戦ってるの見た時に……その、背中……」
「背中?」
「上着もセーターも破けちゃってて、背中も傷の痕あったから……。痛くない? 無理してないよね?」
思わず左手を背にやった。彼女の言った通り衣服は裂かれており肌の感覚が指先に伝わってくる。
「平気だよ。今思い出したくらいだ」
「メイナスもわざとじゃないけど、ごめ——」
「謝らないで。あの時操られてたのは分かってるし、本当にもう平気なんだ。仲間のね、カルナの回復はすっごく優秀なんだよ」
「そっか。なら良かった」
それにしても自覚すると確かに背中が涼しい。痛みや疼きは特にないが、痕になっているのなら服の方はどこかのタイミングで縫い合わせるなりしておきたい。シュルクは気にせずともフィオルンがそれを見る度に心を痛ませるのは本意ではない。
「シュルク!」
男性の声。聞き馴染んだ快活な音はシュルクにとって何よりも頼もしいものだった。
咄嗟に腰を上げて見た先には想像通りの逞しい体つきの彼、そして艶やかな長い黒髪をたなびかせる最高の回復役の姿があった。
「ライン! カルナ!」
駆け寄ればラインが腕を回してくる。少し痛いくらいの引き寄せが今はひどく嬉しかった。
「無事だったか! 結構しぶとい奴だぜ」
「ラインこそ! カルナも一緒で良かった」
「本当、無事で何よりね。——シュルク、ライン。後ろ、見てあげて」
カルナに促されて振り返れば白銀の躯体が壁を支えにしながらゆっくりと立ちあがり、もう一人の大切な幼馴染を見て泣きそうに笑っていた。
「ライン、なのね——!?」
ラインにとってはあの時以来に聞く声、今まで聞いていたメイナスとは違うと確信させる彼女の声が全ての答えだ。
「思い出したのか……!?」
「うん、色々あってね。それに思い出したんじゃないよ。ずっと僕らを見ていてくれたんだ。初めからずっと……話せないだけでフィオルンだったんだ」
「そっか……そっかぁ……!」
一歩ずつ歩いてくるフィオルンの動きは少々ぎこちない。首から下のほとんどが機械となってしまった姿にラインも思うところはあったが、フィオルンが生きている事実に勝るものは何もない。
歩み寄る彼女をただ待つのなんて我慢ならない。自然と踏み出した足が距離を埋める。二人で伸ばした腕が二度と存在を失わぬように彼女の身を強く、そして優しく受け止める。
「おかえり、だな! 本っ当に良かった……!」
「うん……! ラインも、ただいま!」
三人での抱擁は故郷に降り注ぐあの日差しに劣らぬくらいに眩しくて、無条件に幸福だと思える温かさを際限なく内包していた。