もうじき太陽も頭の真上にやってくる時間であるが、絵に描いたような晴れの天気とは裏腹に見晴らしの丘公園には誰もいなかった。天気の良い日はコロニー9の親子連れがピクニックをしていたり、年齢層を問わず恋人や夫婦が談笑しているのに遭遇することも多いのだが今日は偶然誰もいなかった。
対空砲3号機を視界の右端に映しつつ木製の長椅子に腰かけ、そのスペースを贅沢に使って研究室から持ってきた資料を広げる。木漏れ日の中で読書と言えば聞こえはいいが、やっている事は研究の続きであり仕事でしかない。
『モナドは遥か昔に巨神が振るっていたと伝えられてるけど明らかに小さすぎる。振るっていたんじゃなくて創り上げて生命体に与えただけで、実際に扱っていたのはホムスだった……?』
『記録は? ハイエンターに限らずに、大昔にいて今は絶滅した種族が実は持っていたなんてのは見なかったか?』
『今のところ無いんだ。少なくともかつての巨神界には巨人族と呼ばれる人達がいたのは確かだけど、モナドを儀式やその類に使用していたなんてことは一つも書かれてない』
『じゃあ古代ハイエンターが独占をしていた可能性は?』
『その線も薄い。寧ろ古代のハイエンター達はモナドを恐れているようにさえ思える。だってモナドが見つかったのは……あれ、どこだっけ。どこか……凄く寒いところ、誰かが、僕を呼んでて、真っ白な手が手招きしてて……』
シュルクの眼が徐々に光を映さなくなる。虚な色をして現実の向こうの何かに引き摺られていく。
『すごく、知ってる気がする声が……。寒いとこ……寒かったんだっけ……? 寒かったけど寒くなくなって……きらきらした、何かが……』
『おい、それもっと詳しく……』
「シュルク!」
思考か虚無か。精神の深海へと潜りかけていた時、陽和な声がシュルクの意識を海面へと浮上させた。顔を上げて声のする方を見れば、やはり声と同じく温かい陽だまりを思わせる笑顔でフィオルンが佇んでいた。
「お昼、まだ食べてないんでしょ。病み上がりなのに食事まで抜いたらまた具合悪くなるわよ」
彼女の手にあるバスケットにはシュルクの為の昼食が入っていた。初めは研究棟に赴く予定だったのを、偶然家の前で鉢合わせたディクソンからシュルクは公園にいると聞かされて変更したらしい。研究室だろうと公園だろうとどの道昼食無しであるのに変わりはないから、手料理を持ってきてくれたフィオルンには大変感謝している。
「フィオルンまで……」
「まで、って当たり前でしょ。シュルクが倒れたら誰だって心配するんだから」
「誰だっては誇張しすぎだと思うんだけど……」
『彼女が正しいからしっかり食べろ』
フィオルンが持ってきてくれたのは手作りの特製サンドイッチだ。特製スパイスが良いアクセントになっていて、シュルクでなくても自然と感嘆の言葉が出てくる程に美味である。
五感を共有しているおかげで俺も彼女の手料理の味を楽しめるのは本当に嬉しい。シュルクの為に作られた料理のおこぼれを頂いていることに多少の罪悪感はあるが、俺の意思で感覚の切断も出来ないので仕方ない。
「うん! すっごく美味しい!」
で、これがその美味なサンドイッチへの感想である。シュルクという男の食事の感想に対する語彙力は実に壊滅的である。大人になっても本当にこのままである。
「……本当? シュルク、いっつもそればっかりなんだもん」
フィオルンが不安になるのも分かる。とりあえず飲み込むのが可能である物全てに対して「美味しい」と言ってそうな奴相手では味覚も疑いたくなる。
「前のも美味しかったけど、今日のはすっごく美味しいよ」
「うーん……。それならいいんだけど、食べられるからってとりあえず言ってない?」
「本当だよ。だってフィオルンの作ってくれる物、どれも美味しいから」
フィオルンが固まった。何なら俺も固まった。
「僕にも味の好みはあるし、美味しくない物に美味しいなんて言わない。フィオルンの料理、どれも好きだから全部美味しいよ」
固まっていたフィオルンがほんのりと頬を染めたかと思うと、にっこりと心の底からの笑顔になってくれた。
よく言ったシュルク。人の好意にも自分の抱く恋心にも鈍い彼からすれば満点の言葉だろう。これでまだ恋人ではないのが信じられない。早く結婚した方がいい、近い未来にするのだが。
「それにしても……ここに来ても調べ物? そんなにあの剣について調べないと駄目なの?」
実に美味な昼食を終えたところで、フィオルンは積まれた本を見てそう零した。
フィオルンから見たモナドという武器は巨神の剣でもホムスを救ってくれる武器でもない。唯一の家族である兄の右腕を壊してしまった忌まわしい物でしかないのだ。理屈として機神兵を退けられる大きな可能性がある事実は認めていても、人々の為にそれを振るった兄が今のような状態なのだから受け入れ難いだろう。
「これ以上ダンバンさんのような人を出さない為にも秘密を解き明かさなきゃいけないんだ」
シュルクだってモナドが使われる度にダンバンのような犠牲者を出す現状を認めてはいない。むしろ否定したいからこそ以前よりも更に研究に熱を入れているのだが、それもまたフィオルンにとっては複雑なものだ。
「ごめんね、ダンバンさんのこと」
きゅ、と膝の上で両の拳を握った。
「どうして?」
「僕がもっと早くモナドの特性を知れていたらダンバンさんの腕はあんなことにならなかったと思うんだ」
シュルクはこう言うが、一年前の時点で"適性が無い者がモナドを扱うのは危険である"と誰が言えただろう。誰が持っても制御するのが困難という結果になるのだから、モナドはそういう物であると認識してしまうのも無理はない。運が悪かったと結論づけるのはあまりにも乱暴かもしれないが、仮にダンバン以外の者がモナドを持ったとて同じ結末に至ったであろうことは想像に難くない。
「誰よりもモナドのことを知ってたのに肝心な事は何も知らないで、ただ守られるままコロニー9にいて、それなのに僕が無知だからダンバンさんを、フィオルンのお兄さんを傷つけて、人は斬れないのに持った人だけが傷つく武器だなんて伝えられなくて、僕が、僕のせいで」
「……シュルク」
爪が掌にまで食い込みいよいよ肌の表面を突き破ろうかというところで、フィオルンの滑らかな手がそれを優しく覆った。いつの間にか下へ下へと向いていた視線を彼女に向ければ、僅かばかり泣きそうな笑みで此方を見つめていた。
「シュルクは悪くないよ。ううん、誰も悪くない」
結局は仕方がなかったのだと彼女は言った。
機神兵の侵攻を受けているのだからそれに抗える力があれば飛び付くのは何もおかしくはない。多少のリスクを背負おうとも誰かを守ろうとするのは自然な気持ちであり、ダンバンは人よりも特にその意思が強かっただけだ。
「大丈夫、お兄ちゃん達が一年前に勝ってくれたから機神兵はいなくなった。お兄ちゃんがモナドを握る必要もないし、万が一そんな事になっても私が絶対に止めるから」
視界が歪んだ。鼻の奥がつんとする痛みと頬を生温い液体が伝う感覚でシュルクの眼から涙が溢れたのだと理解した。
「ごめんっ、ごめんね……」
彼女にそんなことを言わせた自分への不甲斐なさ、人前で涙を見せた恥ずかしさ、不安を受け止めてくれたことへの安堵。
様々な感情を抱え込む癖に自分ではない誰かに出口を開けてもらわなければ外へ吐き出すことも出来ない。シュルクはそういう人間だ。それを幼馴染であるフィオルンもラインも重々理解しているから、こうして二人は寄り添ってくれる。溜め込んだモノが許容量を超えて器ごと壊れてしまう前に、必ずどちらかが何らかの形で外へと繋がる扉を開いてくれる。
シュルクの涙が止まるまでフィオルンは静かに手を握り続けてくれた。セーターの袖で涙を拭こうとしては「肌が荒れるから駄目」と彼女が取り出したハンカチで頬を拭われた。
『シュルク、お前自分の年齢考えろよ』
『……うるさいな』
『そう言えるならだいぶ落ち着いたな』
俺達の会話は当然当人であるエイルとシュルクにしか聞こえない。エイルがシュルクの内に宿ってすぐの頃は外の世界と内の世界の意識の切り替えも苦労したが、二年も一緒にいては他人から全く違和感を持たれないくらいには慣れてしまった。
シュルクが泣き止んだのを確認したフィオルンは一つ大きく伸びをして空を見上げた。日差しも温かく風も気持ちが良い。ダンバン達が一年前に戦ってくれたからこそ何かに怯えることもなく今日を、明日を生きていける。
——こんな日がずっと続けばいいのに。
この先を知る俺はシュルクにさえ聞かれぬ声で、届かないと分かっていても彼女に謝るしかできないのが酷く悔しかった。
体の芯を微かに震わせるようなサイレンが鳴り響く。落下物警報だ。神の骸の上で生活するが故に剥がれ落ちてくる巨神の一部——通称巨神の落としもの。コロニー9は巨神の右脛付近に位置する為、それに対する備えとしても対空砲は役立っている。
「ここは迎撃対象区域外だから帰ろうか」
「うん。最近は減ってたのにね、何だか久々に対空砲が稼働してるの見たな」
今思えばこの小さな巨神の落としものも巨神復活の兆しだったのだろう。
フィオルンを連れて研究棟へ戻れば、見慣れたもう一人の幼馴染の大きな背中が目に入った。何をやっているのかの意を込めて彼の名を呼べば、ラインは肩を跳ねさせて反射的にモナドを掴んだまま振り返ってしまった。
モナドのエーテルラインが光を強め、穴の部分にも光が集い出したのを視認して俺はシュルクに叫んだ。
『シュルク! フィオルンを部屋の外に出せ!』
俺の叫びと同時にモナドが起動する。開かれた刀身から伸びたエーテルの刃が青色の軌跡を残して暴れ回る。ラインも抵抗して必死に力で押さえつけようとはしているが、モナドは赤子の手を捻るかのように長身のラインを振り回している。室内にある計器や金属で構成された器具達が次々に傷付いていく中で、慌てながらもフィオルンを少しでもモナドから離していく。
「シュルク後ろ!!」
悲鳴とも変わらないフィオルンの声に思わず身を捻った。眼前にはモナドの刃が脳天を叩き割らんと迫る光景が広がっている。防御も回避も間に合わない。生物の反射として、目の前を状況を認識する前に強く目を閉じて、そして——。
「ライン!! シュルクに危ないって言われてたのにモナドに触ったの!?」
「いや、その……」
散らかってしまった部屋をシュルクが片付けてはいるが、部屋のど真ん中でラインが正座してその前で仁王立ちしたフィオルンが全力で怒っている。なかなか異様な図である。
「フィオルン、僕は大丈夫だから。モナドは人を斬れないから、ね」
「私がよくないの!」
それはそうだ。
モナドは人を斬れない。この特徴がまたホムスにとっては都合が良い点の一つだ。戦場でどれだけ刃を伸ばして振り回そうとも傷付くのは機神兵のみで、ホムスの体はすり抜けるかすり抜け切る直前で大きく弾かれて終わる。
——というのを二人は知らない。
ラインがうっかり持ったモナドでシュルクをフィオルンの目の前で叩き斬ってしまいました、なんてことになったら地獄絵図や阿鼻叫喚の表現でも生温いだろう。現実は誰一人擦り傷さえ作ってはいないが、地獄絵図と化す寸前の光景まで見てしまった二人の肝は相当冷えたに違いない。
「ラインも分かっただろ。モナドをしまいこんでる理由と僕が触るなって何回も言ったの。僕は平気だけど、フィオルンが辛い思いするのも嫌だし、ラインの体に後遺症が残るのも絶対に嫌だ」
「私はシュルクが生きてても切り傷一つでもあったらラインのこと許さなかったからね」
「大変骨身に沁みました……。二人とも悪かったよ」
とりあえずラインがモナドを勝手に触った件はこれで終わりとする。
床に転がり"機"の文字を浮かばせたままのモナドをシュルクが拾い上げる。何故か沈黙していないそれに疑問を抱きつつも元あった台座に置こうとして、突如としてモナドが再び起動した。
しかしモナドは先程までとは打って変わり暴れる素振りを見せない。動きを止めたシュルクを心配する二人の声も遠く、視覚と聴覚はまだ見ぬ何かの情報を次々と受け入れていく。
シュルクにとっては知らぬ存在達、エイルにとっては一方的に知っている者達。カルナ、オダマさん、メリア、アガレス、ソレアン陛下、エギル——。この先出会う人々、変えるべき運命の分岐点。ここに"黒"の声はなかった。
全てを知った上で視ると随分と先の展開まで開示されているのだと驚く。知らずに見た場合、実際に現実となる時には未来視で視たことなんてすっかり忘れてしまうのだからまた不思議なものだ。
「あ、そうだ。シュルク、頼み事があってさ」
そうしてようやくモナドが元の保管位置に戻され、やっとラインがシュルクを訪ねてきた理由が明かされた。
ヴァンダム防衛隊長に懲罰任務を喰らったので付き合ってほしい、とのことだ。
自走砲の民家衝突の件で荒れていたのもあり、そのとばっちりがラインにも向いてしまった。連帯責任とか何とか言われてしまい若手は揃って蹴りと腹筋一千回と懲罰任務を科されたのだとか。
マグ・メルドの遺跡までエーテルシリンダーを回収するのがラインへの懲罰任務の内容だ。自走砲に充てるのだろうし懲罰任務としてまた合理的なのがヴァンダムらしい。因みに他の者は自走砲の修理や他に不足した備品の補充などに走り回されている。
「……それ、シュルク要る?」
「あの辺の地理に詳しいからさ。案内頼みたいんだよ」
「駄目。あそこメルド・リザドの巣窟でしょ、シュルクが怪我したらどうするのよ。ラインと違って繊細なんだから」
「僕も少しくらいは鍛えてるし自分の身くらい自分で護れるよ。心配しないで」
「じゃあ約束するよ。シュルクに傷一つ負わせないように俺が護る、って」
「ラインじゃ当てになんないわよ」
——この物語って誰がヒロインだっけ?
「決めた。私もついてく。運搬ケース取ってくるから研究棟の入り口で待ってて」
そう言ってフィオルンは防衛隊本部へと走っていった。
「信用ねぇなぁ俺」
「僕は信じてるよ。フィオルンだって口だけさ」
『シュルクを危ない目に遭わせたばかりなんだから信頼度合いは急降下してるだろ』
『エイルは厳しいなあ』
残された野郎達の会話が空気に溶けた。