機神界へ通じる道は落ちてしまった機神の左腕、その人差し指の付け根から機神本体の足下へと延びている。まずは隠れ里のある掌から人差し指まで移動せねばならない。
落ちた腕は自然と機械が融合しているからか見た目以上に複雑な土地だ。金属で構成された土地の上に広がる草木、周囲をぐるりと囲う海。生息するのもフライアやアントル、フラミーにアントルなど巨神界でも見られる有機生命体が多い。自律稼働の小型機神兵も少々いたりする。
広さ自体もそれなりにあり、何より高低差が非常に大きい。天涯の爪先が目的地ではないのが唯一の救いだろうか。あそこは人差し指の側面をひたすらに上り続けた先にある秘境の一つだ。落ちた腕を眼下に一望出来る上に巨神の姿まで拝めるという
天涯の爪先のことはさておき、隠れ里を出発した直後は青かった空も、落ちた腕と機神界の境界線である回転式防壁に辿り着いた頃にはすっかり金赤に染まっていた。
空を見上げてみた。防壁は機神のすぐ足下だ。おかげで機神と巨神の両方が同時に見える。落ちた腕を機神界から切り離されたものと見れば、ここは巨神界と機神界の狭間と言えるだろう。そして頭上に広がる大剣の渓谷ではきっと連合軍が今も戦っている。機神の足下からでもはっきりと姿形が捉えられる機神の剣は、距離が距離だけにその巨大さがより強調されているように見えた。
人間から見れば中型の機神兵でさえ圧を感じ、要塞型ともなれば恐怖を通り越した何かだ。それよりも何倍、何十倍、何百何千……桁違いの大きさを持つ機神の剣でさえ本体ではない。あれは武器なのだ。本体は単なる武器である大剣とは当然質量も密度も比較にならない。神にとっては身体であっても我々人間にとっては立ち、生活する大地だ。その大地は確かに過去に動いた事実がある。あくまでも不動の大地であると人々は信じて疑わなかったそれらが動き、戦った。
当時を経験した機神界人達はどんな気持ちを抱いたのか、なんて一々考えるまでもない。恐怖以外の何物でもなかっただろう。恐怖は人から理性を奪う。残酷な行為も裏を返せば己の身を護る為であったというのは、今も昔も特段珍しい話ではない。
「今、エギルを支配しているのはその恐怖なのかな」
恐怖が次の恐怖を生む。神話の戦い、エギルの復讐、シュルク達の旅。我々がこうしているのだって長きに渡って続いてきた恐怖の連鎖の中にある。シュルクも何か一つでも運命や選択の噛み合いがずれていれば、隠れて過ごす今の機神界人達に次の恐怖を植え付ける側になっていたかもしれない。エイルだって踏みとどまれなかったら機神界どころかシュルクを除いた巨神界の全生命に牙を剥いていたかもしれない。
恐怖とそこから生まれる怒りや憎しみは理性を奪うのみに留まらない。理性を奪われた者は他者の平和を脅かし、命までもむしり取っていく。
「恐怖の連鎖は断ち切るべきだろう。どこかで——いいや、我らで終わりにすべきだ」
メリアの言葉に異を唱える者はいなかった。
「——あ。みんな、ちょっとだけいいかな」
いよいよ機神本体に乗り込もうとした時、フィオルンが全員を呼び止めた。身体の不調でも起きたのかと不安が過ったが彼女の声も表情も明るいままだ。
「メイナス、起きたみたいなの。声がするんだ」
小さな歓声が上がった。要塞での危機を救ってくれたことへのお礼や、改めて挨拶などしたい気持ちは皆同じだったようだ。
フィオルンが胸に手を当てて目を閉じる。数秒だけ考え込むように沈黙したかと思えば、すぐに顔を上げて微笑んだ。
「今簡単にメイナスと話したから状況は把握出来たと思う。交代するね」
瞼が下がり再び上がる。口を開く前にフィオルンではないと誰もが確信した。瞳の中心に赤い光が宿っていたからだ。
「こうして何かに追われることなく話すのは初めてですね。改めて——私はメイナス。
ミゴールから聞いてはいたが、いざ本人の口から機神だと言われると少々の驚きが湧いてくる。丁寧な物腰ではあるものの自然と畏怖のような感覚が身体に走る。人よりも高次の存在が放つ気とでもいうのだろうか。やはりそれは意識せずとも滲み出るのだなと静かに感動を覚えていた。
「要塞より落下して以降に関してはフィオルンから情報をもらいました。一時的な消耗により今まで眠っていましたが、想定より早く目覚められました。あの時——要塞で力を解放した際にあったフィオルンの協力と、アポクリファ下でもモナドを振るえたシュルクの後押しによるものでしょう。感謝します」
「お礼を言うのは僕達の方だよ。あんな高いところから落ちてみんな無事だったのは貴方のおかげだった。本当にありがとう」
挨拶のやり取りもそこそこに本題へ入る。メイナスの目的はヴァラク雪山で告げられたように機神界と巨神界の戦争そのものの終結である。もう少し深く言えば機神と巨神の争いを完全に終わらせることだ。現代の争いはエギル一人で始めた復讐の戦争という個のものではなく、神話の時代より続く神の争いの延長線上にあるのだという。
エギルを止めること自体は神々の争いを終わらせる為の道のりで必須事項だ。故にメイナスはシュルク達がまず果たすことにも協力すると言ってくれた。
「巨神の子である貴方方にとって機神たる私を完全に認め、信頼するのは容易なことではないでしょう。長く続くエギルの行いにより、巨神界の生命に植え付けられてしまった機神界そのものへの恐怖と憎悪は易々と拭い去れるものではないのですから。
私も今すぐに心を開いてほしいなどと無理を言うつもりはありません。世界に築かれた壁を融解させるには時を重ねるしかない。ただ一つだけ、私という個が望んで私の子と巨神の子を傷つける意図は無い。これだけは——」
「大丈夫だよ」
言葉を遮ったシュルクは唇の端を緩やかに上げていた。懐疑も憎悪も一片たりともない、自然体として人に接する笑顔だった。
「確かに最初は貴方を疑っていたところもあった。でも今はもうそんなことない。命がけで僕達に会いに来て、目的を話してくれて……助けられたんだ。フィオルンも貴方が身体を気遣ってくれてたって言っていた。
それに機神界人の人達も貴方を愛していて、貴方も機神界人を愛しているって聞いたんだ。穏やかで優しい人達が大切にする貴方を疑うとか嫌うなんて僕には出来ない。勿論機神って聞くとまだ少しだけ怖くて、機神兵の姿ばかり思い出すけれど……機神という大きな捉え方じゃなくてメイナスという貴方と向き合いたい。
だから僕は貴方を信じる。みんなも、同じだよね」
答えは是だ。住む世界が違うだとか、人だとか神だとかの土俵ではなく、メイナスという一つの存在を我々は信じたい。そう思うのはきっと自然なことで、大切なことだ。
「……ありがとう。貴方方が知りたいことはまだ多くあるでしょう。この先、帝都にて歴史の記憶と記録が残されています。その場で必ず全てを伝えましょう。どうかその時が訪れるまで、もうしばらくだけ待ってくれますか」
「勿論。それまで宜しく、メイナス」
メイナスはシュルクの言葉に微笑んでくれた。フィオルンと笑い方は違うけれどどこか彼女に通ずる温もりがある気がした。フィオルンの身を借りているからなんて安直な話ではなく、二人が同じ想いで手を繋ぎ共に歩けたことこそが答えではないだろうか。
メイナスが伝えるべきことは終わったのか再びフィオルンが表層に現れた。一段落したからか彼女の身体の仕組みにメリアとカルナ、そしてリキが興味を示している。片方が話している時にもう片方はどうなっているのか、二人の間でのやり取りはどんな感覚なのか、身体に負担はないのかなど単純な好奇心や今後の活動への配慮も含めた質問がフィオルンに飛ばされている。
一歩引いたところで残りの三人はその様子を眺めていた。理由は言わずもがなである。
「あれお前と同じだろ、多分」
小声のラインの問いかけに最小限の首の動きで答えた。
「なら大丈夫だな。負担もないだろうしとりあえず心配もないぜ」
目の光と声の違いからどちらが表層に出ているのかの判断はフィオルン達の方が遥かに明確だ。分かりやすさを重視するのであれば彼女達の方が便利ではあるが、俺達はシュルクの内に宿っている存在をあまり知られたくない。見た目の違いは目の色のほんの少しの明度の差、声に関しては全く変化がない状態だ。実際助かっているのでこれで良かったりする。
「いっそのことみんなに言ってもいいんじゃないのか?
ダンバンの言う通りでもある。この七人のみであれば明かしたって何ら問題は無いだろう。俺が恐れているのはそれ以外の存在に情報が流れてしまうことなのだ。具体的には巨神の使徒とか巨神の使徒とか巨神の使徒とか。但しアルヴィースは除く。
最も知られたくない巨神は初手で筒抜けだからそれは諦めている。だが今の巨神は使徒に対して直接接触する手段を持たない。過去の依代たるアガレスの肉体は崩壊してしまったし、その際も接触していたのはアルヴィースだけだ。アルヴィースは真の立場と性質からシュルクに不利なことは絶対にしない。故にロウランやディクソンには未だエイルという異質な存在について何の情報も渡っていないはずである。明かすならせめて二人の正体が明らかになってからでないと少々危険性が高い。
「近々話そうとは思ってるんです。今はみんなメイナスのことで一杯一杯でしょうしエギルの件もあります。ここで
「シュルクもそれでいいのか?」
「はい。エイルは自分勝手な理由で情報を伏せたりしない人です。もしも僕にも教えてないことがあるなら、それはきっと必要があるからです。だから彼がみんなに話したいと思うまで僕は待ちます」
「そうか。二人が納得してるならいいんだ」
主導権を切り替えながらの会話もすっかり慣れたものである。話している内容で区別が出来ないこともないのだが、エイルがシュルクの振りをしている場合はなかなかどちらの主張か分かりにくい。そこを例外中の例外みたいな二人は勝手に見抜いてくれるから成立するやり取りでもある。
「にしてもシュルクから随分信頼されてんだなお前。すっかり相棒って感じだ」
「ラインから言ってもらえると嬉しいよ。本当はちゃんと隣に肉体を持って並びたいんだけど方法が分からないからね——」
「ねえ、三人もそう思わない?」
びしり。揃って固まった。
いきなり振り返ったのはカルナだ。まずい、全員何も話を聞いていなかった。何ならタイミングが悪いことに今の主導権はエイルだ。一応口調はシュルクの振りをしていたしバレてはないと思うが。
「あ、あー……悪い! 聞いてなかった! 何だっけ?」
ありがとうライン。
「もう、貴方達もちゃんとフィオルンの身体のこと知っておかなきゃ駄目じゃない。それにしても珍しいわね。ラインはともかく、ダンバンとシュルクまでフィオルンそっちのけでお喋りしてるなんて」
「俺はともかくってなんだよ! 俺だってフィオルンのこと大事だよ!」
「お前にフィオルンはやらんぞ」
「そういう意味じゃねーって! ダンバンも分かってるだろ!」
「私もラインが恋人はお断りかなー」
「うおぉおお、うおおお……ぉぉ……っ! なんも俺負けてないのになんだこの敗北感……ッ!!」
「冗談よ。ラインは大切な幼馴染だもの。家族とかそういう意味で好きよ」
「お前だって俺の弟みたいなもんだ。大切な家族に変わりはないさ」
イノシシ兄妹式ジョーク。
「分かってるけどッ……! くうぅうぅぅっ! シュルク慰めてくれよ!」
「なんで僕なのさ……」
「親友だろ!」
「それ理由になってる?」
ラインはさておき、どうやらメイナスとの交代によるフィオルンの身体への影響などに関しては特に問題がないとのことでまとまっていたようだ。そこから話が少し逸れており、機神であるメイナスが過去にも今にも人間の誰かを器にしなければ活動出来ないことが話題の中心になっていた。
そこで気がついたのだ。機神メイナスがこうならば巨神にも魂と名があり、その器となる人間が巨神界のどこかにいるのではないかと。
「言われてみたらそうだね。神話の戦いでもメイナスは大地を動かすだけじゃなくて依代を使って戦ってもいたってミゴールさんも話してた」
これはシュルクの発言である。それに続けてラインもまた別の疑問を呟いた。
「じゃあ依代と一緒だったメイナスと戦った巨神も同じだったかもってことか。そういや今まで考えもしなかったな。巨神界のどっかにあんのかな、魂ってやつ」
——ここに、ある。
どんな顔をしたらよいのか分からない。物理的に顔があったら不味すぎる料理を口にしてしまい必死に耐えているような表情でもしているかもしれない。
巨神は笑い転げてでもいるのだろうか。己が望み通りになる未来を絶対的に信じ、万物を見下して復活の時を待っているのだろうか。
頭を振って——勿論比喩である——思考を一度放り捨てた。あまり強く明確に思いすぎてはその巨神に全てを悟られる可能性がある。ここまで来て腹の底に隠してきたものが奴に見つかるのは最悪の事態真っしぐらだ。もう少し、もう少しだけ耐えろ。
「ま、ここで話し込んでも仕方ない。まずはエギルを止めるのが先決だ。さっさと行くとしよう。フィオルンも大丈夫だな?」
「うん。私もメイナスも元気だから大丈夫」
足は再び機神を目指して進み出した。
良いのか悪いのか、誰一人監獄島で出会った巨人の言葉を思い出したものはいなかった。モナドを生み出し、巨神と共に機神と戦ったというあの言葉を。我々は既に過去の器に触れ、魂の言葉も聞いていたことに気付かぬまま。
だから俺もまた知らない振りをする。重大な見落としをしたままの愚者を演じる。嘲笑う邪神をいつか此方が笑い飛ばす瞬間まで。
左脚冷却口から機神の胎内へと侵入することが出来た。機神という名の通り、ありとあらゆるものが機械で構成されている場所——機神界フィールドだ。巨大なピストン、ベルトコンベア、大小様々なリフトなど巨神界の住人であるシュルク達には超巨大工場に見える。しかしながらこれから目指す帝都など機神界人の手によって作られた街にあたる部分以外の全ては、この世界に機神が誕生したその瞬間からこうなっていた。人が作り上げたのではなく初めから存在し、後に誕生した人間の方が機神の構成を模倣して技術を発展させていったのだ。
エギルがいるであろう機神界帝都は機神頭部にある。巨神界でいう皇都アカモートに近い。そして今いるのはまだ機神の脚であり、高さとしてはそれこそコロニー9と大体同じあたりだ。
「登るのに何日かかるも?」
「あー言ったな! 言いやがったな! 考えないようにしてたのによ、おっさん!!」
苦い顔をしたのはラインに限らない。同じくコロニー9の者であるシュルク、フィオルン、ダンバンも残念なことに明後日の方向を見ている。機神と巨神はほぼ同じ大きさなのだ。帝都に辿り着くまでの時間を計算しようと考えた途端に意識が遠のくのも無理はない。
「コロニー9から皇都に上がるまでどんだけかかったよ……。ああー、数日とかの話じゃないだろこれ……」
「ま、まあ、リフトもいっぱいあるみたいだし、巨神界よりもスムーズに行くんじゃないかな……」
「メイナスも近道教えてくれるって! 私達には機神本人がいるんだからきっとあっという間よ!」
「二人とも微妙に嫌な汗かいて言うなよな……」
「あ、白い顔付きが無事だったらみんな乗せて飛べたかも。初めて壊れたの残念に思ったな……」
「ぐおー! あんなに許せねえと思ってた機神兵がちょっと使いたくなる日が来るなんてなあ!」
「白い顔付きは誰も人を殺してないってのが大きいよね。移動手段とか重たい物を運ぶとか、技術を兵器じゃない方面に使えるならすごく役立つのは確かだ」
「うん。そういう使い方をしてくれたメイナスに改めてありがとうだね」
とりあえずかかる時間は考えないことにする。とにもかくにも千里の道も一歩からだ。ここで到達地点の遠さばかり考えて動きさえしなかったら永遠に着かない。進むしかないのである。
いざ、帝都を目指して。