灰色の夢
***
深い霧が世界を覆っていた。分厚く重たい
「
彩度の低い殺風景な世界の中でも独りではなかった。隣に君がいる。君の左手と俺の右手が強く握られて、深く結びついている。
「思って、ない」
巨神界で自我を得てから今に至るまで一分一秒たりともシュルクの権利を侵害するような願いは抱いたことがない、と思いたい。シュルクがいる場所、存在、人間関係、過去と未来。そのいずれも奪うだの上書きするだの、欲どころか考えることさえ有り得ない。大体シュルクに成り代わるだなんて君からもらったこの名を拒絶し捨てるのと同義だ。君を好いている俺が自分自身を許せない行為などするものか。シュルクはシュルク、俺は、
しかしいつもより二回りは小さい——十歳くらいの子どもの姿かたちをした——君は微笑を浮かべたまま薄い唇を開く。
「寝ても覚めても一緒。同じ生活をして、同じ食事を美味しいと笑って、一緒に体調を崩して苦しいと泣いて……一緒にここまで戦ってきたね。一本のモナドを二人で使って、
正直迷いなく否定は出来ない。一つの身体の内に長く共にいれば嫌でもその境界線は曖昧になって溶けていく。警戒の壁もいつしか地中の基礎までもが融解してしまって、初めから存在しないように見えた。
血と肉を持つ人より深く踏み込んでいる関係性ではある。物質としての姿を持たないから近づきすぎることはあっても離れることはきっと難しい。無意識の領域でシュルクの一部を利用して活動できると思い込んでいた節はあるだろう。ただこれだけははっきりと言える。シュルクの権利や彼の精神領域を侵害してまで行動する気はない。俺の全てを懸けて君に、君の親友に、君の最愛の人に向けて誓いを立てたっていい。
もしも無意識の中で、または俺が良かれと思ってしたことがシュルクを不快にしていたのならば、謝罪をするのが当然であるし二度と繰り返さないと約束しよう。破ったならば君の握り拳で一万回殴られよう。裁縫針の千本くらい笑って呑みほしてみせよう。どれだけ細かな部分も君の為ならば今すぐに直してみせるし従う。シュルクの要望はくだらない俺の感情や意志などより遥かに優先されるべきものだ。
「忘れたの? 君は
その言葉で夢うつつが弾けた。思考までもが濃霧に汚染されていたのかもしれない。
目の前の霧は晴れない。でも頭は、目は晴れた。
「お前、シュルクじゃないな」
瞳は揺らがない。ゆっくり、ゆっくりと首を傾けてあどけなく笑ったまま、また。
「僕は僕だよ。ずうっと昔から、生まれた時から、生まれる前から」
俺はシュルクではない。彼の全てを知っているなどと大口を叩いたりしない。
但しそれとは別に俺の中には彼の一部がある。幼い頃に受けた理不尽な暴力と劣情と悪意を飲み込んだ事実は変わらない。泥が蓄積されていた深層の空間を俺は覗いた。全てではないにしろ、芯にごく近い部分に立ち入るだけの許可と信頼を得ているのだ。
強い信頼と権限を託してくれた彼がどれだけ遠回しであろうとも俺に「出ていけ」と言うわけがない。自惚れではない。今になっても信頼されていないと卑屈になるだとか、裏など何もない彼の純粋な博愛を迷うだとか、相棒と呼んだ時に見せてくれた笑顔が嘘だったのかもしれないと疑う方がシュルクへの裏切り行為だと知っている。
異なる魂であろうとも俺はここにいて良い。外部からも内部からも、他人にも、果ては自分にさえも脅かされない俺達二人の真実だ。
「ねえ——」
瞳は揺らがない。揺らがないけれど、上げられた口角と頬に押されてシュルクの持つ深い青空に似た色の眼のまま、それがひどく、シュルクらしくなく、歪んだ。
「隠し事してるの、自分だけだと思ってる?」
物理的に存在しないはずの内腑から一瞬にして熱が失われる。
「深いところって何を基準として言うのかな。深いだけで最奥だなんて誰が言ったの?
理論的には
こうした前提があっても俺はシュルクに好かれていることを微塵も疑っていない。人は他人の全てを理解せずとも友になれるし、愛することができる。
俺が今恐怖を感じたのはつらつらと適当な理由を並べてシュルクがエイルを嫌っている可能性に触れたことではない。その前、"隠し事をしているのが自分だけだと思っているのか"の部分だ。
動揺まで見抜いているのか。それとも揺さぶりへの反応で判断したいのか。どちらにせよ目の前のこいつに情報を渡すのは良い方向に転がらないだろうし、何より俺自身が非常に不愉快だ。
口を結んだままの青年と薄笑いを浮かべたままの少年。互いの眼球の底にある真意を抉り出さんばかりに視線のみが何もない空間で衝突して鍔迫り合う。
諦めたのか真意を見抜いたのか、先に折れたのは少年だった。
「家族とか恋人でも入り込めないくらい近い距離に長くいすぎたんだね。隠し事を続けるのも大変だし疲れるよね。だからさ」
——もう、離れるべきだと思うんだ。
小さな右の手が伸びる。血が
「君だっていつかは離れて別の個体になりたいって言ってた」
言った。言ったがそれが今でないことは分かる。
「僕も早くそうなるといいなって思ってたんだ。同じだね」
右手にありったけの力を込めているはずなのに、少年の力には何一つ抗えず、開き切ってしまった指は再び内に巻くこともない。
「きっと今がその時なんだよ」
違う。互いの同意も得ずに分離するなど絶対に、違う。
「どうして君の同意がいるの? 誰がそれを決めた? 僕に命令できるのは僕だけ。この空間は僕の世界、僕がいて初めて成り立つ世界、僕あっての世界だ」
小指、薬指。緩慢な動きで、しかし二度と元には戻らぬように目一杯開かされて、着実に繋がりが減っていく。
「ほら、力抜いて。力んだままだと痛いのは君だよ」
中指、人差し指——残るは親指一本のみ。
「楽しくはあったよ。無様に
親指に手がかけられる。少年の顔はもう認識出来なかった。歪んで、捻れて、様々な色の絵の具が塗りたくられたように真っ黒で、混ざりきらなかった色が時折揺らめいて。
「安心して。
「おま、え、はっ……!!」
——ぶつり。
***
場に残る黒煙の臭いが鼻を刺す。火薬とはまた異なる臭いはエーテルが焦げたことによるものだ。数ヶ月前までは防衛隊本部や研究棟でよく嗅いでいた。シリンダーの精錬や各種道具と武器の溶接で発生することが多い。技術者と研究者からは冗談混じりに実家の匂いなどと呼ばれている。
いつの間に研究棟に帰ってきたのだろう。随分と呑気な思考で開いた目に飛び込んできたのは、防壁の一部であっただろう砕かれた金属の塊だった。
そうだった。ガドと再会出来たは良いが彼から容赦のない砲撃を受けたのだった。
緑の機体から発射されたエネルギー弾の威力は想像を絶していた。緑の顔付きの後ろで閉ざされていた第2セブライ隔壁は吹き飛ばされてしまっている。隔壁はエネルギーが着弾したであろう箇所からは少なくとも数十メートルはあった。たとえ至近距離で爆薬をしかけたとしてもああはなるまい。それほどまでの威力であったことが窺えると同時に背筋が冷えた。
地につけていた両手から未だ残る熱が伝わってくる。当たり前だ。機神の身体は機械部品である以上ほとんどが金属だ。熱伝導性は抜群だろう。人の身など鉄板の上で焼かれる肉と同じ——。
『溶ける……ッ! ……あれ?』
慌てて手を離すも指の先まで感覚は確かにある。
『何とも、ない……?』
『みたいだな』
掌を確認するも小さな火傷一つさえない。
『エイルが痛覚を肩代わりとかしてないよね?』
『そんな器用なことが出来てたらとっくにしている。大体肉体も五感も共有なんだから無理な話だ』
『出来てもしないでよ。したら怒るからね!』
『今怒ってるじゃないか……』
『これは怒ってるんじゃなくて心配してるの!』
『怒ってるだろ。大丈夫だ。していない、出来ないから。……本当だから安心しろ。これで信じてくれるか』
『もう……。分け合いっこの約束忘れないでよね。——ってみんなは!?』
安堵の息を吐きかけて現状は火傷云々どころの話ではないところまでやっと思考が追いついた。立ち上がりつつ振り向くと他の皆も意識を取り戻したところであった。
ただ無事であることを素直に喜びきれない。全員が誰一人命を落とすどころか傷一つない現状に困惑していた。目の前にあった分厚い隔壁が見事と言わんばかりにぶち抜かれているのに、金属の壁などより遥かに脆い人間がどうして生きているのか。
一応着弾の直前に"
不意にフィオルンが自身の胸元に手を当てた。逆三角形である金色のパーツからは赤い光の粒子が漏れ出ている。
「多分——」
「メイナス様のお力によるものでしょう」
話し出したフィオルンを遮る形で知らぬ声が第1隔壁のある方面から耳に届く。柔らかく大人びた女性の声ではあるが初めて聞くものだ。一早く鋭い声を飛ばしたダンバンが睨んだ先から現れたのは機神界人であろう女性であった。声色と同じく非常に穏やかそうな顔立ちをした人物には当然誰も心当たりはない。
「貴方は——ヴァネア?」
ただ一人、フィオルンを除いて。
顔と声は知らない。だが我々はその名を知っている。ミゴールの娘でありエギルの妹である存在。帝都にいると聞いていたから出会えるのはもうしばし先の話かと思っていた。それともこの地点がかなり帝都に近いのだろうか。
「ご無事で何よりです、メイナス様」
迷いなく真っすぐにフィオルン——否、彼女の中に宿る機神の魂を見てヴァネアは微笑んだ。応えるようにフィオルンとメイナスも表層の意識を交代する。
「彼らの協力あってこそです。私も連絡も出来ずに要塞から離れてしまいました。心配をかけましたね。ここまでの迎え、感謝します」
「無事なお姿を見られて何よりです。私こそ彼らを護ってくれたことに感謝しております」
要塞の崩落時と同じだ。赤い光として知覚できるものがメイナスの持つ神としての力の一部である。聞けば"鎧"のおかげでほんの一瞬ながらエネルギーが此方側に襲い掛かるまでの時間が延ばされ、そのごく短い隙を突いてメイナスが力を解放。衝撃と熱の両方からメイナスが護り抜いてくれた。おかげで全員が無事生き延びられたということだ。
「ヴァネア。先ほどのホムスについて何か知りませんか。あの者は
一つ頷いてヴァネアが話し出す。ガド、及び緑の顔付きはシュルク達を抹殺する為に差し向けられた。あまりに受け入れ難い事実にカルナが泣き出しそうな叫び声で否定する。しかしヴァネアは目を伏せ弱弱しく首を横に振った。あの者にホムスであった頃の記憶は恐らく存在しない、と。
現在新たに製造されている顔の付いた機神兵はどれも生前の記憶情報を完全に削除されてしまっている。今の顔付きは個としての意志もほとんどなく、巨神界の生物を殺戮するだけの単なる兵器と成り果ててしまった。人の身が存在していながら人が組み込まれていない機神兵と同じなのだ。
そもそも顔付き——正しくはフェイスと呼称される——とは捕らえたホムスの脳幹部や代謝に必要な臓器を機神兵に直接組み込んだ兵器だ。純然たる兵器として扱われるのであれば記憶や感情は完成の妨げにしかならない。
しかし我々が遭遇してきたフェイスは黒、赤、白と思想こそ様々でありながら個性的——つまりは強い自我を持った個体ばかりだ。これらは初期に製造され、当時は実験的な意味合いもあり意図的に生前の記憶を残した機体が多かった。人の意思は時に思わぬ効力を発揮するとはよく言うものだ。しかし——というか、寧ろそれ故にかもしれない——任務遂行に支障を
ムムカが最もたる例だ。彼はモナドとダンバンへの執着があまりに強すぎた。殺人そのものへの快楽も有してはいたが、執着がそれを上回りすぎた結果余計な戦いを繰り返して身を滅ぼしたとも言える。
他にはコロニー6を襲撃した褐のゾードなどがそうだろう。実はゾードと同タイプの機体自体は量産型である以上、製造段階で一々手を加えずとも生前の記憶の大部分が失われてしまう。それを踏まえても奴は非常に自我が強い個体であった。あれ以降に戦った量産型ゾードはどれも碌に言葉も発さなかったことからも、かなり珍しい種類の量産型フェイスであったと判断できる。
「嘘……嘘よ……。ああ……ガド……!」
蚊の鳴くようにか細い声だった。死体以外の再会であればどんなものであっても喜ぶべきことであると思っていたのに。黒や白のことがあったから機械化されていても愛する人のままだと信じていたのに。
「……いいえ、本来魂と肉体は不可分なもの。人の手で操作を施そうとも消えるものではありません」
メイナスの手がカルナの肩にそっと触れる。縋りつくような視線を受けてメイナスは動じることなく言葉を続ける。
「魂無き肉体が死するものであるように、肉体無き魂もまた生あるものとは言えません。私でさえも器たる依代が失われては魂のみの存在になってしまう。魂のみでは外部から膨大なエネルギーを供給されなければ瞬く間に霧散してしまいます。
あの者は——ガドは確かにこの世界に存在するものです。内に宿る魂は人にとって不可侵のもの。表面上の記憶をどれだけ拭い去ろうとも深奥にある彼自身の想いは誰にも手出しできない」
「それって——」
「次に彼と接触した際に私の力で彼を縛る呪縛を振りほどきます。但し私一人のみの力では決して届かぬものでもある。依代と強く結びつき到達すべき点を完全に合致させること——何より
信じ抜けますか。どれだけ心無い言葉を吐かれ、彼が躊躇なく矛を向けてこようとも、彼の奥にある貴方への愛を」
「勿論よ……っ!」
「ならば可能性は十分にあります。——カルナ、私もメイナスと同じ想いよ。絶対にガドさんを助けましょ」
「ええ……! フィオルンも、メイナスも……ありがとう……っ」
「ヴァネアさん、説明してほしいんです。どうして今でもエギルは巨神界の人間を機神兵に取り込み続けるんですか?」
「その言い方から、どうやらモナドの枷についてはご存じのようですね」
「はい。モナドが唯一断ち切れなかったものが"人"でした。だからそれに対抗する為に顔付きの機神兵を作った……。そこまでは僕らも知っています」
皆が既に知るようにモナドはホムスやハイエンターといった巨神界の人族に対して効力を発揮しない。正しく表現すると断ち切れないだけであり、各アーツの恩恵は人の身でも受けられる。この特性のおかげで一年前の大剣の渓谷での決戦にて機神兵側はほとんど惨敗と変わらないほどの打撃を受けた。それに対抗したいと考えたエギルが取った手が生体を部品として組み込むことだ。
「でも今はもう違います。枷は外されて、ありとあらゆる機神兵を斬れるようになりました」
「貴方の言う通り、唯一の弱点であった"ザンザの血に連なる者は斬れない"という枷は、そのザンザ本人の手で外されました」
「……ザンザに連なる、者?」
少々引っかかる表現である。シュルク達にとってザンザとは監獄島で出会った巨人しか指さない。モナドを創り、巨神と共に戦ったという何やら大きな存在であることは理解しているがそれ以上でもそれ以下でもない。特別な者ではあるが大きな括りでは同じ"人"ではないのか。あの巨人は一体何者であるのか。
ヴァネアは答える。遠い遠い、神話の争いで生まれた全ての痛みを思い出しながら。
「
憎いのか、憐れんでいるのか。どちらとも取れぬ微かに震えた声で、しかし静かに彼女は最後まで紡ぎ切った。
「機神界を滅ぼしたのは——ザンザなのです」