駅前のカフェは夕刻の光を柔らかく飲み込んでいた。
店内には落ち着いたBGMが流れ、窓際の席には仕事帰りの社会人や学生がまばらに座っている。
その中で、湊たちは一番奥のテーブルに腰を下ろしていた。
カップの縁から立ちのぼる湯気が淡く揺れる。一華は黒のブラウスに淡いクリーム色のスカート、バイト先で見るときよりもどこか柔らかな印象だった。
だが、湊の胸の奥には少しだけ違和感が残っていた。
――まさか、こうやって誘ってくるとは思わなかった。
同じ職場とはいえ、普段は必要以上に距離を詰めてくるタイプではない。というより彼女は割と人見知りなタイプな方。
ある程度仲良くなった今、何度か食事に行ったことはあるが。
だがそれが今、関わったことのないはずの友人まで一緒にいる状況で「コーヒーでもどう?」と自然に口にした。
そんな言葉に湊は小さな意外を覚えていた。
カップを持つ指先を見ながら、心の奥で自分に問いかける。
俺の気のせいか、それとも…………。
「へえ、湊がこんな美人な先輩とバイトしてたなんて初耳です。何で言わなかったんだよ」
慧斗が悪戯っぽく笑いながら、わざとらしく肘で湊の腕を小突いた。
その声のトーンに一華が小首を傾げる。
「いやいや、美人だなんて。そんなこと言われたことないから」
「またまた。本当ですか?滅茶苦茶モテそうなのに。湊も言わないなんて罪な男だな」
「……おい、何を言ってる」
「いや、俺はさ、今日ようやく腑に落ちた気がするんだよ。最近のお前の沈みっぷり。――もしかしてこの先輩が原因だったんじゃないか?」
「違う」
慧斗は湊にしか聞こえないよう小声で冗談めかしながらも、探るような目をして湊の表情を覗く。
一華は少し目を瞬かせ、それから唇の端をわずかに持ち上げた。
「何を話してるの?」
一華の声は低く、落ち着いていた。
穏やかに問いながらも、その奥に小さな硬さがある。
「いや、別に大したことじゃないですよ。ただ、最近の湊がちょっと元気なかったもんで。もしかしてバイト先で何かあったのかなーって思って」
慧斗は軽い調子のまま、笑いを作る。だが、その視線の奥にはほんの少しの探りがあった。
「バイトで……?」
一華がカップを指先で軽く回す。
「特に何もなかったと思うけど。蓮見君、そうなの?」
急に話題を向けられ、湊は小さく肩をすくめた。
「……いや、バイト先のことではないです。バイトで悩んでることは一つもありませんから」
その一言に一華の動きが止まる。わずかに目を細め、カップの縁越しに湊を見た。
それは詮索ではなく、確認のような視線だった。
「そう。……なら、よかった」
静かにそれだけを言って、再びコーヒーを口にする。それ以上は何も問わない。だけど、沈黙が妙に長く続いた。
慧斗が空気を和ませようと、わざとらしく身を乗り出す。
「いやー、でも意外ですね。一華先輩って言うんですよね? 同じ大学の先輩とは聞きましたけど、学部はどこなんですか?」
「文学部。本が好きで選んだんだ」
一華は顔を上げ、淡々と答えた。
「へー!良いですね。じゃあ文学少女ってわけだ。………そう言えば湊も本好きだし、そのつながりで仲良くなった感じですか?」
「そうだね…………蓮見君とは本の趣味も偶然合ってたから」
一華は短く答える。
それだけで会話が終わりそうな静けさをまとっていたが、慧斗は気にせず話を続けた。
「へえ、そうなんですね。湊は何読んでたんです? こいつ結構偏屈だから、読む本もマイナーなんじゃ?」
「ふふ、確かにね。最初に話したときも、あまり皆知らないだろうなっていう作家の話してた」
「やっぱり。そういうとこあるんですよ」
「でも、面白い人だとは思ったよ。私もその作家の本は好きで読んでたし、そういった人と会ったことはなかったから」
一華の言葉は淡々としているのに、どこか温度を感じさせた。
湊は少し居心地が悪そうにカップを傾ける。慧斗はそんな様子を見ながら、あくまで軽い調子で会話を続けていた。
「いやあ、湊が先輩にそこまで評価されてるとは。本人、自覚ゼロだからな」
「そうなの?」
「はい。たぶん“無自覚系”の代表ですよ。……女関係も含めて」
「おい」
湊が低く制したが、時すでに遅し。
慧斗は「やべ」と笑ってごまかしたが、一華の手がほんの一瞬だけ止まった。
カップの縁に添えていた指先がわずかに震えたように見えた。
「……女関係?」
その言葉はごく静かに発せられた。
しかし、その静けさが逆に鋭く響く。
「いや、別に大した話じゃ――」
「へえ、聞いてみたいかも」
一華が遮るように言う。顔は穏やかなままだが、瞳の奥が淡く黒い光を帯びていた。
慧斗が少し焦って手を振る。
「い、いや、そんな重い話じゃないですよ。ただ、最近ちょっと悩んでるみたいで。俺も詳しくは――」
「そう」
一華はその言葉を切るように受け止め、再び湊へ視線を移した。
「……何に悩んでるの?」
その問いには、表面上の優しさと底の見えない探るような静けさが同居していた。
湊は口を開きかけて、言葉を飲み込む。
「……いや、ちょっと………昔からの付き合いの人と一悶着あって」
「昔?」
「はい。……まあ言ってしまえば、元カノのことなんですが」
その一言が落ちた瞬間、一華の表情がごくわずかに揺れた。
だが、湊と慧斗両者とも気づいてはいない。ほんの一瞬の微細な変化だったから。
「……そうなんだ」
短くそれだけ言って、彼女はカップを持ち上げた。
しかし、その動作の途中で止まる。湯気が淡く揺れ、空気が妙に張りつめる。
「そっか。……その人のこと、まだ気になってるの?」
「いや、そういうのじゃないです。ただ……どう向き合えばいいか分からなくなって」
「そう」
一華は頷いた。
それきり何も言わず、少し俯く。
そして、そのまま――。
◇
コーヒーの香りが冷めていく。それが、妙に鼻に残った。
“元カノ”という言葉。その響きだけで、胸の奥に針が刺さるような痛みが走った。
彼にそんな人がいるということは、今までを辿れば容易に想像がつくこと。
だけど、実際に聞くと違う。心の奥底で何かがざわつく。
嫌悪、嫉妬というより――もっと、生々しい感情。
「(……女関係、か)」
彼が誰かに悩まされている。それが誰であれ、彼の心の中に他人がいるという事実。それだけで、胸の奥がじりじりと焼けるようだった。
思えば、彼と出会ったあの日から――私は彼の心の揺ればかり見てきた気がする。
職場でもそう。疲れているときの表情。ため息。ふと遠くを見る目。
そのすべてに何かを感じ取ってしまう。そんな彼を見てはシャッターを切っていた。
でも、今わかった気がする。
それらはほとんど誰かを思っての表情だったのだ。
「(……そうだったんだ)」
自分でも驚くほど心が波立つ。だが、その波の底には確かに一つの想いが沈んでいた。
――まだ、彼は誰のものでもない。
そう思った瞬間、冷静さが戻る。
喉元まで上がった焦りを飲み込み、呼吸を整えた。
「(まだ間に合う。誰かに奪われる前に、彼の隣に立てばいい)」
私は認める。彼を恋慕する自分自身の感情を。
証明してほしいと言われれば、私が集めた蓮見君の全てを見せてあげれる。
例え過去に女の影があったとしても、最終的に自分が彼のそばに立っていればいい。
彼が他の誰かに心を向けていても、私が彼の日常の一部に入り込めばいい。
急ぐ必要はない。私は焦らない。
少しずつ、確実に。
テーブルの向こうで、蓮見君が友達に何か言葉を返している。その声を聞きながら私は静かに笑みを作った。
“元カノ”という単語がまだ頭の奥で反響している。だけど、それを不快とはもはや思わなかった。
むしろ――心のどこかでその言葉を「私が塗り替えればいい」と、冷静に計算している自分がいた。
彼が他の誰かを見ているなら、私は彼の視界の端を奪う。笑顔でも、言葉でも、日常のささいな時間でもいい。
その隙間に、私が入り込めばいい。
「(……まだ、始まったばかりだもの)」
一華はそっと、冷めたコーヒーを口に運ぶ。その苦味が不思議と心地よく感じられた。
◇
――やってしまった。
慧斗は自分の口から出た言葉を思い返して、頭の中で顔を抱えていた。
女関係なんて軽口、普段の冗談の延長で言ったつもりだった。
だが、その一言が想像以上に空気を変えた。
一華先輩がまるで“獲物の気配を察した猫”みたいに反応したのだ。
あの静かな声で「女関係?」と放たれた瞬間、空気が一段冷たくなった気がした。
湊は明らかに動揺していた。
俺が悪い。完全に火種を投げた。
軽口のつもりが地雷を踏んでしまった。
話題を変えようと思った。
何か笑える話題に戻して、空気を軽くできるように。でも、一華先輩は違った。
落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
その冷静さが逆に怖いくらいで、言葉を選びながら湊に次々と質問を重ねていった。
何に悩んでいるのか。誰のことなのか。
まるで彼の心を一枚ずつ剥がしていくように。
湊は明らかに困っていた。
普段なら軽く流せるはずの話題なのに、言葉が出ない。目線は泳ぎ、指先がカップの縁を何度もなぞっている。
そして、俺はそれをただ見ていることしかできなかった。
止めるタイミングはいくらでもあったのに、その沈黙と視線のやり取りがあまりにも張りつめていて、言葉を挟めなかった。
湊がついに口を開いたとき、彼の声はかすかに震えていた。
「……いや、ちょっと………昔からの付き合いの人と一悶着あって」
「昔?」
「はい。……まあ言ってしまえば、元カノのことなんですが」
その瞬間、俺は息を止めた。
なんて言葉を選ぶんだよ、湊。いや、そう言うしかなかったのかもしれない。
その言葉を聞いた一華先輩の横顔はわずかに静止した。
でも、ほんの数秒後には何事もなかったように「そう」と呟く。
……それだけだったのに、空気の温度が変わった。
店内の音が遠のいた気がした。
彼女の表情は崩れなかった。
だけど、視線の奥に何かが宿っていた。
冷静で、穏やかで――それでいて、ぞっとするほど鋭い。
その視線は湊に向けられている。だが、見ている俺の身体まで固まった。
反射的に背筋が伸びて、手が膝の上で強張る。
「(なんだ、この感じ……)」
得体の知れないものを見た。
感情というには冷たすぎる。興味というには執着が強すぎる。
俺はあの一瞬、本能的に“この人は危ない”と思った。
多分、湊は気づいていない。いや、気づいていても知らないふりをしようとしているのかもしれない。
あいつはそういうやつだ。優しすぎるし、他人のことをちゃんと見ている。
――でも、それが仇になっているんだ。
俺はあの日聞いた話を思い出した。
七瀬琴乃。幼馴染で、ずっと湊のそばにいる女。彼女が湊に向けている感情の強さは冗談じゃなく強烈。
湊はそれを自嘲交じりに笑って話していたけれど、笑えないくらいの何かを言葉づてでも感じたのを覚えている。
そして今。同じような気配を、別の女から感じている。
一華先輩。
この人の纏う静けさの奥に、琴乃ちゃんとはまた違う形の危うさが潜んでいる気がする。
この人は………氷のように静かで、気づかぬうちに侵食してくる。
気づいた時には逃げ場がなくなっているような、そんな怖さ。
「(……湊、お前、ほんと気をつけろよ)」
彼の悩みが女関係という単語で片づけられるような単純な話じゃないことを、俺はこの目で見て確信した。
湊の周りに集まっているのは、恋愛感情なんて生易しいものじゃない。
誰かを自分のものにしたいっていうそれぞれの形の執着。
慧斗は冷めきったコーヒーを見つめながら、
無意識に眉間に皺を寄せた。
湊の言葉が終わり、一華が静かに微笑む。その笑みは綺麗だった。
だけど、どこか空っぽだった。
慧斗は胸の奥に小さなざらつきを覚える。その正体が何なのか言葉にできないまま、ただ一つの確信だけが残っていた。
――この人は、普通じゃない。