ここからしばらく幼馴染のターン。
雅と別れて食器返却口に向かって歩く途中、私はスマホをもう一度開いた。
『三限終わり、時間あるか』
ただそれだけの短いメッセージが、こんなにも胸を波立たせるなんて思わなかった。
さっきまでの会話が頭の隅で揺れている。
雅の"なんか変"という言葉。自分でも気づいていた。前の私と今の私が大きく変わっていることに。
でも、それは悪い意味でじゃない。むしろやっと始まっただけ。
長い時間自分でも気づかないふりをしていただけで、本当はずっと湊を求めていた。
廊下を歩くたびに胸の奥で鼓動が跳ねる。足取りが自然と前のめりになる。
周りに誰がいようと関係ない。視界の端に映る人影も、鈍い喧噪も、すべてが遠くに霞んでいく。
「(……湊が私を呼んだ)」
その事実だけが脳内を支配していた。
三限の講義室はいつも通りの雑談と荷物の音で満ちていた。
でも今日は違って見えた。
理由は考えるまでもない。
湊が、私を――待っている。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
嬉しさだけじゃない。もっと複雑な、黒くて熱いものが入り混じっている。
「(……まさか、告白じゃないよね)」
思い浮かべた瞬間、頬が熱くなった。
そんなはずないと分かっている。湊はそういうことに鈍感だし、自分から動くタイプじゃない。
それでも期待してしまう。
私は笑みを噛み殺すように唇を押さえた。
「(……でも、本当に何の用だろう)」
嬉しさに浮かれながらも、沈んだ影が胸をかすめる。
雅に突かれた“雰囲気の違い”という言葉が、ずっと頭の中に残っていた。
今の私は正解なのだろうか。
今の私の行動は間違ってないのだろうか。
私は、このまま突き進んでいいのだろうか。
教室に近づくにつれて、胸の中の波は静かに荒れ始める。
淡い期待がふくらむ一方、喉の奥に薄い不安が張り付いて離れない。
「(……湊、どんな顔してるんだろう)」
扉の前に立つ。金属の冷たさが指先を刺した。
そこに湊がいる。
私を待っている。
息を整える。
胸の奥がゆっくりと高鳴る。
ドアノブに触れた瞬間――私ははっきりと気づいた。
「(……私、怖いぐらい落ち着いてる)」
高揚しているはずなのに、頭のどこかが静まり返っている。
不思議な感覚だった。
まるで嵐の中心だけが静かなみたいに。
その静けさが教える気がした。
これから“何かが決まってしまう”のだ、と。
私は静かに扉を押し開けた――。
〇
教室には、もう誰もいなかった。
窓際のカーテンがわずかに揺れ、外から差し込む光が机の列を斜めに照らしている。
講義が終わった直後のはずなのに、音がない。やけに静かで、広い空間に湊一人の気配だけが浮いていた。
扉の音が背後で小さく鳴る。
振り返ると、琴乃が立っていた。
視線が合う。
その瞬間、胸の奥がひくりと縮む。
――落ち着いてる。
笑ってもいない。
怒ってもいない。
ただ、こちらをまっすぐ見ている。
「……来てくれてありがとう」
先に口を開いたのは湊だった。
声は低くいつも通りで、だからこそ余計に逃げ場がなくなる。
「湊から急に呼び出すなんて珍しいし。それで一体何の用?」
湊は一度息を吸った。
ここまで来たら引き返す選択肢はない。
「……時間取らせて悪い。ちゃんと話したくて。俺の気持ちも含め、お前の言葉に返事を返したかった」
そう言うと、琴乃は小さく頷いた。
机の一つを挟んで向かい合う。
「うん。聞くよ」
その“聞く”という言葉が妙に重かった。
湊は視線を逸らさずに続ける。
「単刀直入に言う。……俺、琴乃と付き合う気はない」
空気がぴたりと止まった。
ほんの一瞬。
ほんの、本当に一瞬だけ。
琴乃の瞳が揺れた。
それは怒りでも悲しみでもなく、期待していた未来が音を立てて崩れた、その瞬間の揺れだった。
「……そっか」
声がわずかに掠れる。
だが、琴乃はすぐに息を整え、視線を落とすことなく俺を見返した。
「ちゃんと、返事してくれるんだね」
その言い方が胸に刺さる。
「いつまでも期待させるつもりはない……だから、はっきり言わなきゃいけないと思った」
「うん」
琴乃は短く頷いた。
指先が机の縁をきゅっと掴む。
「それが、湊の今の気持ちなんだよね」
「ああ」
嘘はついていない。
逃げてもいない。
それでも――。
「……正直に言うとさ」
琴乃の声が少しだけ低くなった。
「もう少し、違う言葉が返ってくると思ってた。というか期待してた」
視線が逸れる。
唇を噛み、ほんの一瞬だけ感情が零れそうになる。
だけど琴乃はすぐに顔を上げた。
「でも、分かったよ。湊の気持ちは」
その言葉に、ほっとした――はずだった。
次の一言が来るまでは。
「……じゃあさ」
琴乃は一歩距離を詰めた。
声は落ち着いているのに、瞳だけが妙に熱を帯びている。
「今日はその返事をするために私を呼んだってことでいい?」
「……そうだ」
「そっか」
ゆっくりと頷く。
そして、少し間を置いて。
「でもね。私は全然諦められない」
言い切りだった。
迷いも照れもない。
「湊がどう思ってるかは分かった。ちゃんと聞いた。……でも、それと私の気持ちは別」
胸の奥がざわつく。
「私、湊のこと好きだよ。前よりずっと」
静かな告白。
それなのに、圧が強い。
「だからさ」
琴乃はほんの少しだけ困ったように笑った。
「お願いがある」
嫌な予感がした。
でも、もう止められない。
「……なに」
「仮でいいから、付き合ってほしい」
言葉が、理解が追いつかない。
「一ヶ月………は長いかな。数週間でいい」
一歩、また近づく。
「恋人として、ちゃんとデートして、ちゃんと一緒に過ごして」
湊の反応を見逃さないように、じっと見つめながら。
「それでも湊が“無理だ”って思ったなら、その時は引く。……約束する」
――本当に?
その言葉が喉まで上がって、飲み込まれた。
「でも、今のまま可能性がゼロで終わるのは嫌」
声は静かだ。
だが、その奥にある執念は隠しきれていない。
「チャンスが欲しいだけ。湊の隣に立つ、正規の理由が」
教室の静けさが、二人の呼吸音だけを浮かび上がらせる。
断ったはずなのに。線を引いたはずなのに。
気づけば俺は追い詰められていた。
琴乃の瞳は揺れていない。
――本気だ。
そう、はっきり分かってしまった。
一時の沈黙が落ちた。
教室の時計がかちりと小さな音を立てる。それだけでやけに時間が進んだ気がした。
湊は視線を落としたまま、言葉を探していた。
断る理由なら、いくらでも思いつく。最初から付き合う気はないと言った。それは事実だ。
今もその気持ちは変わっていない。
――なのに。
胸の奥が、ざらついていた。
琴乃の提案を湊は整っているように感じていた。
期限を区切り、それで変わらなければ引くと約束している。
「……なあ」
湊はようやく口を開いた。
「その期間が終わったら、本当に引くんだな」
顔を上げる。
琴乃と目が合う。
一瞬、空気が張りつめた。
だが琴乃はすぐに頷いた。
「うん。約束する」
即答だった。
ためらいも言い淀みもない。
「しつこくしない。追わない。……ちゃんと終わらせる」
その言葉は誓いというよりも、確認だった。
自分自身に言い聞かせるような、静かな口調。
湊の胸にわずかな安堵が広がる。同時に、嫌な感覚がそれを追いかけてきた。
――それで安心してる時点で、もうずるい。
彼女の気持ちを優先するよりも、自分が早く楽になれるような……自分が傷つかない道を探している。
それでも。
「……俺は」
言葉が、喉で一度引っかかる。
「正直、今すぐ楽になりたいって思ってる」
ぽろりと零れた本音だった。
琴乃は何も言わない。ただ、聞く姿勢を崩さない。
「はっきり断った。……それで終わると思ったのに、終わらなかった」
湊は自嘲するように息を吐いた。
「俺、自分で思ってるより、こういうのが苦手なんだと思う。誰かの気持ちを途中で投げるのも、受け止めきれないまま続けるのも」
視線を逸らす。
「だから……期限を決めて終わらせるっていうのは………正直楽だ」
言ってしまってから、胸が痛んだ。
楽をしたい。
早くこの状況を終わらせたい。
それがどれだけ身勝手で最低なのか、分かっている。
「……最低だな、俺」
小さく呟く。だが、琴乃は首を横に振った。
「最低じゃないよ」
静かな声だった。
「それが湊の正直な気持ちなら、私はそれでいい」
湊は驚いて顔を上げる。琴乃は微笑んでいた。
泣いていない。怒ってもいない。
ただ、覚悟を決めた人の顔だった。
「私は湊の気持ちを無理やり変えたいわけじゃない」
琴乃が距離を詰める。
触れられそうな距離だけど触らない。そんな微妙な距離間。
「数週間でいい。その間だけ、私の気持ちに付き合ってほしい」
その言葉に逃げ道はなかった。
湊の中でいくつもの感情がせめぎ合う。
断るべきだという理性。これ以上長引かせるべきじゃないという警告。
それでも、今ここで終わらせられない弱さ。
そして――早く決着をつけたいという卑怯な願い。
長い沈黙の後、湊は目を閉じた。
深く息を吸い、吐く。
「……分かった」
その一言で何かが決まった気がした。
重い瞼を動かし、目を開く。
「仮でだ。期限は………一か月以内で収まるならもう琴乃に任せる」
琴乃の表情がわずかに揺れる。
「それで終わりだ。俺の気持ちが変わらず無理だって思ったら………それで」
「うん」
琴乃は遮らずに頷く。
「その約束が守れないなら、最初から受けるつもりはない」
念を押すように言うと、琴乃は小さく笑った。
「守るよ。……ちゃんと」
その笑みは勝ち誇ったものではなかった。
むしろ、ようやく掴んだ糸を手放さないようにしている人の顔だった。
湊の胸に重たいものが落ちる。
これでいいのか。
問いはまだ消えない。
だが同時に、どこかで思ってしまう。
これで、少しは楽になる。
その考えが浮かんだ瞬間、湊は自分という人間がどうしようもなく卑怯で、臆病で、もう自分自身が嫌いになってしまいそうだった。
教室の外から、誰かの話し声が遠く聞こえる。日常は何も変わらない顔でそこにあった。
ただ一つ。二人の間に引かれたはずの線だけが、いつの間にか別の形に書き換えられていた。
そのことに気づきながら、湊はもう後戻りできない場所に立っていた。