Harry Potter Quatwizard Tournament 作:マクゴナガル命
茶碗を箸が叩く軽い音も、風呂桶をタイルに置いた硬質な響きも、僕にはひとつながりの記憶みたいに過ぎていった。
白く立ちのぼる湯気が視界を曇らせ、身体の熱が、肌に触れた布団の表面にじんわりと温もりを残す。
日は沈んで、夜が深まる。ダンブルドアにもらった硬貨の上の絵のように音もなく一日が終わっていく。
「驚かせる……かあ」
僕は硬貨を天井の電灯に翳した。描かれた丘の向こうに、いつのまにか月や星が浮かんでいる。キラキラと、てんでバラバラに大きさを変える星の動きは見ているだけで楽しいものだ。それをしばらく眺めてから、僕は手の中に硬貨を握り込んで胸元へ寄せた。
ゆっくりと目を閉じる。
ダンブルドアを驚かせる。そんなことが本当にできるのかな。
はたして、僕にそんなことが────。
「ん……」
寒い。
ずり落ちた布団を肩まで手繰り寄せて、僕はもぞもぞと寝返りを打った。
まぶたが張り付いてるみたいだ。眠気が強くて身体全体が圧迫されてるみたいに重い。眠い……。
でも、意識を手放す間際に、ふと頭の隅っこの方で不思議に思った。
布団、かけたっけ?
いつもは気にならないそんな疑問もどうしてか気になってしまって、それは何か……そう、何か予感みたいなものがあったからかもしれない。
襖の間から覗く月明かりに僕はぼんやりと目を開けた。部屋のなかはすっかり暗くなっている。ついていたはずの電灯も消されて、明かりといえば、
「父さん….…?」
隣の布団はもぬけの殻で指を這わせるようにして試しに触ってみたけど、すでに冷え切っていた。
襖の向こうで揺れる炎に似た橙色の明かりが透けて見える。影のようなものもぼんやりと。
あれはきっと父さんだ。
ゆっくりと息を吐く。眠い。けど、少しだけ気になる。
あそこが何かを僕は知らない。どうして父さんが深夜にばかり、あの場所へ入って行くのかも当然知らない。
何かきっかけがあったわけでもなく、ただ触れないほうがいいんだと思いながら、今までこの家で生活してきた。
それが、どうしていまさら──ふと思う。
窓と反対側へ寝返りを打った。
「……でも」
考えてみると、どうして何も疑問に思わなかったんだろう。
父さんが僕に隠していることを、気づいていないわけじゃなかったのに。それが何かを知ろうとしなかったのは、どうしてだろう。
布団をかぶり直して目を閉じても、眠気はもうどこかへ消えてしまっていた。耳の奥で自分の鼓動だけがやけに大きく響いて、部屋の天井近くにかけられた時計の秒針と重なっている。
落ち着かなくて布団の中で小さく身じろぎすると、余計に夜の静けさが際立った。
変なこと考えたせいだ。そうだよ、
馬鹿げてる、かもしれない。けど、
「……」
胸の奥にざらついたものが残ったままなのを誤魔化しきることはできなくて、もう一度、目を開く。
襖の隙間から射す月明かりが畳の上に淡く四角の影を落としていた。視線が自然と窓の方へ引き寄せられていく。
小屋の窓に灯った光がただそこにあるだけなのに、まるで呼吸するかのように瞬いて見えた。
気づけば身体を起こして、部屋の扉をそっと押し開いていた。
床の冷たさが夜気を伴って足裏から這い上がってくるような感覚がする。
音を立てないように廊下へ踏み出すと、月の光に縁取られた柱や障子が、どこか見慣れない表情で佇んでいた。
「あれ?」
ポケットの中で何かが白く光って、円形の影を廊下に映していた。取り出してみると、ダンブルドアから貰った硬貨の星が煌々と輝きを放っていた。
人肌のような温もりはないけど、何かの意思を持っているかのように廊下の暗さをわずかに和らげている。不意に、あの皺だらけの手を思い出した。
まるで繋いだ手を引いてくれているみたいだ。
硬貨を握りしめたまま、そっと息を整える。僕はそのまま足を踏み出した。
──暗い。
感じるのは暗闇と静けさばかりで、なんだか怖い。
夜の家って、こんなにも音がないものなのか。床を踏む自分の足音がやけにうるさく聞こえて、息を殺しながら一歩ずつ進んでいく。
自分の家のはずなんだ。こんなふうに緊張しなくったっていいはずなのに。
どうして、そんな当たり前のことが今は難しく思えるんだろう。
月の光と手の中から洩れる白い輝きが交わって、暗いはずの廊下がぼんやりと形を浮かび上がらせている。
柱の木目や障子の桟がやっぱりどこか昼間とは違って見えて、それがなんだか途方もなく不気味に思えた。玄関に近づくにつれて余計にその気持ちは強まった。
戸を開けると、庭を渡る風が頬を撫でた。
硬貨の光は心許ないながらも、まるで行く先を示すかのように足元を照らして、石畳や雑草の影を浮かび上がらせていく。
その先に小屋はひっそりと佇んでいた。
近づくほどに硬貨の星が強く輝き始めているように思える、月明かりと呼応するように。
小屋の扉の前に行き着いたとき、胸の奥の方で鼓動が跳ねた。
そっと小屋の扉に触れる。木の感触が掌に冷たく張りついて、唾を飲み込む音が耳の奥に響いた。
ゆっくりと引こうとしたその瞬間──。
扉は内側から押し開かれた。
「啓?」
真上から、父さんの声が降ってきた。
ドキドキと心臓が口から溢れそうなくらいに胸が鳴っているのをなんとか抑えて、見上げる。
橙の光が一気に広がり、立ち現れたのは父さんの姿だった。
父さんは不意を突かれたようにわずかに目を見開いて、けれだ、すぐに眉を寄せると僕を見下ろした。
「どうした、こんな夜中に」
訝しむ声。言葉が喉につかえて出てこない。
そのとき、僕の手の中で硬貨が白く光を放った。
父さんの視線が硬貨へと吸い寄せられ、瞳が鋭く陰を帯びた。
「それは」
「な、なんでもないっ!」
慌てて手を握りしめる。でも、隠そうとしたところでもう手遅れなのは分かっていた。
しゃがみ込んだ父さんが、僕の手にそっと自分の手を重ねる。
「……少し、見せてもらうぞ」
低く落ち着いた声。
拒むこともできず、指を一本ずつ開かされると、掌に露わになった硬貨を父さんは手に取り、その表面を指先でなぞった。
見られたからには、もう言い訳はきかない。
魔法が使えるなんて言ったら、受け入れてもらえるのかな。
それが不安で仕方がなくて、声にならない思いを喉奥に押し込めながら俯いた。
小屋の中から漏れ出た明かりがちろちろと揺れているのを見つめながら、“その時”を待ち続けて、けれど、思っていたのとは違って、父さんは口を閉ざしたままだった。
そろそろと顔を上げる。視線は僕ではなくて、手の中の硬貨に強く向けられている。
「……何故だ……ダンブルドア」
唸るように、押し殺した声が漏れるのが聞こえた。
硬貨を握る父さんの手が強く震え、指先が白くなっている様を僕はただ見ていることしかできなかった。