嵐を呼ぶオラと鎌倉英雄譚   作:俺っちは勝者の味方ー!

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お久しぶりです。
一ヶ月近く執筆から離れていたのですが、また続きを書いてみようと思いました。亀更新でホントすみません。
代わりと言ってはなんですが、過去一のボリュームに仕上がってるんでそれでお許しくだせえ。



究極のにげわざ、だゾ

 

幕間①

 

信濃の春─旧暦では夏─は寒い。

本来は新たな生命が多く芽吹く時節であるが、彼の地の気温は標高が高いこともあり、日が出ていない内は冬のそれに匹敵し得る。軽装で外を出歩けば、痛い目を見るのはまず確実だろう。

 

「(──!)」

 

…されど、朝霧が立ち込める林の中にあって鋭く刀を振るう弧次郎は、火照る身体から絶えず熱気を放出しており、この厳しい寒さをものともしていなかった。一心不乱に鍛練に打ち込む少年の心の中には、先日相対(あいたい)した木刀を握るしんのすけの姿が浮かんでいる。

争いのない平和な時代から来たという稚児に剣術で意表を突かれた衝撃は大きく、同時に…彼との手合わせは己の闘志を刺激する良いきっかけともなった。

 

──あれが文字通りの真剣勝負であったなら。

──しんのすけの腕前がさらに洗練されたものであったなら。

 

そんな“もしも”の状況を考えるたび、このまま停滞してはいられないと強く思えたのだ。自分より幼いしんのすけに圧倒されたことは正直悔しいが、だからこそ、より一層鍛練に熱が入る。弧次郎はあらゆる動作に魂を込めるように、力強くも丁寧に剣と向き合い続けた。

 

「ふぅッ……!はぁッ……!」

 

だが、一振りごとに精神を研ぎ澄ませているために、思いの外体力の消費が激しい。空っぽの肺と脳が酸素を求めて、もっと大胆な呼吸をしろと弧次郎に指示を下している。積み重なった疲労と相まって、弧次郎の身のこなしは彼の意識と関係なく、次第にキレの良さを失っていっていた。

 

 

 そんな時だ。

 

 

 

 

『坊主。もそっと肩の力を抜いて剣を振るうが良いわ』

 

 

“息が上がっておるぞ”、と何処からともなく忠告の言葉が響いてきたのは。

瞬間、弧次郎は刀を下ろして、咄嗟に周囲を見回した。朝霧の中から響く声は彼にとって初めて聞くものだった。少なくとも、祢津家の近辺に住まう者のそれではない。警戒心をもって、声の主を探し出さんと五感(視覚と聴覚)を働かせる。

 

しかし、いくら辺りを見渡せど朝霧に包まれた林の中に人影や人の気配はなく、今この場に居るは自分一人のみだと認識させられる。集中のし過ぎと疲れで幻聴を聞いてしまったのかもしれない。弧次郎はひとまずそう結論付けることにした。

 

「──あ。俺、いつの間にか肩で息しちまってたのか」

 

熱を帯びた身体を止め、一旦冷静になってみると、つい先ほどまでの自身の素振りに反省すべき点があることに弧次郎は気が付く。荒い呼吸の仕方が肩回りを強張らせ、それが刀を振る姿勢をさらに悪くしてしまっていたようだ。

 

“肩の力を抜く”、ね──。

 

()()()()気を付けてやらなきゃな。…なんて」

 

胸の中で不思議な()に感謝の念を抱きながら、弧次郎は再び鍛錬に励んでいく。

 

 

 


 

 

 

しんのすけが鎌倉時代へ迷い込んで数日。

 

あれから、時行を始めとする逃若党の子供たちは必ずしんのすけと行動を共にするよう心掛けていた。

未来からやってきた彼の幼子の存在感はあまりにも目立つもの。もしもしんのすけの大胆な行動が、足利の息がかかっている信濃国周辺の武士達に目を付けられれば、その側にいる時行までもが大いに怪しまれるやもしれない。それらとは異なる“脅威”が迫っている最中で、敵勢力をも上手く欺かなければならぬとなると些か骨が折れる。

 

故に、しんのすけのおバカな行為を極力牽制する意味も込めて、彼と共に生活を送ることを頼重より提言されたのだ。“日中は最低でも二人一組、時行でなくとも逃若党の誰かが必ずしんのすけとくっついて行動する”。さすれば、あまりしんのすけも目立たなくなるし、時行の身に()()()()()()が起きた時、彼をその場に同行させやすくなる──かもしれない…、と頼重は言う。

 

しかし、こうした危険因子(リスク)を減らす意図が含まれているものの、最も大切なのは逃若党としんのすけが親睦を深めることにある。郎党を組んだばかりの頃と同じように、しんのすけと密に関わり互いに絆を育むのだ。…曰く、目下に迫る困難を乗り越えるには、これが一番最適なのだとか。

もとより彼を受け入れる態勢でいた逃若党は、この頼重の提言に対し首を横に振るなんてことはしなかった。

 

 

「──で、朝っぱらから何してんだ。オメー」

「ひっくり返ったカブトガニごっこ」グデーン

「変な着ぐるみ着て仰向けになってるだけじゃん!?」

「ああ…。しんのすけが最近のお気に入りだって言ってた遊びか…」

「結構気色悪めな細かい部分まで作り込まれてるの何なんだ…」

「というかこれ、いつの間に作ったんです?」

 

そして、今日。

寝坊助なしんのすけにしては珍しくきちんと起きれていると思ったら、これまた奇妙な遊びを嗜んでいる様子だったので、彼を迎えに来た子供達は盛大に転んだ(コケた)。そしてなぜか、雫と吹雪はほんの数日でかなり本格的な衣装を作り上げたしんのすけの裁縫のお手並みに感心していたため、二人の主君は思わず頭を抱えてしまった。…ここへ来たのはやたらディテールがキモい謎の生き物になりきるしんのすけを観賞するためじゃあない。

 

「今日は表に出て皆で一緒に遊ぶ約束をしていたろう?それとも、まさか“忘れてた”なんて言わないよな」

「もちろん!だから、こうして早起きしてとっきーたちが来るのを待ってたんじゃない~」

「ならせめて普通の服着て待ってろって」

 

未来の子と言えど、相手は遊び盛りの五歳児。仲を深めるならやはり一緒に遊ぶのが一番だろうと考え、時行は丸々半日、しんのすけのやりたい遊びに付き合う約束を取り付けていた。弧次郎達もこの日のために暇をつくってくれたので、本日は逃若党が勢揃いしている。

…しんのすけの希望に沿うことを最優先とするが、それを上手く利用して全員で()()ができたらいいなあ、と密かに考えているのはここだけの話だ。

 

しんのすけがカブトガニの衣装から水干へと着替えるのを待ち、次いで逃若党は、彼を連れて眺めの良い高原へと足を運んだ。自然豊かな山々に囲まれているここならば、遊ぶ場所には困らないだろう。

“…さて”、という誰かの呟きを合図に、全員の注目がしんのすけに集まる。

 

「何して遊ぶー、しんちゃん?」

「う~ん、そう言われるとナヤみますなあ。ねーねーホントになんでもいいの?」

「さっきやってた不思議なごっこ遊び以外でお願いね」

「ほーい。どうせなら()()()()()感のある遊びにしよっと」

「清涼感、というと爽やかな気持ちになれる遊びのことでしょうか。それはまたどうして?」

「最近はリアルおままごとに付き合わされてばかりで気分がドロドロしてるんです…」

「なんか急にげっそりしだしたぞ」

 

やるならば爽快感溢れる楽しい遊びがいい。腕を組みじっと目を瞑りながらしんのすけは考える。

そうしてふっと頭の中で思いついたのは──

 

「──“鬼ごっこ”」

「「「「「…!?」」」」」

「たまにはこーゆーシンプルな遊びを楽しみたいオ・ト・シ・ゴ・ロ♡」

 

その単語がしんのすけの口から紡がれた瞬間、主君を除く逃若党の面々の表情が凍り付く。“よりによってか…”、と誰もが思った。おどけるしんのすけに溜め息をつきそうになるのを我慢して、彼等は自分達の主を見遣る。

…案の定、時行はこれ以上ないくらいの満面の笑みを浮かべ、頬を紅潮させていた。

 

「そ、そうかそうか。しんのすけは鬼ごっこをして遊びたいのか~。実に良い考えだ。しんのすけもこう言ってることだし、()()()()()楽しまなければな!はっはっはー」

「うっわ、言い方わざとらし…」

「兄様うっきうきね」

「溢れ出る喜びの感情を制御できてねえよ若…」

 

時行がしんのすけの意見を尊重するという大義名分にかこつけ、その実、逃げて逃げて逃げまくりたいと内心で興奮しまくっているのを弧次郎達は知っていた。…けれども、しんのすけの折角の要望を聞き入れないわけにもいかない。それ故、各々が観念して鬼ごっこに同意しようと決めた時、他でもない提案者のしんのすけが意外な展開を持ってくる。

 

「とっきーすっごいブルブルしてるゾ。そんなに鬼ごっこ嫌いなの?」

「いえ。むしろその逆。我が君は“逃げる”ことに人一倍長けていると共に、快感を禁じ得ない性質(たち)でして…。恐らく、興奮して身体が震えているだけかと」

「ほうほう。逃げるのがお上手ってことは、つまり足が速いってことだよね。んじゃ、鬼役はとっきーにけって~」

「え」

 

しんのすけの言葉を聞いて、今度は主君が固まった。確かに足の速さには自信があるが、自分が是非ともやりたいのは“逃げる”役の方なのだ。追いかける側に立つは少々気が引ける。

時行は努めて申し訳なさげに遠慮しようとするも、何か良からぬことを企んでいそうな笑みをにやり、と浮かべる弧次郎に先を越され、発言する機会を失った。

 

「ほ~う、そいつは名案だなしんのすけ。確かに足の速い奴が鬼役を務めれば、鬼ごっこはさらに面白くなる」ニヤッ

「あ、いや…ここは公平にくじ引きで決めるのはどう──」

「オイオイ。今日はしんのすけの希望に沿って遊ぶ日なんだろぉ~?鎌倉幕府の跡取りともあろう御方が約束事をきちんと守らないってのはどうかと思うぜ」ニヤッ

「ぐっ…!こ、こんな時ばかり私を主君扱いしおってぇ…」

 

しかも、それを盗人の玄蕃に諭されているのが余計に腹立たしい。

あくまでも正論故、不満を漏らすのはぐっと堪えはしたが…、最早反論する余地はなかった。最早致し方なし。

 

「──わかった…。やるよ鬼の役」

「うっし!とりあえず最悪の事態は免れたな」

「いい援護だったぞ、しんのすけ」

「いや~それほどでも~」

「そこまで嫌がるか!」

 

郎党達のあんまりな態度にキレる時行は、心の奥で“絶対後悔させてやる”と静かに誓った。やがて落ち着きを取り戻した(のち)、鬼ごっこを行うにあたっての決まり事を皆で確認し合う。

 

「逃げてもいい範囲はこの高原と周りにある雑木林、それから、あの山の中腹辺りまでだ。あまり広すぎるとしんのすけが迷子になってしまうからな」

「えーオラ大人だもん。迷子になんかならないもん」

「はいはい。私との約束をちゃんと守ることができたら、立派な大人だって認めるよ」

「むー!」

「ふふ、そんなにむくれないでしんちゃん。兄様はしんちゃんのことが心配なのよ」

 

雫に宥められているふくれっ面のしんのすけを横目に、時行は“十数え終わったら皆を捕まえに動き出す”と説明を付け加える。かくして鬼ごっこの準備が整い、しんのすけらはいつでも走り出すことができるよう鬼から少し離れた位置についた。

時行が大きな声で合図する。

 

「用意はいいか!」

「おっけい!」

「もう♡じらさないではやくしてちょうだいよん♡」

「(………)では、いくぞ。──はじめ!!」

 

ぱん、と手を打つと皆が一斉に駆け出した。徐々に小さくなっていく彼等の背中を眺めながら、時行はゆっくりと秒数を刻んでいく。

 

…思ってもみない方向に事が進んでしまったが、これでも時行は鬼ごっこをするのは()()なほうだ。例え追いかける側であっても(立場が逆転していても)、その事実は変わらない。

何せ、“追っ手から逃げなければならない状況において、人がどのように思考を巡らせるか”──逃げ上手の若君はそれを完璧に熟知しているのだから。

 

逃げるのが大好きな彼からは、誰も逃げ切ることなどできない。

 

「……八、九、十」

 

時間だ。

今より()()()()()、郎党達に格の違いというものを見せるとしよう。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「はっ…!はっ…!」

 

吹雪は背後に迫る追跡者から逃れるべく、林の中を駆け抜けていた。

鬼に自分の存在を勘付かれてからというもの、当初は死角となる茂みの中で姿勢を低くし息を潜めていたのだが、やはりと言うか…それだけでは彼の目を誤魔化し切ることはできず、こうしてやむなく最後の抵抗に出ることになってしまった。

一度、“逃走”の段階に入ってしまっては逃げ役が生き延びる確率はぐんと低くなる。しかも、相手があの()ともなれば尚のことだ。

どうにか隙を突き、追跡の目を欺く他ない。かなり距離を離したと思われるところで木の陰に隠れ、吹雪はそのように思案した。

 

…されど、逃若党が誇る策士の憶測に反し、鬼の魔の手はすぐそこまで忍び寄っていた。

 

荒くなった息を整えようと目を閉じた時、木の上から突如として現れた影が吹雪を覆い、彼の肩の上にそっと手を置いた。驚く間もない吹雪の耳に、甘い声音が響き渡る。

 

「──ほうら。つかまえた」

 

「…っ!ま、参りました。まさかこんなにも早く見つかってしまうとは。流石ですね、我が君」

「ふふん。ま、私にかかればこれくらい易いもんだ」

 

と、吹雪に褒められ、時行は得意げな表情を浮かべて上機嫌になる。二人が楽しそうに話をしている後ろからは、これまでに時行に捕まってしまった面々が急ぎ足で追いかけてきていた。

 

「ふう…。やっとこさ若に追いついたぜ」

「弧次郎。ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ──なるほど、自分が捕まったのは五番目ですか」

「応よ。残るはあのくりくり坊主ただ一人ってわけだ。…しっかしまあ、悉く一瞬で見つけられちまったよなあ俺ら」

「ねー。まるで私達の考えを手に取るようにわかってるみたいに、次々と隠れ場所当てられちゃうし」

「それだけ鬼ごっこを極めてるんだと思うよ。兄様は」

 

雫がそう締めくくると、何人かが肩を落として静かに息を吐く。

鬼役ならば大した脅威にはならないだろう、と高を括っていたのはどうやら大きな間違いだったらしい。『この人に“鬼ごっこ”で喧嘩を売ってはならない』と…新たな共通認識が逃若党の中に刻み込まれた。

 

「…さてと。そろそろしんのすけを探しに行くか。皆も付いてきていいけど、もししんのすけを見つけても私には教えないようにしてくれ。正々堂々勝負したいからな」

はーい(ほ~い)

 

若葉の生い茂る木々を掻き分けて進みながら、時行はしんのすけがどこに隠れていそうか色々見当をつける。

突拍子もないことを平然とやってのけるあの子のことだ。きっと自分達の想像もつかない意外なところに身を潜めているに違いない。

 

「なあ。皆は、しんのすけがどこにいると思う?」

「そうですねえ…。猿よろしく木の上にぶら下がってたり?」

「あり得る」

「絶対巫女の袴の中だ」ケケケ

「決まりを破ることになるからそれは……

 

…いや、あながち否定できない」

「岩をめくったらその裏にいるかもしれないゾ」

「あはは、だんご虫じゃないんだから」

 

 

 

 

 

…って。

 

「「「い、いたーー!!」」」

「お?」

 

ごくごく自然な様子で確保組に溶け込むしんのすけに、時行が大きな声を上げて反応する。亜也子と弧次郎も、いつの間にか自分のすぐ隣を歩いていたしんのすけの姿を見て、つられて驚く。周りが口をパクパク、目をパチクリさせている最中、驚愕の渦中にいるしんのすけ本人は相も変わらずのほほんとした表情を保っていた。

 

「おまっ、急に出てくんじゃねえ、びっくりするだろが!」

「そんなことないもん。オラが迷子になるってとっきーが言ってたから、ずっとみんなの背中の方で隠れてたんだゾ」

「うそ…」

「あまりにもさりげなさすぎて気付かなかった…」

 

簡単に言ってのけているが、実際今の今まで誰にも悟られることなく自然に紛れ込めていたのだから驚きである。けれども、時行はさして意外だとは思わなかった。この数日間、しんのすけは共に過ごしているなかで、いないと思えばすぐ傍にいたり、ふと気付くと会話に混ざっていたりすることがよくあった。

元来、人の輪の中に入るのが得意なのだろう。この隠れ方も、実にしんのすけらしい戦略だなと時行は考えた。

 

 ──だが、見つけたからには手加減しない。

 

「待てーしんのすけ!」

「ほい」

「!な、なんだぁ?」

 

時行が最後の一人を捕まえようと手を伸ばした瞬間、しんのすけは身体をのっぺりと地面に伏せて時行を回避し、そのまま腰をクネクネと動かして芋虫のように這い進む。音も立てず足元を素早く移動するその姿に、再び周りから驚きの声が上がった。

 

「いつつ〜いつでも〜芋虫行脚(いもむしあんぎゃ)~」

「ええいっ!このこのこの!」

「からの〜…やっつやっぱり柔軟弾丸~」

「ふがっ!?」

 

しんのすけの不可思議な動きに負けじと張り合う時行であったが、懸命に突き出した掌はいずれも虚しく空を切るばかり。しまいには、突然身体を丸く収めたしんのすけの体当たりをもろ顔面に食らって、鼻先を軽く痛める始末だ。

めくるめく移ろう光景を前に、時行は思わず目が回りそうになってしまう。

 

「ううっ…ど、どこ行った?」

「──あ!」

 

勢いよく弾むまま視界から消えたしんのすけを探していると、他より背の高い亜也子が上を見上げて目を丸くした。

彼女の視線の先には、枝から枝へと縦横無尽に跳ね回る赤い球体…もとい、しんのすけの姿があった。球体は木のてっぺんに近づくと丸みを解除し、瞬く間に人の形をなす。

 

「こ〜んに〜ちは〜!!」リョウテノバシ

「ちょ、おい!危ないぞしんのすけ!」

「結構余裕そうに見えるけどな」

「てかあの白い上着と坊主鬘はどっから出したんだ?」

 

確かにそれも気になるが、今はしんのすけの身の安全が第一だ。時行は考えるまでもなく木に飛びつき、てっぺんを目指して無我夢中で幹を登っていく。鬼ごっこの一環としてではなく…安全を確保する意味合いで、必死にしんのすけを捕まえようとする時行の胸中には、すっかり保護者としての自覚が芽生えているようだった。

 

そして、葉っぱと小枝を全身に引っ付けながらも…とうとう時行は、しんのすけが居る()()のてっぺん間近へと辿り着く。

 

 …が、

 

「ん、しょっと。やっと捕まえたぞ、しんのす

 

──けえぇぇ!?」

 

「ほっほーい」

「あ、あはは…。若様こっちこっち」

 

木の上には誰も居らず、件の少年は地上で呑気に手を振っていた。

どうやら間の悪いことに、時行が木を登り始めたと同時に、しんのすけもまた木を降りてきていたらしい。そのきれいな入れ違いを証明するかのように、彼の横にいる皆が気まずそうな表情でこちらを見遣っている。

 

瞬間、時行の目元に暗い影が落ち、辺りの空気が僅かに冷える。…若君は静かに木を降り、楽しそうに話をしているしんのすけの元へ音もなく忍び寄った。

 

「いや〜やりたかったギャグが出来てオラ大満足だゾ。あ、とっきーただいまー」

「…ほう?なるほどな。そんなくだらないことのためにわざわざ木に登ったのか。そうかそうか……

 

──待てコラー!!」

 

「うおおおっ!?とっきーのちんちん袋の緒が切れたゾ~!?」

「それを言うなら“()()袋”だ!私の心配を返せー!!」

「ま、あんだけ虚仮にされたんだからそらキレるわな」

 

決して穏やかな雰囲気とは言えないが、再び始まった鬼ごっこは割かし正攻法な一対一の追いかけっこの形式へと定まっていく。怒れる時行、逃げるしんのすけ、そして、二人の後を追う逃若党。何とも不思議な構図が出来上がっていた。

けれどもしばらくすると、未だ諏訪周辺の土地勘がないしんのすけは、左右を崖に囲まれた行き止まり(袋小路)へと誤って足を踏み入れてしまい、状況が一変する。自身の失態に気付いた時にはもう遅く、時行が体を張って退路を完全に塞いでいた。

 

「はあっ…、ふっふっふ…!さあ、もうお前の負けだ。大人しく観念しろ!」

「ぐぬぬ…。タマタマ袋が破れたくらいでおまたげないゾとっきー」

「それもうわざと言ってるだろ!?」

 

もう今日は喉が枯れそうなくらい叫んでいるような気がする…。皆を追いかけたくさん走り回ったこともあってか、疲労感が半端じゃあない。

──いい加減決着を付けて、終いにしよう。今日一番の覚悟を胸に、時行はじりじりとしんのすけとの距離を詰めていった。

 

 しかし…、

 

「わかったゾ。とっきーがその気ならオラにだって考えがあるんだゾ」

「!」

 

時行から放たれる徒ならぬ雰囲気を感じ取ったのであろう。彼と真正面から向かい合うしんのすけも、いつになく真剣な顔つきで時行のことを見つめ返していた。一片の曇りもないその眼差しを受け、時行は思わず息を呑んだ。主君のさらに後方から二人の行く末を見守っている子供達の間にも緊張が漂う。

 

瞬間、しんのすけが声高らかにかっこうよさげな振りと構えを披露した。

 

「くらえ!ひっさつ!──」

 

「「「「「「(ごくり…)」」」」」」

 

 

 

「ぶりぶり~!ぶりぶり~!ぶりぶり~!」

 

「あ、あ……ああ…」

「お、おしり…」///

 

…最早語るまでもない。

ケツを突き出し、その場で踊っているかのようにちょろちょろと動き回るしんのすけの姿に、この場に居る誰もが言葉を失った。あまりのくだらなさと馬鹿馬鹿しさでツッコミを入れる気力すらわいてこない。雫と亜也子の女性陣は、羞恥心が作用したおかげで長時間ケツを直視するという事態こそ免れたが、男子(おのこ)が生尻を曝け出す瞬間を目の当たりにした衝撃は相応に大きかったらしく、耳の先まで顔を真っ赤に染めている。

 

そんな混沌とした空間をつくり上げた張本人は、今も尚ケツを動かし続けている。時行の中で“おバカなことをしている自覚はあるのか”、“恥ずかしいとは思わないのか”、と絶えず疑問が浮かび上がるが、そのケツの動きを見ていると全てがどうでもよく思えてしまい、どうしても行動が起こせなかった。

 

…と。皆が気力を失っている間に、

 

「すき焼き!とうっ!」

 

しんのすけは半ケツ状態で袋小路を抜け出し、そのまま林の中へと姿を消してしまう。無論、その後を追える者は誰もいなかった。

 

…結局、時行達が次にしんのすけを見つけられたのは正午に差し掛かる頃となり、今回の鬼ごっこはしんのすけの一人勝ちという結果で幕が下りたのであった。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 翌日。

 

「──ということがありまして…」

「ふうむ。尻を突き出して自由自在な動きを可能とする振り、ですか。はて、どこかで見た覚えがあるような」

「?何か言いましたか?」

「いえ、なんでもございません。それにしても……なるほど興味深い」

 

頼重の執務室にて、彼の業務の補佐を務める傍ら、時行がなんとなくこぼしたのは、昨日の鬼ごっこ中にしんのすけが見せた奇天烈な行動の数々であった。ああいうお下品な役回りは既に玄蕃だけで間に合ってるので勘弁願いたいところだと、まるで一児の母親のような困った態度で時行は話をする。

 

…が。対して、それに耳を傾ける頼重は、しんのすけが生尻を出した時の逃若党の反応を聞いて、もしや…と面白いことを考えていた。

 

「頼重殿?」

「時行様。午後に予定していた武芸の鍛錬は中止致します。代わりにしんのすけを呼んで、“特別授業”を行いましょう」

 

──貴方様の一番の長所を生かす、“究極の逃げ技”を伝授してもらうのです。

 

そう告げる頼重の瞳は、新しい玩具を見つけた子供のようにきらきらと輝きを放っていた。

 

 

 

 

 

「もう~お昼寝してて忙しいのになんの用なのよ~…」

「ごめんねしんちゃん。父様がどうしても来てほしいって言って聞かなくて」

 

雫に優しく背中を押されながら寝ぼけ眼のしんのすけがやってきたのは、先日弧次郎と剣の手合わせを行ったあの稽古場である。そこでは、他の逃若党と頼重が二人の来訪を待っていた。

大した訳も聞かされないまま連れて来られたものなので、しんのすけは彼等の姿を見つけると、眠い目を擦って後者をにっと睨み付けた。

 

「おじさん。オラ、“けんこーゆーりょーじ”だから一日12時間は寝ないと寝不足で死んじゃうんだゾ。そこんとこわかってんの?」

「おや、それは失礼。ですが、昼寝の時間も合わせましたら、本日は既に六刻以上お眠りになられたのではないかと思いますよ~?健康優良児であるならば、よく食べよく寝るだけでなく、程よい運動を心掛けることも大切ですぞ!」

 

目線を合わせてしんのすけとそう話をした頼重は、今度は時行の後ろへ回り、甚く落ち着いた口調で本題を切り出した。

 

「そこで本日は、身体を動かすついでにしんのすけに一つお願いしたいことがあるのです。昨日の鬼ごっこで其方が見せたというキレッキレな臀部の動き。あれを時行様にお教えしていただきたいと思っておりまする」

「ええ!?頼重様何言ってんの?」

「私も初耳なんだが!?」

 

稽古場が一瞬にしてぶわりとざわめいた。

この時初めて頼重の思惑を知らされた逃若党はわかりやすく動揺を露わにする。特に、名指しで当事者にさせられかけている時行は声を荒げた。

人に向けて尻を突き出す()()を習えというのか。…無理無理、そんなの絶対に無理だ!

 

「何をそんなに嫌がることがあるのですか!鎌倉を脱した時点で、武士としての誇りや恥なんかは捨てたと申されていたでしょうに!」

「武士らしい生き様は捨ててきたが、人間としての尊厳はまだ失いたくない!」

 

ご尤もな反論だ。生尻を出すは尊厳破壊にも等しい行為と言える。

けれども、頼重は引き下がらない。

 

「何も完璧に再現しろとは申しておりませぬ。要は、動き()()を盗んでしまえればよいのです。わざわざお召し物を脱がれる必要はありません。時行様がそうしたいと仰るなら………まあ、私は、別に、構いませんけど」///

「頬を染めるな!」

 

…しかしまあ、そういうことなら彼の言葉に乗せられてみても別に良いんじゃないかと、時行は思った。そんな前向きに考えを改め始めた時行の背中を後押しするように、頼重は今回の“特別授業”の意図を打ち明ける。

 

「しんのすけが動き回る姿を見て、皆一斉に気力を失くしてしまったと仰られていましたね。…考えても見てくだされ。例の動きを習得することができれば、万が一逃げ場がなくどうしようもない状況に陥ったとしても、相手の戦う気力を削いで、逃亡に成功する(勝機を掴める)やもしれませぬ。

 そうでなくとも、時行様の逃げ筋は下半身、つまりは臀部にも力が収束する仕組みになっている。普段の稽古ではあまり鍛えることのできない逃げ筋を刺激する良い機会になるはずです」

 

なるほど…その発想はなかった。

時行は昨日の──しんのすけを追い込んだ際の状況を思い返す。そこからさらに、自分としんのすけの立場を入れ替え…かつ、遊びではなく“命懸け”の鬼ごっこに身を投じている場面を想定する。そうした絶体絶命の局面で、もししんのすけと同じ動きをして敵の戦意を失わせることができたなら──。

頼重の言葉を自分なりに解釈しそこまで考えを巡らせると、時行はそれが単なる酔狂などではないことにようやく気が付く。この人は本気で…、己の逃げる才能を今よりもっと輝かせようとしているのだ。これはもう、無下に断ることはできないと思った。

しかし、やはり見た目が見た目なので…、時行は渋い表情を浮かべながら何度も逡巡し答えを考えた。

 

そして、根負けしたかのように一つ大きく息を吐くと、頼重としんのすけに向かって言葉を掛ける。

それは時行の決意の表明だった。

 

「──やります。しんのすけの臀部の動き、物にできるようしっかりと頑張ります」

「…おお。流石は時行様。大変御立派であられまする。

 

さあ、しんのすけ。其方の返事も聞かせてくだされ。時行様に()()をお教えするか否かを!」

 

 

 

「え?何のこと?」

 

「だはあっ!!?」

「「「「「「……」」」」」」

 

折角の時行の覚悟が台無しである。

 

「そこはカッコよく答えるところでしょうがぁ!?今まで何聞いてらしたんです!?」

「だって~、“アレ”とか“でんぶ”とか言われてもオラ5歳だからわかんないゾ。伝えるんならもっと簡単に言ってよねー。お話だって長すぎるし」

「むう…。そ、それは確かに私の落ち度でした。以後気を付けます。…こほん。まあつまりはですね、私が言いたいのは昨日しんのすけがしていた『ぶりぶり~』て動きを時行様に教えてほしい、ということで──」

「な~んだ“ケツだけ星人”ね。そーゆーことならモロチンオッケー」

「いや軽ー!?」

 

先程までの真剣そうな雰囲気は何処へやら…。

ともあれ、しんのすけに例の臀部の動き──もとい、“ケツだけ星人”を伝授してもらう承認まで漕ぎ着けられたので良しとしよう。

 

 

 閑話休題(場面は変わって)

 

 

「ほい。それじゃあ“とくべつじゅぎょー”を始めます」

「…その前に一ついい?」

 

はりきって先生役を務めようとするしんのすけに聞きたいことがあるのか、時行がおずおずと手を挙げる。

 

「ではとっきー君。質問をどーぞ」

「えと…、どうしても“けつだけ星人”って呼ばなきゃダメなんですか?この動き…」///

 

呼び方なんて些細なことだろうと思うかもしれないが、これは時行の精神衛生上、かなり重要な問題なのである。これでも一応、

幕府の跡継ぎとして高貴な暮らしの中で様々な英才教育を授かってきた─尚、きちんと受けたかは別とする─身。そうした経緯(いきさつ)がある故、“ケツ”という品性の欠片も無い単語を連呼するのはどうしても憚られてしまうのだ。

 

「他の言い方だと、別名“戦意尻失”ともゆーけど」

「あ。じゃあそれで」キッパリ

「決めんのはえー…」

「別名、というと他にもこの技の使い手がいることになりますなあ。その方はしんのすけのお知り合いで?」

「うん。(ラン)ちゃんっていうの。一緒にぷにぷに拳を修行した姉弟子なんだゾ。…そういえばランちゃんも、“相手の気力をなくす”とかそんなこと言ってたゾ」

「!それって」

「──ふむ。どうやら私の見立ては存外正しかったようですね。やはりこれは…、なかなか面白そうな技だ」

 

ケツだけ星人あらため、“戦意尻失”。

しんのすけの姉弟子だという人物の言葉を頼りにするなら、確かにこれは習得しておいて損のない技なんじゃないかと強く思えた。わざわざ“ケツだけ星人”と呼ぶ必要もなくなったので、時行の気持ちは幾ばくか前向きになり、自然と期待の感情も高まっていった。

 

「んじゃ気を取り直していくゾ」

「は、はい」

 

いよいよしんのすけの指導による特別授業が始まる。

果たして、どのような厳しい試練が待ち構えているのか…時行はきゅっと気を引き締めるのであった。

 

 

 

 

 

「まずは“ケツだけ歩き”50週だゾ!オラについてきな!」

「尻のほっぺだけを使って歩くなんてそんな無茶な…。ていうかキャラ変わってない?」

「うるさーい!初めて会ったあの日からとっきーのケツには無限の可能性を感じてたんだゾ。つべこべ言わずにケツを動かせー!」

「確かに尻同士で触れ合ったけど!?根性論が謎過ぎるって!?」

 

 

「オラー!とっきー!ケツがたるんでるゾ、ケツがあ!」

「元々尻は柔らかいものでだな…「ふん!」あいたっ!脛を叩くなあ!?」

「文句言ってるヒマがあるなら、さっさとケツでぼくとーを握ってみせなさい」

「さっきからずっと挑戦してるんだが、流石にこれは無理だろう…」

「うー、まんぼっ!人間に不可能はない!」シャキーン!

「も、持ててる…。尻で掴めてる…。うう…、はい」

 

 

「ぶりぶり~!ぶりぶり~!」

「う、うおおお…!」

「ぶりぶり~!もっと腰を振って~こう!ぶりぶり~!」

「こ、こうか?」

「まだまだ~!ぶりぶり~!ぶりぶり~!」

「お、お、おりゃあああっ…!」

 

 

「「「「「「……」」」」」」

「すげえな…尻が二つも並んでんぞ」

「兄様、一応袴は脱いでないし、動きもしんちゃんと比べたら全然拙い方ではあるんだけど…」

「それでも圧巻ですねえ…」

「ねえ頼重様。こうなる未来は見えてたの?」

「…………答えは神のみぞ知る(ノーコメント)、ってことで」

「おいこらバカ明神」

 

 

 ──つづく…?

 

 

 


 

 

幕間②

 

──諏訪大社の御神体、守屋山。

 

“神力”と呼ばれる人の目に見えない不可思議な力が静かに集うこの場所に、雫が一人…神楽舞の奉納と祈祷を行うために足を運んでいた。

しんちゃんが無事に元の時代へ帰ることができるように、そして、兄様が末永く健やかに過ごせるように。諏訪の神域に住まう神獣達と共に祈るつもりだった。

 

 しかし、

 

「(やっぱり…変だ)」

 

()()()()()()()()()。神力はこんなにも満ち満ちているというのに…。

大いなる意思を携える彼等がこれまで姿を現さないことは一度としてなかっただけに、雫は大変不思議に思った。森の奥深いところまで行けば顔を出してくれるかもしれないと淡い期待を抱いたが、結局それも叶わなかった。

 

…思えば、少し前から山の雰囲気がおかしかったような気がする。普段から仄かに感じ取れていたはずの神獣達の気配や意思が、ある日から突然微弱になってしまったのだ。消滅した…とかではなく、まるで()()から身を隠しているかのような…そんな異質な変化であったことをよく覚えている。

 

 

それは確か──しんのすけがこの世界に迷い込んだ日の出来事だった。

 

 

「でも、まさかね」

 

いくら変わっているとはいえ、彼はごくごく一般的な家庭で生まれ育ったという稚児である。

神仏や信仰とは全く無縁そうなしんのすけが、この諏訪に降り立って早々…神獣達に何らかの影響を与えたとは考えにくい。やはり双方に関係性を見出すのは見当違いだろう。

 

 

と、自分にそう言い聞かせ納得したつもりだが…、小さな疑問が胸につかえ雫の心はもやもやしていた。

 

 

「──着いた」

 

いつも神獣達に神楽舞を奉納している沢だ。

…けれどもやはり、彼等は姿を現さなかった。

 

共に祈りを捧げる相手がいないのは口惜しいけれども、仕方がない。そう考えた雫が一人で舞を行うべく準備に取り掛かろうとした時、彼女は偶然この場に僅かに残っていた神獣達の残留思念を拾い上げた。

 

「(!これは……()()。畏敬の念?)」

 

断片的にだが、雫はそのように彼等の意思を読み取った。

…故に、“わからない”。なぜ古くからこの神域に居る彼等が、恐れの感情などを抱くのか。

初めて体験することが多すぎて、雫の頭は混乱した。

 

 

 一体、()を恐れているの──?

 

 

…雫がこの事態の核心を突く疑問を思った刹那、それに呼応するかの如く、遥か遠くから“ずどん”と大きな地響きがした。

 

腹の奥底まで轟くような重苦しい衝撃。

始めは地震かと思い身構えていたが、その後何度も“ずどん…ずどん…”、と鳴り響く轟音を耳にし、自身の予想が誤りであったことに気付かされる。

地響きは次第に大きくなっていき、沢の水面が波を立てる。

 

 

 ──そして、一際大きな()()が響くと、木々の隙間から鋭い金色の瞳孔がこちらを覗いた。

 

 

Naaa(ナ゛ー)…!』

 

「っ!」

 

現れたのは、巨大な竜の幻影だった。

 

およそ八間はくだらないであろう巨体の背には、自らの身体をさらに大きく誇示しているかのような帆が付いていて…、

発達した足の先にある鋭利な鉤爪はあらゆるものを引き裂いてしまいそう。

細長い頭と獰猛な唸り声を向けられて、雫は恐怖で固まった。

 

「(そうか…)」

 

恐怖と絶望の淵にあって、やけに明瞭な頭を働かせて少女は考える。

神獣達はこの竜の存在を恐れて、姿を消したのではないかと。

より強く、より大きく、そして…より“古い”魂の持ち主に。山に住まう誰もが、恐れと敬いの感情を抱いた。否、()()()()()()()()()()()()のだろう。これほど荘厳な魂を前にしては、誰だって自分の存在がちっぽけに思えてしまうはずだから…。

 

今なお、彼の竜の視線を一身に浴び続けているこの状況が、それを何よりも証明していた。

 

『…………』

 

“蛇に睨まれた蛙”とはまさにこのことだ。雫はその場から一歩も動けなかった。

まるで何かを見極めるかのように凝視してくるこの竜に…自分の運命を委ねるしかない。そう覚悟していたのだが──、

 

 

Naaaaaa(ナ゛ーーーッ)!!』

「!」

 

…と。竜は大きく咆哮を上げたかと思うと、そのまま踵を返し、太い尾をしならせながら森の中へと消えていった。地響きのような足音がどんどん遠ざかっていき、いつしか沢の周辺に心地よい静寂が還ってくる。

 

一人その場に取り残された雫は、長いこと止めていた息をすうっーと吐き出し、体中に新鮮な空気を送り込んだ。

 

「──生きてる」

 

瞬間、なんとか助かったことを理解し、安堵に包まれた少女は地面にぺたんと座り込む。腰が抜けてしまってしばらく歩けそうにもない…。神楽舞の奉納は、また今度にしようかな。なんてことを思った。

 

…そういえば、後ろを振り向く間際(最後)に見せた…あの目は一体何だったのだろう。

ほんの一瞬だけ、子どものような無邪気な輝きを放つ優しい目つきをしていたような気がする。

 

──神獣より遥かに強力な存在でありながら、幼さと優しさの欠片が垣間見えた謎の竜。

 

 

「あなたは一体何者なの?」

 

 

思わず口からこぼれた問いに答える者は、誰もいなかった。

 

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