追記:嬉しいことに投稿三日で評価バーが赤色となりました。高評価下さった皆様、この場をお借りして御礼申し上げます。皆様の期待に応えられるよう、今後も読後感の良い話を書いて行けるよう誠心誠意投稿に励んで行こうと思います。
「あー、なるほど。ハクジのハクはこれか。狛犬の狛かあ。なるほどなあ。」
師範との稽古の休憩がてら、俺は井戸で水を飲んでいた。
俺がここに来てもう1年経つ。素流の型もある程度身に着け上達して来た頃で、最初の頃投げられたり組み伏せられたりするばかりだったのが遠い昔のように思える。
師範は俺の成長度合いが嬉しいようで、こうして休憩時間には嬉々として語ることが多い。今日は俺の名前の字について雑談をしている。
「お前はやっぱり俺と同じだな。何か守るものがないと駄目なんだよ。お社を守ってる狛犬みたいなもんだ。」
師範はそう言い、豪快に笑う。俺はその様子を静かに見つめていた。
俺が素流を習いたての頃、師範に聞いたことがある。なぜ侍でもない師範がこれ程の土地と道場を持っているのかを。
以前老人が山賊に襲われていたのを助けたところ、その老人は素流の技に甚く感動し、継ぐ者がいなかった土地と古い道場を師範に譲ったかららしい。
それだけ聞けばよく聞こえるが、実は一つだけ問題があった。それは隣接していた剣術道場の連中の存在だ。
この土地と道場を自分たちのものにしたかった連中は道場を継いだ師範が面白くなかったようで度々嫌がらせ紛いなことをしてきた。
俺も道場周辺を歩いていたら唐突に絡まれたり、敷地内にごみを投げ込まれたりするのを見たことがある。
正直言って不快だったが、師範がことを荒立てないようにしているのだ。俺の辛抱不足で師範と恋雪に迷惑はかけられない。俺はずっと我慢していた。
しかし、そんな俺の堪忍袋が切れるような出来事がこの日起こった。
「すみません。一旦恋雪の様子を見てきます。具合悪そうにしてたらいけないので。」
「おお! そいつはすまんな! いつもありがとな、狛治。お前のおかげで恋雪も一年前とは比べものもないくらい元気になった。こりゃあ病気が治るのも時間の問題かもしれんな?」
「そうなれば一番いいのですがどうでしょうね・・・床から起き上がる時間は増えましたが依然咳は苦しそうにしてるので何とも・・・」
「それでもお前が来る前に比べたら本当に良くなってるんだぞ? 全て狛治のおかげだ。お前には感謝してもしきれん。」
「いえ・・・あの日師範が俺を引き取ってくれなければ俺は今頃どうなっていたことか・・・感謝しなければならないのは俺の方です。ではそろそろ・・・」
「ああ。頼んだ。」
俺は少しだけ師範を待たせて戻るつもりだった。穏やかな寝息を立ててる恋雪の様子を眺めてすぐ稽古を再開するつもりだった。
しかし、いつも看病してる部屋に戻ると恋雪の姿がなかった。
以前に比べ元気になったとは言え、出歩けるほど身体が強くなった訳じゃない。そもそも恋雪は師範や俺に無断で出歩くようなことはしない。
俺は一気に血の気が引き、周囲を探しながら呼びかける。
「恋雪!! どこに行ったんだ!? 恋雪!!!」
俺は無我夢中で敷地内を探し回った。厠にもいない。台所にもいない。どこだ? どこにいる!? そもそも恋雪は自分の意思でどこかに出掛けたのか? まさか・・・
「けほっ! けほっけほっ!!」
「っ!! 恋雪!!!」
俺は恋雪の咳の声を聴き、一目散にその場へと駆け付けた。
恋雪は俺達の道場の門の外で倒れていた。苦しそうに咳をし、ひゅーひゅーと呼吸音を鳴らして地面に突っ伏している。
「恋雪っ!? どうして外なんかに・・・」
俺は急いで恋雪を抱え、すぐさま元の部屋まで運び込む。
師範も俺の声を聞きつけたのか、既に恋雪の部屋の前に立っていた。
「どうした狛治!! 恋雪は何故外に・・・」
「わかりません! とにかく今はすぐに薬を・・・!!」
俺は恋雪を布団の上で横にさせ、上体だけ支えて水と一緒に薬を飲ませる。
暫くの間、俺が恋雪の背中を擦っていると、やがて薬が効いたのか、徐々に咳が治まり恋雪の様子が落ち着いてきた。俺と師範はその様子に胸を撫で降ろす。
「すまん、狛治。お前がいなかったら恋雪は今頃・・・」
「いえ・・・恋雪、もう平気か? 苦しくないか?」
「・・・はい・・・狛治さん・・・ありがとうございます。」
恋雪は俺達を安心させようと穏やかな顔を必死に浮かべているように見える。俺はどうしても気になることがあったので、その場で恋雪に問い詰める。
「恋雪。教えてくれ。どうして門の外で倒れていたんだ? まさかとは思うが・・・誰かに連れ出されたのか?」
「っ!! 狛治・・・まさかそれは・・・!!」
驚きの声を上げる師範。その様子からして俺と同じことを想像したことが伺える。
やがて恋雪は呼吸を整え、俺の腕の中で静かに答える。
「はい・・・隣の剣術道場の・・・跡取りの方が・・・突然訪ねてきて・・・街に連れてってやると半ば強引に私を・・・それで・・・」
「あいつか・・・!! しかしなぜお前一人残されて倒れていたんだ!? まさかとは思うが・・・咳で倒れたお前を置き去りにして逃げ去ったのか・・・!?」
「・・・はい・・・」
「っ!! 隣の道場主から度々跡取り息子の粗暴について相談を受けていたが・・・まさか恋雪を勝手に連れ出した挙句置き去りにして逃げるなど・・・断じて許せんっ!!!」
普段穏やかな師範も流石に看過できないとこの時ばかりは激怒していた。俺も自身の腹のうちから湧き上がる怒りに全身沸き立つようだった。
「・・・俺が潰してきます・・・」
気づけばそんな言葉が俺の口から漏れていた。俺は今どんな顔をしているのだろう。恋雪と師範の顔が驚愕の色に染め上がる。
「だ、駄目!! 狛治さんっ!! そんなことしたら・・・!!」
「狛治・・・気持ちは痛いほどわかるが、暴力沙汰は良くない。うっかり一人でも殺してしまえばお前を奉行所の連中に引き渡さなければならなくなる。一旦落ち着け・・・」
「これが落ち着いていられますかっ!! 師範ははらわた煮えくりかえらないんですか!? 大事な娘が危うく命を落とすところだったって言うのに・・・!!」
「勿論俺だって腹が立ってる。だが怒り任せに拳を振るうものじゃない。俺はそのためにお前に素流を教えた訳じゃないんだぞ?」
「しかし!! だからってこのまま引き下がれる訳ないでしょう!? どうしろって言うんですか!!!」
「・・・隣接する道場に試合を申し込む。」
怒り狂う俺に師範は静かに諭すようにそう告げる。俺は一度師範の声に耳を傾ける。
「狛治。試合を申し込んで約束させるんだ。こちらが勝てば金輪際素流道場には嫌がらせ含め関わらないようにすると。
幸い、向こうの道場主だけは話の分かる御仁だ。手を焼いていたドラ息子を黙らせるいい口実にもなるだろうし、きっと引き受けてくれる。俺がこの後話をつけてくるから、狛治は恋雪を頼む。いいな?」
そう言い残し、師範は道場をあとにした。俺は心配そうに見つめる恋雪の頭を撫でる。そうしないと自身を落ち着けることなど到底できなかっただろうから。
続く
僅かに闇落ちの片鱗が垣間見えた狛治ですがご安心を。本小説ではあのような悲劇は起こさせません。心優しい少年と少女に救済を。