【RTA】鬼滅の刃RPG『長い長い人の歴史のほんの一欠片』獲得チャート   作:バブ辻オギャン

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77.呼吸

 山頂近くの深い切り立った谷間。そこへ降り注ぐ巨大な滝の冷水は、標高の高い山ならではの冷え切った空気と合わさり、打たれる者の体力を一瞬で奪い去る。

 大岩を穿つほどの激流に打たれ続けるという、たったそれだけの修行でありながら、滝の寒さと水圧は容赦なく隊士たちの皮膚と心を削り、骨まで凍てつかせていく。

 だが、炭治郎たちにとって真に恐ろしく、そして何よりも辛かったもの。それは滝修行によって冷え切った身体を温めるために行われる、煌柱・花柳麗による『矯正』そのものであった。

 

「えいっ」

 

 澄んだ山あいの空気に、可憐で可愛らしい声が響く。

 直後、麗の細い指先が寸分の狂いもなく隊士の胸の中心、横隔膜の真上をドスッ! と正確に穿つ。

 

「ぶへぁっ!?」

 

 横たわっていた隊士の口から、潰れた蛙のような悲鳴が漏れ出る。

 指先で突く。行われている内容はただそれだけだ。

 しかし、喰らった者にとってその威力と苦痛は、想像の数十倍の苦しみであった。

 

 肺が裏返しにひっくり返るかのような凄まじい衝撃と息苦しさ。だが、それ以上に恐ろしいのは、麗の繰り出す突きが絶対に気絶せず、息も途絶えて苦しくなりすぎないという、神業めいた絶妙な力加減でコントロールされている点にあった。

 激痛で意識を失って逃げ出すことも許されず、呼吸が止まって途切れることもない。

 麗の指が一撃入ることで、強制的に肺胞の隅々まで空気が送り込まれ、過剰なほどに正しい全集中の呼吸が体内で叩き起こされる。これにより、無理やり肺を全回転させられる激しい衝撃と並列して、普段から維持している全集中の呼吸そのものの激痛と疲弊が、そのままどこまでも終わりなく持続するのだ。

 

「め、めちゃくちゃ肺が痛いけど……あれのおかげで身体が早く温まったからな……ひ、昼にはもう水に慣れたぜ……」

 

 滝の寒さに身体をがたがたと震わせ、両手で固く自分の腹を押さえながらそう呟いたのは、炭治郎にとって鬼殺隊の先輩隊士である村田であった。

 既に滝打ちの工程を終え、これから次の段階である巨大な丸太を担ぐ修行へと移ろうとしている彼は、先人として後輩である炭治郎に様々な実体験と情報を与えていた。

 

「煌柱様のあれはな……痛いけどそれだけなんだよ……絶対に休めないし気絶もできないんだよ……」

 

 村田は苦笑いとも半狂乱の泣き顔ともつかない表情で、痛む横隔膜をさすりながら続ける。

 そしてそんな村田の言葉に呼応するように、温められた大岩にしがみついていた他の隊士たちも、口々に疲弊しきった声を漏らした。

 

「い、痛いのは今まで正しい呼吸ができてない……間違ったやり方をずっと続けてた分の反動だってさ……」

「た……確かに最初に喰らったのよりは痛くないけど、それでもやっぱきつい……」

「ちゃ、ちゃんと成長できてる実感がある分、凄く助かるんだけどな……」

「いたい……」

 

 そう、麗の行う呼吸矯正の真の恐ろしさは、相手の肉体と精神の限界値を克明に見極め、決してその限界を超えさせないという点にあった。

 どれほど体力が底を突こうとも、どれほど泣き叫んで休みたくなろうとも、その者の身体が真の意味で休養を必要とする寸前の『限界』に達するまで、彼女が手加減して甘やかすことは絶対にない。

 そう言った意味では、理不尽なまでの暴力であっても一回本気で殴り倒され、気絶して意識を失うことで束の間の休息を得られた風柱・不死川実弥の修行の方が、まだ救いがあったとすら言えた。

 地獄のような沈黙と絶叫が交互に交錯する中、やがて山間に正午を知らせる刻限が訪れ、束の間の昼休憩の時間となった。

 隊士たちは焚き火を囲み、冷え切った身体を炎の熱で温めながら、近くの渓流で捕れた魚を串に刺して焼き、貪るように喰らいついていた。

 そんな中――。

 

「やっぱすげぇよアイツら」

 

 こんがりと焼けた魚を頭から骨ごと齧り取りながら、嘴平伊之助がふとそう呟いた。

 

「あいつらって?」

 

 焼き魚の身を丁寧にほぐしていた炭治郎が首を傾げて聞き返す。

 

「玉ジャリジャリ親父と婆みてぇな女」

「こら! 女性に対して失礼だぞ伊之助!」

 

 当たり前のようにひどいあだ名を口にする伊之助に対し、炭治郎はすぐさま表情を崩して苦言を呈した。しかし、伊之助は炭治郎の小言などどこ吹く風で、豪快に魚の骨を噛み砕きながら話を続ける。

 

「玉ジャリジャリ親父は一目見て分かったぜ。アイツはヤベェ、鬼殺隊最強か(・)も(・)な」

「あー、やっぱりそうか」

 

 炭治郎はどこか深く納得したように頷いた。

 

「確かに悲鳴嶼さん、他の人と匂いが全然違うもんな。痣も出てたりするのかな?」

「出ててもおかしくねぇ」

 

 既に十匹目の魚を串ごと飲み込まんばかりの勢いで食い散らかしながら、伊之助は大雑把に頷く。

 だが炭治郎はふと、伊之助が発した言葉の中に妙な引っかかりを覚え、焼き魚を動かす手を止めた。

 

「あれ、でも……」

 

 炭治郎は首を傾げ、伊之助の猪の頭皮に向かって問いかける。

 

「かもってことは……伊之助は他に最強かもしれない人を知ってるのか?」

「アァ? だからさっき言っただろうがよ。婆みてぇな女って」

「……まさか花柳さんのことか!? あと呼び方は駄目だって言っただろ伊之助!!」

 

 思いもよらない名が出たことに、炭治郎は目を見開いて素直に驚きの声を上げた。

 そんな炭治郎の様子に、伊之助はどこか納得がいかないように、フンと鼻息を荒く吹き出した。

 

「あの女、全然強そうに見えねぇ。肌に何も刺さらねぇし、岩とか木を相手してるみてぇな感覚なんだよ、気配を感じ取れねぇ」

 

 そして、どこか悔しさを滲ませるように拳を固く握りしめ、言葉を継ぐ。

 

「修業の時もそうだ。いつの間にか俺の近くに来やがる……何も気配がねぇ! まるで藤の花の家紋の家の婆みてぇに……」

「あっ、だから婆呼びなのか!?  それは失礼だからやめた方がいい!!」

 

 炭治郎の声が山間に響く。

 しかし、伊之助は十一匹目の魚に手を伸ばしながら、ぽつりと呟いた。

 

「触ったら、食われる」

 

 伊之助の感覚は、山育ちゆえの異常なまでに研ぎ澄まされた皮膚感覚に依存している。

 通常、強い剣士や鬼と対峙した際、伊之助の肌は相手が放つ殺気や敵意、あるいは圧倒的な筋力や威圧感といった感覚を敏感に感知する。

 柱たちや上弦の鬼と対峙した時もそうだった。彼らの存在は伊之助の肌を突き刺し、痺れさせる危険信号となって全身を警戒させていた。

 

 だが、花柳麗という存在に対しては、その『敵意』も『威圧感』も何一つとして存在しない。

 

 彼女が近寄ってくるとき、伊之助の肌には何の刺激も走らない。

 気配を消して近づいているという次元ではなく、そこに『生き物』が存在しているという気配そのものが完全に欠落しているのだ。

 風の揺らぎも、足音の振動も、空間の歪みすら生じさせず、まるでそこに置かれた岩や一本の木、あるいは空気そのものが自然に動いているかのように、いつの間にか背後や側前に立っている。

 そう、かつて藤の花の家紋の家で、気配もなく突如現れては伊之助を驚かせたあの老婆と同じ透明感がそこにはあった。

 

「何も感じねぇのに、アイツが俺の前に立つとこっちの感覚が消えそうになる。玉ジャリジャリ親父が『山』なら、あの女は『空』だな。叩こうとしても手がすり抜ける。なのに、あっちからは一方的に叩かれる」

 

 しかし、肌に何も刺さらないからといって、弱く見えるわけでは決してない。

 むしろ肌に何も届かないからこそ、伊之助の鋭敏な皮膚感覚――その裏に秘められた野生の本能は、伊之助に『危険』という警報を鳴らし続けていたのだ。

 『機能回復訓練』の時に初めて出会った頃と変わらない。

 敵意を出して威圧してくる相手なら、その殺気の方向を読んで合わせることができる。相手の攻撃の意思すらも、伊之助の皮膚感覚は正確に捉えられる。

 なのに、麗の行動には一切の『予兆』がなく、気が付いた時にはもう彼女は動いている。

 彼女の『始まり』も『終わり』も捉えることができない。

 ――生物として『あり得ない』気配、故に伊之助は彼女を軽視しない。

 

「強ぇとか弱ぇとかじゃねぇ。あの女は別の『ナニカ』だ。だから『最強かも』しれねぇんだ」

「…………」

 

 骨を噛み砕くバリバリという音が静寂に響く。炭治郎は静かに、伊之助の言葉に耳を傾けていた。

 彼の言葉には、普段見せる強がった表現は一切含まれていなかった。あるのは、ただひたすらに山で生き抜き、強者と弱者の違いを本能だけで嗅ぎ分けてきたが故の、純粋で偽りのない敬畏。

 炭治郎は焼き魚を噛み締めながら、遠くで静かに微笑む麗の姿を思い浮かべた。

 そして、ふと自身のすぐ隣に腰掛けている人物へと視線を向ける。視線の先は同じように焚き火へと手をかざし、身体を温めている小柄な姉弟子の真菰だった。

 

「……そういえば、真菰さんは花柳さんと友人なんですよね?」

 

 ふと思い浮かんだ疑問を、炭治郎は素直な口調で尋ねてみた。

 すると、真菰はいつものようにどこか浮世離れした、ぽわぽわとした温かい空気を身に纏ったまま、炭治郎の方へ可愛らしく首を傾げた。

 

「そうだよー」

 

 ふわりと花が咲くような笑みを浮かべ、真菰は柔らかく答える。

 

「最終選別の時も一緒だったの、鱗滝さんも麗のことは知ってるよ」

「そうだったんですね!」

 

 思いがけない旧知の繋がりに、炭治郎は驚きと共に目を輝かせた。

 狭霧山で自分を導いてくれた育手と、目の前にいる姉弟子とその友人である柱。

 自分が鬼殺隊に入る前から彼女たちの縁はしっかりと繋がっていたのだと知り、それに胸の奥がじんわりと温かくなる。

 

「色々あってねー」

 

 真菰は遠い目をして懐かしむように小さく微笑むと、膝の上で両手を重ね、ぽつりぽつりと麗との思い出を語り始めた。

 

「麗ね、見た目はすっごく静かで大人しいでしょ? でもね、甘いものが大好きなの。前に狭霧山に一緒に行った時にね、鱗滝さんが作ってくれた大根の甘煮とかを本当に美味しそうに食べるの。で、食べ終わると空になった小さな器を両手で持って、じーっと鱗滝さんのことを見つめるの。……おかわりが欲しいって言わないで、甘えて目でおねだりするの」

「へぇ~」

 

 真菰の語る麗の姿を想像し、炭治郎は思わず声を漏らして微笑んだ。

 それは、剣の技量や鬼狩りとしての強さとは全く関係のない、ただ穏やかで愛おしい日常の断片。

 

「それからね、外で座ってると、色々な鳥とか虫が麗の頭や肩の上に集まってくるの。麗が全然動かないし、ただの木や岩だと思われちゃうみたいで。前は頭の上に鳥を乗せたまま平然とお茶を飲んでたんだよ? 凄く可愛かったなぁ」

「そうなんですね!」

 

 炭治郎は真菰の話に深く深く頷き、目を輝かせながら楽しそうに耳を傾けていた。

 鼻腔をくすぐる真菰から発せられる感情の匂いは、どれも柔らかく、甘い柑橘のような『愛おしさ』の匂いに変わっていた。

 二人がどれほど互いを大切に思い、重ねてきた時間がかけがえのないものであったかが、言葉の端々から伝わってくる。それだけで、炭治郎は胸が温かくなった。

 

「私が髪を結ってあげる時もね、動かないでちょこんとお座りしててくれるの。鏡を見せると少しだけ口角を上げて、嬉しそうに私の手をとって『ありがとう』って……」

 

 そんな二人のおだやかで微笑ましい会話が続いていた、その時である。

 焚き火の端っこで膝を抱え、寒さと恐怖にがたがたと震えながら、黒こげになった魚を不機嫌そうに噛みちぎっていた男――我妻善逸がずっと黙っていた口を開き、ブツブツと忌々しげに呟き始めた。

 

「俺は信じないぜ……あのオッサンはきっと自分もあんな岩一町も動かせねぇよ、若手をいびって楽しんでんだよ……どうせ自分たちは前みたいに笛吹いて遊んでるだけなんだよ……煌柱様とイチャイチャやってんだよ岩柱様はよ……」

 

 地獄のどん底から響いてくるような怨念の籠もった低い声。

 あまりにも偏屈で理不尽な言い分に、炭治郎は苦笑いを浮かべながら慌てて首を振った。

 

「いやいや、悲鳴嶼さんはあれよりも大きい岩を運んでるそうだから……」

「お前は何で言われたことをすぐ信じるの? 騙されてんだよ」

「…………」

 

 善逸はジロリと炭治郎を睨みつけ、吐き捨てるように言い放った。

 ――騙されている。

 かつて信じたい人間の嘘を、その優れた聴覚で容赦なく見抜きながらも、それでも人を信じることを捨てきれずに傷つき続けてきた男が発する言葉としては、あまりにも酷い台詞であった。

 だが、追い詰められた善逸のこういった支離滅裂な反応は今に始まったことではなく、半ば『いつもの事』でもあった。

 故に炭治郎は呆れつつも優しく苦笑を深め、『いやいや』と宥めるように言葉を返す。

 

「善逸は耳がいいんだから相手が嘘ついてるかくらい分かるだろ?」

 

 と、炭治郎がそう諭した。正にその瞬間であった。

 ズシン、ズシン…………ズシン……と、山肌全体が激しく揺れ動くような、不気味で重厚な地鳴りが周囲に響き渡る。

 焚き火の灰が舞い上がり、足元の小石が跳ね踊ると同時に、

 

「南無阿弥陀仏……」

 

 凄まじい威圧感とともに、自身の数倍はあろうかという巨大な大岩を押し進めている悲鳴嶼行冥の姿が、ちょうど炭治郎たちのすぐ近くを通り過ぎて行った。

 

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

「あ、ちょうど通ってるな」

 

 大地を削り、泥と煙を巻き上げながら、巨大な岩がゴゴゴと音を立てて進んでいく。

 そして、その圧倒的な光景に驚愕する間もなく――続いて。

 

「…………」

 

 無言のまま行冥が押しているものと同等……いや、それ以上の巨岩を、まったく身体の軸をブレさせずに軽々と押し進めてくる人物の姿があった。

 

「あ、花柳さんもやってる」

 

 煌柱・花柳麗。

 その華奢な体躯からは到底考えられない、とんでもない怪力だった。

 大地を粉砕しながら岩を押し進める行冥に対し、麗の巨岩押しには一切の力みや荒い息遣いすら存在しない。ただ自然に歩を進めているかのように、ぬるりと滑らかに大岩が前進していく。

 しかも、その岩を押し進める速度は、あの大男である行冥よりも僅かに速い。

 

「わぁ、凄いなぁ」

 

 純粋な感嘆の声を漏らし、瞳をキラキラと輝かせる炭治郎。

 

『…………』

 

 その炭治郎のすぐ隣で、善逸は咥えていた焼き魚を地面にぽろりと落とし、顎が外れんばかりに口をあんぐりと開けたまま、完全に魂が抜けた顔で固まっていた。

 そしてそれは、周りにいる他の隊士も例外ではない。皆、自分たちが目撃している光景に対して脳の処理が完全に追いついていないのだ。

 更に恐ろしいことに、麗はその地響きを立てる巨岩を軽々と押し進めながら、ふと炭治郎や真菰たちが座っている方へと視線を向けた。

 

「……ふふ」

 

 そして、巨岩を支える手を緩めることもなく、片手をひらひらと可愛らしく振り、にこりと無邪気な笑みを浮かべて見せたのである。

 その少女らしい笑顔と同時に、めりめりと音を立てて進んで行く巨岩の差はまさに狂気としか言いようのない光景であった。

 だが、それに即座に、そしてごく自然に反応したのは真菰であった。

 真菰はぱっと顔を輝かせると、麗に向かって両手を可愛らしく振り返す。

 

「二人とも凄いなぁ、俺もあんな風になれるかな!?」

 

 目を輝かせ、二人の怪物のような背中を見上げる炭治郎の無邪気な問いかけに対し、真菰は手を振り続けたまま、ふふっと柔らかく微笑んで答える。

 

「なら死ぬ気で鍛えないとねぇ」

「はい! 頑張ります!」

 

 春の陽射しの中で世間話でもしているかのように、のほほんとした会話を穏やかに交わし合う炭治郎と真菰。

 そんな浮世離れした二人のやり取りを横目に、口をあんぐりと開けたままの善逸は、掠れた声で小さく呟くしかなかった。

 

「気味が悪かった……」

 

 どんなに血反吐を吐こうが、人間があんな怪物になれてしまっては堪まったものではない。

 信じられないものを見た善逸の悲しい呟きは、巨岩が大地を削る重低音の中に儚く消え去っていくのであった。




 信じられぬものを見た。
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