【RTA】鬼滅の刃RPG『長い長い人の歴史のほんの一欠片』獲得チャート 作:バブ辻オギャン
ドクン、ドクン……と、自身の心臓の音が体内に強く鳴り響く。
上弦の壱。その異様な容姿もさることながら、目の前から放たれる重厚な鬼気に、有一郎は全身の怖気が止まらなかった。
肺腑を突く冷たい空気が、まるで針のように呼吸を狂わせる。六つの目が自分を捉えているという事実だけで、精神がすり潰されそうになるほどの圧迫感があった。
(しかもこの鬼……)
冷や汗を拭う余裕もないまま、有一郎の視線が捉えたのは、その鬼が手に持っている一本の刀だった。
柄の至る所には不気味に眼球が張り付き、蠢いている。それは醜悪極まるものではあるが、間違いなく『刀』ではあった。
(この男、まさか鬼狩りだったのか? しかも相当な使い手の……)
有一郎の脳裏に、残酷なまでの推測が過る。
目の前の鬼の佇まいに隙はない。ただ立っているだけであらゆる攻撃を見切り、あらゆる死角を封じ込めるかのような威圧感。
それは彼が鬼に堕ちる前から、剣の道を極めた相当な使い手の『鬼狩り』であった事が痛いほどに伺えた。
しかし、それ以上に有一郎が驚愕したのは別の要素。
(それに額、あの痣は師範のと同じ……!)
上弦の壱の額。そして首から顎にかけての場所。
そこには、自分にとっての師範であり、そして『最強』と信じている剣士、花柳麗のものと同じ痣。
まるで激しく燃え盛る炎がうねったような形の、鮮烈な赤い痣が発現していた。
剣士、そして痣。
緊急で行われた『柱合会議』と、産屋敷あまねから聞かされた過去の情報。
それらを照らし合わせ、有一郎が新たに辿り着く答えは一つだった。
(まさかこの男……無惨を追い詰めたという『始まりの呼吸の剣士』の一人……!?)
身体は今も微かに震え、これ以上の戦闘を拒否するかのように強張っている。
だが、その恐怖の底にあっても思考だけは決して止まることなく、有一郎は信じられない思いを胸に、目の前の怪物――上弦の壱と視線を交わした。
そして。
「お前……名は……何という……」
突如として、静寂を裂くようにその男が問いかけてきた。
圧倒的な強者が放つ底知れぬ威圧感に呑まれかけながらも、有一郎は困惑の嵐が吹き荒れる頭を必死に抑え込み、静かに返す。
「……時透、有一郎」
「……そうか……成程……」
それは、まるで遠い遠い記憶の底から澱みのように這い出てくるような、小さな落胆を伴う声だった。
「絶えたのだな……『継国』の名は……」
「……?」
有一郎が僅かに眉をひそめる。
男は、まるで我が子の帰りを待つかのような、しかし感情のすり切れた冷徹な瞳で言った。
「知らぬのも無理はない……何百年も……経っているのだ……」
上弦の壱は、六つの目を細めて更に言葉を続ける。
「私が……人間であった時代の名は……『継国巌勝』。……お前は……私が……継国家に残して来た子供の末裔……つまりは……私の子孫だ……」
「――――ッ」
絶句した。
頭の中で最悪の想像として思い描いていた事、それが全て真実であるという残酷な証明が成された。
目の前にいるこの怪物は、鬼殺隊の歴史の闇に葬られ、誰の口からも語られることのなかった存在、自ら外道に堕ちた『元鬼殺隊』の鬼。
鬼殺隊の根幹を揺るがす最大の禁忌が、今、目の前に立っている。
有一郎は言葉を失い、喉の奥がカラカラに渇く。
しかし――。
「――そうか」
有一郎はほんの一瞬の動揺の後、猛烈な意志の力でそれをねじ伏せた。
血の繋がりなど、今の自分には関係ない。
目の前にいるのは、幾千の人間を屠ってきた上弦の壱という名の巨悪に過ぎないのだ。
先ほどまで身体の芯にこびりついていた戦闘への恐怖を、怒りと覚悟でねじ伏せ、有一郎は再び日輪刀の柄を強く握り締めた。
「月の呼吸」
――ほう。
自身の呼吸の名を発した瞬間、上弦の壱にある全ての目が歪に歪み、興味と冷酷な愉悦の色を宿した。
「弐ノ型
本来であれば、正面から斬り上げるように三連の鋭い斬撃を放つその型を、有一郎は相手の足元を狙う形へと改良した型として放つ。
しかし、有一郎が刀を振り終えたその時。
「あの時代に私の名も、技も既に抹消されたものだと思っていたが」
もう既に、上弦の壱の姿は、有一郎の目の前から消え失せていた。
気配はない。風の動きすらない。
気がついた時には、上弦の壱は有一郎の背後に静かに立っていた。
「名は絶えようと……私の呼吸は残っていたか……」
「月の呼吸……!」
有一郎が振り向いて再び動くよりも、早く。
「月の呼吸」
上弦の壱は、有一郎のその予備動作すらも完璧に見切って動いていた。
互いに放つ技は同じ。
抜刀して横薙ぎに一閃する、剣術の全ての基本である壱ノ型。
「
「
同じ技の名前が、互いの口から同時に紡がれる。
しかし、その威力と速度には天地をひっくり返しても余りあるほどの雲泥の差があった。
遅れて振り絞られた有一郎の刀は、上弦の壱が放った居合切り本体、そしてその刀の軌道に付随する形で発生した凄まじい密度の三日月形の斬撃によって弾かれ、ガキンッという悲鳴と共に手から抜け落ちて宙を舞った。
弾き飛ばされた日輪刀が、乾いた音を立てて遠くの地面の上に転がる。
それは、有一郎の命を即座に奪う為の技ではなかった。
まるで有一郎に『手本』を見せつけるが如き、純粋な技量の差を顕在化させる為だけの攻撃だった。故にその技が本来持つ殺傷力は、有一郎の刀の軌道と手首を叩き落とすことにのみ向けられていた。
鬼の圧倒的な膂力に、数百年かけて磨き上げられた呼吸による身体強化が組み合わさったその斬撃は、もはや神速の領域を超えた『現象』そのものと化していた。
「未熟」
一言、上弦の壱は冷ややかにそれだけを零す。
刀を失い、重心を崩して前のめりになる有一郎。
その無防備となった身体に向け、容赦なく、再び剣術と血鬼術が組み合わさったおぞましい斬撃の嵐が襲い掛かる。
横薙ぎの形で放たれるのは、先ほどよりも更に密度を増し、空間そのものを切り刻む無数の三日月形の斬撃の奔流。
それが刹那の静寂を切り裂き、吹き荒れる。
――しかし、それを防ぐものがあった。
ガキンッ! と、空間を抉り取るような凄まじい金属音が轟く。
飛散する火花が辺りを妖しく照らし出し、衝撃波が周囲の太い支柱を砕き割る。
ジャリ……と、足元の砂利と、重厚な金属が擦れ合う微かな音が静寂の中に響き渡る。
衝撃音とは反対に、その者自身が立てる足音と気配はあまりにも小さく、そして信じられないほどに洗練されており、それは研ぎ澄まされた呼吸の極致にある者だけが纏うことのできる、完全なる『静』の気配だった。
「新たな……柱か……」
六つの目が僅かに見開かれ、そして冷徹な興味の色を宿して一点へと向けられた。
その視線の先、砂塵と爆風の晴れた空間に、しっかりと地に足をつけて立っていた者――。
それは、常人の規格を遥かに超越した圧倒的な巨躯を持つ男だった。
首には大ぶりの数珠を掛け、手には特殊な形の日輪刀――鎖で繋がれた柄の長い『斧』と『鉄球』を携えている。
――その者は、岩柱・悲鳴嶼行冥。
「ほう……」
突如として目の前に現われたその男の肉体を、上弦の壱は自らの『透き通る世界』ですみずみまで見据え、そして内心で大きく高揚した。
鬼である自分にすら匹敵する、極限まで高められた筋肉の密度と血管の脈動。
そして何よりも驚嘆すべき事実は、彼が目が見えていない――完全なる盲目であるのにも関わらず、先ほど自分が放った目にも留まらぬ死の弾幕を正確にその手で捉え、完璧に叩き落としたという圧倒的な技術と戦闘機知。
(素晴らしい……極限まで練り上げられた肉体の完成形……これ程の肉体と技量を備えた剣士を拝むのは……それこそ三百年振りか……)
「有一郎、遅れてすまない」
胸の奥底で、武を極める者としての血が微かに疼く。
そんな上弦の壱とは別に、悲鳴嶼は背後にいる有一郎の無事を確認するように、低く、落ち着いた声音で声をかけた。
床にひざまずいた有一郎は、歯を食いしばって立ち上がる。
「……ありがとうございます、悲鳴嶼さん。助かりました」
有一郎は息を整えながら、目の前にそびえ立つ巨岩の如き男の背中を見上げる。
そして、視線を再び前方の悪鬼へと戻した。
「……悲鳴嶼さん。あの上弦の壱……どうやら俺の先祖らしいです」
「……それは」
「あの痣の形も……間違いないです。元鬼殺隊……始まりの呼吸の剣士。それに、俺と同じ呼吸を使います」
一瞬の空白が場を支配する。
しかし、悲鳴嶼は動揺の色を一切見せず、ただ静かに、その重い事実を受け止めた。
「分かった」
行冥は有一郎の言葉をそれ以上詮索することなく、ただ一言で呑み込み、会話を終わらせた。
血の繋がり、そして元鬼殺隊という事実がどうであれ、目の前にいるのは間違いなく鬼殺隊の最大の敵の一つであり、今この場で滅殺すべき怪物に他ならない。
それ以上の余計な情報や感傷は、この極限の戦場においては一切不要である、行冥の研ぎ澄まされた精神がそう示していた。
そして、その時。
「痣のことは……知っていたか……」
「……!」
静まり返った空間を裂いて、再び上弦の壱が低い声を紡いだ。
そこに敵意や卑劣な謀りの意図はない。
むしろ、目の前に立つ強者に対する、純粋な事実確認の響きが含まれていた。
「何の話だ?」
行冥が日輪刀を握りしめ、低い声で問い返す。
「痣は……所詮、それは……寿命の前借りに過ぎぬもの……人の身のままでは……ただ焼けて、朽ちるだけの……一時的な力の向上に過ぎぬもの……」
鬼として、絶対的な上位種としての冷徹な見下し。
あるいは、かつて同じ道を歩んだ者に対する、歪んだ同情なのだろうか。
その言葉を語る『鬼』の表情の小さな揺らぎの中に、有一郎は、彼がかつて人間だった頃に持っていた微かな『人間』の残滓を見出せた気がした。
上弦の壱は続けて語る。
「嗚呼、勘違いするな……私は……命云々のつまらぬ話を……している訳ではない……鬼となり……技と力を永久に保存し……武を極め続けられる事が……至上である事を言っている……」
「愚かな」
瞬間、場の空気が劇的に変わった。
それまで微動だにせず、慈悲深い落ち着きを湛えていた行冥の顔に、明確な、そして底知れぬ『怒り』が宿った。
その重厚な怒気は、まるで辺りの大気そのものを微振動させ、床の木材を軋ませるかのようであった。
上弦の壱の鬼気。それにすら並ぶ程に重く、鋭い怒り――。
「自己の為だけに振るい、極め続ける力に何の意味があるものか。他者の為に振るわれず、自己で完結する技術に何の繋がりがあるものか。それが『理由』になるものか」
「……」
「貴様の語る『力』は、幼子の蛮勇にすら劣る醜いものだ。……痣者に成り、鬼に堕ちて出した結論がそれとは、反吐が出る」
「愚かな……」
行冥の言葉を撥ね付けるように、上弦の壱は心底納得がいかないという風に首を振った。
「お前も……いずれは同じ事……今は
「……」
「痣を出した者は……皆、
「――――」
しかし、その時。
行冥は、上弦の壱が放ったその言葉の中に含まれる違和感に気づいたかのように、ぴくりと太い眉を動かした。
そして、一切の迷いなき確信を持って、低い声で問う。
「……今話していて気づいたが、お前は一つ虚偽を述べたな」
「ふ……何を言う……私は何一つ、偽ってなど…………」
「
畳みかけるように。
「痣を持ち、二十五歳を過ぎても尚生き続けた者がいた」
「――」
「そしてその者は――」
行冥は、その欺瞞の綻びを鋭く暴く。
「
「――――――――――」
空気が凍りついた。
上弦の壱は、今までの余裕に満ちた泰然自若とした様子がまるで嘘であったかのように、ピタリと動きを止め、無表情のまま硬直した。
それから、一言も言葉を発さない。
そして逆に、行冥はその反応を見て――。
「……そうか」
何か、ある誇らしい真実を確信したように、ふっと口元を緩め――微かに笑っていた。
「――そうか」
その笑みが終わるよりも前、上弦の壱の理性が先に音を立てて砕け散った。
そして次の瞬間、硬直から完全に覚醒した上弦の壱が、今までにないほどの常軌を逸した速度で爆発的な踏み込みを見せた。
今まで有一郎や他の者たちに見せた、どこか探るような、あるいは加減された技ではない。
それは、彼の内に何百年もの間封じ込められていた真っ黒な激情。
触れてはならない過去の記憶を突かれた事への怒りを発散するかのような、そしてその感情の全てを純粋な『殺意』へと変換させた暴虐の太刀筋。
「月の呼吸 参ノ型
圧倒的な密度の三日月形の斬撃の弾幕が、空間を埋め尽くすように四方八方へ向けて一斉に解き放たれたのだった。
本来であれば、その場にいる者の肉体を微塵切りにする絶命不可避の死の弾幕。
刀を失った有一郎を守る為、行冥はその神速の一撃に何とか反応し、両手で鎖を操り、壁を作る。
しかし、それでも防げる攻撃には限界がある。
防ぎ切れなかった分の攻撃が、行冥の背後にいた有一郎の肉を裂き、鮮血を散らす――その絶望の瞬間より前。
天井の闇を突き破り、上空から一筋の流星のごとく舞い降りた影。
それは、一切の淀みと迷いのない、純白の炎と星光の幻像を纏った強烈な一撃。
上弦の壱が放った無数の三日月形の斬撃は、その乱入者の放った圧倒的な太刀筋によって完全に相殺され、衝撃波となって四方八方の支柱を激しく打ち砕く。
凄まじい粉塵と爆風が晴れた時。
そこには、先ほどまで絶望の淵に立たされていた有一郎の姿は影すらも残っておらず、血の一滴すらも床に落ちてはいない。
自身が放った全ての不可避の攻撃を、その神速の乱入者は完璧に相殺し、加えて有一郎の身体を抱えて安全圏へと引っ張り出したのだと悟った上弦の壱は、六つの目を細め、静かにその人物を見据えた。
「……次々と……降って湧く……」
粉塵の向こうから、ふわりと音もなく舞い降りたその存在。
透き通るような藍鼠色の美しい長髪が、静まり返った空気の中で風に揺れている。その顔立ちは、少女のように愛らしく、しかし同時に、何千もの修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、気高く冷徹なまでの気品と透明感を湛えていた。
直撃を免れ、数メートル離れた床に転がったまま、有一郎はその背中を見上げた。
息を荒く乱し、落下の衝撃に顔を歪めながらも、その表情には呆れたような、そしてそれ以上に底知れぬ安堵が混じっていた。
「……また助けられたな」
地面に手をついたまま、有一郎が掠れた声で呟く。
それに対し、麗は振り返ることもなく、前方を睨み据えたまま静かに微笑んだ。
「何度でも助けるよ」
新たな乱入者――煌柱・花柳麗は、目の前にそびえ立つ上弦の壱から一瞬たりとも視線を外さないまま、力強く、揺るぎない声で答える。
それから、前方にいる行冥にも届く声量で言う。
「行冥さん、有一郎。上弦の壱の相手は僕が一人でします。だからあなた達は無惨の居場所を」
「――っ、おい。それは……!」
その言葉を聞いた瞬間、有一郎は流石に目を見張り、強い抗議の声を漏らした。
麗の強さは、稀に行う稽古やこれまでの活躍で嫌というほど分かっている。並大抵の鬼など一蹴する実力があり、それこそ過去には上弦の弐すらも単独で屠った実績を持つ、鬼殺隊の最高戦力の一つだからだ。
だが、相手は違う。目の前にいるのは、数百年の時を『生きた始まりの呼吸の剣士』の一人であり、上弦の壱なのだ。
その絶望的な格の違いを肌で知っている有一郎にとって、麗を一人で残す事は烏滸がましい考えだと自覚してはいるものの、到底受け入れられるものではなかった。
だが、麗の双眸に迷いは微塵もなかった。
「大丈夫、僕を信じて」
麗は腰に携えた愛刀の柄にそっと右手を添え、普段と変わらない、どこまでも穏やかな調子で答える。
「その代わり……有一郎。この近くに真菰っていう……僕の大切な人がいる。彼女を君に守って欲しいんだ」
「……っ」
「頼んだよ」
「ッ、――――あぁもう、分かったよ!」
一瞬の葛藤。頭の中で巡る損得や危険の計算を、有一郎は自らの意志で断ち切った。
麗が本気でそう言うのなら、ここで足手まといになることこそが最大の罪だ。
有一郎は自身の身体を床から強引に跳ね上げ、すぐ傍らに転がっていた自分の日輪刀を素早く拾い上げる。
「勝てよ、師範!」
「分かってるよ」
返答を聞いた瞬間、有一郎は持てる全集中の呼吸を限界まで高め、風を置き去りにするほどの凄まじい加速で、この空間の出口へと走り去り、あっという間に闇の彼方へと離脱していった。
そして、麗は続いて前方にいる行冥に視線を向ける。
「……花柳」
「行冥さん。あなたの耳は、僕の『視界』よりもきっとこの場所では有利に働く筈、だから……」
「分かっている」
行冥は、それ以上何も言わなかった。
だがその分、色を映さぬ真っ白な目に、強い決心を宿して、麗の言葉を受け入れる。
「……信じている」
「はい、僕もあなた達を信じます」
その言葉を最後に、行冥もまた有一郎の後に続いて離脱する。
そして、それらの背中が遠ざかっていくのを確認し、上弦の壱は六つの目を更に細めた。
(ふむ……鳴女の術を今度はこちらに集中させるか……)
『無限城』による際限知らずの空間操作があれば、逃げた有一郎は勿論の事、今目の前に現われた柱すらも、この広間に閉じ込めておく事ができる。
別れたところで、鳴女による空間操作で迷うのは確定事項。仮に共に協力して自分に襲い掛かったところで、同時に仕留められるだけだ。
鬼という理不尽の力と、この『無限城』という二つの理不尽が組み合わさっている限り、鬼殺隊に勝利は、そして自身の『敗北』もあり得ない。
(所詮は時間の問題……この娘を確実に殺し、その後で、再び奴らを相手にすればいいだけだ……)
上弦の壱は、目の前に立つ麗を自身の特別な視界で隅々まで見通した。
女の身でありながら、並の男を凌駕する筋肉の密度は見事と言えるだろう。これ程の肉体の完成形は、男の中でも数百年に一度のものだ。
流れる血液の循環、皮膚の下で微細に収縮する筋肉の繊維、そして次にどこへ踏み込むかを決める骨の移動の予兆も、この視界があれば全てが分かる。
長い修練の果てに辿り着いた『至高の領域』を前に、通常の人間であればどのような謀りも、どのような攪乱も、その予兆の段階で全てが見切られ、無に帰す。
故に、目の前の女がどのような奇策に出ようとも意味はない。
「……」
――だが、そんな確信は、次の瞬間には吹き飛ぶ事となる。
音が消えた。
麗が、刀の柄に置いた手に僅かに力を込めた。
鞘をわずかに傾け、抜刀のために深く、完璧な重心移動を伴う踏み込む姿勢を取った。
たったそれだけの動作。構えの端々。
それだけで、辺りの空気が一瞬にして凍りつき、根本から塗り替えられたのだ。
ズァァアア――!!
突如として空間全体に満ちたのは、両肩に巨大な岩を乗せられたかのような、圧倒的な重圧。
それは自身が放つ鬼気にも全く劣らない、否、それすらも遥かに凌駕するほどの、肌を切り裂くような凄まじい圧迫感であった。
黒死牟の六つの目が、驚愕で大きく揺らぐ。
その構えには、何百年もの長きにわたって剣術の極致を修め続けた自分ですら、一分の隙も見つけることができなかった。
鳩尾から旋毛まで一気に突き抜けるような焦燥。
生命が脅かされ、身体が芯から凍りつく。
平静が足元から瓦解する感覚。
それはかつて味わった、忌むべき、そしてあまりにも懐かしい――。
「上弦の壱」
麗の唇が静かに動く。
「――
次の瞬間にはもう、上弦の壱の頸と胴体は綺麗に泣き別れとなっていた。
次回兄上死す。
あと次回はずっと前から温めてきた回なので最低でも2万文字以上は書く予定です、なので心の準備をしてください。
あとこれは余談なんですが、兄上って本編では「継国巌勝」という名こそ出してはいるけど、それ以外で一度も名乗りの場面がないんですよね。
だからあの日、兄上は何も残せない人生の終わりに、鬼に堕ちた「黒死牟」という名前(存在)すらも残せなかったのでは? という説があるらしいです。
どこまで味がするんだこの男は。