これぞ、『日常!』って感じ!
風の匂いが違う。
ロドスから降りた先にある、クルビアの小さな市街地。
補給と点検の合間に、エリサラと私はここまで来ている。
買い物に来ている――たったそれだけのことなのに、
なんだかすごく特別なことのように感じた。
通りには、焼きたてのパンの香りや、
屋台で煮込まれているスープの湯気が流れている。
遠くでは鐘の音。
荷車を押す人たちの声。
戦場とは違う、生きた音がそこらじゅうで鳴っていた。
「お姉ちゃん、パンの匂いって焼けた石みたいだね」
エリサラが、両手で鼻の前の空気をすくうようにして言った。
光の方向を探るように首をかしげて、
風の流れを確かめるみたいにゆっくりと息を吸い込んでいる。
「焼けた石……?」
「うん。あったかいのに、ちょっと硬い匂い。
それが中でやわらかくなって、甘くなるんだよ」
言いながら、エリサラは笑っている。
その笑顔が風に揺れるたび、
胸の奥のどこかが少しずつ溶けていく気がした。
私はパン屋の前に並ぶ商品を眺める。
金色の皮のクロワッサン、黒い種のついた丸パン、
どれも湯気を立てながら、
人の生活の形をしてそこにあった。
「……ねえ、エリサラ。何が食べたい?」
「んー……選ぶの難しいね。
どれも匂いが生きてる感じするんだ」
『生きてる』。
その言葉が風の中で転がった。
たぶんエリサラは深い意味で言ったんじゃない。
ただ、鼻の奥に届いた温度をそのまま言葉にしただけ。
でも、私はその響きを胸の奥で何度も反芻していた。
――生きてるって、こういうことなのかもしれない。
焼けた石の匂いと、
人の声と、
遠くで子どもが笑う音。
どれも、私には少し眩しすぎて、
それでも、目を逸らせなかった。
パンをひとつずつ紙袋に入れてもらってから、
通りの奥へと歩いていく。
昼の光が少し傾いて、石畳の影が長く伸びている。
風が通るたび、旗の布がぱたぱたと鳴って、
街の息づかいみたいに聞こえた。
「お姉ちゃん、あれ見て。キラキラしてる音がする」
エリサラがそう言って指さした先には、
小さな雑貨屋があった。
窓の外には風鈴と、ガラス細工。
太陽の光を受けて、青や金の粒がゆらゆらと空気の中を泳いでいる。
中に入ると、金属と木と香料の、懐かしい匂いがした。
私は入り口の風鈴を軽く押さえながら、
「気をつけてね」と声をかける。
エリサラは頷いて、
棚の近くを手探りで歩いていった。
指先で木の棚をなぞり小物の形を確かめながら、
一つひとつの質感を記憶するように触れている。
「……お姉ちゃん」
呼ばれて振り向くと、
彼女の掌の上に小さなブローチがあった。
薄い金色の円の中に、
ガラスの羽みたいな模様が浮かんでいる。
「これ、すごくきれい。
触ったら冷たいけど、中はあったかい感じがするの」
彼女はそれを両手で包みながら、
私の方を向いて笑った。
「お姉ちゃんとおそろいにしたい」
私は一瞬、何も言えなかった。
こんな小さな街の雑貨屋で、
誰かとおそろいなんて言われるとは思っていなかった。
「私に……?」
「うん。だって、お姉ちゃんには、
何か光るものが似合うと思うから」
エリサラの言葉に、
胸の奥で何かが小さく鳴った。
守るために使ってきた手が、
いまはただ、渡されるものを受け取るだけの手になっている。
私はゆっくりと手を伸ばし、
エリサラの掌からブローチを受け取った。
その瞬間――
光が指先で小さく跳ねた。
まるでアーツの粒子が、
互いの手のひらの間を一瞬だけ往復したようだった。
「……あっ」
「だいじょうぶ?」
「うん。ただ、あったかかっただけ」
私が笑うと、エリサラも笑った。
その笑顔は、いつもより少し柔らかくて、
なぜか見ているだけで胸が締めつけられた。
店を出ると、
風鈴の音が背中を追いかけてきた。
音が遠ざかっていくのに、
まだ指先だけが、さっきの光の余韻を覚えていた。
通りを抜けた先の角に、小さなカフェがあった。
外壁にツタが絡まっていて、木の看板の上には淡い花の絵。
中から、あたたかい匂いが流れてきた。
「お姉ちゃん、少し休もう?」
エリサラが言う。
手には紙袋。
中にはさっきのパンと、小さなブローチ。
私は頷いて、ドアを押した。
カラン、と鈴の音。
柔らかい陽射しと、焙煎した豆の匂いがいっせいに押し寄せてくる。
店の奥の席に座ると、
エリサラはメニューを両手でなぞりながら、
文字の形を確かめるように指を動かしていた。
「ホットミルクがいいな。甘いの」
「じゃあ、私は紅茶にするね」
カップが運ばれてくるまでのあいだ、
二人で黙って窓の外を見ていた。
人の声、馬車の車輪の音、どこかで子どもが笑っている。
その音たちが、心の中に小さな灯をともしていく。
やがて、白い湯気を立てたミルクが運ばれてきた。
エリサラは両手でカップを包み、
口をつける前に、ふうっと息を吹きかけた。
「……あったかい」
「そうだね」
「ねえ、お姉ちゃん」
「なに?」
彼女は少しだけ首を傾けて、
ホットミルクの湯気越しに言った。
「こうしてると、普通の家族みたいだね」
その言葉が、胸のあたりで小さく跳ねた。
息を吸うのを、ほんの少しだけ忘れる。
「……そうだね」
声に出すまでに、一拍の間が空いた。
でもエリサラは気づかないで、
カップを両手で持ち直して笑った。
「またこうやって一緒に来たいな。
お姉ちゃんといると、外の世界が一段と楽しいんだ」
彼女の言葉が、
ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
私は頷きながら、窓の外を見た。
風に運ばれて、ガラスの外の光がわずかに揺れている。
街の音が、遠くなったり、近くなったり。
こんな穏やかな時間が、いつまで続くのだろう。
そう思った瞬間、
胸の奥で何かが、ひとつ、小さく軋んだ。
私は紅茶を一口飲んで、
それを無理やり飲み込むように、息を整えた。
エリサラはミルクを飲み干すと、カップの底をそっと撫でた。
「ねえ、お姉ちゃん。カップの底ってね、ちょっとだけあったかいんだよ」
「……そうなんだ」
「さっきのパンの匂いと似てる。
冷たいものを包んで、やっと中がやわらかくなるの」
私は笑って頷いた。
テーブルの上の光が傾いて、カップの影がゆっくりと伸びていく。
(=^・・^=)ニャー
外に出ると、街の色がすっかり変わっていた。
昼の白い光が薄くなって、
建物の窓が橙に染まっている。
「夕方の匂い、すき」
エリサラが風の方に顔を向けた。
「どんな匂い?」
「うーん……お水が冷たくなる匂い。
でも、まだ光はあったかいの」
彼女の言葉は、
街の音といっしょに風に混ざっていく。
私は紙袋を持ち直して、
ゆっくりとその隣を歩いた。
パン屋の前を通り過ぎる。
石畳の上に落ちた影が、長く伸びていく。
通りのざわめきが少しずつ薄れていって、
代わりに、耳の奥で風の音が強くなった。
「お姉ちゃん」
「うん?」
「今日、楽しかったね」
「うん。楽しかったよ」
エリサラは笑って、
ブローチの入った紙袋を胸の前で抱きしめた。
その笑顔を見ていたら、
世界がほんの少しやさしく見えた。
――だから、最初に気づいたとき、
その変化をうまく言葉にできなかった。
風が、止んだ。
さっきまで胸の中を通っていた空気が、
急に行き場をなくしたみたいに重くなる。
街の音が遠ざかる。
人の声も、鈴の音も、
まるで水の底に沈められたように、聞こえない。
……違う。
静かなんじゃない。
奪われている。
次の瞬間、
私を覆うように、すっごく不快な甘くて冷たい匂いが滑り込んできた。
薬のような、消毒液のような、
何かが焼けて、溶けて、
まだ形の残っている匂い。
喉の奥がひりつく。
呼吸をすると、
胸の中がざらざらと削られていく。
視界の端が、
光でも影でもないもので曇る。
空気がぐにゃりと曲がって、
自分の輪郭がそこに引きずられる。
――この感じ、知ってる。
でも、思い出したくない。
誰かの手が、私の中で暴れているみたいだ。
体の奥に押し込めたまま、なくなってたはずの何かが動く音がする。
重い。
脚が石みたいに沈む。
息ができない。
声を出そうとしても、
喉が拒絶の形で固まっている。
あの時と同じだ。
壊れていく音が、胸の奥で鳴り始める。
「壊しちゃいけない」と思う前に、
壊れてしまうあの感覚。
すっごく嫌な、そんな感覚。
「……お姉ちゃん?」
エリサラが首をかしげる。
街のざわめきが、まるで膜の向こう側に押しやられたみたいに遠のいた。
「どうしたの?」
「静かに」
自分でも驚くほど鋭い声が出た。
手が勝手に動く。
アーツを意識的に広げていく。
「あっ……!」
「下がって、エリサラ」
何かが、ここにいる。
私は周囲を探るように視線を走らせる。
道行く人たちの視線が邪魔。
「パパだ!」
エリサラの声が、
まるで春の風みたいに軽く響いた。
彼女は笑っていた。
何のためらいもなく、前を向いて。
「エリサラ、離れて!」
「え?どうして?パパだよ!」
その言葉に、胸の奥が一気に冷えた。
エリサラの声が、やけに明るい。
視界の奥、夕暮れの通りに――ひとりの影が立っていた。
その姿を見た瞬間、世界の音が、ほんの一瞬だけ止まる。
夕陽の光を背負って、
輪郭だけが金色に光っている。
それだけなのに、空気が変わった。
人の声が少し遠くなる。
私は息を吸った。
肺の奥が痛い。
「パパ!」
エリサラが駆け出した。
まるで迷子が家を見つけたみたいな声だった。
私は反射的に腕を伸ばす。
「待って!」
「どうして?パパだよ!」
エリサラの声が嬉しそうで、
それがかえって怖かった。
男が歩いてくる。
歩幅はゆっくりで、姿勢もまっすぐ。
白衣の裾が夕陽を受けて、淡く光っていた。
年はそれほどでもない。
若い――それが逆に不気味だった。
黒い髪に黒い瞳。
エリサラと同じフェーリンの耳。
その輪郭を見た瞬間、胸の奥で何かがひやりと沈んだ。
私はエリサラの肩を引き寄せる。
腕が勝手に動く。
その体を自分の後ろに押しやるようにして、
一歩前へ出た。
「止まって」
声が低く響いた。
警告というより、反射的な命令だった。
男は歩みを緩めない。
ただ、穏やかに笑っていた。
「――エリサラ。……ずいぶん、時が経ったね。
けれど、不思議だよ。君の輪郭を見た瞬間、あの日の呼吸の温度まで、まざまざと蘇ってくる。
時間は奪うものだと思っていたが――どうやら、記憶の奥では静かに君を育て続けていたらしい。
それと君は、ロスモンティスか。
初めまして、とは形式的な言葉かもしれ──」
「──近づかないで」
危険だ。
胸の奥が跳ねた。
何かが流れ出す。
空気が脈を打つ。
視界の端が白く滲む。
音が潰れ、景色が圧縮されていく。
地面の粒が震えて、風が逃げ場を失う。
息をするたび、世界が重くなる。
体の内と外の境界が溶けていく。
鼓動と一緒に、私の意識が世界へと広く滲み始める。
ひゅ、と息が切れた。
「お姉ちゃん!」
「ダメ。この人は、ダメだよ、エリサラ。連れて行かせない」
「パパだよ。大丈夫だって」
「絶対、大丈夫じゃない」
自分の声が、思っていたよりも低く、震えていた。
喉が焼けるみたいに熱いのに、手足は冷たい。
エリサラの肩を掴む指が強くなっていく。
男は、少し離れた場所で立ち止まった。
その仕草が、あまりに自然だった。
まるで散歩の途中で立ち話でもしているように。
白衣の袖口を風がなでる。
表情は柔らかく、目元には笑いじわすらある。
なのに、その穏やかさのどこにも揺らぎがなかった。
呼吸のリズムも、瞬きの回数も、一定のまま。
空気が、ぴたりと張りつめる。
人の気配が遠のいていく。
「……どうやら、私は脅威として観測されているようだね」
男はわずかに首を傾げ、微笑の形だけを保ったまま続ける。
「恐れを鎮めることができないなら――この場に留まる資格はない。
風が静まるまで、私は退くとしよう」
一拍の沈黙。
男は軽く会釈をして、こちらを見つめる。
「……また近いうちに迎えに行くよ。
その時まで、どうか元気でいなさい。
――『欠けたもの』は、いずれ揃う。必ずね」
夕陽が沈みきる寸前、男の声が風の中に溶けた。
エリサラは何も迷わずに頷き答えた。
「うん、またね!」
男の背中が人波に紛れ、やがて消えた。
その瞬間、通りのざわめきが一気に戻ってくる。
誰も不思議そうにしていない。
たったいま起きた出来事が、
最初から存在しなかったみたいに。
「……行っちゃったね」
エリサラが笑う。
その声は、いつも通りの明るさで。
私はうまく返せなかった。
エリサラの手を握る。
さっきよりもずっと細く、冷たい。
彼女は気づかないふりをして、
指先で私の手を撫でてきた。
「ねえ、お姉ちゃん。パパ、優しかったでしょ?」
胸の奥が、少しだけ軋む。
うまく言葉が出ない。
「……うん。優しかった、ね」
そう言うと、
エリサラは満足そうに頷いた。
街の光が彼女の頬に反射して、
一瞬だけ涙の粒のように見えた。
風が吹く。
さっきと同じ、ただの風。
それだけのことなのに、
世界の温度がほんの少し、違っていた。
私は空を見上げた。
夕陽はもう沈みきって、
街の明かりがぽつぽつと灯り始めていた。
歩き出す。
エリサラの手を握ったまま、もう誰の声も届かない方へ。
夜の気配が街を包み込む。
パンの匂いも、鈴の音も、
何もかもが静かに遠ざかっていった。
ロスモンティス
家族のことが大好き。
エリサラ
パパのことが大好き。
自分に生きる力をくれたパパに感謝している。
パパのためなら何でもしてあげたい、真っすぐな少女。
ロスモンティスはかわいい?
-
かわいい
-
かわいくない
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俺の嫁
-
夢に良く出てくる
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幸せの象徴
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ただの兵器