なんだかんだ、この二人のやりとりは大好き。
医務室のガラス窓の向こうで、エリサラは静かに眠っていた。
かすかな吐息が曇りガラスに白い影を残しては、すぐに消えていく。
規則正しい心音が、モニターから小さく響いている。
その音はまるで、揺れるロウソクの炎が消えないように必死に灯っているみたいで、
耳に入るたび私の胸の奥を締めつけた。
白いシーツに包まれた体。
その上から透ける鉱石の淡い光が、
冷たいランプの光と混ざり合う。
あれはぬくもり?
それとも凍りつく冷たさ?
どちらが本当なのか、私には分からなかった。
私は窓際でエリサラを見つめながら、記録端末に文字を書き込んでいく。
……忘れないように。
今、見ているこの姿も、この胸に広がるざわめきも。
出会ったときから今日に至るまでの、大事な記憶を。
画面に浮かぶ文字は、途切れ途切れで不揃いだ。
震える指先で必死に並べても、
ときどき字が歪んで、読めなくなりそうなものも混じっている。
それでも消さずに残す。
きれいに書き直したら、その時の気持ちまで消えてしまいそうだから。
完璧じゃなくてもいい。
ただ、書いておかないと、本当に消えてしまいそうで怖かった。
「……」
ペン先を滑らせる音と、モニターの電子音だけが部屋に残る。
不意に背後で、扉がゆっくりと開く音がした。
私は顔を上げて振り返る。
そこにはドクターが立っていた。
黒い手袋の先で扉を静かに押さえ、音を立てないように閉じる。
その仕草一つにさえ、いつもの慎重さが滲んでいた。
ドクターは何も言わず、足音をほとんど響かせずに歩いてくる。
ただ、靴底が床を擦るわずかな音だけが、医務室の空気を震わせていた。
やがて私の隣に並び立つ。
黒いコートの裾が視界の端に入り、ガラスに重なる影が少し伸びる。
それでも、口を開くことはなかった。
ふたりで並んでガラス越しに眠るエリサラを見つめる。
モニターから聞こえる心音が、規則正しく室内を満たしている。
……それだけのはずなのに、不思議と耳に残る。
一つ一つの音が、ここにいる私達の呼吸を縫い止めているみたいに。
私は端末を胸の前へと両手で抱えて、深く息を吐いた。
けれど言葉は浮かばない。
ドクターもまた、ただ黙ってそこに立っている。
その沈黙は、重苦しいものじゃなく、けれど安心をくれるわけでもない。
時間が伸びて、どちらも何も言わないまま、
空気だけが少しずつ濃くなっていく。
視線を横に動かすと、ガラスに映った自分とドクターの姿が重なっていた。
その影は、まるで一枚の薄い幕を隔てて別々の世界に立っているように浮かび上がっている。
私はその映り込みをじっと見つめる。
そしてようやく、胸の奥から小さく声が漏れてきた。
「……エリサラのこと、Logosだったら何て言うかな」
私の呟きに、ドクターがゆっくりと顔を向けた。
フードの影の奥で、視線だけがこちらを見ているのが分かる。
「そうだな……きっと難しい顔をして、長々と考え込むんじゃないかな」
ドクターの声は、いつものように落ち着いていた。
その声色に、少しだけ胸の詰まりが和らぐ。
「でも最後には、
『霧が何層にも重なって視界を奪おうとも、その奥で揺らがぬ灯火を見失うな』とか言いそう」
私は小さく、息を吐くように笑った。
端末の画面を見下ろす。
Logosとの練習について書いてある記録が、いくつも並んでいた。
「端末には、Logosが教えてくれたことが書いてあるんだ。
『刃は握る手次第で花をも切り裂き、闇をも断ち割る』
『誰かの帳面に記された数字ではなく、君自身が綴る物語の主語だ』って。
でも今は忙しくて、なかなか会えないから……」
「ロスモンティスは、Logosの言葉をよく覚えているんだね」
ドクターがそっと言った。
私は頷く。
「うん。記録に残してるから。でも……」
記録を読み返しながら、でも胸の奥のもやもやは晴れない。
「ドクター、私……分からなくなってきたんだ」
ガラスに手のひらを当てる。
冷たい感触が、指先から腕へと伝わっていく。
「頭では分かってるんだ。Logosの言葉も、みんなが言ってくれることも。
でも、エリサラが『私は兵器だよ』って笑って言った時……私、どうして止められなかったんだろう?」
端末の文字を指でなぞる。
書いてあることと、今感じていることの間に、大きな隙間があるみたいだった。
この端末にあるのは私のこと、ロドスのみんなのことばっかりだ。
エリサラのことなんてほとんどない。
それでも、私はエリサラを放ってなんておけなかった。
ドクターは少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「ロスモンティス、君がエリサラに感じているのは何だと思う?」
「何って……」
私は考える。
胸の奥で渦巻いている、名前のつけられない感情。
「守りたいって気持ち。
でも、それだけじゃない。エリサラを放っておけないんだ」
「放っておけない?」
「うん。
エリサラがアーツを制御できなかった時も、
みんなに冷たい言葉を出している時も、
胸がぎゅっと締めつけられた。
まるで……まるで、自分のことでも否定されたみたいに」
端末の画面を指でスクロールしていくと、もっと古い記録が出てきた。
文字が少し震えて書かれている。
「あ……これ、ロドスに来たばかりの頃の記録だ」
画面に目を近づける。
『みんな、私を名前で呼んでくれる』
『Logos、怖くない。優しい』
『ケルシー先生、私を見る目が違う』
「私も最初は、よく分からなかったんだ。
なんで番号じゃなくて名前で呼ぶのか、
なんで『お疲れさま』って言ってくれるのか」
「最初は、戸惑うことも多かったんだね。
私も、自分のことが分からなかった時に、
みんなからドクターと呼ばれたりするのはなかなか慣れなかったものだよ」
ドクターの声に、優しさが込められていた。
「うん。きっと、ドクターと一緒。
すごく戸惑ったの、そんな感じ。
もうその時の記憶なんて失くなっているのに、胸に染みついてるみたいに残っているの。
端末にも少しだけ書いていある。
『みんなを傷つけてばかりの兵器なのに、なんで?』って。
記録を見ていると、本当に困ってそうなんだ」
端末の上、文字列だけの私のことだけど、
自分で読んでて少しおかしくなってきちゃう。
「でも、少しずつ分かってきた。
その時の私には、きっと守りたいものも何もなかったから。
家族だって思える人も、ロドスってお家も私とは無関係な、
とっても遠い場所のように思ってたみたい」
「ロスモンティスは、その変化はどうやって起きたと思う?」
ドクターの質問に、私は少し考える。
「……時間?みんなと過ごす時間とか?」
「そうかもしれないね。でも、それだけじゃないかもしれない」
「他に何があるの?」
「ロスモンティス自身が、変わろうとしたからじゃないかな」
私はドクターの言葉を反芻する。
確かに、ただ時間が過ぎただけじゃない。
私も何かを選んだのかもしれない。
「……うん。
エリサラも、きっと同じなんだよね。
私がロドスに来た時より、もっと小さくて、もっと一人ぼっちみたいで」
ガラス越しのエリサラを見つめる。
白いシーツの下で、小さな体が静かに呼吸している。
「……ロスモンティスは、エリサラと出会った時の状況を覚えているかな?」
「まだしっかり覚えているよ」
「彼女は一人だった。彼女を庇護する存在もおらず、生活を共にする存在もいなかった」
「でも、エリサラは『パパが迷子になった』って言ってたよ?」
「パパ?……肉親がまだ生存しているのか。それは捜索するべきだな」
「エリサラがパパを探しに行く時は、私も一緒に行くって約束したんだ」
「一緒に…………そうか。いや……」
ドクターは何かを考えこむように口をふさいだ。
その横顔を見ていると、胸がきゅっとなる。
ドクターが考え込む時は、
なんだか大事な……うまく言葉にならないけど、
ただの作戦とか方針のことじゃない気がする。
もっと大事な、胸の奥にずっとしまってあったこととか、
誰にも話さないまま抱えてきた重い何かとか──そういうものを前にしている時の顔に見える。
だから私は息を止めて、その続きを待ってしまった。
ただ、黙って。
けれど視線は自然と、ガラス越しのエリサラへ戻っていく。
白いシーツの下で、小さな体が静かに呼吸している。
私はエリサラの寝顔をじっと見つめていた。
胸の奥では、いくつもの気持ちが方向も定めないままに同時に走り出してて、
止まることを知らない深くて暗い渦を巻き続けている、そんな感覚だった。
エリサラには、パパがいる。
私にはロドスって場所があるみたいに、エリサラにも守りたいと思える場所がある。
それでも……私と一緒にいたいって言ってくれた。
私もエリサラと一緒にいたいよ。
でも……違う。
『だから』だ。
だから、エリサラにはロドスの誰も傷つけて欲しくはなかった。
白いシーツの下で眠るエリサラを見ていると、胸の奥が理由もなくざわざわと揺れ続ける。
なんで、こんなに苦しいんだろう。
エリサラは安全な場所で眠ってる。
怪我もない。もう暴走もしてない。
それなのに、見てるだけで涙が出そうになる。
記憶にははっきり残ってないけれど、体の奥に誰かの手垢でもこべりついてるみたいな感覚。
まるで、誰か知っている人がそこにいるみたいに。
私はエリサラのことをほとんど知らない。
ただ強い繋がりがあって、その感覚がエリサラとの繋がりだけを教えてくれている。
それで十分なのかな?
隣に立つドクターは、静かに考え込んでいる。
でも、こんな時間も悪くない、って思っちゃう。
……そもそも私はドクターのことも、そんなに知らないかも。
私にとっても優しくしてくれる。
なでなでしてくれる。
勝手にクッキーを取ったりもする。
……とっても苦しそうにしていることも多い。
どこか放っておけない。
そしてなにより、私を使うのが誰よりも上手。
大切で大切で守りたいって、
この人のためなら戦わなくちゃ、って。そんな感覚。
アーミヤもドクターと一緒。
でも、アーミヤには無茶して欲しくないって思うけど、
戦わないでほしいとかは思わない。
この大地じゃ、死の前では、子供も大人も同じ。
抗うために力を振るうことは、決して間違いじゃない。
それでも……私はエリサラには戦ってほしくなかった。
兵器だったら戦わなくちゃいけないでしょ?
そんなの、なんだか嫌だった。
胸がぎゅうぎゅうに締め付けられて、息をするのも苦しくなってくる。
どうしてこんなに苦しいのか、理由が分からない。
エリサラはただ眠っているだけなのに、
胸の奥にとげのようなものが刺さって、呼吸するたびに痛む。
大切だから守りたい。
でも、もし本当に大切なら、一緒に戦ってくれた方が心強いはずなのに……。
どうして私は「戦わないでほしい」と思ってしまうんだろう。
その方が弱くなるのに。
その方が危ういのに。
分からない。
頭では「正しいこと」を考えているつもりなのに、
言葉にすると自分で自分を突き刺しているみたいに痛みが強くなって、涙が出そうになる。
守りたいのか、支えられたいのか、どっちなんだろう。
どっちでもいいのかな?
……とにかく、エリサラには傷ついてほしくないし、傷つけてほしくない。
それだけは、はっきりしているはずなのに。
だけど……どうしてだろう。
はっきりしているはずの思いが、考えれば考えるほどぼやけていく。
守りたいから戦わないでほしいのか、戦わないでほしいから守りたいのか。
どちらが先かすら、もう分からない。
胸の中でぐるぐる回るその感覚に飲み込まれて、
嬉しいような、悲しいような、怖いような。
全部が一緒くたになって、頭の中が本当にぐちゃぐちゃだった。
エリサラの手が、シーツの上でぴくっと動いた。
夢を見てるのかな。
楽しい夢だといいな。
私は端末を握りしめる。手が震えてる。
『エリサラ』って文字を書こうとして、何度も間違える。
なんで、こんなに手が震えるんだろう。
エリサラが暴走した時のこと、何度も思い出してる。
しっかり覚えている。
あの時のエリサラの目。
必死で、怖くて、そして強い怒り。
一人にしちゃダメだって思わされちゃう。
でも、どうやって?
私にできることって、何?
ドクターがそばにいるのが分かる。
でも、何も言えない。
こんなにぐちゃぐちゃな気持ち、上手く伝えられないから。
エリサラのためにって思ってるのに、
結局は私のことばっかり考えてる気がする。
エリサラを見て、苦しくなってる。それなのに側にいてあげたいって。
なにもわからない。
わからないことばっかりだ。
でも、放っておけない。
絶対に放っておけない。
エリサラが一人で苦しんでるなんて、それだけは絶対に嫌だ。
「ロスモンティス」
ドクターが静かに口を開いた。
考え込んでいた顔を上げて、私の方を向く。
「エリサラについて、君に言っておかなければならないことがある」
「エリサラの?」
ドクターの声は落ち着いているのに、どこか硬さを帯びていた。
普段の、私を気遣うときの優しさとも、戦場で命じるときの鋭さとも違う。
ただ静かに響くはずの言葉が、胸の奥をざわつかせる。
思わず背筋がぴんと伸びる。
無意識に、息を整えていた。
ドクターが纏う空気が、いつもの知っているそれと違うから。
エリサラのことを聞くだけなのに、何か大きなことが始まる予感がして――
私は小さく頷き、体ごと向き直した。
記録端末を抱える腕に力がこもっているのが自分でもわかる。
「ケルシーから、エリサラの鉱石病について聞いていると思う」
「うん。ケルシー先生は、すぐに命に関わるほどじゃないって」
「そうだ。それは間違ってない。
だが大多数の鉱石病患者とは大きく異なる点がある。
肩から肘からの感染についてどのような経緯で発症したのかは定かではない。
ただ確実に、人為的な感染源が一つだけあった」
「それはどういうこと?
エリサラが誰かに傷つけられたということ?」
「……私にはそれを傷と言えるのかは分からない。
ただ決して肯定させるべきことではない」
ドクターは言いこもるように、咳ばらいを一つする。
「言いづらいことなんでしょ?
私、わかるよ。
でも、エリサラのことなら、私は知りたいから」
「ロスモンティス……わかった。
いや、わかっている。話を始めたのは私の方だ。
エリサラの脳には……」
ドクターは一瞬だけ言葉を切り、ガラス越しの心音を聞くように沈黙した。
「──人工的な感染器官が埋め込まれている」
「それって……」
「誰がどうやったのか、不明なことばかりだ。
ただ確実なのは、エリサラはアーツユニットを使用することなく、強力なアーツを振りかざせるということだ。
彼女が自分のことを兵器だと言うのなら、自分でも把握しているということだろう」
「そうなんだ……」
エリサラは言ってた。
『化け物じゃない』って。
『私もお姉ちゃんも兵器』だって。
ドクターのさっきの言葉の意味も、理解できたわけじゃない。
でも胸の奥がきゅっと縮んで、
冷たいものが血の流れに混じったみたいに全身をめぐっていく。
耳の奥で心臓の音が強く響いて、鼓動が身体の内側から壁を叩いているみたいだ。
思考は追いつかないのに、体だけが先に震えを覚えている。
それに、すごく嫌な感覚が溢れてくる。
胸の奥にざらついた泥水を流し込まれたみたいに、
どれだけ必死に息を吸っても澄んだ空気に拒絶されちゃうみたい。
……失う感じ。
それと……壊れる感じ。
硬い硝子を両手で抱えているのに、
指の隙間から少しずつ罅が広がっていくみたいに、
目を逸らしても音だけが耳の奥から離れてくれない。
私の記憶の中に置いておきたくはない、そんな感覚。
でも──
「──それなら、良かった」
「良かった?」
「うん。だってそれなら、
私はエリサラのことを誰よりも分かってあげれるということでしょ?」
それでも、放っておけないから。
嫌な感覚すら押し流していくように、浮かんできた思いがある。
「深く、深くつながっているそんな鎖、私は決して放さないよ」
指先をガラス窓に押し当て、そっと握りしめる。
今はただ眠っているだけのエリサラは、
私みたいに強大な力を振り回せる。
そして力に振り回されている。
私が自分の力を知っているみたいに、
あの子も自分の力のことを良く知っているんだよね。
そんなエリサラが私のことを兵器だって言うのなら、
私が本当の兵器になって、あの子の前に立ってあげよう。
エリサラの未来を守ってあげるためなら、私は兵器でも良い、そう思えたんだ。
ロスモンティス
今回の話では物理的には動いてない。
歩いてすらいない。
ドクター
結局、ロスモンティスから大事なことを色々聞いてない。
エリサラ
アーツの使用を止められない。
そして、鉱石病の悪化も止められない。
ロスモンティスはかわいい?
-
かわいい
-
かわいくない
-
俺の嫁
-
夢に良く出てくる
-
幸せの象徴
-
ただの兵器