しがない男子高校生の主人公が、交通事故で亡くなってチワワに転生して、初恋相手の美少女の元で幸せを感じる話です。

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本文

銀城詩織は、僕にとって、遠い星だった。

 

同じクラスの女子高生で、いつも教室の窓際、光が差し込む特等席に座っていた。長い黒髪は艶やかで、白い肌によく映える。整った顔立ちには、感情の機微を読み取れない無表情が張り付いている。成績優秀、スポーツ万能。絵に描いたような才女で、いつも一人でいるのに、その存在感は圧倒的だった。男子は下心丸出しで告白を迫り、女子は羨望の眼差しを向ける。誰もが彼女を特別視し、手の届かない高嶺の花として崇めていた。

 

僕のような、何の取り柄もないしがない男子高校生にとっては、なおさらだ。

 

 

そんな彼女が、ほんの少しだけ僕の日常に寄り添ってくれたことがあった。あれは、放課後の掃除当番の日。その日の当番は僕一人で、教室の床をホウキで掃いていた。窓の外は橙色に染まり、静寂が支配する時間。もう誰もいないと思っていた教室に、自習でもしていたのだろうか、詩織が一人、戻ってきたのだ。

 

「……そこ、手伝う」

 

彼女はそう言って、僕の横を通り過ぎ、壁にかけてあるもう一本のホウキを手に取った。そして、何も言わずに無言で掃き始めたのだ。

 

「あ、ありがとう……」

 

僕はそう言うのが精一杯だった。静寂の中、2人の掃くホウキの音が響く。彼女は、最後まで無表情のまま、黙々と掃除を終えると、教室を出ていった。

 

たったそれだけの出来事だった。でも、その瞬間、僕の中で何かが弾けた。遠い星だと思っていた彼女が、僕と同じ空の下にいる、身近な存在だと気づかされた。叶わぬ恋だとわかっていても、彼女の優しさに触れたとき、僕の心は、もうどうしようもなく彼女に惹かれていた。これが僕の初恋だった。

 

 

それからというもの、僕は彼女を遠くから見つめることしかできなかった。何度か話しかけようと試みたけれど、口から出るのは意味をなさない言葉ばかり。彼女はあまりにも眩しすぎて、近づけば僕の存在なんて消えてしまうんじゃないかとさえ思った。叶わない恋だとわかっていた。それでも、彼女が教室にいるだけで、僕の心は満たされていた。それだけで十分だった。

 

 

 

 

 

 

そんな、何気ない日常が永遠に続くと思っていた。

その日は、いつものように自転車に乗って帰路についていた。夕暮れのオレンジ色が世界を包み込み、僕の心は相変わらず、詩織のことでいっぱいだった。今日の放課後、彼女が窓辺で本を読んでいた姿を思い出す。ああ、やっぱり、遠い星だ。僕は自転車を漕ぎながら、苦笑いを浮かべた。

 

次の瞬間、耳をつんざくようなクラクションの音が響いた。

 

眩しいほどの光が視界を埋め尽くし、全身に衝撃が走る。体が宙に投げ出され、地面に叩きつけられる。激しい痛みが脳みそを揺らし、視界が歪んだ。何が起きたのか、理解が追いつかない。ただ、目の前を走り去っていく車が、信号無視をしたのだと、ぼんやりと認識した。

 

これで死んでしまうのだろうか……。

 

ああ、結局、何も伝えられなかったな……。遠ざかる意識の中で、僕の脳裏に焼き付いたのは、最後に見た、彼女の無表情な横顔だった。

 

暗闇が僕を飲み込んでいく。冷たい、深い、永遠にも思える暗闇。死んだんだ。そう確信した。

 

 

 

 

 

 

 

だが、その暗闇は、予想に反して長くは続かなかった。

 

次に感じたのは、温かくて、柔らかい、もふもふとした感触。そして、微かに聞こえる、小さな心臓の音。僕は恐る恐る目を動かそうとしたが、まぶたは固く閉じられたままだった。あれ……? どうして目が開かないんだ?代わりに、嗅覚が研ぎ澄まされていることに気づいた。甘くて、どこか懐かしい、ミルクのような匂い。そして、耳には、複数の小さな命がもぞもぞと動く音が聞こえてくる。僕は、何かの動物になったのだろうか。死んだはずなのに、どうしてこんなことになっているんだ……。戸惑いながらも、その温かさと匂いに、僕は安らぎを覚えた。

 

 

どれくらいの日にちが経っただろうか。まぶたに、光が差し込むのを感じた。僕はゆっくりと、まぶたを開ける。ぼんやりとした視界の先に、小さな、

たくさんの兄弟がいた。そして、僕に覆いかぶさるようにして、温かく僕を舐める、優しい大きな目をした母犬。僕は体を動かそうと、手足を動かしてみた。でも、それは僕の知っている「手足」ではなかった。ちいさくて、短い、ふわふわとした毛に覆われた肉球。僕が死んで、そして新しい生を受けたのだと、すぐに理解した。僕は、チワワに転生したのだ。

 

 

目が開くようになってから、僕は少しずつ自分の置かれた状況を理解していった。僕の周りには、たくさんの兄弟がいた。みんな小さくて、愛らしくて、母犬の温かいおっぱいに群がっていた。人間だった頃の記憶を持つ僕にとって、この状況は奇妙でありながらも、どこか穏やかな時間だった。

 

 

 

しかし、その平穏は長くは続かなかった。ある日、一匹、また一匹と兄弟たちがどこかへ連れていかれる。最初は理解できなかった。けれど、母犬が悲しそうに鳴くのを見て、ようやく悟った。新しい飼い主のもとへ、みんな旅立っていくのだと。そして、僕だけが取り残された。

 

僕は、生まれたてのチワワ。この小さな体では、どうすることもできない。ただ、母犬に寄り添うことしかできなかった。母犬は、僕を舐めて、温かく抱きしめてくれた。それが、母犬と過ごした最後の夜だった。

 

 

翌朝、見知らぬ男性が僕を抱き上げた。母犬は必死に鳴いて抵抗しようとするが、ゲージの中からでは何もすることはできない。僕は小さな声で鳴くことしかできなかった。

 

「すまん、お前だけはもう飼えないんだ」

 

男性は、まるで言い訳をするようにそう言うと、僕をダンボール箱に入れた。蓋が閉じられ、世界は再び暗闇に包まれた。

 

 

 

揺れる感覚と、遠ざかる母犬の鳴き声。そして、冷たいアスファルトに置かれた衝撃。僕は、自分が捨てられたんだと理解した。

閉まっているダンボール箱の蓋は、子犬の力では開けることが出来なかった。僕はどうすることもできなかった。

 

捨てられてから1日

 

蓋の隙間から、雨の匂いがした。ダンボール箱の中は、どんどん冷たくなっていく。動いてもエネルギーを無駄にするだけだ。じっとして、雨が止むのを待つ。

 

 

捨てられてから2日

雨が止むことはなく雨水は、ダンボール箱の中まで浸透し、遂に僕の体を濡らした。体温調節が苦手な子犬の体は、徐々に体温を奪われてゆく。

必死に蓋を開けようとしても、やはり開くことは無かった。

 

 

捨てられてから3日

既に僕の体は限界だった。

 

寒い、喉が渇いた、お腹がすいた、

 

人間だった頃には感じたことのない、生命としての根源的な欲求が僕を襲う。

 

体が動かない、頭が痛い、視界がぼやける

 

捨てられたんだ。そう理解した瞬間、僕の心は絶望に包まれた。このまま、僕はここで死んでいくのだろうか。意識が遠のき、震える体で、僕はただ、雨の音を聞いていた。

 

 

どれくらいの時間が経ったのか、もはやわからなかった。雨音だけが、絶え間なく僕の鼓膜を叩く。意識は薄れ、全身の震えは止まらない。このまま、僕の二度目の人生は、あっけなく終わるのだろうか。その時だった。雨音に混じって、どこか懐かしい足音が近づいてくるのが聞こえた。そして、雨の匂いに紛れて、優しい花の香りがした。それは、彼女が使っていたシャンプーの香りだ。まさか……。僕は朦朧とする意識の中、微かに顔を上げた。

 

ダンボール箱の隙間から、僕の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある黒髪だった。雨粒を弾きながら、ゆっくりとしゃがみ込む、無表情な横顔。ああ、やっぱり……。

 

銀城詩織だ。

 

彼女は、じっと僕の入ったダンボール箱を覗き込んでいた。その目は、普段からは想像もつかないほど、大きく見開かれている。無表情だった顔が、驚きと、そして悲しみで歪んだ。

 

「どうして……こんなところに……」

 

彼女の声は、雨音にかき消されそうなくらい小さく、震えていた。その瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。人間だった頃の僕は、彼女の声を聞くだけで緊張していたけれど、今は違う。この声は、僕を救ってくれるかもしれない。

 

詩織は、濡れた僕をそっと抱き上げた。その手は、冷たくて、弱り切った僕の体を、まるで壊れ物を扱うかのように優しく支えてくれる。

 

「大丈夫、もう大丈夫だよ……」

 

普段の彼女からは考えられないような、母性溢れる声だった。僕の体を雨から守るように、ジャケットで包み込む。暖かくて、安心できる匂い。ああ、君はこんなにも、優しい心を持っていたのか。無表情な仮面の下に隠された、熱い感情を、僕は今、この小さな体で受け止めていた。

 

詩織は、僕を強く抱きしめて、走り出した。彼女の胸元から聞こえる、ドクドクという力強い心臓の音。その音は、僕の凍え切った体に、生きる力を再び与えてくれた。僕はもう、一人じゃない。そう思った瞬間、僕の意識は、再び暗闇へと沈んでいった。

 

 

 

《詩織視点》

 

雨の降りしきる夜、詩織はびしょ濡れになったチワワを抱え、急いで家に帰り着いた。玄関のドアを閉めると、ホッと安堵の息が漏れる。手のひらに乗るほど小さな命は、びくとも動かない。

 

「大丈夫……生きてる」

 

微かに聞こえる心音に、詩織は自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。

 

まずは体を温めなければ。彼女は、タオルで優しく子犬の体を拭いた。濡れた毛並みは、思ったよりも柔らかく、ふわふわしている。冷え切った体を掌で包み込むと、小さく震えているのがわかった。

 

「怖かったね。ごめんね……私が、もっと早く見つけてあげてたら」

 

詩織の頬を、涙が伝う。無表情を貫いてきた彼女にとって、こんな風に感情が揺さぶられるのは初めてのことだった。子犬をそっとバスタオルでくるみ、暖かい毛布の上に寝かせる。それから彼女は、部屋の中にあるものを探した。犬用の服も、毛布もない。当然だ。今まで、ペットを飼ったことなどなかったから。

 

でも、この子にご飯をあげなきゃ。そう思った詩織は、玄関の傘立てから傘を一本掴むと、家を飛び出した。時刻は、もう夜の九時を過ぎていた。開いている店を探して、彼女は必死に走った。コンビニに駆け込み、店員に尋ねる。「子犬用のミルクって、ありますか?」困惑した表情の店員に、「すみません、おいてないんです」と言われ、彼女は絶望しかけた。けれど、諦めずに別のコンビニへ走る。三軒目のコンビニで、ようやく犬用のミルクを見つけたとき、彼女は安堵のあまり、泣きそうになった。

 

家に帰り、温めたミルクを小さな哺乳瓶に入れ、子犬の口元にそっと運んだ。

 

「飲んで、お願いだから……」

 

まるで小さな赤ん坊をあやすように、詩織は子犬に話しかけた。一口、また一口と、ミルクを飲んでくれるたびに、彼女の胸に温かいものが広がっていく。ミルクを飲み終えた子犬は、温かい毛布の中で、すやすやと眠り始めた。詩織は、その寝顔をじっと見つめていた。まるで、壊れやすい宝物を見守るかのように。

 

「あなた、名前、なんていうのかな。……私が、名付けてもいいかな」

 

彼女の声は、普段からは考えられないほど、優しさに満ちていた。

 

《主人公視点》

 

どれくらいの時間が経ったのかはわからない。ぼんやりと目を開けると、僕の視界に入ってきたのは、見慣れない天井だった。外の雨音は止んでいる。代わりに聞こえてくるのは、静かな室内の、規則正しい時計の音。僕は温かい毛布の中で、小さな体を丸めていた。全身から力が抜け、眠りの底で漂っていた不安が、すうっと消えていく。

 

ゆっくりと起き上がって、周りを見渡した。そこは、詩織の部屋だった。壁には無地のカレンダーがかけられ、机の上には綺麗に積まれた参考書。床には、僕をくるんでいたものと同じ、無地の毛布。何もかもが整然としていて、彼女らしい。僕は、自分が助けられたことを実感した。そして、この温かくて、安心できる空間が、彼女の優しさでできているのだと、全身で感じた。

 

その時、ドアがゆっくりと開いた。入ってきたのは、部屋着姿の銀城詩織だった。学校では絶対見れないような神秘がそこにはあった。キャミソールを着た彼女のデコルテが、眩しいくらい白く輝いている。それ以外はいつもの、無表情な顔。でも、その表情は、僕の姿を捉えた瞬間、ふわりと緩んだ。

 

「よかった、起きたんだね」

 

彼女はそう言って、僕のそばにしゃがみ込んだ。その声は、普段のクールなトーンとは違い、優しい響きを帯びていた。

 

詩織は、僕を抱き上げ、頬ずりした。

 

「ねえ、あなた、名前がないのなら、私が名付けてもいい?」

 

「……ワン!」

 

僕は精一杯、いいよと伝えようと鳴いた。彼女は、そんな僕の様子を見て、微笑んだ。

 

「じゃあ……マロ、どうかな。私の好きなマロングラッセみたいに、甘くて、優しい色だから」

 

マロ。それが、僕の名前。

 

人間だった頃の僕には、名前を呼ばれてこんなにも嬉しくなったことなんて、なかった。「マロ、私のマロ」そう言って、彼女は僕の鼻先に自分の鼻を押しつけてきた。甘い匂いが、人間の何倍もある犬の嗅覚をくすぐる。その仕草は、まるで小さな子供をあやす母親のようだった。僕は、嬉しさのあまり、彼女の頬を小さな舌でペロペロと舐めた。つい舐めてしまった。なぜか、とても甘かった。

 

「もう!くすぐったいじゃない」

 

詩織は、普段の無表情からは想像もつかないほど、無邪気な笑顔で笑った。僕の目に映る彼女の笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かくて、とても眩しかった。

 

 

 

翌日、学校は休みだった。僕は、毛布にくるまりながら、詩織が机に向かって勉強している姿を見ていた。真剣な眼差しで参考書を眺め、ペンを走らせる横顔は、教室で遠くから見ていた時と何も変わらない。いや、むしろ、僕だけが見ることができる、穏やかな表情を時折見せる。人間だった頃の僕は、彼女に釣り合うような男じゃなかった。何もできなくて、何も伝えられなかった。

 

でも、今は違う。僕はチワワの「マロ」として、誰よりも近くで彼女を見守ることができる。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

「うーん、もうだめだー!」

突然、詩織がペンを置き、大きなため息をついた。その声に驚いて、僕は小さな体をビクッと震わせた。彼女は机から降りると、僕を抱きかかえて、ふかふかのソファに座った。

 

「マロ、やる気補給の時間よ」

 

そう言うと、彼女は僕のお腹に顔を埋めて、すーはーと匂いを嗅いだ。

 

「ワン!」

 

くすぐったくて、僕は精一杯の声で鳴いた。

 

「もう、可愛いんだから」

 

詩織は、僕の鼻先にキスをすると、優しく頭を撫でてくれた。その手つきは、まるで壊れやすい宝物を扱うかのように丁寧で、僕の心を満たしていく。

 

 

 

 

お昼になり、詩織は僕を抱いたまま、キッチンに向かった。彼女が食べるのは、色とりどりの野菜と鶏肉のソテー。そして、僕のご飯は、彼女が買いに行ってくれた子犬用のドッグフードだった。ご飯をテーブルに並べると、詩織は僕を床に下ろした。

 

「はい、マロのご飯」

 

僕は、目の前に置かれたドッグフードを夢中で食べた。詩織は、そんな僕の様子を見て、微笑みながら自分の食事を進めていた。同じ食卓を囲み、同じ時間を過ごす。ただそれだけのことが、こんなにも幸せだなんて。

 

食事が終わると、詩織は僕を抱き上げ、リビングの床に寝転んだ。

 

「お腹いっぱいになったら、眠たくなっちゃった」

 

そう言うと、彼女は僕を胸元に抱き寄せた。彼女の心臓の音は、あの雨の夜と同じ、優しくて力強いリズムを刻んでいる。僕は、その音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。彼女の胸の中で感じる温かさは、この上ない安心感を与えてくれた。

 

僕の二度目の人生は、絶望から始まった。でも、彼女が僕を救ってくれた。もう、一人じゃない。これからもずっと、僕はこの温かい胸の中で、君のそばにいる。

 

 




短編として投稿しましたが、もしかしたら連載するかもしれません。応援してくださると嬉しいです。

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