人理を照らす、開闢の星・破章〜almighty,grail,war〜 作:札切 龍哦
並べてみたら一番強いの弓矢ではないでしょうか?
◎大島 光義(おおしま みつよし)
「アーチャーのサーヴァント、大島光義。
気軽に雲八(うんぱち)とでも呼んでくれ」
真名:大島光義
クラス:アーチャー
性別:男性
身長:172cm
体重:52㎏
出典:史実
地域:日本
属性:混沌・中庸・人
好きなもの:弓術の鍛錬
嫌いなもの:弓を武器とするものを馬鹿にされること
◎ステータス
筋力:C 耐久:C 敏捷:B
魔力:E 幸運:A 宝具:C+
◎スキル
・対魔力:D
魔術への耐性を得る能力。
一定ランクまでの魔術は無効化し、
それ以上のランクのものは効果を削減する。
サーヴァント自身の意思で弱め、
有益な魔術を受けることも可能。
一工程(シングルアクション)によるものを無効化する。
魔力避けのアミュレット程度の対魔力。
・冷静沈着(弓):B
光義は弓を取れば如何なる戦場、状況にあっても混乱せず、
己の感情を殺して冷静に周囲を観察し、
最高の弓術の実力を発揮する。
精神系の効果への抵抗に対してプラス補正が与えられる。
・千里眼:C
視力の良さ。遠方の標的の捕捉、動体視力の向上。
光義は静止視力も向上する。
・老いてなお盛ん:A+
おいてなおさかん。
自身の筋力、耐久を強化し、ガッツを付与する。
60歳で信長に弓大将として召し抱えられ、
その後も数多の戦で活躍し、
天下分け目の関ケ原にも93歳という年齢で
部隊を率いて参戦したことから有している。
◎宝具
『白雲穿矢(はくうんせんし)』
ランク:C+ 対軍宝具
「我が矢は雲を穿(うが)ち
百発百中の妙(みょう)を現(あらわ)す
狙われたなら覚悟せよ 『白雲穿矢』」
弓矢の達人である光義の逸話が力となった宝具。
光義の弓から放たれる強力なる矢。
ひとつ刺さるとそのまま連続で次々と連射され、
全てが命中する。
敵全体に大ダメージを与え、『防御無視』の効果があり、
クリティカルが発生やすい。
◎能力
凄まじい弓矢の達人。
幾度もの戦に参戦していたことから
戦の気配や戦場の変化に敏感。
狙撃しやすい場所、されやすい場所を的確に感じ取る。
アーチャークラスだが槍の扱いも巧みで強い。
◎真名
大島光義。
戦国時代の武将で弓の名手。
通称は雲八(うんぱち)。
生まれは美濃国関大島。
守護大名の土岐(とき)家に仕える武将の家柄だったが
父が主家の御家騒動で討ち死。
敗軍の側に付いていたために領地を没収され、
孤児となったところを親戚の大島家に保護される。
弓の才に恵まれていた光義は鍛錬に励み、
13歳の初陣で敵兵を弓矢で討ち取る。
後の戦でも弓矢で即座に2人を射殺し、
後続の兵も矢を放って退散させ、
敵軍の槍衆(槍を扱う軍勢)を弓矢で射倒すなど
その弓矢の実力で活躍し、
斎藤道三の嫡男である後の斎藤義龍に仕えるようになる。
道三が死んだ後、織田信長の軍と幾度も戦い、
やがて斎藤家が信長に敗れると
信長から織田軍の弓大将として召し抱えられる。
このときすでに光義は60歳となっていたが
光義は戦場でその弓矢の腕を振るい続けた。
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍による
『姉川の戦い』では先駆けとして弓矢で敵兵を数人射殺して
勝利に貢献。
同年の『坂本の戦い』でも活躍し、
一説ではこの戦での光義の活躍を目にした信長から
「白雲をうがつような働き」と賞賛されたことで
「雲八」の通称を名乗るようになった。
信長が手痛い敗北をした長島一向一揆討伐では
殿(しんがり)を務める柴田勝家の軍に属し、
矢を射ながら追撃を躱して任務を果たし、
小谷城の戦いでは前線で戦って城兵を射て
攻略の足掛かりを作り、
織田・徳川連合軍と武田軍による
『長篠・設楽ヶ原の戦い』でも
その弓矢の腕前で鉄砲に負けぬ活躍をして
信長に賞賛された。
明智光秀の謀反による本能寺の変が起きたときは
安土にいたが妻子を連れて脱出。
蜂起した一揆勢や残党狩りを蹴散らして
無事に領国へと帰還。
その後、羽柴秀吉と柴田勝家が争う
『賤ヶ岳の戦い』に丹羽長秀の軍に属して参戦し、
武功を挙げる。
長秀が死した後は秀吉に召し出されて仕え、
その後に豊臣秀次に仕え、
小田原征伐、朝鮮出兵の文禄の役にも
兵を率いて参戦して活躍。
幾度も石高を加増されていっていたのが
慶長の頃に1万1200石となり、大名となる。
秀吉が死した後の徳川家康による会津征伐にも
嫡男と共に参陣。
このとき光義は数えで93歳になっていた。
一貫して家康側の東軍として戦い、
関ケ原本戦、あるいは大垣城攻めで活躍、
後に1万8000石に加増された。
このときの加増によって
幼い頃に奪われた美濃の関をようやく領土とすることができた。
一説では四人いた息子のうち2人が
石田三成に人質を取られたことで西軍側として戦ったが
光義達の活躍があったのでお咎め無しになったという。
関ヶ原の後は家康に気に入られて
幾度も召し出されて弓矢の話や戦の話に華を咲かせたり、
鷹狩用の鷹を贈られたり
江戸幕府公式の鷹狩り場での鷹狩りの許可も貰っている。
光義が病になったときも家康からの
見舞いの使者が訪れている。
しかし病が回復することはなく、
華美や美食を好まず、
時代遅れと蔑まれても弓矢の修行に励み続け、
生涯で53の戦に参戦し、
41通の感状(主君が活躍を認めたものに与える賞状)を賜り、
弓の腕で大名にまでなった97歳の生涯を閉じる。
その後、大島家は4人の息子が領地を分配し、
大名から旗本へ降格するも
その血筋は明治維新まで続いた。
一説では幕臣から臼杵城の5万石の領主に推薦されるも
「自分の能力では不慣れな地を治めるのは難しい」と
光義がこれを丁重に断ったために不興を買い、
大名としての家督相続が認められなくなったので
やむなく領土を分配して旗本となることで
大島家の存続を認められたという。
弓の名手として知られ、
「百発百中の妙をあらわす」と賞賛された光義には
弓矢の逸話がいくつもある。
美濃国の戦では鉄砲を使う敵兵と相対して弓矢で射殺し、
樹木の影に隠れる敵兵を樹木ごと矢で貫いて首に当てたという。
豊臣秀次に仕えていた頃、
秀次は自身が秀吉の後継になったことを天下に示すため、
京都の法観寺に定紋(公式の家紋)を掲げ、
さらに境内にある八坂の塔(高さ46mある五重塔)の
5階の小さな窓に矢を射かけるよう家臣に命じる。
皆が尻込みする中、当時84歳の光義が名乗り出て
1町(約110m)以上離れた場所から
矢を10本放ち、全て窓から塔の内部に射込んだという。
その弓術の腕前を見込んだ信長、家康から
安土城や江戸城、駿府城の矢窓(やざま)設計の奉行や
相談、点検を任された。
光義は槍にも長けている。
あるとき、槍が得意な同僚から
「光義は弓で、自分は槍で活躍している。
しかし弓を扱う者は遠くからしか敵を倒せない臆病者。
一緒にされたくない」と馬鹿にされる。
憤慨した光義は得意の弓ではなく槍の稽古を始め、
3年間、槍で戦って感状を4枚賜った。
ちなみに弓を馬鹿にした同僚は2枚。
光義は同僚に「弓も槍も選び難いが、
大勢を相手にするならばやはり弓だ」と告げたという。
ちなみに光義の孫は大島流槍術を編み出し、
水戸黄門こと徳川光圀の父である
水戸徳川家初代・徳川頼房(とくがわよりふさ)の
槍術指南役を務めている。
◎人物
白い総髪で口元と顎に白髭を生やした老人。
純粋な人間のサーヴァントとしては高齢。
しかしその体は細身ながらとても鍛えられていて逞しく、
老いを全く感じさせない体力と身体能力を誇る。
一人称は「儂(わし)」。
公の場では礼儀正しく言葉使いも丁寧。
普段はとても大らかで気さく。
規則正しい生活を心がけていて
毎日の弓矢の鍛錬は決して欠かさない。
とても慎ましやかな生活をしていて
美味しいものには喜ぶが
質素なものでも決して文句は言わず
心から感謝して食べる。
鍛錬以外ではサーヴァント達と碁や将棋をしたり
温泉を楽しんだりゆったりとお茶を飲んでお喋りしたり
酒を酌み交わしたり
弓矢の指導をしたりと
自分なりのサーヴァントライフを満喫している。
多くのサーヴァントが自身より年下と感じるためか
孫を見るような眼差しをよく向けている。
それはそれとして叱るべきときはきっちり叱り、
それで相手が止まらないときは
なんの躊躇もなく弓を取り出して矢を放つ。
◎人間関係・サーヴァント関係
・第六天魔王兼建勲(楽園カルデア)
ぐだぐだ兼楽園カルデア時空の織田信長。
光義は最初は「若き信長公」と呼んでいたが
やがて「ノッブ殿」と呼ぶようになり、
ノッブは「雲八」と呼ぶ。
光義は最初はノッブの姿に驚いたが
「まぁ信長公なら」という感じでさくっと受け入れ、
ノッブのほうが「それはそれでどうなんじゃ」とツッコんだ。
ノッブは光義が97歳まで生きたことに
「まぁ違う時空とはいえ雲八なら
そんぐらい生きるじゃろ」とすんなり納得。
時空は違えどその凄まじい弓矢の腕を頼りにしている。
「儂のような老骨を頼りにしてくださりますかノッブ殿。
ならばこの雲八、気張らせてもらいますかな」
・織田信長(漂流者)
ドリフターズ時空の織田信長。
光義は「信長公」と呼んでいたが「ノブ殿」と呼ぶようになり、
ノブさんは「雲八」と呼んでいる。
ノブさんは光義が93歳でも戦に参じたのを聞いて
「いや歳考えろよ。雲八らしいけどな」と呆れながらも納得した。
なおノブさんは豊久に光義と比べられて
「もっと気張らんか第六天魔王」と言われ
「あれ(雲八)と比べんな」と言い返した。
「まだ五十路なのでしょうノブ殿。
儂に比べればお若いお若い。お気張りなされよ」
・島津豊久(漂流者)
ドリフターズ時空の島津豊久。
光義は「豊久殿」と呼び、
豊久は最初は「光義さぁ」だったのが
「雲八さぁ」と呼ぶようになる。
生粋の戦人である光義は豊久のイカレも
すんなりと受け入れ、微笑ましく見ている。
豊久は関ヶ原に自分の義父・島津義弘よりも
高齢で参戦したことに感心し、
実戦で光義が自身の咆哮に一切動揺せずに
弓を放って無力化されたことから心から尊敬している。
「いやさすがかの薩摩の兵(つわもの)。
味方となれば頼もしいですぞ豊久殿」
・那須与一(漂流者)
ドリフターズ時空の那須与一。
光義は「与一殿」と呼び、
与一は「光義殿」と呼んでいたのが
「雲八殿」と呼ぶようになる。
源平合戦の弓の名手に会えて光義は感動し、
与一は一目見て光義の弓の実力を見抜き、
弓比べをしたが引き分けになった。
一緒に弓矢の鍛錬をしたり弓部隊として一緒に戦うなど
与一は接することが多く、いつしか祖父のように懐いた。
戦場では一緒になって正確かつ素早く強い矢を
連続で放ったり、
光義の休憩中は与一が、
与一が休憩中は光義が矢を放ったりと
組ませると相手側に矢がひっきりなしに飛んでいく。
「かの那須与一殿と弓比べをでき、
さらに同じ戦場に立てるとは。
いやはや、長生きはするものよ」
雷電タメエモンさん、ありがとうございました!