腹を刺されたことを自覚した瞬間に顎に一撃を入れていた。 血まみれの人間はそれであっさり動かなくなった。
苦無の刃は四分の一も埋まらずに止まっている。重傷の人間が隊服と鍛え上げた腹筋を一度に貫ける謂れはない。少し奥歯を噛んで一思いに抜いてしまう。天元は全集中・常中を会得した鬼殺隊士であるので、出血はほとんどなかった。
だが、それを下手人が知るはずはない。
深呼吸する。
「……は?」
日が射したのをいいことに天元は思う存分呆然とした。
腹を撫でる。そこは宇髄の里の者なら誰もが一度は刺されたことのある場所だ。こいつにもあるだろう。腹を貫いて背まで抜ける傷痕。
筋肉だけを傷つける刺し方を、身をもって覚え込まされたときの傷だ。
内臓も太い血管も傷つかない。殺しには向かず、拷問に向く。使い間違えるな、とクソ親父は淡々と言った。それを死ぬほど叩き込まれた。文字通り死んだ弟妹だっていた。
この距離で手元が狂うはずはない。殺す気で狙うなら首だ。仮に腕が動かなかったとしてもっと上に傷が付くだろうし、腹に綺麗に刺さるわけもない。百歩譲って間違えたのだとして、それでも天元を殺す気が一切なかった。それがわかるから彼は呆然としている。
だって手を離していた。
天元が意識を落とす前にその手は苦無から離れていた。引き抜いて刺し直す意志が微塵もなかった。
誰よりも殺しが上手かった、誰よりも父親と呼ばれるべき生き物の仕打ちに順応した、誰よりも無機質だったこいつが。
抜け忍の宇髄天元を殺したがらなかった……?
呆けているうちにいよいよ怪我人の顔が白くなってきたので、天元は慌てて応急処置をして蝶屋敷に担ぎ込んだ。
心が軋む。心が軋む。心が軋む。
姉と弟妹たちが残らず死んでいくのを、天元はずっと見ていた。幼い時分に面倒を見てやったのは遠い過去の話だった。そんなものは何の意味もなさなかった。
二人だけ生き残ってはいたが死んだも同然だ。
上の弟は気付けば父親の模造品になっていた。命は駒、女は道具。里に常に忠実で、冷酷で有り続ける無機質な存在。ひとの尊厳を平気で踏みにじる外道に成り果てた。心の底からおぞましく厭わしかった。
下の弟は、……恐ろしかった。
一の兄上、といつも呼んだ。上の弟と区別するためだろう。一人しかいない姉のことは単に姉上と呼んでいたから。ひとをそうやって記号で把握しているふしのある人間だった。それに気付いてから、天元が名を呼んでやったことは一度もない。
一の兄上、一の兄上、一の兄上。
その声は淡々としていた。毒で焼けた喉でも、ひとを殺めた後でも、弟妹が目の前で死んだときでも、いつも変わることのない調子で天元を呼んだ。耳のよく利く彼にはそれがいっそう異様に聞こえた。
苦痛に呻く声も悲嘆に啜り泣く声も聞いたことがなかった。上の弟でさえ傷を負えば声を漏らしたというのに、痛覚がないのではないかと疑うほどいつも静かだった。負傷を避け、的確に傷の手当をするから感覚が正常なのは確かだったが、疑わざるを得なかった。
心が軋む。
狂気と妄執の満ちた里で人間性にしがみついているのはひどく難しい。
向き不向きが下の弟の口癖だった。天元が殺しに向いていないと明け透けに口にし、父親の目の前で任務を掻っ攫っていくような奴だった。胸糞悪い思いをしなくて済むことには安堵したが、その態度は今でも胸に引っかかっている。
言うだけあって殺しが上手かったのは本当だ。驕りではなかった。驕るほどの感情があったかどうかさえ怪しい。才能があったと言えるだろう──クソみたいな才能だ、と天元は隠れて吐き捨てていた。たとえ面前で言ってやったとして、それが正しく理解される環境ではなかったし、本人が気にするとも思わなかったので。
上手く人が殺せることが、黄金と同じ価値のある世界だった。
強いて人間性の欠片を見つけるとすれば、情報の収集を非常に不得手にしていたことだろうか。話を盗み聞くことはできても聞き出すことができないようだった。そりゃそうだろ、といつか任務を共にした時に思った覚えがある。
能面めいた無表情の相手に緩む口などあるはずがない。戦闘時に歯を食い縛るか、目の開き方を変える以外に一切顔の筋肉を動かさないような奴だった。動かし方を忘れたのだろうと思うとそれだけが少し憐れだった。
……これが生きているなどと、口が裂けても言えるものか。
心が軋む。すり潰されそうになる。
こんな人間になりたくない、とある日吐きそうになりながら思った。だから天元は三人の嫁を連れて里を抜けた。
追ってきたうちの下の弟が児戯のような追撃しかしなかったから、彼らは逃げ延びて、こうして鬼殺の道を歩んでいる。
ずっと心の隅に凝っていた疑問だった。逃がすつもりがある動きではなかったのに、殺意の乗らない刃だった。一年経ってもそれは同じだった。
話をしよう、と天元は思った。避け続けていた恐ろしい弟と話をしてみよう。
もしかしたら──もしかしたら、手遅れではないかもしれないという希望が見えたから。
◆
目を覚まして、瞼を上げる前にどこかに寝かされていることに気が付いた。私は慎重に周囲を探る。
肌に触れる着物の感触が違う。複数の足音。音が軽い。女子供だ。呻き声がいくつか。消毒液の匂い。音が薄い。広い部屋──建物自体はもっと広い。
身の危険がないことを確認してから私は目を開けた。頭だけを動かして周囲を観察する。
寝台が並ぶ部屋だ。病院というものだろう。初めて世話になるけれど。枕元の台に荷物が──つまりは刀と苦無、それから額当てが置いてあるのを見て安堵した。
「目が覚めましたか」
「……!」
部屋の入口に小柄で華奢な少女が立っていた。咄嗟に苦無を掴み取ろうとして体が動かずに失敗する。
「そんなに慌てなくても襲ったりしませんよ。まったく失礼な」
手練れだとわかる。そんなことを言われても気を抜くことなどできない。
少女はつかつかと近寄ってきて私の顔を覗き込んだ。
「ここは蝶屋敷。あなたのように鬼に襲われた人たちを治療する場所です。鬼というのはあなたが戦っていたという化け物のことですけど」
「……知っている。不死身の異形だ」
「あら。まあそうですね」
少女はつんと顎を上げて私を見下ろしている。落ち着かない。身じろぐと傷が痛んだ。熱も出ているようだった。
「その傷ですが、鎖骨が斬られているのでくっつくまでは絶対安静です。日に三度薬湯を出すので飲んでください」
痛むはずだ。記憶と感覚が正しければ右の鎖骨を通って腰骨まで袈裟に斬られている。幸い内臓は無事らしい。腑を傷つけたときの重苦しい痛みはない。
正直死んだと思ったが生き延びたようだ。どうやって凌いだか記憶にな、
──あるはずがない。
息を呑むと傷に響いた。凌いでなどいない。独りなら死んでいた。思い出した。額当てと爆薬の香り。
「て、んげん、さま……」
私の呟きをどう取ったかは知らないけれど、少女はつっと目を細めた。
「ああそうそう。宇髄さんとお知り合いですか? お名前を伺っても?」
「……
自失したまま訊かれたことにだけ答えた。この少女に構っている場合でないことは確かだった。
上体を起こそうと藻掻く。素早く左肩を押さえられて何もできなかった。
「てんげん、天元さまは、」
「安静にしてください。ご無事ですよ。頼まれているので呼んできますね。いいですか、安静ですから」
「ちが、」
……違う? 何がだ。
硬直している間に少女は出ていった。どうにか手を伸ばして今度こそ苦無を取り、布団の下に隠した。息が上がる。痛みだけならどうということもないけれど、鎖骨が壊れているせいで右腕が動かせない。どうしよう。
だって殺さなければいけない。
無事だと少女は言った。あのとき殺せなかったのだ。そのうえでもう一度のこのこやってくるというのなら殺さなければいけない。それが命令だ。この状態では敵うべくもないかもしれない。それでも。
あの、とうとい人を、
──今私は何と思った?
殺気はなかった。
大きな影が降ってくる。反射で振った左手首を掴まれた。体重に飽かせて押さえられて勝ち目がない。寝台が軋む。脛を使って腿を固定された。残る右手は頸。
一瞬で磔にされてしまった。肌に体温を感じるのはずいぶん久しぶりだった。
「よォ」
声変わりを終えた男の声だった。首から続く肩の線は逞しく、剥き出しの腕は隆々としている。
「久しぶりだな」
白い髪と共に装飾品が揺れた。じゃらじゃらとうるさい。これだけ音が鳴るのに奇襲に気づけなかった。左目に赤い化粧があった。
「天元さま……」
名前を呼ぶことしかできなかった。何を言えばいいのかわからなかった。
「お前さ、俺の腹刺しただろ」
ちらりと目線を左に振ってから天元さまは言った。辛うじて離さなかった苦無を見ているのだとわかった。
「ふざけてんのか?」
「い、いえ……」
頸を押さえる手には力が籠っていない。ただ静かに生命を握っているだけだ。
「おっしゃる、意味が」
「あ? 地味に急所外しておいてか。わざとだろ」
「なんの話、ですか」
急所を外した? あの距離で。私が? まさか。
自覚なしかよ、と天元さまが呟いた。表情を消した瞳が私を眺め下ろしている。飾った顔がぐっと近くなった。
「じゃあなぜ首を狙わなかった」
「……、」
首を。頸動脈を。そういえば狙わなかっただろうか。腹を刺したと言っていた。そうだっけ。私は、私は、……また、おかしいのだろうか。
「前もそうだったな。お前は俺を狙わなかった。地味な真似しやがってなんのつもりだ?」
わからない。前だってわからなかった。自分がわからなかった。途方に暮れるしかなかった。
「……天元さまは、ご存知では、ないですか」
「あ? なんで俺が知ってんだよ」
「私には、わからなくて、」
天元さまの太い首を見つめた。あのへんに頸動脈が通っている。斬れば血が噴き出して、人は呆気なく死ぬ。
「里を捨てた、天元さまなら、ご存知ではないかと……」
私はなんなのですか。
声は囁きにしかならなかった。何故だかひどく苦しかった。
「……そうだな。試すか」
ぎっ、と寝台が軋んだ。脚と腕の圧迫が消える。私は鋭く息を吸い込みながら天元さまの顔を凝視した。
「何を」
「いいぜ。殺してみな」
天元さまは寝台から降りて隣に立っていた。顔の距離だけが変わらない。つまりは首が近い。命が流れるところ。
「その苦無で俺を殺せ。それはそれは派手によ」
「ぁ……あ、」
千載一遇の好機だ。わかっていた。距離は近い。意識は明瞭で、外しようがない。なのに私の喉は無意味な声を漏らすばかりで、少しも役に立たない。
「どうした? 俺は抜け忍の宇髄天元さまだぞ。お前が一年追いかけた殺すべき男だ」
喉が無闇に引き攣った。ひゅうひゅうと耳障りな音がする。左腕を持ち上げた。壊れかけの絡繰のような滑稽な動きだった。
殺せ。殺せ。殺せ。このひとを殺せ。
殺せ。
いいから殺せ。
心を殺せ──早くしろ……‼
ぽん。
手首を叩かれてあっさり苦無が落ちた。それでも掴み直して突き刺すことは容易なはずだった。
「ほらな」
天元さまが敷布に落ちたそれを拾った。くるくると回して腰に納めてしまう。ほらな、と天元さまはもう一度言った。
「武器はそこにまだあんのに見もしねえ。わかっただろ。お前は俺を殺したくないんだよ」
嘘だ。
「そんな欲求を差し挟むことなど……!」
「派手に差し挟んでっから俺が生きてんだろうが」
「うそだ」
だって、だって、そんな無駄な心があるのだとしたら、私は忍ではない。
「私は……私は、忍です……! でなければなんだと……!」
それ以外に何の道がある。欠陥品でも忍は忍だ。他の生き方ができるとでも言うのか。
殺せ。殺せ。殺せ。早く殺せ。心を殺せ。息が苦しい。動揺している。ふざけるな。
「教えてやるよ」
聞きたくなかった。このひとは何か致命的なことを言おうとしている。けれど私から訊ねたのは確かだった。
「お前は一人の人間で、今殺そうとしているそれは心だ。俺と嫁たちが里から抜けてまで守ったものだ。心の叫びがお前に届いてるから、その手はここに来ても動かない」
紅い目が私を見ている。宝石か何かのようだ。こんなに容赦のない宝石を私は他に知らない。
「可愛げがあるじゃねえか、ええ? 俺だけは殺したくないとは、派手に健気だ」
天元さまは破顔した。ここで笑う意味がわからなかった。
「そん、そんなもの、あったら困るではないですか!」
心を殺すのはなぜだ。困るからだ。獲物に情をかけては困る。訓練が辛くては困る。為すべきことをし損じては困る。
「辛かっただろう」
「、」
とうとう息の仕方を忘れた。
「訓練は辛かっただろう、苦しかっただろう。今のお前は負の感情しか知らねぇ。だから心があっては困ると言う」
困る。困るに決まっている。心があって強くなれるなんて思わない。
「なあ、でもな。世の中には、それを埋めるくらい派手に幸せなことがあるんだよ」
嫁とゆっくり温泉に入ったりとかな、と天元さまは言った。それはどうでもいい。
辛かった? 苦しかった? 違う。違う違う違う違う。
横隔膜を叩き起こして息を吸った。吸うより吐く方が苦しかった。
「つ、らかった、のは、兄上の方ではありませんか……」
「は?」
私ではない。私ではない。私はそんなことを思わない。私ではない!
「あにうえ、は、忍にも、殺しにも、向いていらっしゃらなかった、から」
私は違う。私は殺しに向いている。私は何も思わない。
「私では、なくて……」
その先にどんな言葉を続ければいいのか見失って、私は口を無様に開閉した。それは反論ではなかった。ただ事実を並べただけだった。
ずっと腰を屈めて私を覗き込んでいた天元さまの顔がすっと遠くなって、すとんと下がった。寝台の脇に膝をついたのだとわかった。紅く光る目がいっそう近い。
「忍でなければ何なのか、と俺に訊いたな」
私は本当にその答えが知りたかったのだろうか。
「任務を果たせないお前は確かに忍じゃあねぇ。だが、忍でなければ俺を殺さなくて済む」
「……──、」
その一言は脳を
殺さなくて、いい……?
いや、そんなのは。命令が。抜け忍だから。だけど。誰も知らない。命令が。無理な話。
このひとを、殺さなくて、済むのならば──?
「俺を殺したくはないだろう。よかったなぁ」
皮肉でないことは私にだってわかった。穏やかに凪いだ声だった。ぼろぼろになった、言われたことすらこなせない惨めな脳髄に、ゆっくりと染み込んでいくような音色だった。
「……よ」
喉がからからに乾いていた。これから自分が口走るであろうことが恐ろしかった。
「よかったと、言って、いいのでしょうか」
「許す」
「兄上……私は……わたしは……」
「うん」
「苦しくて……兄上を殺すことを思うと、ずっと息が苦しくて。頭も……ぐちゃぐちゃで……」
「うん」
「殺さなくて、いいのなら……これは、なくなりますか……?」
「あぁ。お前の兄が派手に保証してやる」
かは、と息を吐いた。これまで詰まっていた分がやっと出ていくような心地がした。わけもわからずひたすら呼吸を繰り返した。
兄上の手が私の左手首を柔らかく握った。人差指が手の甲を撫でた。私の混乱が収まるまで、兄上はずっとそうしていた。
落ち着いてから私はぼそぼそと謝罪した。喉を通り抜けていく空気が熱かった。
「……申し訳ありませんでした」
「何がだ?」
「兄と呼ぶなと仰せでしたのに……」
天元さま、と呼び直す。やけに愕然とした顔をされた。やはり怒っていたのだろうか。
「俺がいつそんなことを言った?」
「里を抜けるときに」
「あぁ⁉ ……あー、あ、あぁ……あれはお前、『一の』が気に食わなかったんだよ。兄とは呼んでくれて構わねぇ。つか呼べ。天元さまだなんて他人行儀で地味な呼び方すんじゃねぇ」
……他人行儀、とは。
私はしばらく迷ってから、若干ぐらぐらする頭をそちらへ向けた。
「天元さまも、私の名前をお呼びにならないので……そういうものなのか、名をご存知でないのかと……思っていましたが……」
愕然とした表情がさらに深くなった。右手に覆われてすぐ見えなくなる。
「そうか……そうだな。それは俺が悪かった」
少し文句をつけただけだったのに、そう真面目に対応されると擽ったい。けれど再び露わになった目元がごく真剣だったから黙っていた。
「──黎元。宇髄黎元。俺の弟だな」
「
兄上は盛大に破顔した。眩しい笑顔だった。