避けなければ骨を持っていかれる拳だった。
「──天兄上、」
喋る暇も与えられない。襟に手が伸びてくる。兄上の軸足の角度が変わる。その予備動作が示すのは足払い。まともに受ければ膝が壊れる。
「くっ……!」
肺を絞る。一瞬で息を吸う。一歩を決死の思いで詰めた。手を裏拳で弾いて、動きかけた脚を押さえるように蹴りつける。手が届く。顎を狙った掌底。叩き落とされる。体勢が一瞬崩れた。追撃を愚直に防御する。盾にした腕が痺れるように痛い。
掴まれたら終わり。蹴られたら終わり。殴られたら終わり。縄の上を駆け抜けるようなぎりぎりの攻防。
兄上の膝がたわんだ。重心が動く。後ろへ。距離を取ろうとしている。間に合わない。立て直せない。掴めない、引き止められない。迂闊に身体を伸ばしては撃ち抜かれるだけ。
シィイ。腰を落とす。前傾は一瞬、強化するのは脚。後退と同じ速さで前進──くそ、兄上の方が
彼我の距離が広がった。目算で三歩。致命的だ。
天兄上の身丈はおよそ六尺。成長期に入ったばかりの私より半尺は高い。高所から打ち降ろされる拳は、遠くからしなる脚は、それだけで脅威だ。
私が対抗するには間合いを詰め続けるしかないけれど──必死で詰めた距離を、今しがた離されたのだ。
「あにう、」
黙れ、の一言よりも腹を狙う右の足裏が雄弁だ。半身で躱す。伸びきった膝を壊せたら至上、勿論そんな暇はない。私が前に出るより兄上が二撃目を蹴り出す方が早い。足さばきで躱す。また躱す。埒が明かない。天兄上の体幹は鋼か何かか。
四度目の爪先を掴んだ。肘を使って衝撃を殺す。一瞬でいい。一瞬遅滞があれば間合いに入れる。手刀を足首に入れながら前に進む。
天兄上が脚を引き戻したのと私が蹴り上げたのは同時だった。金的を狙ったのが僅かな腿の角度で逸れる。それでも爪先が右腿に入って小さな有効打になった。左右掌底の連打、さらに距離を詰めて打ち上げ、肘。顎は捌かれたが肘は入った。
畳み掛ける。距離は零。隊服の背を掴んで滑るように回り込む。巨体を投げるのは上手くやれば難しくはない。後ろから軸足の踵を蹴り飛ばす。揺れる。掴んだ服を引く──腰を屈めて引き下ろす。身体を捻れば兄上の身体が背中に乗る。
ふっ、と手応えが軽くなった。
あっと思う間もない。天兄上が私の背中の上でくるりと後転する。足裏から着地された。
放しそびれた手を逆に掴まれる。天地が回る。低く速い投げ技。受け身が取れない。見開いた目に追い討ちの拳が映る。
空いている手で弾いたのも虚しく、顎を容赦なく撃ち抜かれた。
「……、げほっ」
脳が揺れる。避けきれなかった。肩で闇雲に息をしたいのを抑えて、全集中の呼吸を維持する。
天兄上は私の顔を暫く見て、投げたまま私の隊服を掴んでいた手を離した。
「もう一回」
「
跳ね起きる勢いで打った掌底は何事もなかったかのように捌かれた。畜生。
その後十戦して、二本取った。
天兄上の継子となってから、訓練と任務を繰り返した。兄上と屋敷にいる日が被れば稽古をつけていただいたし、そうでなくても奥方殿の誰かは屋敷にいて、私が鍛錬をするのを助けてくれた。
訓練はあえて取り立てるほど厳しくない。兄上と組手をするときは素手だから全身打撲だらけになるけれど、骨も筋も痛めたことは一度もなかった。任務に差し障ると兄上は言っていたけれど、加減されている証拠だ。誰だって全力で稽古したらうっかり骨や筋を壊しかけることくらいある。
呼吸の派生は少しもわからない。音の呼吸を派生させた兄上にしてみても、教えられるものではないらしい。それで私は刀も取らずに、天兄上と組手ばかりをしている。
任務には少し難儀した。階級が上がっていくほどその傾向が強かった。狩るのは基本異能の鬼で、未だに実戦で使える技のない私は決め手に欠けた。天兄上はそれをわかっていて基礎体力と技術に重点を置いた稽古をつけてくださるのだろうけれど、もどかしい思いはあるままだ。
それから。
「……見ろ、あの派手なの……」
「音柱様の……」
「弟だからって……」
街を歩くと口さがない輩が煩い。
雑踏に紛れさせているつもりだろうが、私は常人より耳がいい。全部聞こえる。まとめると「血縁で音柱様に取り入ったいけ好かない派手野郎」という評価で、ここまで任務をこなしてきてもそれは変わらないままだ。
弟だから継子にしていただけたのは事実だし、天兄上からいただいた爪紅やら耳飾りやらで見た目が派手なのも事実だ。わざわざ反論することでもないけれど、とかく煩い。私は耳がいいので。
私だって何の目的もなく街中を歩くわけではないし、むしろ目的があったらもっと気配を消している。任務を共にする隊員がこの辺りにいるはずで、私はその人物を探している。
十六歳、男。階級
……あれか。
残り五歩ほどの距離になってやっとそれらしき少年は顔を上げた。
「鬼殺隊隊士、階級
「ああ」
「よろしくお頼み申し上げます」
任務地は鎹鴉が知っている。呼ぶと黒い影が上空を旋回して、滑る動きで南東を指した。
何を話すでもなく私たちは鴉の後を追った。
夜な夜な十代半ばの少年少女が消える町だ、と鴉は鳴いた。
歩きながら辺りを見回す。人の表情は固い。耳をそばだてても人が消える噂話は聞こえないので、既にその話が禁忌と化しているのだろう。
私は後ろを歩く冨岡殿を振り返った。特に老けては見えないけれど、彼は忍ではない。
「冨岡殿、囮捜査は得意ですか」
「……なぜ俺に聞く」
「冨岡殿も十代半ばですから」
二人しかいないからどちらかにかかるとは断言できないが、夜の町を手分けして歩けば鬼の気配くらいわかるだろう。そうなると日が出ている間は聞き込みをする時間より休息が欲しい。加えて言えば私は情報収集に向いていない。
私は手近な茶屋に入ろうとして、
──後ろから手が伸びてくる。気配がする。手首を掴まれる前に極め返して、振り向きざまに投げ飛ばした。
投げ飛ばす途中で、はためく羽織が蘇芳と幾何学の半分ずつであることに気がついて、慌てて地面に叩きつけるのをやめた。
受身は取ったものの背中から行った冨岡殿を引き起こして頭を下げた。
「……申し訳ありません」
「ああ……」
「何か御用でしたか」
「いや……」
「そうですか」
冨岡殿の表情は読みにくい。今その表情をわざわざ引き出す必要もないだろう。私は今度こそ茶屋に入った。冨岡殿がついてくるのが衣擦れでわかった。
そのまま夕暮れまで甘味と茶で時間を潰した。
「……あんたたち、もう帰った方がいいよ……夜は危ないからね」
赤光が差してくる頃、茶屋の女将は強張った顔で言った。夜な夜な人が消える件を前提にしていることは確かだった。それでも「人がいなくなる」とは言えないほど、どうやらその話題は禁忌であるらしかった。
「……そうですか。失礼します」
私は大人しく席を立った。冨岡殿は無言でついてきた。
「どうするつもりだ」
「このまま分かれて探索しましょう」
少し考えてから私は火薬玉を冨岡殿に見せた。一応音柱たる天兄上の継子なので、火薬玉は携帯している。音の呼吸が実戦で使えないのはまた別の話だ。
「鬼が発見できたらこれを鳴らします。派手な音がします」
「ああ」
「冨岡殿はどうしますか」
「……俺は、そういうものは持ってない」
「そうですか」
それは当然、携帯している方が珍しいだろう。
冨岡殿は無言で私の手から火薬玉を取り、羽織を翻して夕暮れの町並みに消えていった。
……いや、そういう意味では。
結論から言うと鬼は私の方に出たので、冨岡殿が火薬玉を持っている必要はなかった。素人が使うと腕くらいは飛ぶので良かったと言える。
隊服を着て得物を持っているにも関わらず、私の方が締まって美味そうだという理由で抱えていた少年を放り出して向かってきたあたり、大したことのない鬼だとみえた。放った火薬玉で顔面が半分吹き飛んでいたし。
……本当に、技量自体は大したことはなかったのだが。
鬼の長い髪がうねる。その一本一本が鋭く丈夫な針と化して私に殺到する。纏めて斬り落とし、躱して、しかし距離を詰めるには隙が足りない。
私は背後をちらりと見やった。助け出した少年が座り込んで震えている。下手に動かれるよりよほどマシだけれど、やりづらい。人を護る戦い方なんて知らない。
鬼の技量は大したことがない。少年にも自分にも傷ひとつつけずに立ち回ることはできる。巻きとられないように、貫かれないように、淡々と日輪刀を振る。多少薄皮が切れるくらいは許容範囲だ。隊服で守られた箇所はただの打撲、その程度の血鬼術でしかない。
けれど、これを夜明けまで続けろというのは、冗談では済まされない。毛髪が一体何本あると思っている。千や二千ではきかない。空はやっと青みをなくしたばかり。あと八時間は鬼の世だ。
正しい呼吸なら永遠に戦い続けられるなんて、そんな馬鹿げた話があるものか。
……一般人を見捨てれば、あるいは。ここでひとり死ぬのと、これからも鬼を倒せるであろう私が死ぬのと。
「──全集中、水の呼吸」
つまるところ。
「陸ノ型、流流舞」
私は冨岡殿の存在を、綺麗さっぱり忘れていたのだった。
青く
万の針を流麗な足さばきで掻い潜って、冨岡殿の刃が頸を落とした。
鬼の体が灰がちに崩れていく。風に舞って少し目が痛かったけれど、そんなことはどうでもよかった。
「……怪我は」
「──冨岡殿」
全力の踏み込みで距離を詰めた私は冨岡殿の肩を掴んだ。
「今のもう一回」
「……は?」
「水の呼吸ですね。素晴らしい、足さばきに特長のある流派だと聞いていましたがその通りです。
「い、いや……」
「駄目ですか言い値を払います体売ってでも払います。冨岡殿の小間使いになっても構いませんさあ早く」
鴉が一般人を優先しろとつつきに来るまで、私はずっと冨岡殿の肩を揺さぶっていた。
これしきのことで目を回すな。
屋敷に帰りつくなり私は天兄上を探した。まだ日が昇っていくらも経っていなかったけれど、兄上は庭で鍛錬をしていた。
「天兄上」
「おう、無事に戻ったな」
「兄上聞いてください」
「……おう?」
天兄上が呆気にとられた顔をしたのを見て、唐突すぎたと反省する。やり直そう。
「……失礼しました。黎元、ただいま戻りました。つきましては天兄上にお願いしたき儀がこざいます」
「何がつきましてなのか派手にわからねぇが、いいぜ。どうした」
縁側に腰掛けた兄上の隣に、自分は履物を脱いで正座する。両手をついた。
「水の呼吸の育手のもとで修行する許可をいただきたく思います」
「はァ⁉」
天兄上が大声を上げる。音柱の継子がそんなことを言い出してはいけないのはわかっていた。それでも、床に触れるほど深く頭を下げた。
「……っ、どうか……」
「や……待て、怒っちゃいねぇ。理由を聞かせろ」
「
私は言葉を尽くして水の呼吸の足さばきの素晴らしさを説明した。縦横無尽、変幻自在に、型と型を繋ぎ、死角を突き続けることの重要性。人が出せる速度には限界がある。死角を突き、不意を打ち、予備動作を減らすことで、きっとその限界を超えることができる。
私は忍を捨てられない。それでいいと天兄上は言ってくれた。なら、それを最大限に活かす方法があるはずだ。
脳裏にずっと、あの清流が焼き付いている。
「水の呼吸に鞍替えするつもりはありません。呼吸の仕方だけなら私には雷の呼吸が合っているのでしょう」
私の日輪刀は淡い黄色の刃をしている。黄色系統の刃は雷の呼吸に適性を持つ証だ。私には雷の呼吸が合わないのではない。その型が、戦い方が合わないのだ。
いつだってシィ、と息をする。歯の隙間から軋るように息を吐く。脚を、筋繊維を、血管の末端まで余すことなく強化して、その上で流れるような足さばきを修得できたならば、きっと、きっと。
「訓練も任務も、決して疎かにしないと誓います。天兄上……
深く、長く、溜息を落とす音がした。
「話はわかった。俺はお前のその意欲を買ってやりたい」
「では」
「だがなァ、黎。俺は水の育手への伝手を持ってねぇ。お前がどこぞの山へ住み込みになるのもいただけねぇ。遠くまで行っちまってどうするつもりだ、行き帰りだけで日が暮れる。任務はともかく稽古なんかつけてる暇ねぇぞ」
「……そ、れは」
言葉に詰まったところで肩を叩かれた。顔を上げろ、の合図だ。
そろそろと上げた視界の先で、にやぁ、と天兄上が笑っている。
「──俺が渡りをつけられる水の呼吸の使い手なんざ、水柱くらいしかいないわけだ」
「……み、」
み、水柱。
「どうだ、最高だろ?」
天兄上の顔が悪戯っ子のそれだ。私は唇を何度か舐めた。でなければ上手く声を出せそうになかった。
「よ、よろしいのですか。水の呼吸の頂点に……」
「よろしいも何も、可愛い弟の願いは五割増で派手に叶えてやんなきゃなぁ? 心配すんな、あの御仁は俺の継子を突っぱねるほど頑なじゃねえよ」
「ありがとうございます」
「おう、そこで尻込みしないのがお前のいいところだ」
で、と天兄上は笑顔を保ったまま私を指さした。目元だけが真顔に戻っている。
「根回しはしといてやるから、お前は風呂入って早く寝ろ」
「え」
「その格好、藤の家にも寄らずに帰ってきたな? この音柱様は徹夜は推奨してないぞ」
「……」
私は俯いて、右手で顔を覆った。
「……天兄上」
「何だ」
「今、いきなりとても眠いです……」
「どんだけ興奮して帰ってきたんだか。脳内麻薬が切れたな」
からからと兄上は笑った。
そうか、私は、興奮していたのか。だからこんなに心臓が逸るのか。
半々羽織の人「どうして茶屋に入るか聞きたかっただけなのに……」