突き刺される激痛で意識が醒めた。
咄嗟のことで悲鳴が抑えられない。藻掻こうとしても手足が全く言うことを聞かなかった。首と腰を捻じる。
「……さん、黎元さん、黎元さん!」
名前。私の。
はたと瞬きをする。
焦点を合わせるのに時間がかかった。冷静になってみれば目の前にいるのは鬼ではない。看護着の女だった。
「黎元さん、わかりますか。落ち着いて、息をしてください」
息。
痙攣するような呼吸。それをやっと自覚した。手足の痛みを堪えて全集中の呼吸に戻していく。
「……しの、ぶ、殿」
「はい、黎元さん」
女は、蝶屋敷の主は、片手に注射器を持っていた。
「さっき打ったのは解毒薬です。痛かったですね、ごめんなさい」
「効き……ますか」
「大丈夫ですよ。元通り鬼殺に戻れますから、安心してください」
そうか。それなら、良い。
「痛むでしょう。少し待っていてくださいね」
しのぶ殿は部屋の外へ一旦姿を消した。
彼女の言った通り手足の傷が異様に痛かった。あまり難しいことが考えられない。動く首を使ってあたりを見回した。枕元に日輪刀が置いてある。額当て……あれは、どうしたのだっけ。
「お待たせしました。これ、飲んでください」
頭を軽く持ち上げられる。ぐらぐらした。生ぬるい液体を流し込まれるまま飲んだ。飲もうとした。
──毒だ、と脳が喚き散らした。
「げほっ……!」
顔を背けて吐いた。反射だった。身体が上手く起こせない。余計咳き込んだ。
「黎元さん」
「な、にを盛った……‼」
苦味とえぐみ。舌に乗って消えない。毒の味だ。覚えている。吐きたい。喉に指を突っ込もうとして失敗する。まともに腕が動かない。
「黎元さん、黎元さん」
身体を横向きに倒される。背を撫でる手があった。女の華奢な手だった。
「黎元さん、薬湯ですよ。痛み止めです。今までにもお出ししたことがありますよ。大丈夫ですから、落ち着いて」
「……、……」
心臓が鳴っている。首筋に汗が伝った。
もう一回頑張ってみましょう、をいくら繰り返しても、私は薬湯を飲めなかった。
何度ただの痛み止めだと言い聞かされても、体が既に毒物を排出する構えだった。どうしてもそれを解くことができなかった。
「仕方ありませんね……これは、お塩とお砂糖を入れただけの湯冷ましです。汗をたくさんかいて脱水気味ですから、これだけでも飲んでください」
実際最後に飲まされたものから毒の味はしなかった。安堵と共に飲み干して目を閉じた。嘔吐を繰り返してひどく疲れていた。
「少し眠った方がいいですね。起きたら呼んでください、水分補給をしましょう。おやすみなさい」
足音は僅か。空気が揺れる。しのぶ殿は部屋を出ていった。目を瞑っていてもそれがはっきりとわかった。引き戸が鳴った。閉まったとわかった。
もっとはっきりした足音が煩い。小さくて、軽い。少女の足音。とと、と早足で廊下を行く。話す声もする。内容はわからない。高くて、よく通る。それが複数ある。
眠れなかった。
足音が部屋の前を通り過ぎるたびに目を開けた。戸を凝視せずにはいられなかった。勝手に心拍が上がる。だって今動けない。襲われたらひとたまりもない。それで眠れるはずがない。
戦闘で尖った神経が元に戻らない。そのせいだという自覚はあった。きっと全ては気のせいだ。鬼は
──だからどうした。死にたくなくば起きていろ。
頭蓋骨の中で無意味な警告が反響する。頭が痛い。腕も脚も痛い。眠らなければいけない。いたずらに体力を消耗しては、……
……。
……目が醒める。足音だ。通り過ぎる。微睡んでいたらしい。
足音の合間に僅かに微睡むのが精一杯。尖りすぎた神経が削れていく。自分が憔悴していくのがわかる。
水を飲ませるために看護婦が──気配の濃さからして蟲柱殿ではなかった──やってくるときには必ず起きていた。それを何度か繰り返す頃には、もう人影を視認することも、回数を数えることもできなかった。
それでも、眠ることはできない。そんなことをしたら殺されてしまう。……いや、違う。違うはずだ。私は安全な場所にいる。死にたくない。ここは、
……ここは、どこだっけ。
額を撫でる指があった。そこまで人が寄ってきてなお気づかなかったことに驚いて、びくりと目を開けた。
大きな人影。日が差し込んで、白っぽく浮いている。後頭部を敷布に擦り付けるようにして逃げた。
「……黎。黎? 黎元」
名前。名前を、呼んでいる。私の。低い、滑らかな声。これは、ええと。
「……ん、あにうえ」
「ああ」
何だ、天兄上か。ならいいか。
「どうした。派手に参ってるな」
「眠れ……なくて」
「うん?」
目を開けているのが難しい。だったらせめて起きていないと。いや、眠らないといけないのだっけ。
「気配が……煩い……起きて……眠ったら、殺される……しにたくない、眠らなきゃ……いけないのに……」
「そうか。何せ下弦を相手にしたんだもんなあ」
指が撫でる。全身から力が抜けて、沈み込むような心地がした。駄目だ、眠ってしまう。こわい。
「大丈夫だ」
低い声が染み込む。
「大丈夫だ。俺がついてる。寝てる間、絶対守ってやる」
「ほんとう……ですか……」
「ああ。派手に安心しろ」
天あにうえがいうなら、大丈夫だろうか。
「ここにいるから」
気配がする。おおきな気配。よく知っている。すこしもこわくない。
すう、と息をした。
すう、すう、と呼吸が深くなっていくのを確認して、天元は弟の頭を撫でていた手を止めた。
寝顔にすら憔悴が濃い。死闘をくぐり抜けた精神が上手く休まらなかったのだろう。今の状態は恐らく睡眠というよりは失神に近い。
「天元さん」
「胡蝶か」
戸を開けて入ってきたのは小柄な少女だ。蝶屋敷を継いでから柔らかな微笑みを絶やさないその顔は、今は少し固い。
「黎元さんは……」
「寝た」
「よかった。様子を見にきた子たちから、眠れていないようだと報告かあったので」
「いつからかわかるか」
「運ばれてきて目を覚ましたのが夜明け過ぎです」
天元はちらりと窓の外を見た。太陽は既に中天を過ぎている。
「容態は」
淡々と彼は問うた。命に別状はないと聞いていたから、任務を終えて藤の家で休んでから見舞いにきたが、どうやら少々様相が違う。
「傷自体はしっかり休んで回復訓練を行えば後遺症は残らないでしょう。問題は毒と精神的な症状ですね」
「おいおい、毒には慣れたもんだろ? 蟲柱さんよ」
「殺す方なら得意なんですけどねえ」
さらりと軽口を叩いてから胡蝶は話を戻した。
「生き残っていた他の隊士と鎹鴉から聴取しましたが、手足の麻痺と痛覚強化を主症状としています」
天元は額に血管を浮かせた。それが獲物をいたぶるための毒であると瞬時にわかった。
「毒に耐性があって、呼吸で巡りを遅くしていたとはいえ、交戦したのですから体内に入った量も多いです。手は尽くしますが回復するかどうかは本人次第としか言えません」
「……そうか」
「精神的な問題の方ですが、眠れないのは興奮による過覚醒でしょうね。薬を飲ませてあげたいところですが……」
淡々と語っていた胡蝶がそこで初めて言い淀んだ。天元は表情で促す。
「……痛み止めの薬湯が飲めなかったんです。眠りを促す薬もたぶん飲めないでしょう」
「飲めなかった?」
「何を盛った、と凄まれてしまいました。どうしても吐き戻してしまうみたいだったので、水分を摂らせるだけに留めています」
天元は顎を撫でた。
「……そりゃあ随分と、根が深い……気が立ってんだろうな。人の気配が気になって眠れなかったんだとよ」
「そうですか……」
屋敷の中の気配を探れること自体は驚きに値しない。下弦と戦って撃破しあまつさえ生還した隊士だ。
毒を瞬時に識別することも、浅い眠りを保って襲撃に備えることも、弟が──そして天元も──里で身に着けた有用な技術だが、ときにはこうして己を苦しめる刃となる。
天元は迷わなかった。
「
胡蝶はしばらく考えるようにした。
「……そうですね。蝶屋敷で休めないなら仕方ありません、かわいそうですし。のちのち薬湯の原料はお渡ししますから、隠を呼んで……」
「いや、いい」
天元は弟の身体を引き起こして素早く背負った。弟は少し呻いたが、目を覚ます気配はなかった。
「重いだろ、こいつ」
「お二人とも、お大事に」
茶化してみせたが胡蝶は騙されてくれなかった。
鋼のように鍛え込んだ、背の高くなった身体は重い。
ここまで成長してもその身に過去を抱え込んでいると思うと、笑ってしまいたいような奇妙な哀惜があった。
捨て去ることなどできるはずがないと、天元は身をもって知っていた。ただゆるく畳んで、隅の方に仕舞ってあるだけなのだと。
何度か目を覚ましたような気がしたし、それすら夢だったような気もした。
本当に目を覚ましたときも、しばらくそれが認識できなくて、ぼんやりと天井を見上げていた。差し込む日光が天井を三角に切り取っていた。
僅かな音を立てて襖が滑って、ようやく首を動かしてそちらを見た。私は起きていたのか、と思った。それでやっと傷が痛むことを自覚した。
「黎元さん?」
「……すま、どの」
名前を間違えたわけではなかったと思う。しかし須磨殿の顔がぱっと引っ込んで、どたどたと足音が遠ざかっていく。
「まきをさぁああああん、雛鶴さぁああああん! 黎元さんが目を覚ましましたー‼」
「煩い!」
本当に煩い。一喝したのはまきを殿だろうか。
しばらくして喧騒はぴたりと止んだ。人が消え去ったようで落ち着かない。私は蝶屋敷に運ばれたような気がするけれど。
三歩分の足音が部屋の前で立ち止まったのが聞こえた。わざと立てたとわかった。
「黎元さん、入ってもいいですか」
雛鶴殿の声だった。
「……どう、ぞ」
喉に上手く力が入らない。随分眠りこけていたらしい。
入ってきた雛鶴殿は柔らかく微笑んだ。
「おはようございます。水、飲めますか?」
飲まされたのは味はついていたが害のない水だった。しばらく喉を鳴らして飲む。
「……私は、どれくらい眠っていましたか」
人心地ついてから尋ねると、五日です、と雛鶴殿は答えた。
「初日に天元様が黎元さんを蝶屋敷から引き取ってきました。……本当に、随分心配していたんですよ、天元様。今は任務でいらっしゃいませんけれど」
「……大事、ありませんので」
「天元様にそうやって返事したら怒られますよ。満身創痍ですからね、黎元さん」
「……」
死んでいないので大事ありません、と繰り返す気力はなかった。たぶんこう言いつつ雛鶴殿も少し怒っている。
「じゃあ、ちょっとごめんなさい」
雛鶴殿は掛布の下から私の右手をすくって持ち上げた。それだけでぴりりと痛みが走る。
「今私がどの指を握っているかわかりますか?」
「……中指」
「はい。私の手、握れますか?」
指に力を込めたが緩慢に曲げるのが精一杯だった。肘も肩も同じようなものだ。大雑把な動きならできる、といったところ。
左手と両脚も同じように診察されて、右腕、左腕、両脚の順に自由が利くことがわかった。脚は戦闘中に切り捨てた記憶があるから仕方がないだろう。
……戻らなかったら、どうしよう。
「大丈夫ですよ」
雛鶴殿は指の動きだけで私の手の甲を撫でた。その動きが天兄上によく似ていた。
「大丈夫」
何がどうして大丈夫なのか言わないまま、雛鶴殿は少し困った顔をした。
「解毒薬が飲めれば、きっと回復が早いのですけど……」
「……」
飲みます、と即答できなかった。鬼の血の苦い味が蘇る。
「……その薬は、苦いですか」
「ちょっと待ってくださいね?」
雛鶴殿は傍らに置いた盆から何かを湯呑に取って、急須の湯を注いだ。ひと口傾けたあと、その柳眉が寄る。
「……かなり」
「……」
飲まなければいけないだろう。それが正しいことだ。口を閉じたまま上顎を舐める。鬼の毒は苦かった。舌が痺れた。大抵の毒は苦い。
「無理しちゃ駄目ですよ。薬湯が飲めなかったことは聞いてます。貰ってくる薬、強いから紛らわしいでしょう」
薬と毒は紙一重だ。あのときの私はそれをうまく判別することができなかった。今ならちゃんと飲めるだろうか。……飲まなければいけない。
「……飲みます」
身体を起こした。体幹は麻痺していないはずだが、五日も寝込んでいたからかかなり難儀した。湯呑に右手を伸ばそうとして、込める力の足りなかった腕が落ちる。
「本当に無理は……」
「このまま手足が動かないのではやっていられません」
「……ちょっとずつにしましょうね」
雛鶴殿はため息交じりに言ったが、実のところそれは正しかった。
やはり薬湯は飲めなかったから。
「食べて寝れば良くなりますよ! 日光浴も効果的だそうです」
雛鶴殿と交代した須磨殿は、そう力説しながら私に粥を食べさせた。幼い子供になったようで気恥ずかしかった。
「薬湯が飲めないのは仕方ないです。あたしも苦手ですし……苦いわりに効きませんし……」
「……」
須磨殿の手は淀みなく、口の中から粥がなくならないので相槌も打てない。所在なく緩慢に右手を開閉した。……匙は持てそうにない。
やがて私の胃に粥を詰め込み終わった須磨殿はにっこりと笑った。
「ここは陽がよく当たりますから、ぬくぬくしててください。ちょっと日に焼けちゃうかもしれませんけど、大丈夫。すぐ良くなりますよ」
須磨殿の「大丈夫」もさして根拠がないように思える。それでも嫌ではなかった。
背に当てられた座布団と枕にもたれていれば、座位を保っているのに苦労はなかった。逆にいえばもたれなければいけないほど身体が衰えている証左でもあった。
呆、と庭先を見つめる。障子は開かれていて、外がよく見えた。私は園芸には疎いけれど、天兄上が派手で粋な庭を保つことに心を砕いているのは知っている。
思考がふわふわと彷徨った。積極的に眠る気にもならず、鍛錬も瞑想もしないでぼんやりとしているのは随分久しぶりのような気がする。
あれは菖蒲、あれは藤棚。鬼避けになる。額当ては……そうだ、壊したのだっけ。天兄上は怒るかもしれない。他の隊士たちは無事だろうか。麻痺が手足だけで済めばいいけれど。麻痺毒。使うには便利だけれど使われるのはこんなに不快なものらしい。
……どうして今、薬湯が飲めないのだろう。
今までこんなことはなかった。毒と薬は区別できたし、毒であったとしても問答無用で吐き戻してしまうような訓練など受けていない。余程のことでない限り涼しい顔でやり過ごすべきだ。いや、手足の麻痺は余程のことか。違う、悪いのは毒であって、解毒薬は飲まなくてはならない。
私は俯いて緩慢に首を振った。思考が上手く纏まらない。私の頭はおかしくなってしまったのだろうか。
せめて無味ならまだ飲めそうな気がするけれど、無味無臭の毒が希少であるように、無味無臭の薬もまた稀なのだろう。
飲めないなら普通、食わせるしかない。
咄嗟に苦い唾液を飲み下す。
落ち着け。
さっきの粥に入れたところで苦味は誤魔化せない。毒の味を誤魔化すならもっと濃い味でないと駄目だし、私はそれでも判別できるよう訓練を受けている。いや、だから、毒ではない。薬だ。須磨殿が作ってくれた。
胃が蠕動する。気持ち悪い。せり上がる胃液を飲み下す。
忍は毒の扱いを知っている。悟らせずに摂らせる。違う。あれは薬。須磨殿はそんなことをしない。私を心配してくれている。ではまきを殿は。姿を見ていない。薬が飲めない患者。心配しているなら飲ませようとする。道理だ。毒を──毒ではない、薬だ、でも、薬だからこそ、粥に紛れていたかもしれない。そんなことしない。本当に? 飲まなければ治らないのに? いや、雛鶴殿は苦い薬だと言っていた、
──私がそれを確認したか?
「っ、ぐ……!」
気がつくと喉に指を突っ込んで嘔吐していた。鼻に抜ける
何をしている。違う。この家に悪意なんてない。故意に吐き戻すとは何事だ。胃が痙攣して痛い。須磨殿は私のことを思って、なら薬を、違う違う、毒なら、訓練だから、違う、違う、違う、何が違う?
何にせよ吐いたのは間違いだ。それだけが灯明のように確かだった。突き動かされるように手を伸ばした。震えているのが滑稽だった。
ほとんど消化していない粥に反応の鈍い右手を突っ込んだ。掬って口に押し込んだ。胃液で喉が焼ける。飲み下す前に吐いた。吐いたものをまた口に運んだ。
「黎元さん、お水──……黎元さん⁉ 何してるんですか黎元さん⁉」
焦った声を遠くに、私は頭がおかしいのだな、と頭の隅で思っていた。止まるにはあまりに冷静さが足りなかった。
夢を見ている。
その自覚があった。自覚があるだけで何の自由も利かなかった。
男に酷く殴られる夢だった。顔は見えなかったが父上だとわかった。
あるいは人を殺す夢だった。断末魔など聞きたくなかったけれど、耳を塞ぐことができなかった。
あるいはただただ血反吐を吐く夢だった。夢のくせに喉の痛みだけが妙に鮮烈だった。
夢は変わったり、混ざったり、深くなったりした。目覚められないまま彷徨うしかなかった。
人を殺す夢。首を折る。
血を吐く夢。
人を殺す夢。心臓を突く。
殴られる夢。
血を吐く夢。
人を殺す夢。頸を掻き切る。
人を殺す夢。額を割る。
人を、
……天兄上?
今まさに殺そうとしている獲物が兄上の顔をしていた。手を引きたかったが苦無は当然のように延髄を断った。
次の獲物も天兄上の顔だった。頸を落とした、その顔が苦悶を浮かべて私を睨んだ。
人を殺す。そういう夢だ。対象に家族の顔が増えた。天兄上であったり、弟妹であったりした。顔も覚えていないはずだったのに、それが弟妹だとはっきりとわかった。
そうして殺した弟妹が確かにいた。誰を殺したのが事実で、誰を殺したのが夢なのか、次第にわからなくなっていった。
何度無駄に手を止めようとしたかはわからない。身体は言うことを聞かない。紛うことなき悪夢だった。
殺す夢。兄を殺す。弟を殺す。妹を殺す。
……私は、もうひとり、殺さなかったか。
気がついたときには果てのない血溜まりにへたり込んでいた。あちこちに頭が転がっていた。動きたくもなかったのに、身体は勝手に立ち上がった。踏み出した足が誰かの頭を蹴り飛ばした。確認したくても目線が動かなかった。
「黎元」
女の声がした。
「おいで、黎元」
私はその声を知っている。
「あねうえ」
夢の中の私は答えた。血溜まりの先で、とっくに死んだはずの人が両手を広げていた。
「あねうえ、しぬのですか」
「ええ、死ぬわ」
「そうですか」
一歩ずつ進む。歩幅が狭い。目線が低い。夢の中の私は幼い。
背筋に氷を流し込まれたような心地がした。知っている。この先に起こることを知っている。
嫌だ。
姉の形のそれは私をふわりと抱き込んだ。特に反応を返さない私は、抱きつくのよ、と教えられて腕を上げる。
遠い記憶だ。これは夢だ。嫌だ。いやだ。
「あなたは少し自分に疎いから、お
「おまじない」
言わないで。姉上、どうか言わないで。言い終わらないで。
「わたしがどうしてこういうことを言ったのか、わからなくていいのよ。忍でありたいのなら、わからないままでいた方が、きっと」
私は苦無を持っている。それでする仕事はひとつしかない。何をするか知っている。いやだ。身体は少しも思い通りにならない。
「あなたが、助からないわたしを……口封じとしてすぐに殺さなかったことを、忘れないでね。きっと、ずっと、覚えていてね」
そこに確かにある心を、ずっと覚えていてね。
聞き終わってから私は、姉上を殺した。
そういう夢で、そういう事実だった。
「……っ‼」
身体が自由になって、まず最初にしたのは跳ね起きることだった。
目覚めていることにしばらく自信を持てなかった。とっぷりと日が暮れて暗い部屋で、しばらく壁を凝視していた。血の染みが現れやしないか、生首が転がっていないか怖かった。
固く握りしめたつもりでいた拳はだらしなく緩んでいる。それでここが現実だと認めた。毒で夢現を確認するとは皮肉なものだ。
息が荒い。整わない。どうにか持ち上げた両手で顔を覆った。
わからなくていいのよ、と姉上は言った。でもそれがわかってしまう。私は、もう忍ではないから。
「それは、
あのとき、私は姉上をすぐには殺さなかった。もう死ぬとわかっていて、最期の言葉を聞いた。
殺したくなかったからだ。そう思ったからだ。
『心を覚えていてね』
『それは心だ』
姉上と天兄上の声が被る。
そうだ、それが心だ。今ならそれがわかる。
私が、ずっと殺してきたものだ。
心を殺すのはなぜだ。辛いからだ。訓練が辛くて、苦しくて、それが困るからだ。
嬲られるのが辛い。毒を飲むのが苦しい。家族を殺すのが辛い。怪我をするのが苦しい。
それを、今まで積み上げて、心を殺しながら無視してきたものを。
これが心なのだと認めてしまったら、受け止めざるを得ないじゃないか。
息が引き攣る。体幹から震えが上がってきて止まらない。大声で叫び出してしまいそうだった。
そんなの無理だ。あんなに辛かったのに。こんなに苦しいのに。今まで必死に気付かないふりをしてきたのに。思い出してしまった。気付いてしまった。わかってしまった。
どうして天兄上は笑っていられるのだろう。どうして奥方殿たちは平気なのだろう。私には無理だ。出来損ないだから。欠陥品だから。磨り潰されずにいるなんて無理だ。
深く息を吸う。一分かけて吸って、一分かけて吐く。途中で喉がひくつくのは無視した。
もう一度殺し直すしかない。心を丁寧に細切れにして、埋めて、もう二度と出てこないようにするしかない。そうでなければずっと苦しい。嬉しかったこととか、楽しかったこととか、そんなものは放り捨てるしかない。
心を殺せ。心を殺せ。心を殺せ。
心を殺せ。残らず殺せ。絶対に殺せ。必ず殺せ。この先穀潰しでいたくなければ殺せ。
夜が明けるまでそのままでいた。昔息をするようにやっていたはずのことが、夜通しかかった。
苦しいことが多すぎたんだ。辛いことがありすぎたんだ。
幸せで埋めるには、もう遅すぎたんだ。
曇らせ展開が大好きです。
ここすきありがとうございます!この話にもよろしくお願いします!