殺しが上手い忍のはなし   作:海野ミウ

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心を殺す

 

 遠い玻璃の向こうを、ただ他人事のように眺めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日は生憎の雨だった。

 夜半から降り続いた音をまきをは夢うつつに聞いていた。湿気を吸った彼女の髪はあまり言うことを聞かない。元々こしの強い髪質なのだ。

 身支度を手早く終え、風呂敷の包を持って廊下を歩く。臥せっている黎元の世話は、今日はまきをの当番だった。炊事は雛鶴と須磨。女手が多いと分担が容易だから便利だ。

 部屋に近づくと起きている人間の気配がした。まきをはこれでも優秀なくのいちなので、その程度の気配は簡単にわかる。

 

「おはよう、黎元さん。入ってもいい?」

(はい)

 

 襖を開けた彼女は、起き上がっていた黎元の目元に濃い隈があるのを見てたいそう驚いた。

 

「ちょっと、大丈夫? 顔ひどいよ」

「少し眠れなかっただけです。大事ありません」

「おおごとだと思うけど……」

 

 義弟の表情はほとんど動かない。声の調子もほとんど変わらない。だが、眠っていた間や昨日の憔悴した様子はさすがに明白だったので、それほどではないかな、とまきをはあたりをつける。

 

「粥があるけど、食べられそう?」

(はい)

 

 黎元はすんなり頷いた。昨日ちょっとした錯乱状態にあったというが、大丈夫そうだ。

 手足に麻痺が残る黎元を介助して着替えさせる。脚の麻痺が強くて難儀するが、意識のなかったときと比べれば楽なものだ。傷に響くかと顔を窺ったが、無表情から苦痛に似た何かを読み取るのはまきをには難しすぎた。

 

 ひと匙ずつ粥を食べさせる間も義弟は淡々としている。ちょっとくらい照れてくれてもいいのに、その方が可愛いのに、とまきをは思う。

 黎元はとっくに大柄な大人の体格をしていて、美しく整った顔が無表情を貫く様子は冷静に考えれば結構怖い。でも夫がことあるごとに可愛い可愛いと構い倒すので、そうかもしれない、とまきをは思っている。わかりにくく夫に懐く様子を知っているのもあるだろう。

 黎元の無表情には困ったものだが、それが里の訓練を平然とくぐり抜けた秘訣だとわかっているから、まきを含め天元の妻たちは何も言わない。

 それは彼女たちが獲得できなかったものだ。心を擦り減らすことしかできなかった彼女たちには、できなかったことだ。

 

「薬湯はありますか」

「え? いや、用意してきてないよ」

「飲みます」

 

 まきをは驚いた。蝶屋敷に運ばれたときに薬湯が飲めなかったのは彼女も知っている。しばらく飲ませないことにしようと妻三人のあいだで話し合ったばかりだ。

 

「無理しちゃ駄目だよ」

「飲みます」

 

 言い張る、と言うには語気は淡々として静かだ。感情の乗らない瞳に見つめられると居心地が悪い。

 結局彼女は折れた。

 

「……ひと口だけね」

 

 躊躇いつつ差し出した湯呑の中身を義弟は平然と飲み干した。まきをは目を丸くする。

 

「だ、大丈夫⁉」

(はい)

 

 今ひとつ釈然としなかったが、飲めるならそれに越したことはない、と彼女は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が明ける前から降り続いた雨は激しさを増している。

 しのぶは脚絆を濡らす跳ね返りに辟易としながら歩を進めた。世の中の大多数の人間がそうであるように彼女は雨が好きではなかったし、鬼殺隊の大部分の人間がそうであるように雨を疎んでさえいた。分厚く垂れ込めた雲は日光を遮ってしまう。こんな日に鬼を狩るのは柱でさえも骨が折れる。

 

「ごめんください」

 

 訪ねるのは音柱の屋敷だ。派手好きで有名な彼の(やしき)にしては華美さが足りないようにも見えるが──断じて地味ではない──見る目があれば金と手間を掛けた上等なつくりであることがわかる。あの御仁は破天荒に見えてあれで常識人なのだ。

 はい、と出迎えてくれたのは黒髪を流した女性だった。音屋敷には使用人がいない代わり妻が三人いて、屋敷の維持と柱の支えをこなしている。明日をも知れぬ鬼殺隊士の中では珍しいくらいに、仲睦まじく安定した家族だ。

 

 同じ柱のしのぶとて、私用で、しかも主不在の屋敷を訪うほど親しくも図々しくもない。往診だった。

 患者の名前を宇髄黎元と言った。怪我は多いが大人しく療養するので、手のかからないたぐいの患者である。常ならば。

 今となっては、先日下弦の参を死闘の末に(たお)し重傷を負ってから若干の錯乱状態にあり、周囲に悲鳴を上げさせる困ったさんであった。彼自身が悪くないことは百も承知だし、実際心に傷を負う隊士は多いのだが、忍者の出だというのが面倒なのだ。毒遣いの剣士とはいえ薬湯を毒扱いされるのは初めてだった。優しい毒とは断じて薬のことではない。

 

「黎元さんの調子はいかがですか?」

「落ち着いたみたいです。薬湯も朝昼飲めたと」

「あら、よかった」

「でも、昨日かなり混乱していたので心配で……なんにもなければいいんですけど」

 

 きゅっと眉を寄せるこの女性は須磨と言ったと思う。歳は知らないが、愛嬌のある振る舞いがしのぶは好きだ。

 前日の錯乱ぶりはしのぶも寄越された手紙で把握していた。吐き戻したものを口にしようとするとはかなり尋常ではない。往診が今日の昼までずれ込んだのは彼女の多忙さゆえだ。それをとやかく言うような人間は音屋敷にはいない。そういうところもしのぶには好ましい。

 黎元の部屋はかなり屋敷の奥にあった。静かな方がいいかと思って、と須磨は笑っていた。

 

「黎元さん、しのぶさんがいらっしゃいましたよ」

(はい)。どうぞ」

 

 返事は平淡だった。少なくとも運ばれてきた当日のような、憔悴しきった者の声ではなかった。

 襖を開けた須磨に会釈して敷居を跨ぐ。彼女はそのまま襖を閉めた。当然呼べば飛んでくるだろう。

 青年は上体を起こしてこちらを見ている。傍に座したしのぶは黎元さん、と声をかけた。

 

「調子はいかがですか?」

「大事ありません」

 

 淡々とした声から事実なのか強がりなのかを判断するのは至難の業だ。淡々とできないときもあると知らなければ余計に疑っただろう。もっとも先日運ばれてきたときにやっと判明したことだが。

 

「それはよかった。触診するので横になっていただけますか?」

(はい)

「身体を起こしているのは辛くないですか?」

「問題ありません」

 

 これが他の隊士なら「直接否定しないということは遠回しな肯定と取りますが本当に大丈夫ですか?」と詰め寄……念を押すのだが、幸い黎元は模範生である。身体を倒す動きもゆっくりではあるがきちんと力は入れられている。

 両手両脚を触診する。脚の麻痺が強いが、腕の方は解けてきているようだ。薬湯が正しく効いていることにしのぶは顔に出さずに安堵した。耳を澄ませば深く鋭い呼吸音がする。黎元の呼吸は兄である音柱と並べても遜色ないほど強度がある。気休めでなく、これなら本当に鬼殺に復帰できるだろう。

 

 下弦を(たお)した(きのえ)の隊士。その進路は明白だ。しのぶは常の笑みの中に複雑な心境を混ぜ込んだ。強くなればなっただけ、隊士には濃い死の影が付き纏う。昇進を喜ぶには鬼は強く、人は脆すぎた。

 もっとも、それを憂うのはしのぶの役目ではない。

 頓服の痛み止めと追加の薬を出して彼女は音屋敷を辞した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼を過ぎても大粒の雨が降っている。

 重たい雲が覆う空は少しも輝きを増さない。まるで夜明け前のようだ。天元は苛々とため息をついた。水も滴るいい男、なんぞとは言うが実際に濡れては寒くて煩わしいだけだ。彼はそもそも何もしなくても派手な色男である。

 

「あら、天元さん、おかえりなさい。無事に戻られて何よりです」

「あァ……胡蝶か」

 

 見下ろした傘の内から声がした。誰かと思ったが蟲柱らしい。柱いち小柄な少女の背丈は天元の胸ほどまでしかない。上向きに傘を傾けられてやっと顔が見えたが、雫がかかりそうで冷や冷やする。

 

「黎元さんならお元気ですよ。昨日、目覚めた直後は若干錯乱していたようですが、受け答えはしっかりしていましたし、薬湯も飲めたそうです」

「錯乱っておい……」

 

 蟲柱は笑みを深くした。笑顔に慣れた人間のその表情は往々にして何かを誤魔化す顔だ。

 

「今お元気なのは本当です。きちんと療養すれば問題なく鬼殺に戻れるでしょう」

 

 天元は息をついて額当ての位置を直した。

 

「そうかよ。なら詳細は聞かねぇ。弟が世話になったな、礼を言う」

「いいえ。お二人とも、お大事に」

 

 一礼して去っていく少女の背中を天元は見送らなかった。その程度には身内が大事だったので。

 

「天元様ー……天元様ァ⁉」

 

 同じ名前でも一瞬でこうも籠る感情が違うのはなぜなのか。天元は出迎えた須磨を苦笑しつつ見下ろした。蟲柱を小柄と言ったが、正直妻たちも彼からすればそう変わらない。

 

「よォ、ただいま、須磨」

「おかえりなさい! 天元様何で濡れてるんですかー⁉ 傘の幅足りなかったですか⁉」

「須磨、うるさーい!」

「だって天元様がー! まきをさんお湯沸かしてお湯ー‼」

「悪かったから、落ち着け」

 

 ぴゃーぴゃー叫ぶ須磨も煩いが、わざわざ遠くから怒鳴って寄越すまきをもそれなりに煩い。あといくら何でも傘から肩ははみ出ないから落ち着いてほしい。

 

「途中風が出ただけだ。黎は?」

「大丈夫です! このまま会いに行っちゃ駄目ですからね。お風呂は時間かかりますけどとりあえず身体拭いて着替えちゃってください!」

「わかったわかった」

 

 このときすぐさま弟のもとに飛んでいかなかったことを、天元はこの後深く後悔する。

 

「黎、俺だ」

(はい)。どうぞお入りください」

 

 平淡な答えだった。ざらりと鼓膜を撫でる。

 ──吐き気がするほどの違和感。

 横に振り抜いた襖が破裂するような悲鳴をあげる。

 

「……黎」

 

 天元の顔は確実に青ざめている。それほどの動揺があった。

 

「お戻りなさいませ、天兄上。このような姿勢で失礼します」

 

 平淡な声だった。弟は上体を起こして会釈した。天元はその無表情を──いつもと同じような無表情を凝視する。頭を殴りつけるような違和感は継続していた。何かがおかしいのに、何がおかしいのかわからなかった。

 

「……黎、お前、どうした?」

「大事ございませんが、なにか」

 

 言下に返答がある。天元はその隣に叩きつけるように両膝をついた。

 

「大事ないわけないだろ、お前、おかしいぞ……」

 

 伏せた目を覗き込む。漆黒の両眼はひとつ瞬きをした。顔を逸らすこともせずに。

 違和感の正体を掴んで天元は目尻を引き攣らせた。

 常の黎元はあまり目を見ない。いつも礼儀正しく目を伏せていて、覗き込まれれば困ったように逸らす。

 

「何があった、なあ」

「何も」

 

 何もないわけがない。引ったくるようにして右手首を取った。傷に障るかもしれないということは頭から吹っ飛んでいた。

 心拍は一定だ。時計の針のように。

 そんな──驚いたときに増える瞬きの数は。困ったときに言い淀む間は。緊張で早くなる心拍は。

 それは、鬼殺隊に引き入れた直後でさえ弟が有していたはずの、最低限の人間性の発露なのに。

 

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 弟の中身がすっぽりと抜け落ちて、中に奈落が詰まっているような心地がした。全く知らない何かになってしまったような、がらんどうのを覗き込んでいるような。

 背骨が氷漬けになった錯覚。悪寒めいた──これは、恐怖だろうか?

 そうだ、彼はかつて、ずっと弟が怖かったのだ。

 

 足の先から這い上がる恐怖にとうとう天元は耐えかねた。鬼を相手にしても悲鳴など上げたことのなかった豪胆な元忍が、縋るように叫んだ。

 

「どうしたんだ、一体何があった⁉ お前をそこまで無機質に戻しちまう何があったって言うんだ! 俺がたった数日いなかった間に!」

「何もありませんよ、天兄上」

 

 その声音を知っている。かつての天元が恐れてやまなかった、いつでも変わることのない道具の立てる音。

 激しい雨の音がしていた。それにかき消されずに音を拾える自分の耳を、天元は少しだけ恨んだ。

 

 ……問い詰めても無駄だ、と認めるしかなかった。天元は弟にとって上位者だ。その立場をもって尋ねて、一度淀みなく否定が返されたのなら、天元の欲しい答えを弟は持っていない。

 意識してゆったりと息を整える。柱たるもの、これしきの動揺を抑えることは造作もなかった。冷静にならなければ何事も解決策は見出せない。

 

 ……だが、蟲柱も妻も、何も言わなかった。

 それを改めて認識して天元は重いため息を落とした。彼女たちにはわからなかったのだ。何かがあったことが。

 天元が黎元の異変を察知できたのは偶然かもしれないし、兄であるからかもしれないし、耳が良いからかもしれない。何にせよ他者から手がかりが得られないことは確かだった。このまま黎元の前に陣取っていても何も進展しないことも、また明白だった。

 目の前で消沈する兄を眺めながら弟は何も言わない。その変貌に心臓を撫でられるような寒気がした。

 

「……騒いで悪かったな」

 

 部屋を出ることに決めた天元は、ふと思い出して懐から包みを取り出した。暫く迷う。天元が持っていても仕方ないものだが、今この状態の弟に渡しても期待していた反応はないだろう。

 それでもこれは黎元のもので、天元が改めて贈ってやりたいと思うものだった。

 一度包みを差し出して、上がった黎元の右手がぎこちないのを見て外装をほどく。

 掌に乗せてやると上質な布が滑って落ちた。荒天の薄暗さの中で、僅かな日光を吸い込んだ宝石が鈍く光った。

 宇髄の忍が揃いで持っていて、先の戦いで血みどろに壊れた、それは額当てだった。

 

「今のお前は嬉しくねぇだろうが。それでも大事にしてたからな、石は元のままで、派手に直してもらったよ」

「……っ」

 

 微かな異音を拾って天元は手元から目線を上げた。

 弟の無表情がびしりとひび割れる瞬間を、彼は見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胸の底から激流が昇ってきて息が詰まった。それがそのまま噴出しなかったことはどうでもよくて、激流そのものの存在に恐怖した。

 ──恐怖。こころ。昨晩丁寧に殺したばかりのモノ。

 一体、私はどこまで出来損ないなのか!

 殺しきったと思うものには蓋が乗っていただけだったらしい。その蓋を容易く跳ね除けてしまった額当てを睨んだ。

 詰まった喉に力を込めた。言葉と一緒に強く息が飛び出て、それで呼吸を止めていたことを知った。

 

「……いっ、りません、こんなもの」

 

 強く振り払おうとした手はその何分の一かの動きしかせず、装飾はただ掌から滑り落ちた。その感触がぴりぴりと痛かった。

 

「いらない? 何でだ」

「こんな……こんな、一度、壊れたもの……」

 

 こんな、私を引き戻してしまうようなもの。

 一度殺したはずなのに、息が整わない。全てを遠くから見ているような感覚がどこかへ行ってしまった。彼方から見ていれば何も感じなかったのに。安全だったのに。

 あれだけ動揺していた天兄上は、今は落ち着いた様子で瞳を煌めかせている。その双眸を直視できなかった。見たらいっそう酷いことになってしまう気がした。

 

「ずっと持ってただろ、捨てもせずに」

 

 ずっと──ずっと。付けていなくても、硬い板の感触が思い出せるくらい。

 鬼殺の任務のときも、育手のもとで修行していたときも、天兄上を殺すために探していたときも、……人を殺すときも毒を飲むときも拷問に耐えるときも折檻されるときも姉上を殺すときも!

 血糊の匂いが、劇毒の苦味が、鼓膜が弾ける音が、折れた骨の痛みが、飛沫(しぶ)く血潮の色が、額当ての感触と一緒に押し寄せてくる。

 

「し……らない、知らない、知らない、そんなの知らない……!」

 

 首を振った。そこから逃げ出してしまいたかった。毒に侵された脚は鈍く布団を掻き回すことしかできない。

 辛いことがあった。苦しいことがあった。山ほどある目を背けていたかったこと。それをこの額当ては全部知っている。そう思うと床に落ちたそれがひどく恐ろしい。

 どうして、どうして、早く捨ててしまわなかったのだろう……!

 右の手首を掴まれて五指が震えた。振りほどく力は今の私にはなかった。

 

「いりません、そんなもの、いやだ、いらない……」

「どうして」

 

 どうして。だって、だって、

 

「辛いのも苦しいのも、もう嫌だ!」

「……お前、」

 

 喉につかえていた激流が噴き出した。もう自分では止められなかった。

 

「天兄上だって辛かったのでしょう⁉ 里に一番向いていないのは兄上だった! 傷つくのも殺すのも苦しかったのではないのですか!」

 

 だって、今辛い。苦しい。上手かったはずの心殺しができなくなって、息ができなくなるほど苦しい。

 

「どうして……どうして天兄上は笑っていられるのですか、心なんて、こころなんて、あったらこんなに苦しいのに……! せっかく、もう一度殺し直したところだったのに‼」

 

 酸素が足りない。かたん、とどこかで音がした。きっと私の中で何かが壊れた音だ。(おこり)のように身体が震える。肩で息を吸った。掴まれた手首が灼けつくように痛い。

 

「捨ててください、そんなもの、そんな怖いもの……! いらない、殺せなくなるから、そんなのいらない……‼」

 

 手首を強く引かれた。あっと思う間もなく天兄上に抱きしめられていた。麻痺した手足では前に傾いた身体を立て直せなかった。

 背中と後ろ髪に大きな掌が潜り込んだ。共に成長期が終わった今でも、天兄上の手は私より大きくて厚い。

 身体がぴったり密着して、どちらが震えているのか次第にわからなくなった。二つの掌がゆっくりと動いて、触っている部分を繰り返し撫でた。いつもとは違う、掌全体を使った動きだった。

 激流だった感情が段々勢いを失って、とろとろと零れるような錯覚があった。吹き上がるようなそれも苦しかったけれど、胸に丹念に染み込んでいくのもまた辛かった。

 息苦しいのが自分のおかしさのせいか、抱きしめられているせいかわからなくなったころ、耳元でぽつりと声がした。

 

「……辛かったさ。苦しかったさ。他の奴らも辛くて苦しくて、耐えきれずに死んじまった。俺だってあのままだったら死んでただろう。それが嫌だと思ったから里を抜けた」

「……どうして、いま、」

「俺には美人の嫁が三人いたからなあ。血反吐撒き散らしてでも養っていなかきゃならなかった。前を向いていくしかなかった……一人だったら潰れてたかもしれねぇ。四人いたから、きっとなんとかやってこれた」

 

 肩を押された。少し身体が離れて、こつんと額が合わさった。普段なら二人とも額当てをつけているはずの場所だった。

 

「鬼殺は辛いか、黎元」

 

 思いがけないことを尋ねられて紅い目を見つめた。今のおかしな頭でもすぐにわかることだった。どこかで床が軋むような音がしていた。

 

「……(いいえ)

「育手の修行は辛かったか。俺の訓練は苦しかったか」

(いいえ)……」

 

 あんなの、里に比べればどうということもない。

 

「なあ。そうだよなぁ」

 

 兄上の声に笑いが混じった。泣いているのかと思うような声だった。

 

「ほとんどの奴らが泣いて嫌がるような訓練だったんだぜ、あれ。辛くはなかったよな。里の方がよっぽど地獄だったもんな」

 

 後頭部にあった手が移動してきて、親指で私の目尻を撫でた。まるで私が泣いているかのような手つきだった。

 

「過去を……」

 

 囁いた、兄上の方が泣きそうな顔をしていた。初めて見る顔で、私はどうしたらいいかわからなかった。

 

「俺たちが放り込まれてたクソみたいな地獄を、なかったことにはできねぇ。みんなそうだ。その上で歩くしかないんだ」

 

 私は首を振った。視線を断ち切れないかと試すようだった。

 

「……できません……私には、できない……私は、天兄上とは違う」

「手伝ってやる」

 

 再び抱き締められるのに抵抗はしなかった。一度目より柔らかな抱擁だった。

 

「みんなわかる。俺も、雛鶴も、まきをも、須磨も。里がどんな地獄だったのか、みんな知ってる。五人で分けて背負えば、ちったぁマシだろ」

「……」

 

 喘ぐように息を吸った。それを聞いた瞬間に湧き上がってきたのは安堵ではなかった。なんと呼ぶべきなのか私は知らなかった。少なくとも、兄上を突き飛ばしてから言葉にするべものではあった。

 

「……姉上を殺したのは私です」

「なん……」

「弟を二人殺しました。妹を一人殺しました。あとは訓練中に死んだのはご存知ですね。ねえ、天兄上」

 

 皆任務を失敗した。情報が漏れては困るから私が処分しに行った。

 回された腕に力が籠るのがわかった。それで正しい。私は兄上を傷つけようとしていた。苦無で殺せなかった天兄上を、別の方法で刺そうとしている。

 

「兄上は、肉親を殺したことがあるのですか」

「……っ」

 

 兄上に、何がわかるのですか。

 

 自分が紡ぐ言葉はわかった。それを吐かせる刺々しい感情が何なのか、わからない。

 夢の中で弟妹を殺していると自覚した瞬間の、あの身を捩りたくなる痛みを覚えている。あれはきっと、実際の場面で私が感じるはずだったものだ。

 

「天兄上と私は、違う……」

 

 天兄上の分厚い肩越しに見下ろした畳が暗い。激しい雨の音がしていた。色々な音をかき消すはずのそれは、耳元の声は遮ってくれない。

 

「……俺に、わかるのは」

 

 左肩が熱かった。声がくぐもっていて、顔を伏せているとわかった。

 

「お前が、俺だけは殺せなかったことだけだ」

 

 未だに息が苦しかった。金属を落とすような耳鳴りは、やっぱり天兄上の声を遮ってはくれなかった。

 

「そんなこと言うなよ。言わないでくれよ。俺に残った肉親はお前だけなんだ、黎……」

「……」

「楽しいことがあっただろう。強くなるのは嬉しくなかったか? 柱との稽古は楽しくなかったか? なあ……辛かったことの上に、他のことを積み重ねてはくれないのか?」

 

 私はただ呆然としていた。今震えているのは明らかに天兄上だった。

 

「この兄からの頼みだ……俺にもう二度と、あんな恐ろしい声を聞かせないでくれ……」

「……あに、うえ」

 

 ふと目の前に翳が差した。落としていた目線を上げると女物の着物が見えた。驚いて硬直する。天兄上が咎めるように腕の力を強くした。

 

「黎元さん」

「……いつから」

「須磨が呼びました」

「盗み聞きしてごめん」

 

 奥方殿たちが揃っていた。各々身を寄せてきた彼女らを、天兄上は驚くでもなく私ごとまとめて抱きしめた。そういえば音がしていた。人の気配にも気付かないほど私は動揺し通しているらしい。

 

「私たち義姉からもお願いします」

「黎元さん」

「わからないこともあるけど……それでも一緒に歩きましょう、ね?」

「……黎」

 

 懇願する声音に囲まれてどうしたらいいかわからなかった。私のようなものに向けていい声ではなかった。傷つくだろうと、……突き放して欲しいと思って、言葉を紡いだはずだった。

 全身が余すところなく温かかった。人肌の匂いがした。

 

「……ひどい」

「うん」

「こんなに、つらいのに、くるしいのに、」

「うん」

「息の仕方が、わからなくて、」

「うん」

「心を殺せば、楽になるのに」

「うん」

「一生、このままでいろと、おっしゃるのですか……」

「……ああ。ひどいな、ごめんな」

 

 咆哮を上げる獣を頑丈な檻の中で眺めているような気分だった。獣の名は過去の絶望で、檻に刻まれた銘は宇髄だった。

 ……もう一生、ここから逃がしてもらえないのだと、そう思った。それを絶望と呼ぶべきなのか、喜びと呼ぶべきなのか、私にはまだわからなかった。

 ただ──心を殺すための武器が全て奪われてしまったことだけは確かだった。縋られるということはそういうことだった。

 

 雨音が止むまで、私たちはずっとそうしていた。

 




火の温もりを知った獣は野生に戻れない。たとえ毛皮を焼き焦がされても。

ブクマと評価ありがとうございます! ここすき、待ってます!!
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