暗く冷たい。周りの騒がしい音がうんと遠くに聴こえる。奥州の冬はこんな感じだろうかと、
ほうと一つ息を吐いた。
ここはとても良い場所だと思う。少し狭く感じられるが、それを含めても少女はここを好んでいた。室温は快適だし、少女の奥州に近似しているものがあったからだ。
少女がこの場所を発見したのは、つい数年前である。ひょんな事から足を運ぶようになり、思いの他気に入ってしまった。今では少女の隠れ所になっている。
秘密があるというのは心が弾むものだ。少女はこれまで秘密という秘密がなかった。常に離れず主の傍でひかえ、幾十といる妖怪たちと過ごす毎日は少女に秘密を作らせなかった。しかし、最近になってようやく少女にも秘密というものができた。秘密基地―――――人間の童達が憧れる理由をしかと味わった。ここに少女がいるのを知っているのは故二代目の妻、主の母の若菜だけ。総大将にも仕える主様にも内緒にしていること、それが何だか心地よかった。年が明けてから、この秘密の場所に来たのは今日で初めてである。なにか理由があって来れなかったのではない。ただ、来る必要がなかったのだ。しかし、今日はどうしてもここに来る必要があった。
しかし朝早くに起きだして、人目を気にしながら入る様は些か不気味であっただろうなと、一人少女は笑う。ここに来るまでに無駄に神経を剃り削り、妖気を探りながら歩いた甲斐があった。総大将の側近の一人と出くわしそうになったのだ。それをいち早く察知した少女はすぐに物陰に身を潜め、自身の畏を極限まで小さくしてその場をやり過ごした。まさに、隠れ鬼をしている気分。どっと疲れが押し寄せた。しかし、そんな苦労があったからこそ、ここで得られる幸福感がより一層強く感じられる。
近頃の私はなんだか子供っぽいと少女は思う。昔は生贄の儀式という概念が強かった隠れ鬼は、今や童達の遊戯へと成り果てた。生後100年の自分が、それを楽しいと感じてしまっているのは、やはり子供っぽい。成人の儀を終えて、母のように落ち着いた物腰を決めていたが、今や全くその逆である。少女は
「珱菜様…」
ぽつりと不意に洩れた自身の声に驚く。
そうなのだ。今彼女の思いの先、原因の先は珱菜という名の少女だった。彼女は雪の少女にとって、奴良組にとっての宝石、蝶よ花よと赤子の頃よりお仕えしてきた主である。この主と毎日を接するのには落ち着いた物腰―――妖怪の自分―――ではいられなくなった。周りの妖怪達もその禍々しい妖気を身の内に隠し、人間じみた生活を送るようになった。
少女はタラレバのことを考える。もし今の奴良組を母が見たらどう思うだろう。あの言うことやること容赦ない母のことだ。馴染みの烏天狗を凍てつかせ、あの総大将にも喝を入れるのだろう。「腑抜けるなっ!」と。今や蒸発してしまった母の居場所は実の娘の少女でさえも知りえない事だった。むしろ、生存が確認できてない現状は、彼女が
憧憬する奥州の地、奴良組、そして母。この秘密基地でこのまま他愛のない事に思いを馳せていたい。あのお優しい珱菜様のことだ。もう少しだけ身を身を隠していてもお許しになってくれるだろう。
そうやって自答し、また暗く冷たい中で身を丸めるのであった。
第零話 其ノ二
先とは別の太陽が隠れて見えない廊下を珱菜は歩いていた。奴良組の住人達ががやがやと騒がしくしている横をあれこれ考えながら素通りする。
今、珱菜の考えを巡らせている先は
その側近は、毎朝枕元に控えているのに、今日ばかりはなぜかいなかった。祖父がいた茶の間から直行して氷麗の部屋に向かったが、妖怪一つとも見当たらなかった。どこにいるのだろうと首を傾げながら、また歩く。そんななか、騒がしくしていた小妖怪の内、一匹を珱菜は見出して声をかけた。
「ねぇねぇ、なっとう。つらら知らない?」
「ややっ! 珱菜様じゃありませんか。人探しですかい?」
納豆小僧はその小さな体をいっぱいに使って、花のような笑顔を浮かべている少女に応える。
「うん。つららさがしてるの」
「つらら、ですかい。あっしは知りませんが……。そうですね、今は昼時。台所で若菜様や毛倡妓たちのいる台所を探してみるのはいかがでしょう」
時間はまだ巳三つ時。昼というには少しばかり早い。しかし、奴良組はでかい。総大将が住む奴良家には大勢の配下が彼を慕って居住している。そのために早くからの下準備が必要なのだった。いつもは母の若菜か女妖怪が料理をするのだが、今日は氷麗も彼女たちに加勢しているらしい。
氷麗が料理をすることは滅多に無い事である。とりわけ、彼女は台所に入りたがらないのだ。
「めずらしいね。あれだけニガテって言ってたのに。なんでお料理してるか知ってる?」
「いや、台所にいるかどうかは、あっしの勝手な想像ですよ。それと料理をしてるとは思いやせん。ただ、今日は見事に晴れたじゃありやせんか」
今、珱菜達が喋っている場所は太陽には当たっていない。しかし一歩家の外にでてみたら、燦々と輝いたお天道様が現れるだろう。
「うん、はれたね。くも一つないよ」
先ほど見えた空には染一つなかった。
「今日、暑くありやせん?」「えっ?」
いきなりの問いかけに少し首を傾ける。
今日は暑くはない。春先の気温はそう感じさせずに、むしろ心地よさを与える。このような気温になったのは、年が明けて今日で初めてだ。関東地方特有の乾燥した空気が、昨日まで肌寒さを覚えさせていた。その昨日までの気温よりは温かいだろうが、暑いというには程遠かった。
「わたしはそんなにだけど……。きのうまでちょっとさむかったから、ちょうどいいかも」
すごしやすいよねと同意を求めたが、納豆小僧はその
「えぇ、そうでしょうとも。あっしも暑く感じやせん。最近は“異常気象”とやらでおかしくなってやがります。一昨日なんて
「うん。あれはびっくりしたよね」
「あんな事は初めてです。で、その日なんですがね、あっしは聞いたんですわ。氷麗が喜悦した表情でぶつぶつ呟くのを」
「キエツ?」
珱菜の年相応な様子に、納豆はほっこりとした気分になる。
「喜んでるって事でさぁ。“悦んでる”の方が正しいかもしれねぇですが…」
「いみ、違うの?」
「たいして変わらねぇんですが……」
そう言葉を濁す納豆を気にしたようでもなく、明るい声で話題を戻す。
「とりあえず、よろこんでたのね。それで?」
「あぁ……。外の模様を見て『雪、雪、卯月に雪』ってずっと」
「うづきって四月のことよね?たしかにめずらしいけど……。でも、そんなにうれしいものなのかな?」
「旧暦で卯月は初夏でさぁ。遠野の妖とはいえ、生まれは奴良組。雪を見ることは少ないでしょうし、ましてやこんな時期。気分は上々だったのでしょう。それに、氷麗は雪女。寒さを好みます」
「な、なるほど……」
いきなり飛び出してきた妖怪の知識に目を丸くする。
自由研究のテーマを「妖怪」と決めたのはいいが、何をどのように調べ、まとめるのかさっぱり分からなかった。それに、毎日一緒に暮らしている家族とはいえ、珱菜は妖怪の事を知らなすぎた。妖怪のことは妖怪に。とりあえず話を聞けばなんとかなると所謂ノープランで祖父の元を離れたが、納豆小僧の話を聞くにやっぱり正解だったんだという確信と、自由研究の
「それでですね、今日は晴れたじゃありやせんか。雪女の氷麗にとっては暑いと感じると思うんでさぁ」
「たしかにそうね。でも、何でよりによって台所?」
珱菜が料理の手伝いを申し出る時、側近の氷麗は良い顔をしない。彼女にとって台所とは天敵がいる場所らしい。
珱菜は思い出す。目に涙を浮かべ、必死の形相で引き攣れた叫びをあげる側近を。彼女曰く、「火があるじゃないですかっ! 私、溶けちゃいますよっ!!」とのこと。そんな彼女が進んで台所に行くはずがない。
納豆小僧は今まで通りに答えを返さなかった。その代わり、ずいっと珱菜に顔を寄せて、そっと耳打ちする。
「あっ、なるほど」と納得の声。
「あくまでもあっしの予想です。外れてても文句は受け付けませんよ」
珱菜の様子を見てとると、一頻り推論を述べ終えた納豆小僧は満足顔で念を押した。しかし、その声色は自信に満ちており、外れを知らないようだった。
その後、納豆小僧を含む小妖怪達から離れた珱菜は目的の台所にいた。やはりここでもガヤガヤと煩い別の小妖怪達の声が聞こえる。ぐるっと周りを見渡しても、せっせと料理を和えている毛倡妓や母がいるだけで、探し人である氷麗はいなかった。
台所特有のガスの匂いが鼻につく。今、巷ではオール電化やなんやと騒がれているが、この妖怪屋敷では聞き及ばないものであった。数多くの部屋はあれど、エアコンが設備されているのは珱菜の部屋と若菜の部屋、それに客室くらいだ。現代文化の象徴ともいえる3Gなんて言葉は知りもしないことだ。奴良家では、夏は暑く冬は寒いという日の本ならではの自然の理を体現したかのような毎日を過ごすのが常であり、二世代前あたりから流行に乗り遅れていた。
しかし、現代社会に乏しいとはいえ、近頃の技術革新から産出された製品は古の生き物と謳われる妖怪達からみても便利で使い勝手が良いものだったらしい。ガスや火燵、エアコン等があるのがその証拠である。そして、納豆小僧が推理し、珱菜のお目当てのモノも、その人間達が培ってきた技術によるものだった。
珱菜はもう一度ぐるりと周りを見渡す。
ふと、ある一点で動きを止め、ゆっくりと歩みを進める。
祖母譲りの目は細められ、他の物を映していない。
ただ一点。氷麗がいるだろうモノに向かって、ゆっくりゆっくりと近づく。
ばっ。
いきなり走りだしたかと思うと、険しかった目をキラキラと輝かせて言ったのだった。
「つららおねーちゃん、見ーつけたっ!」
奴良組は大きい。珱菜達が住んでいる家もさることながら、支配している
強い主には多くの妖が後ろに付く。奴良組が土地を支配していくにつれ、その土地にいた妖怪達が大将に魅せられ忠誠を誓うようになる。奴良組でいう信濃の牛鬼や少し違うが遠野妖達のことである。奴良組もそうこうして、全国の妖怪が集う「強者」になりあがったのだ。
遠野妖怪「雪女」、氷麗はその中にあって少しばかり特殊な環境の元にいた。
通常、妖とは人間の強い思いから生まれる。長い年月をかけて漆器や茶具などが愛でられれば、その器具に魂が宿る。また、人々の間で恐怖や教訓、信仰の対象として語り継がれれば、その時に生じる感情エネルギー、つまりは「畏」によって力が宿る。今、現代に存在している殆どの妖は、そうやって誕生したのだ。
妖怪「雪女」とは、後者によって生まれた妖怪だ。「人の生気を奪ひ、童子の生肝を喰ふ」「童子を具し、吹雪のひねもす日をあくがり歩く」「美しき容貌に忘我する事莫れ、然らば死なずして凍てつけらる」等の伝承により、古から遠野や越後の雪国の間で畏れられてきた。しかし、重ねていうが、氷麗は少々特殊な例で産まれたのである。
大正期の民主主義的・自由主義的風潮が最も顕著となった時に彼女は産まれる。その期の民衆の関心は憲政擁護や普通選挙などの社会運動に向いており、人々と表裏一体をなしていた妖は明るみから身を沈め始めていた。世は闇を忘れ、希望に生きていた。その為か、新たな妖怪の誕生が著しく減り、「畏」も徐々に失われつつあった。そんな世に連れた中で氷麗は身を落としたのだ。そう、身を落としたのだ。つまり、彼女は自然から生まれたり、人々の強い恐悸によって魂が宿ったのではなく、母の体内から産まれたのである。
現代において、それはなんの珍稀もない事であり、特筆する必要はない。人間からの思いを得にくくなった昨今、男妖怪は女妖怪を契を交わし、子をなすようになった。奴良組本家の「三羽鴉」もは、父「烏天狗」と母「濡鴉」のもうけた子達である。
だが、氷麗は違った。彼女は妖怪の妻夫から産まれたのではなかった。
氷麗の母の名は「
雪麗は周りの妖怪たちに嫌われてまでも、奇行に走る事と苦と感じなかった。遠野で築き上げた地位も名誉も人脈も、全て捨てることを厭わず、奴良組に入会した。いや、彼女は奴良組という枠組みには興味はなかった。彼女はただ「ぬらりひょん」に魅せられて連いていったのだ。
雪麗の彼への仁愛は並々ではなかった。これまでの慣習を斜め上にいく行動で飛び越し、闇の一世を風靡した彼に、妖怪の本来あるべき姿を憧憬した。そして、その情はすぐに熱く焦がれる恋慕へと変わる。幸運にも、雪麗は人々から畏れられ、力に恵まれていた。更に、“畏”の扱いにも秀逸しており、周囲からの風当たりが強かったのにもかかわらず、瞬く間に大幹部にまで登り詰め、念願だった「ぬらりひょんの側近」への登竜門を潜ったのである。
全ては雪麗の思い通りだった。型破りな性格のぬらりひょんは百鬼夜行を率いる頭となり、新たな時代と風潮を作りつつあった。そして自らは、恋い慕う彼の一番近く、側近の座から離れなかった。全ては上手く事が運ばれていたのだ。
だが、しかし。それは文化が盛った桃山の時代に崩れ去ることになるのだった――――――
納豆小僧の性格を改変。
雪麗の出身、氷麗の生い立ちは独自設定です。
12/12/24 修正しました。