ぬらりひょんの孫娘   作:佐藤 言京

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第零話 其ノ三

「つららおねーちゃん、みーつけた!」

 つらつらと思いを巡らせている少女の下に聞きなれた明るい声が聞こえた。

 ガタッと直ぐ側で物音がして、全身に強い衝撃が襲う。予期せぬ事に、ひゃっと声を上げて目を丸くした氷麗は、すぐに外から射し込んだ眩い光を受け、固く瞑目した。

「やッ……。まぶし……」

 何が起こったのか事態を把握できずに狼狽していると、次はガラガラと引き出しが音を立てて開き、地面ごと体を動かされる。

「ひゃわわわわ!?」

 何か口から奇声が出たが、声の主である氷麗は気に留めなかった。暖かい外気が背筋を擦り、ゾゾゾと悪寒が走った。

 多重円状の瞳は、光に慣れずに瞬いている。暖かいのに悪寒なのかとか、妖怪に明暗を判断する錐体細胞があるのかとかいう疑問が浮かんでは消えたが、やはり氷麗はそこにも気を留めなかった。

 少し時間が経つと、多方目の霞がとれてきた。それに合わせて、動揺していた心も落ち着いてくる。その頃を見計らったように、上から先程の声と同じであろう明るい声が聞こえた。

「おちついた? つららおねーちゃん」

「よ、珱菜さま!?」

 驚いて顔を上げる。目の前に立つのは、幼い大和撫子。白磁の器にうっすらと淡紅のはなびらを一枚浮かべたような頬。華奢な顎と鼻筋。幼い唇はぷっくりと花蜜が溜まったような膨らみを帯びていた。

 氷麗の目に留まったのは、艷やかな黒髪だった。長さは腰まで届くかというところまである。髪先は綺麗に切り揃えられており、品の良さが表れている。前髪のふんわりとした膨らみは、彼女の性格を具現したようだった。更には、彼女が着ている桜柄が映えた、紅と白の布地が縫合された着物がその黒髪を映やしている。平安装束宛らの召し物は、着ている少女に雅で華やかな物腰を連想させるが、少女のまだ幼くあどけない顔立ちとの不調和から、妙に胸が早鐘を打つのを覚えた。着物からするりと覗かせる綺麗な手足は、職人が丹精込めて作り上げた蝋人形のようであった。履いている足袋でさえ、不思議な輝きを放っている。

 一対の大きな黒い瞳が、何かを優しげに語りかけてきた。整った顔立ちは、凛とした印象を与えるのではなく、唯々愛情と慈しみに溢れていた。

 氷麗は思わずほうと息を漏らした。

 ついと黒真珠のような目と視線が重なった。

 そこで、氷麗はなんとも不思議な感覚に陥った。幼い主の持つ、黒くとも透き通った眼差しに、深々と吸い込まれるようにして――

「一体、いつまでそこにいるんだい……?」

「ふえっ!?」

「一体いつまで惚けた顔してんのさ、雪女」

 邪魔になってるわよと、せかせかした調子で呆れ顔の毛倡妓が氷麗に注意を促した。

「え、えぇ。ごめんなさい」

 何故だか不慮に自責の念に駆られて謝罪の言葉が出てしまったが、未だに現状を把握しきれていない氷麗はどうして自分が謝ったのかすら分からず、頭上に三つ程疑問符を浮かべたままだった。

 横を見ると、御盆を持ったままでいる3つ口の小妖怪が、今にも「氷麗の姐さん、どいてくだせぇ」とか言い出しそうな顔をしていた。とりあえず、氷麗は行動すべき事をしようと判断する。そこで、するりとその場から降り立ち、今いる幼い主の前に足をつけたのだった。

 

 

 

第零話 其ノ三

 

 

 

「こんなところにいたんだ。つららおねーちゃん」

 わたし、さがしたんだよと膨れっ面した幼い主はぶうたれた。

「も、申し訳ございません……」

「朝もいないし、へやにもいないから。わたし、しんぱいしたんだから」

 ぐうの音も出ない。しょぼんと項垂れ、花が萎れたように俯く。

 換気扇が回っているのか、もうガスの匂いは遠くに飛んでいったようだった。小妖怪達は調えられた料理を広間にまで運んでいるので、既に台所にはいない。毛倡妓と若菜が調理用具を洗っているだけだった。

 時刻はまだ(うま)の刻に至っていない。

 今日は早い昼餉(ひるげ)になりそうね、などと落ち込んだ気持ちを紛らわせるように取り留めのない事を考える。

 今一度、床に落ちてしまっている目線を窺うようにして、目の前にいる幼い主に向けた。顔はにこやかに、しかし、口元は膨らませたまま氷麗にとって耳の痛い事を言い続けている。再度気分を紛らわせるように、取り留めもない事を考えた。

(本当の子供は純粋だけど、それ故に残酷です)

 流石に、おしゃべり好きを豪語しているだけのことはある。あれから数分経つのに、彼女の口はまるで機関銃の銃口のようにうなり続けている。今朝のことから始まり、昨日のお風呂の水にうっかり氷を張りっぱなしにしてしまった事だったり、段差もない所で躓いて、食器を乗せた御盆をひっくり返してしまいお皿を割ってしまった事だったり。話が毎日の自分の失敗談にまで拡散している。

氷麗は分かっているのだ。話を聞き流したり、紛らわせるように別の事を考えたりするのは現実逃避であり、今こうやって幼い主に言及されているのは自業自得である事くらい。何か行動を起こさなければ、彼女の話をこのまま聞き続けなければならないことくらい。

 氷麗は自身の所謂「ドンくさい」性格を割り切っている節があるが、ここまで掘り下げられると精神衛生上良くない。立ち直れなくなる。まさしく、ズーンという効果音が似合うように。それはまずいと慌てた氷麗は意を決し、話の折をみて――何故だか氷麗だけではなく、他の側近の失敗談にまで飛び火しようとする時に、幼い主から放たれる弾丸を止めるべく口をはさんだ。

「あ、ああああのっ珱菜さまが私を探していた理由を聞きたいのですがッ!」

 俯いていた頭を勢いよく上げて、一息で言い切った。話を遮られた珱菜は意外そうに、大きい目をぱちくりさせて、花のような笑顔を浮かべて言った。

「ごめんね。そういやそうだよね」

 膨らんだ頬はもう戻っている。これ以上被弾する事がないのが分かると、氷麗は内心でそっとため息を漏らしていた。

「わたし、つららおねーちゃんにおねがいしたいことがあるの」

「お願い、ですか?」

 珍しい事もあるもんだと氷麗は首を傾げた。

 彼女から見て珱菜は聞き分けの良い子供だった。母や仲良しの友達、学校の先生に頼まれ事を受けた時には、我が儘も言わずにしっかりとこなす。それは「いい子」と称される程だ。そんな「いい子」の彼女は、頼まれる事は多々あっても、人様に「おねがい」などするのは稀だった。

 しかし、彼女の祖父ぬらりひょんには甘えたところを見せる。ぬらりひょんも孫娘が可愛いのか、その願いを良く聞き入れている――のだが。一介の側近に過ぎない自分に頼み事とは。

 これは珱菜さまの姉的ポジションが定着する布石なのでは!? 巷で言うフラグですね、フラグなのですね! と内心で歓喜の声があがったのを表には(おくび)にも出さないように話を続ける。

「私なんかでよろしいのでしたら、お受けしますよ」

「ありがとう! つららおねーちゃんが一番目がいいかなって思ってたの!」

 これはもう確定ではないのでしょうか! そう心の内で小躍りする。勿論、表情には出さない。ニッコリとしたまま――なのだが、少々鼻息が荒くなっているのはご愛嬌といったところだろうか。

「い、今すぐできるものでしょうか」

「ううん。しゅくだいのことなんだけど。紙をもってくるのわすれちゃったから、一回わたしのへやに帰らなきゃいけないの」

 詳しいことは部屋に戻るときに歩きながら話すね、とのこと。

 これは私が良い所を見せて、フラグを回収して……キャー! などと一人盛り上がっていると、不意に目の前の顔に陰が差したのを感じた。幼い主は(おもむろ)に口を開く。

「でも、ちょっと楽しかったかも。かくれんぼのオニさんしてるみたいで。ひさしぶりだったから……」

 それを聞いて氷麗の心にも楽しさから一変、暗がりが現れた。

「そう……ですか」

「だいじょうぶ。なっとくしてるもん」

 それでも持ち前の健気さを十分に、幼い主は言い切った。

 現在、珱菜は外での隠れんぼを禁止させられている。それなら屋内での隠れんぼをすればいいのではないかという代案は、見事に切り捨てられている。

厳密に言えば、珱菜は学校以外での外出、屋内での単独行動を禁じられている。それは奴良組の領地(シマ)は勿論のこと、本家の庭さえもであった。これは組の総会にて満場一致で可決された案件であった。

 娘には妖怪任侠世界という柵を外してあげたいという奴良鯉伴とその妻、若菜の教育案では、子供の珱菜は何も知らずに遊んで暮らす方がよいとのことだった。奴良組の面々は亡き鯉伴の遺言のようなその考えをできるだけ組み込んで差し上げたかったのだが、そうもいっていられなくなったのだった。

 このご時勢、幼女が一人で行動するなど危険でしかない――というちゃちな理由からではない。珱菜の身を案じての結論であった。

 大方の場合、総会で全員が同じ意見になるわけがないのだ。妖怪にも千差万別。生まれも、畏れも、派閥も違う。故に彼らの考え方が異なるのは至極明解なことである。その奴良組傘下の組長が何十鬼と集えば意見の食い違いは避けられないことだった。しかし、全員が一致した。これは異例なことだった。

 組長達の一致の決断は、恐怖から来るものだった。その危惧を助長させたのは、まだ記憶に新しい奴良組二代目大将襲撃事件に他ならない。あの奴良組の栄華を築き上げた奴良鯉伴が殺害された大事件。事後処理は奴良組上層部によって行われ、詳報の一切が揉み消されたものの、鯉伴が殺されたという事実が覆るわけがなく、その訃報は瞬く間に全国を駆け巡った。

 闇の世を騒がせた事件はそれで終わりを見せなかった。

 奴良組の頭が死んだその時を好機とみて、若い妖や野心を燃やした者達が次々と徒党を組み始めたのだ。奴良組を壊滅させるべく、奴良家の血筋を完全に絶やすべく、今度は次々と本家襲撃事件が起こった。常に張り詰めた空気に侵される毎日、襲撃を対処する毎日に嫌気がさしたのか、離反し出す者も現れ始めてしまった。

 その間、珱菜は狙われる対象であったが、彼女はまだ幼く、妖怪の血にも目覚めていなかった。先祖代々から伝わる不思議な「力」は自由自在だったのだが、その「力」は所謂「治癒能力」だった。その程度しか持たない珱菜が襲撃者と対峙してしまったら、言わずもがな、結果は自ずと死へと直結する。

 余熱(ほとぼり)が冷めるまで、幼子の珱菜は秘密裏で、本家から近くの山にある頂付近の神社へと移された。山吹の花に付いた露が、春風に吹かれて溢れる頃、新緑の匂いがたちこめ、数多の花々が芽吹き始める頃だったものの、その神社近辺はどこか寂寞(せきばく)な雰囲気と廓廖(かくりょう)とした物寂しさを感じさせた。しかし、そこには土地神と謳われる苔姫(こけひめ)が座していたのだ。奴良組と特別に浅くない関係にあった彼女は、自身の「畏」によって珱菜が避難している間だけ、一時的に認識阻害の結界を張ったのだった。

 そうこうして年月が過ぎると、勝ちが見えないと判断したのか、襲撃はきっぱりとやんだ。鯉伴無き奴良組を初代大将・ぬらりひょんが率いた結果だった。しかし、組の志気と畏が弱体化したのは明白であった。いつその隙を狙って攻め入ってくる輩が再度現れるか分からない。そういう理由から、珱菜の安全面を考慮して外出を禁止したのだった。

(――果たして、本当にその理由が正しいのかどうかは分かりませんが)

 そこまで思い連ねた氷麗は重くなった心で独り言ちた。鯉伴の死後から奴良組内で囁かれている「とある噂」があった。根も葉もない噂だということは百も承知している。しかし、それが氷麗の中で(うごめ)くようにして内情を掻き乱す。今朝の氷麗はいつものマフラーを首に巻いていない。しかし何も乗っていないはずの肩にかかる重さは、マフラーよりずっしりと感じるのだった。

 そんな氷麗の様子を察してか、珱菜は努めて明るい様子を振舞った。

「むかしのこと、思いだしたよ。楽しかったむかしの思い出。黒とか青と、かくれんぼしたときのこと」

 にっこりと向日葵のような笑顔を向けられた氷麗は、それにつられてか同じような笑顔を返すことができた。

「そうですね。あの時の珱菜さまは総大将に似て、やんちゃなお子さまでした」

「そんなことないよっ」

 全力で否認する珱菜。

「いいえ、珱菜さまは総大将にそっくりでございました!」

「えーっと。そ、そうかな……」

 氷麗の強い押しがあまりにも意外だったのか、珱菜は(よど)んだ返事を返した。

「ええ。そうでしょうとも、そうでしょうとも。私たちがあれほどどれだけ……」

 思い出しただけでも目の前が暗くなっていく。あれは最早、「隠れんぼ」と称した別の何かであった。そう、言うなれば、側近を伴っての畏の訓練。本当にまだ覚醒なされていないのかと疑うくらいに、あの時だけは珱菜がぬらりひょんの孫娘という事実を嫌というほど肺腑にしみつけられたのだった。

「え、えっと。つららおねーちゃん。わたしやっぱり思うんだけど、むかしのことはわすれちゃってもいいと思うの」

 忙しなく目を左右に振って、早口で目の前の幼い主は言った。先程は楽しかった思い出ど言っていたのに、その思い出を忘れてしまっても良いとはいかなる事か。どうやら、自分のやんちゃな姿は思い出したくはないらしい。それを見てとって、氷麗はぼそっと言葉を漏らした。

「……落とし穴」

 びくりと微かに肩を震わせたのが分かった。

「それに、宙吊りの罠、足掛けの罠。変装に不意打ち……。さらに」

「わわ! もういいから!」

 可愛らしく慌てふためいて遮った幼い主の様子に、くすりと笑みがこぼれる。

「つららおねーちゃんのいじわる。小さいときのことはもういいでしょう」

 小さく語尾が上がった抗議の声にも、可愛らしさが滲みだしている。

「冗談ですよ。あんなに悪戯っ子だった珱菜さまは、今ではこんなにも可憐に育ってしまわれましたから。総大将と若菜さまの教育の賜物でしょう。私たち側近一同は、感銘を受けております」

「そ、そんな大げさだよ」

 軽々と舞う振袖の袂をパタパタと揺らしながら、大きく両手を振って否定する。恥ずかしいのだろう。そんな年相応の反応を見ると、氷麗は穏やかな気分になるのだった。

「あらあら。そう言ってもらえるのは嬉しいわね。それに、よかったじゃない珱ちゃん。可憐なお姫さまですって」

 食器洗いが一段落着いたようで、濡れた手を割烹着の裾部分で拭いながら、若菜が話に加わってきた。純白の割烹着からちらりと見える質素な色の小紋柄が見事にあわさり、おとなしい雰囲気を醸し出している。

 質素で淑やかな若菜と、煌びやかで明るい珱菜。対称的だが、どこか纏う雰囲気が似ているのは親子だからだろう。

 氷麗は無駄のない動作で一礼して、若菜のために珱菜の対面を空けた。目上の人には敬意を表す。これが当たり前に出来てこそ、奴良組任侠道の一介者なのだ。

 頬に手を添えて、あらあらまあまあと柔和な為人(ひととなり)を前面に出している彼女は、周りの昂ぶっている感情でさえ穏健にしてしまう。しかし、今珱菜だけは心穏やかではなかったようだった。

「お、お母さま!」

 普段は一点の曇りもない白磁のような顔を真っ赤にして狼狽えている。

「やめてください。わたし、そんなのじゃ」

「珱ちゃん、自信を持って。あなたは私の自慢の娘なのだから」

 耳まで真っ赤になってしまった珱菜は、本格的に俯いて黙り込んでしまった。

 親子で会話を弾ませているのを横目に、氷麗は赤面している珱菜の頭に一片の花弁(はなびら)が舞い落ちるのに気付いた。淡い桃色の花弁だった。

(……桜?)

 ふと周りを見渡してみると、水場にある窓が半開になっていた。どうやらそこから東風に乗って舞い込んできたらしい。

「珱ちゃん、桜の花びらが乗っかったわよ」

「え? でも、どこから?」

「珱菜さま、あそこからじゃないでしょうか」

 辺りを見渡す珱菜に、氷麗は半開きの窓を指差した。

「ほんとだ」

「ああ。ガスの臭いが回っていたから、ちょっと開けたのよ」

 のほほんとして答えた若菜とは対照的に、あっと声を上げて驚く珱菜。氷麗は窓際まで近づき、閉めてしまおうと試みたが、急な声に思い留まった。

「お月さまだ!」

 昼間の月だった。窓から覗かせる大きく欠けた色薄い月は、そこにあるのが当然というように悠然とした態度で、しかしどこか儚い様子で空に浮かんでいた。雲一つない今日の晴天な模様に、欠けた月は怖しいくらいに映えていた。夜に浮かぶ月は上品で、周りの煌びやかな星達を従わせているが、今見えている昼の月は物寂しげな様子だった。

「なんでお日さまが出ているのに、お月さまが見えるの?」

 珱菜のその年に似付かわしい質問に、氷麗はぐっと喉を詰まらせた。

 氷麗には学がないが、一般常識はある程度持っていると自負している。太陽の恩恵があるからこそ、月は輝けるのだと、幼い頃に雪麗から教わった。しかし、どうして夜あるべく月が、昼にも姿を現すのかという質問には到底答えられなかった。

 どうにかして幼い主の疑問を晴らして差し上げようと奮闘する氷麗だが、珱菜はますます首を捻るだけだった。その様子を微笑みながら眺めていた若菜が、わかったように口を開いた。

「たぶんね、珱ちゃんのことが心配だったのよ。夜だけじゃなくて、こんな時間にも見守ってくれているのね」

「き、きっとそうですよ!」

「ええっ」

 まごまごしていた氷麗は若菜に救いの手を幻視した。

若菜さまが助けてくれた、それなら私のすべきことは――

「あれ? 毛倡妓はどこにいったのです?」

 不自然に声が上擦ってしまいそうになったが、それは根性で押し流した。氷麗の意図に気付いたのか、若菜は柔和に微笑みながら答えた。

紀乃(きの)ちゃんには、小さい子たちの様子を見に行ってもらったわ。せっかくのお料理をお摘みされてしまったらたまらないもの」

 紀乃とは毛倡妓が江戸の城下町で花魁(おいらん)として生きていた時の名であったと氷麗は聞いている。その時代に強情といえる復讐心によって妖怪へと姿を変えたのだが、当時頻繁に花街へ渡っていた奴良組二代目大将・奴良鯉伴と出会い、組に加わったのらしい。今は氷麗や組の仲間内では妖怪名で毛倡妓と呼ばれているが、主の妻であった若菜と妖怪・首無には昔からの名前で呼ばれているのだった。

 なるほどと氷麗は納得する。姉御肌の毛倡妓のことだ。小妖怪の扱いはお手の物なのだろう。そういえばと、この前の宴会の時も毛倡妓が騒いでいた小妖怪たちを上手く(たしな)めていたことを思い起こした。そういうことに不向きな氷麗は、彼女を尊敬すると同時に、羨ましくも感じた。妖怪たちを率いる威厳というか、特殊な魅力というか、そういうもの等も一切合切を含めて「畏」というのだが、氷麗はそういう意味での畏が足りていないのだと自分では思っている。それに、毛倡妓は現世に生きてきた年月も長いのだしと憂慮した。なにより、なによりだ。驚異的なのは、あの胸なのだと唸る。あの甜瓜(めろん)のような、たわわに実った胸囲がどうしても卑怯に感じてならない。胸だけでどれだけの畏を集めているのかと考えると、氷麗の心に嫉妬の小波(さざなみ)が立った。

 私にもせめてもう少しだけでも胸があったら。そう思って俯くが、目に入るのは自身の申し訳なさそうに膨らんだだけの乳房だった。ちらりと若菜の胸を一見した。毛倡妓ほどではないが、しっかりと膨らんだ胸は女性らしさや母性を感じさせた。やはり女性と聞いて連想させるのは胸なのだった。

「つららおねーちゃんだったら、小ようかいたちにからかわれて終わっちゃうもんね」

 不意打ち気味に声がかかった。はっとして幼い主の顔を見ると、楽しそうに目を細めながら、してやったりと言わんばかりにほくそ笑んでいた。氷麗はその表情に総大将の面影を垣間見た。

「ううっ。珱菜さまひどいです偏見です!」

 事実を言われて、胸に杭が刺さったように呻いた。しかしだ。己の主とはいえ、十ほども生きていない少女にさえも、そのように思われているとは。心外だった。氷麗がわあっと必死で訴えかけるのを、若菜はやんわりと制して言った。

「氷麗ちゃんには氷麗ちゃんのいいところがあるの。だから、氷麗ちゃんも自信を持って」

「は、はぃいい……」

 立場が上の者からの励ましの言葉をかけられて、とめどなく三重円の目をぐるりと回らせた氷麗は、自身で身も心も縮んだ事がはっきりと分かった。嗚呼、若菜さまはこんなにもお優しいのに。

「どうしてか、珱菜さまは総大将にもそっくりでございます……」

 若菜とぬらりひょんの間に直接的な血縁関係がないのだとしても、比較をしてしまうのはやむを得なかった。

 にこやかに笑みを浮かべている若菜にも、珱菜はうかがった。

「お母さまもそう思う?」

「珱ちゃんはおじいさまの孫なのよ。似ていないはずないわ」

「うう。やっぱりにてるのかなあ」

 釈然としない様子。珱菜の前で見せる好々爺を氷麗は不遇に感じてならなかった。

「どうして総大将に似ていることに、不満があるのです?」

「どうしてって、いたずら好きのようかいだし。ほかの人にめいわくかけるの、いやだもの」

 悪戯している時の珱菜さまの顔は素晴らしく輝いていますと、本心が喉元まででかかったが、出し抜けに珱菜の顔が悲しそうに曇ったのを見て、氷麗はそれを既の所で殺してそのまま飲み込んだ。

「それに、おじいさまはれっきとしたようかい。わたしはまざり者だから、いっしょにされたくないだろうなって……」

「そ、そんな言葉、どこで覚えられたのですか!」

 思わず声を荒げてしまった。慌てて若菜の顔色を窺うと、彼女も困ったように眉をひそめていた。

 雑り者。その言葉は人間と妖怪の間で交わってできた子供を軽蔑する呼び名であった。古より妖怪は慣習と伝統に重きを置く生き物だった。光に生きる人間を離別し隔て、彼らは生きてきた。その人間と交わり、子をなすというのは禁忌に近い行為だった。更に、妖怪と人間の混血児というのは、出生時に「畏」が弱い傾向にあった。畏至上主義の妖怪達にとって、一番大切な部分に始めから欠陥があるというのはあってはならない事態だったのだ。つまり、そんな半端者に名付けられた「雑り者」とは、妖怪任侠世界での差別語であった。

「分かりました。独眼鬼組のところの連中ですね。保守派の一ツ目殿が悪いのです! 組員の妖怪たちもですっ!」

「一ツ目さまはわるくないよ。だってほんとうのことだから」

 畏が弱いどころか、生まれたときから妖怪のヨの文字を一欠片すらも見せない事を気にしているのだろう。「それに、こけ姫さまも一ツ目さまはわるい方じゃないって言っていたし……」

 微妙な空気が三人の間で漂った。数秒の静寂が何だか重苦しい。窓から入り込んだ春風がいやらしく肌をなぞった気がして、氷麗は思わず身じろぎした。若菜はいつもの温和な顔を引っ込めていて、珍しく苦笑いを隠せない様子だった。

 そんな雰囲気を断ち切るように、台所を仕切っていた襖が滑らかに開いた。

「若菜さま。お昼餉、全て並べ終わりましたよーって、雪女、どうかしたのかい?」

「け、毛倡妓」

 毛倡妓は様相の理解に苦しんでるようで、怪訝そうな顔を浮かべて入ってきた。妖怪になる前は華やかな衣に身をまとっていた彼女だが、今の質素な服装も違和感なく着こなしている。小豆色の襟に青紫の帯。白地が主となっている着物。その袂と(おくみ)の下部だけ桃色に染められており、雪割草が二輪、自信有り気に咲いていた。普段通りの装いである。

 氷麗に疑問を投げかけたのは、ちょうど毛倡妓と向かい合う形で立っていたからなのだろう。催促の目配せを受けた氷麗は、状況を掻い摘んで説明した。

「なによ、そんなことだったの?」

 一連の事を聞いて、呆れた顔を作った毛倡妓は、その艶かしい黒髪をゆらゆらと揺らしながら、溜息をつくようにして言葉を吐き出した。髪の束が動くたびに、白く光った(うなじ)が妙に色っぽい。流石は吉原で活躍した元花魁であるなと氷麗は感嘆したが、彼女の言い草は聞き捨てならなかった。氷麗は目尻を上げて、言葉に怒気を含めた。

「そんなことって……。間違っても珱菜さまだけには聞かれてはいけない言葉でしょうに!」

「でも、そんな程度のことね。珱菜さまもいつかは知ってしまうでしょうよ。こんな妖怪屋敷で暮らしているのだから。完全に封じ込めることなんてできやしないさ」

「それでも! 言っていいことと悪いことが」

「そういうのを面倒見るために、あんたが側近に選ばれたんでしょうが」

 言葉を遮られて、むっとした気持ちになったが、冷静に考えてみると毛倡妓の言っている通りだった。外に浮かぶ昼の月と共に、氷麗は次の言葉を待って口を噤んだ。

「そういえば、なんでつららおねーちゃんがそっきんになったの?」

 今まで睫毛を下に落として大人しくなっていた珱菜が首を傾けて問うた。「氷麗ちゃんはね、珱ちゃんと似ているからよ」とは若菜。

「え、ええ。実は私も雑り者なんですよ」

「そうだったのっ!?」

 つまりはこういうことです。素っ気なくそう言った毛倡妓は言葉を続けた。

「珱菜さまのお気持ちを一番に分かってやれるのがこいつだって、お偉いさん達が言うから側近になったんですよ。そうでなければ、こんな若いもんが選ばれるはずありませんって。にもかかわらず、雪女はやっぱり浅はかというか、未熟というか……。それがあんたの取り柄でもあるってことは分かっているんだけどねぇ」

「それってこどもっぽいってこと?」

「そういうことですね」

 両手を上げながら首をすくめておどけてみせる毛倡妓は、やはりいつも通りであった。恨みがましい目線を彼女によこすと、おお怖い怖いと笑顔で演じてみせた。

 部屋の雰囲気は先ほどの澱んだものとは一変わりして、和やかなものに戻っていた。やはりこの人はこういうことに長けているなと氷麗は再度思ったが、自分が出しに使われたような感じがして、心からの賞賛ができなかった。毛倡妓の手のひらの上で踊らされている感覚がするのだ。しかしと、自らを嘲笑うかのように考えを改めて、それだけ私が扱いやすいのでしょうねと心の中で冷たい笑みが開花した。

 またしても、徒らにふわりとした風が半開の窓から舞い込んだ。何度も何度も音が鳴る獅子威しのごとく、鬱陶しいほど行き帰りするこの風を氷麗は忌々しく感じるのだ。普通の感覚の者ならこの春風は心地の良いものに感じるだろう。しかし、氷麗は雪女である。

 先日までの荒模様なら心地よく過ごせたというのに、何故か今日になって春先を感じさせるような天候になってしまった。一般的には温暖な、雪女にとっては猛暑の気候である。

 今朝は溶けてしまいそうな暑さで目が覚めた。居ても立ってもいられなくなって、秘密基地へと飛び込んだのだ。それほど氷麗は暑さが苦手だった。それだから、部屋の角まで行き渡るこの熱風を憎らしく思うのだ。

「そういえばね」

 そう切り出した珱菜の顔は、素晴らしい程の輝きを持っていた。春風が巻き上がって、ふわりと桜の香りが放たれたような気がした。体中に嫌なものが走った感覚。これはよくないことの前兆。そう脳裏に危険信号が送られたのも束の間、珱菜の唇が激しく動き出した。

「つららおねーちゃんって、なんで冷とう庫の中にかくれていたの? かくれんぼみたいで楽しかったけど、やっぱりおかしいよね。だって、つららおねーちゃん、もう百才なんでしょ? そんなに長生きしてるのに、かくれんぼって。けじょうろうとなっとうが言ってるとおりに子どもっぽいってことなのかな。それになっとうが言ってたけど、つららおねーちゃんのかくれてる場所って、ほとんどみんな知ってるってさ。今日の朝もなっとうと会ったんでしょ? ひっしでかくれんぼしてたみたいだけど、ばればれだったらしいよ」

「よ、珱菜さまぁ」

 悪い予感というものは良く当たるものだ。今回も見事的中してしまった。いや、それを上回る災難である。あの時、畏を極限まで小さくしたのに、納豆小僧は気付いていたのねとか、直隠しにしていた意味ないじゃないのとか、理不尽に湧き上がってきた憤りに上乗せするように、自分の情け無さと不甲斐無さが押し寄せてきた。収拾のつかない自己嫌悪。涙目を通り越して、目尻が熱っぽいのを自身でも感じる。精神衛生が著しく悪い。

 気落ちした効果音が聞こえてくる氷麗に対して、流石に可哀想だと思ったのだろう。若菜と毛倡妓が、際限なく銃弾を放ち続ける珱菜を停止させた。

「ご、ごめんね、つららおねーちゃん。わたしったら、また、つい……」

 ようやく我に返った珱菜は、やってしまったと決まりの悪い顔をしながら謝った。

「ええ、いいんです。いいんですよ」

 よよよと真っ白な着物の袖で目元の湿り気を拭いながら、氷麗は考えていた。自身の畏を最大限まで開放できたらと。方針上やってはいけないことだとは分かってはいるが、それが決定づけられる前の自分はそれほど子供でもなかったのだから。こんなに言われるほどでもなかったのだから。

 そう考えると暗かった気持ちが少しは鳴りを潜めた。しかし、おしゃべりはもう沢山だった。珱菜さま、そろそろ宿題の方を。そう切り出そうとした時だった。

「でもね、つららおねーちゃんの困った顔、すごくかわいかったから。つい……いたずらしちゃった」

 花も恥じらうような可憐さで、幼い主はそう言ってのけた。それでも、憎らしくも可愛らしい。

嗚呼、やっぱり。

「やっぱり珱菜さまは総大将にそっくりでございますーッ!!」

 

 

 

 カラカラと女たちの鈴のなるような声が台所を騒がせる。三人寄れば姦しい。では四人ではどうなるのだろうと氷麗は疑問に思った。

 ふと半開の窓の外を覗き見た。先程までは色褪せていた昼の月が、突如輝いたように感じたのだ。相変わらず吹き止むことのない風が氷麗の目を乾かせる。思わず瞬きしてしまいそうになったが、彼女の目に映る昼の月がそうはさせなかった。

(明るい……)

 満月もかくやというほどに輝いた昼の月。大きく欠いているにも関わらず、威風堂々とした佇まいで浮かんでいる。その月の周りに数多の星を幻視した。その星達は月を恋い慕うようにして煌めいている。その中でも一際大きく輝いた星があった。羨ましい。素直にそう思ってしまったのは何故だろうか。

 カラカラと鈴のような四つの女の声。その声は窓を抜けて、空高くまで響き渡るのだ。声に耳を傾けるように、酷く輝いた月が見守っている。月が近い。氷麗は浮ついた心から目を覚ますようにして、ゆっくりと窓を閉めるのだった。

 




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