はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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青春の風(3)

 

 

「試合?」

 

木村が聞き返すと、篠田トレーナーは笑ってうなずいた。

 

「会長とも話をしてな。そろそろいい頃合いなんじゃないかって結論になった」

 

木村と青木は、顔を見合わせる。

二人がボクシングを始めたのは、強くなりたいからでも、プロを目指したからでもない。

 

鷹村に一発ぶち込みたい。

そのくだらない、けれど確かな理由だけだった。

 

「確かに、練習は積みましたけど……」

 

木村が言い淀む。

 

ジムでの日々は、思った以上にきつくて、思った以上に自分たちを鍛え上げていた。

 

篠田も会長も、もう試合に出しても問題ないと判断している。

 

それでも……。

 

「試合ってのはなぁ……」

 

青木が曖昧に笑い、リングの方に視線を投げた。

リングに上がるのはスパーリングと同じはずなのに、試合という言葉がやたらと重く感じる。

 

篠田はそんな二人の躊躇を見透かしたように続ける。

 

「まぁ、プロの試合ってわけじゃない。ジム対抗戦だ。公式戦じゃないが観客も入る。いい機会になると思うぞ」

 

観客。その響きだけで、二人の胸に妙なざわつきが走った。これまでは自分の感情や怒り、理不尽に対する対抗、快感のために拳を振るってきた身だ。それを誰かに見られるのは……なんというか、すごく抵抗がある。

 

鷹村を倒すという目的からすれば、そんなものはどうでもいいはずなのに。

 

「……どうする?」

 

木村が小声で聞くと、青木は肩をすくめた。

 

「お前がやるなら、俺もやるけどよ」

 

即答はできない。

 

ジムに来た頃は、試合なんて考えもしなかった。

それでも今、篠田と会長の目には“試合ができる”と映っていた。

 

 

 

 

「――で、俺のところに来たってことか」

 

そう言って、獅子御は手にしていたトレーニング用品をそっと置き、ため息をついた。

 

ジムに入門してからというもの、獅子御は木村と青木のロードワークの付き合い、基礎トレーニングの細かいコツ、筋トレのフォーム、ミット打ちのリズム、スパーのタイミングまで、何度も根気強く二人の背中を押してきた。

 

時には厳しく、時には笑顔で褒める。

 

その絶妙な距離感が、いつしか木村と青木の心の支えとなり、尊敬へと変わっていった。

 

試合に出るかどうか。

 

その答えが簡単に出るわけもなく、二人は日々迷い続けていた。何度も胸の中でぐるぐると考え、時には吐き出せずに言葉を飲み込んだ。

 

それでも、気がつけばいつの間にか、心の片隅で「相談するなら獅子御さん」という答えが固まっていた。それは二人の無言の決断であり、無意識のうちに形作られた確かな決意だった。

 

ジムの雑然とした空気の中では、重たい話をじっくりするには向いていなかった。

 

顔を合わせるたびに言葉が詰まり、まともに返答できない二人の様子を見て、獅子御はある決断を下す。

 

「木村、青木、帰りの支度ができたら最寄駅のロータリーに集合しろ」

 

木村が戸惑いの色を浮かべて尋ねる。

 

「え、集合って……?」

 

獅子御は言葉を濁すことなく答えた。

 

「人の目があるところじゃあれだろ?家に来い。そこで話を聞く」

 

言葉はシンプルだが、その響きにはいつものトレーナーとしての厳しさと、年長者としての優しさが混ざっていた。

 

二人は顔を見合わせ、しばらく沈黙した後、重い足取りで了承する。指示通り、最寄り駅のロータリーで待っていると、獅子御が現れた。

 

「これから案内するところ、絶対に守くんには秘密だからな」

 

「え、それってどういう……」

 

「秘密だからな?」

 

その目は「はい」か「イエス」しか求めていない目だった。木村と青木は首を縦に振って誓う。もし鷹村にバラせば、命はないものだと思えるほどの気迫があった。

 

しばらく歩いた先にあるのは高層マンション。その自動ドアへ獅子御を先頭に歩みを進める。

 

扉が静かに開き、足を踏み入れた瞬間、二人は思わず足を止めた。

 

目の前に広がるのは、想像を超えた別世界だった。

 

広々としたエントランスホール。

壁面に映る柔らかな間接照明。

静寂の中に響く自分たちの足音。

ふかふかの絨毯が足裏に優しく染み渡る感触。

そして、漂う上品で落ち着いた香り。

 

ジムのあの汗の匂い、革の擦れる音、湿った空気の重さとはまるで別の空気がそこにはあった。

 

「……なんか、別の国に来たみてぇだな」

 

木村がつぶやくと、青木も小声で答えた。

 

「足音まで響くぞ、これ」

 

二人の声は、緊張と戸惑いを隠せず震えていた。

身体のどこかが縮こまり、普段の自分たちとは違う世界にいることを強く感じていた。

 

その場の空気に呑まれながらも、二人はゆっくりと獅子御の後を追った。

お互いの視線は落ち着きを欠き、不安げにあちこちをさまよい、背筋を無意識のうちに伸ばしている自分に気づく。

 

さらに獅子御の自宅に足を踏み入れると、その驚きは一層大きくなった。

 

天井高く広がるリビングは、光をやわらかく反射していて、壁には品のある絵画が静かに目を引く。

 

上層階のためか、大きな窓の外には街の灯りが宝石のように煌めき、夜の静寂に溶け込んでいる。

 

棚には海外から集められた様々な土産物がきちんと並び、その一つ一つが異国の空気を運んでいるようだった。

 

獅子御の部屋にある二人がけ用ソファの上に置かれたクッションはふかふかで、指先で触れただけで高級感が伝わってきた。

 

「……なんていうか、現実感がないな」

 

木村が小さく呟いた。

 

獅子御は困惑する様子の二人に、淡々と家族構成を説明する。

 

父が商社マン、母が大学教授だ。

 

若い頃は転勤が多かった父に振り回される形で何度か転校していて、この街に落ち着いた頃で小学生の頃に鷹村と出会ったのだ。

 

そわそわする二人の空気を一瞬で和らげるように、控えめながらも軽やかなノックが響く。

 

「こんばんは!母がこれを持って行けって」

 

扉の向こうから、優雅に現れたのは高校一年生の妹だった。

 

彼女はお盆にお茶と菓子を丁寧に載せ、長い髪が肩で揺れる。その瞳は澄んで大きく、自然な笑顔を惜しげもなく向けている。

 

まるで雑誌の表紙から抜け出してきたかのような可憐さと、無垢で柔らかな愛嬌が溢れていた。

 

木村と青木は、思わず身動きが止まった。

 

言葉を発しようと口を開けたものの、緊張が喉に絡みつき、声が出ない。頭の中で何か言おうとしても、その笑顔の残像が胸の内をかき消してしまうようだった。

 

ちなみに、獅子御は鷹村をこの家に一度も招いたことがなかった。

それどころか、今後も呼ぶつもりは一切ない。

 

しかし、不思議なことに、鷹村の兄や姉、弟は何度か獅子御の家を訪れている。

彼らは鷹村のことを心配しての行動だろうが、その微妙で複雑な関係は、獅子御の両親も妹もすっかり慣れてしまい、もはやツッコミを入れる気力すら失っていた。

 

家族の間では、それが当たり前の風景になっているのだ。

 

一方で宮田はというと、割と良い高校に通っている獅子御に勉強を見てもらったり、海外のボクシングビデオを一緒に鑑賞するために何度も訪れている。

 

時には泊まり込むこともあり、そのたびに宮田の父と獅子御の家でお礼や近況のやり取りが交わされた。

 

普段は凛々しく人との距離を保つ宮田だが、獅子御に対しては明らかに警戒心を解いていて、その懐き具合はジムでも少し話題になるほどだった。

 

さて。

 

妹が出て行き、再び静寂が部屋を満たした。

さっきまで漂っていた甘い紅茶の香りが、ほんのりと空気に残っている。

 

獅子御は窓際の椅子にゆったりと腰掛け、肘掛けに片腕を置いたまま二人を見据えた。

その視線は、ジムでミットを構える時の鋭さではなく、年上の兄が弟を見守るような温度を帯びている。

 

「試合に出るのを悩んでるんだろ?」

 

不意に核心を突かれ、木村と青木はわずかに息を詰めた。言葉を探す時間が、時計の秒針の音と共に重たく過ぎていく。

 

「……正直、俺たちがボクシングを始めた理由は、鷹村のやつに一発入れるのが目的で……」

 

木村が言い淀むと、青木が続けた。

 

「こんなに一つのことに打ち込んだなんて初めてだったからな……」

 

その声には、ここまでの練習で手にした自信と、リングに立つ自分を想像して生まれる迷いが入り混じっていた。

 

「思い通りにならないからこそ、ボクシングは面白い」

 

獅子御がぽつりと放ったその一言に、二人は眉をひそめた。しかし、獅子御はその反応を確認しながら、淡々と続ける。

 

「俺がボクシング……いや、守くんと向き合ってきて思ったことだけどな。で?二人はその後のことを考えてるのか?」

 

「その後のこと?」

 

「守くんに一発お見舞いしたあとのこと」

 

その瞬間、二人は胸の奥に沈んでいた原点を引きずり出されたような感覚に襲われた。

心臓の奥をざらついた布でこすられるような、不快でいて抗えない痛み。

 

脳裏に浮かんだのは、あの日――校舎裏。

夕方の空が朱に染まる中、笑っているのか怒っているのか分からない鷹村の顔と、地面に転がる自分たちの視界。

唇の端から鉄の味が滲み、息をするたび肺が焼けるように熱かった。

何も持たず、何も成せず、それでも意地だけで立ち上がり、挑んでは叩き伏せられた。

 

【こいつらは中途半端に物事が出来ちまうから、真剣に何かに打ち込めてねぇ。いつも宙ぶらりんよ】

 

鷹村のあの声音が、今も耳の奥にこびりついて離れない。

悔しさよりも、自分でも薄々気づいていたその指摘の正確さが、胸の内側をじわじわと蝕んでくる。

 

「……その様子からして、全然考えられてないって感じだな」

 

頬杖をつき、何気ない調子で獅子御が言う。

けれどその視線は、表面だけを見透かすのではなく、胸の奥底まで覗き込んでくるようだった。

木村は目を逸らし、ボソリと呟く。

 

「前は……そうじゃなかったんですよ」

 

頭の中に、別の記憶が浮かぶ。

汗にまみれ、砂ぼこりの舞うグラウンド。

野球をしていた頃は、確かに熱くなれた。勝てば笑い、負ければ本気で悔しがった。

だが、技術はあっさり身につき、試合では常に余裕があった。

相手の力量を測って先の展開まで読めるようになった時、心の奥の炎は急速に冷えていった。

 

「木村と野球をしてた時は、何やっても思い通りになることが多くて……飽きちまって、辞めちまったんだ」

 

青木がその言葉を締めると、獅子御はわずかに目を細め、二人を見据える。

 

その眼差しは、責めるでも呆れるでもなく、ただ真剣で……それが逆に胸に刺さる。

言い訳も反論も、その視線の前では形を持たずに溶けていくようだった。

 

「守くんに一発入れたら、ボクシングにも興味がなくなって辞めちまうかもしれない……そう思って怖くなったんじゃないのか?」

 

静かに投げられた言葉は、部屋の空気を一瞬で重くした。二人は反射的に口を開くが、すぐに言葉が喉の奥で絡まり、音にならない。

 

「それは!その……」

 

木村のかすれた声が、沈黙をかろうじて破った。

 

「なら、なおさら試合に出るべきだ」

 

獅子御の声は、さっきまでの柔らかさを残しながらも、芯の通った響きを帯びていた。

 

その低く安定した音色は、説得というより宣告に近く、二人の胸に直接落ちてきた。

 

「ボクシングの世界は広い。お前らが飽きる暇なんてないくらい、ずっと手に汗を握ることが待ってる」

 

その言葉を聞いた瞬間、木村も青木も視線をそらした。

 

信じたいのに、信じきれない自分。

 

でも、心のどこかでは……この人が言うならそうかもしれない、と思いかけている。

 

「なんで、そんなこと言い切れるんすか」

 

青木の問いは、挑むような響きを帯びながらも、どこか確かめたがる子供のようだった。

 

獅子御は視線を少し宙に漂わせ、わずかに笑う。

脳裏に浮かぶのは、農夫だった前世で、土の匂いにまみれた日々の中、ふと村の酒場で見た世界チャンピオンの姿。

 

画面越しでも伝わってきた、あの狂おしいほどの輝きと衝撃。

 

それは生まれ変わった今も色褪せず、むしろ年月と共に強くなっていった熱だ。

 

「実体験だからね」

 

淡々と告げられたその一言は、奇妙な説得力を帯びていた。

 

 

 

 

ジム対抗戦。

 

後楽園ホールで行われるそれは、いくつものジムが参加する交流試合であり、プロの公式戦ほどの興行規模はない。

 

だが、実力を世間に知らしめたいボクサーや、次代を担うホープたちが腕を試すにはうってつけの舞台だ。

 

観客の多くは関係者やジム仲間、それでも独特の熱気とざわめきは、木村にとって初めて味わう空気だった。

 

運命の悪戯か。

 

初めてリングに立った木村の相手は、今まさに連勝を重ね注目を浴びているジム期待の若手。

 

対する木村は、経験も自信も薄いまま、ただ「やってやる」という意地だけでここに立っている。

 

天井からぶら下がる無数の照明が、リングの四隅を白く照らす。

 

観客席からのざわめきが波のように押し寄せ、胸の奥を震わせる。

 

足先がわずかに揺れる。

 

緊張で、リングのキャンバスがやけに柔らかく感じられた。

 

ゴングが鳴る。一瞬、耳が熱くなり、周囲の音が遠のいたように感じた。

 

篠田トレーナーの怒声のような檄が飛んだが、その意味を理解する前に、目の前が、白く弾けた。

 

相手の右フックが、木村の頬をえぐるように突き抜け、視界がぐらつく。

 

重力が急に横から引っ張るような感覚。

 

気づけば、キャンバスの冷たい感触が背中に広がっていた。

 

初陣のリングで、いきなりのダウン。

 

耳に届くレフェリーのカウントは、水の底から響くように遠い。

 

(なんで……?俺、立ってたはずなのに……)

 

混乱で頭が真っ白になる。自分が後楽園ホールにいて、観客に囲まれ、今まさに試合の真っ最中だという現実すら、まともに認識できない。

 

顔には覇気がなく、まるで抜け殻のような表情。

そんな選手がボクシングで勝てるはずもない。

 

(ケッ、鷹村さんがいる鴨川ジムの選手だって聞いたのに……とんだ期待外れだ)

 

相手は冷ややかな視線を向ける。軽く鼻で笑い、その目には戦う価値のない相手を見る侮蔑があった。

 

だが、木村にはそれすら届かない。

 

一方、控え室で同じように緊張していた青木も、次の出番まで落ち着かずリング脇へ足を運んでいた。

 

そこで目に飛び込んできたのは、信じがたい光景。

 

木村が、何もできずに殴られている。

 

ジャブで顔を跳ね上げられ、ボディで腰を折られ、追い詰められてはロープ際で右を被弾する。

 

反撃の構えすら取れず、ただ相手の攻撃を受け続けるその姿は、まるでサンドバッグだった。

 

観客席からも、失望のため息と笑い混じりの声が漏れる。青木の胸の奥に、冷たいものが広がった。

 

「お、おい! 木村が負けてんのかよ!」

 

「地に足がついてないんだ!」

 

青木の声に、篠田トレーナーが焦ったような口調で応じた。このままでは防戦一方、いや、防戦すらままならない。

 

会長の表情も険しさを増していく。

 

「どけぇ!」

 

耐えきれなくなったのか、鷹村がセコンドの前に出てきた。

 

「何やってんだ馬鹿野郎! 俺様に突っかかってきた根性はどうしたぁあ!!」

 

腹の底から響く怒声。しかし木村は微動だにしない。

 

「無駄じゃ! 耳に入っておりはせん!」

 

鴨川会長の冷徹な判断が、さらに場の空気を重くする。鷹村は苛立ち、奥歯を軋ませた。

 

「こんのぉ……」

「木ぃぃぃ村ぁあああああああああ!!!!!!」

 

鷹村が叫ぼうとした、その瞬間。

 

篠田トレーナーの補佐についていた獅子御が、会場の喧騒を突き破るほどの声で叫んだ。

 

それは怒鳴り声ではなく、真っ直ぐな叱咤。耳ではなく、胸の奥に直接響くような声だった。

 

「ボクシングは、積み上げてきた者が勝つ!!!」

 

木村の脳裏に、瞬間的に稲妻が走る。

 

あの、汗で視界が滲むまで繰り返したミット打ち。

脇腹が悲鳴を上げても終わらないロードワーク。

鷹村との地獄のようなスパー。

 

全部、全部が、今この瞬間のためだったはずだ。

 

「何をごちゃごちゃと!」

 

相手選手が苛立ちを隠さずに詰め寄ってくる。

 

「ぎゃあー!! 木村! 前みろ前!!」

 

青木の悲鳴。

大振りの右フックが視界を覆う。

 

――見える。

 

木村の身体が、迷いなく外側へと滑り出す。

踏み込むでもなく、逃げるでもなく――まるで水が器の縁をなぞるような滑らかさだ。

鼻先すれすれを、相手の拳が風を切り裂きながら通り過ぎ、そのまま空を殴った。

耳元で「ブンッ」という鈍い風切り音が残る。

 

(躱わされた……!?)

 

相手の眉間に皺が寄る。想定していなかった動きに、わずかに重心が揺らいだ。

 

木村は素早く視線を走らせる。

オーソドックスな構え、きっちりと巻かれたグローブ、安定した足運び。セオリー通りの教科書のようなスタイル。

 

だが、その一歩の速さも、踏み込みの鋭さも、鷹村と比べれば雲泥の差だ。

 

そして何より。

 

(獅子御さんなら、こんなの息をするみたいに躱すぜ!)

 

木村の胸の奥に熱が灯った。グローブを握る指に、これまでの練習で刻み込まれた感覚が蘇る。

 

流れはまだ相手側にある。

 

相手は間合いを詰めるべく、前傾姿勢で圧をかけながらジャブを突き出してくる。

 

だが木村はそのすべてを、拳ではなく足捌きだけで捌き始めた。

 

リングの上に見えない回転盤があるかのように、木村の足は軽やかに軌道を変える。

 

その瞬間――流れが決定的に変わった。

 

「動きが変わった!」

 

青木の声が弾む。

 

鷹村は、ニヤリと口角を上げた。今の木村の目の奥には、獲物を追い詰める肉食獣のような光があった。

 

(相手を惑わせる……そして打つ!)

 

相手が一呼吸、呼吸を整える隙。

そのわずかな瞬間に、木村の左拳が走る。

 

乾いた破裂音とともにジャブが相手の顔面を正確にとらえた。

 

(こ、コイツ……さっきと動きが全然ちげぇ!)

 

相手の脳裏に、一瞬の疑念が閃く。

その迷いが足を止め、間合いを狂わせた。

観客席もそれを察知し、ざわめきが波紋のように広がる。

 

誰もが、さっきまで防戦一方だった木村が、今や完全に主導権を握っている事実に驚いていた。

 

相手は3戦3勝の若手ホープ。

これまでの試合で、ここまで翻弄された経験など一度もない。

 

だが今、木村はあえて相手のパンチが届く距離に入り込み、紙一重で避けている。まるで目に見えない網を張り巡らし、その中で相手を泳がせているかのように。

 

相手の攻撃はすべて、寸前で空を切った。

 

「あ、あいつ、あんなに強かったのかよ……」

 

青木が一人が呟くと、鷹村が当然だぁ!馬鹿野郎!と声を張り上げる。

 

「誠司が手ずから鍛えたんだ!こんなもんじゃねぇよ!」

 

そういって、鷹村は胸を張り返した。その声には揺るぎない自信が宿り、まるで試合の結末を知り尽くしているかのような確信に満ちていた。

 

(このぉ!)

 

相手が得意とする踏み込みの重い右フック。

しかし、木村の視界はまるでスローモーションのように、その動きを捉えていた。

 

「おせぇ!」

 

カウンターの左ストレートが鮮やかに顎を撃ち抜く。相手の身体がふらつき、バランスを崩す。

 

その隙を逃さず、木村は一気に相手の懐へ飛び込み、連続攻撃を浴びせかけた。

 

拳が相手の肉を捉えるたびに、鈍く重い打撃音が会場の空気を震わせる。的確に急所を狙い撃たれた相手は、力を失い仰向けに倒れこむしかなかった。

 

「ダウン!ニュートラルコーナーへ!」

 

レフェリーの低く力強い声がリングに響き、カウントが刻まれ始める。しかし、その途中でレフェリーは首を振り、カウントを中断した。

 

「勝者――木村!」

 

その瞬間、会場には一瞬の静寂が訪れたが、すぐに大歓声と拍手が渦のように巻き起こる。

 

「逆転KOだ!この選手、やるなぁ!!」

 

「相手はジムのホープだったろ!?まさかの逆転勝利だ!」

 

「根性を見せたな!次の試合も期待してるぞ!!」

 

あふれんばかりの称賛の声と期待が木村を包み込み、彼はしばしその場に立ち尽くし、グローブで目元をそっと覆った。

 

そんな彼に、篠田トレーナーが肩を叩きながら低い声で言う。

 

「よくやった。さあ、挨拶をして引き上げるぞ」

 

木村が小さく頷くと、視線の先に獅子御の顔があった。

 

「獅子御……さん」

 

言葉にならない感情を呟くと、獅子御は静かに木村の肩を叩き、満足げに頷いた。

 

 

 

 

 

誰かにこうやって賞賛されて、その声に素直に頭を下げたのは、一体いつぶりだったのだろうか。

 

昔はただのツッパリだった。

 

喧嘩に明け暮れ、時には血まみれになりながらも、いつも何かにイラついていて、それを発散するように暴れていた。

 

あの頃の俺は、周りの目も気にせず、ただ無鉄砲に突き進むだけだった。

 

歳をとってから、「俺も丸くなったわ」だとか、「ようやく落ち着いた」だとかを言って、 ありふれた人生を送っていたのかもしれない。

 

ありふれた人生。

誰もが通るであろう、平凡な道。

 

だけど俺はそんな「普通」には耐えられなかった。

 

何もかもが上手くいく人生なんて、つまらなくて仕方がなかった。だからこそ、ぶっ壊すつもりで、無茶苦茶に生きてやろうと決めていた。

 

失うものも怖れも全部捨てて、ガムシャラに暴れ回ることしか考えなかった。

 

青木の試合を見ながら、その胸に秘めた決意と葛藤を思う。

 

青木の相手は無敗の若きベタ足インファイター。

 

手数の多い攻撃で圧倒する戦い方だが、青木は一歩も引かず、冷静に試合の流れを掴んでいた。

 

「いいぞ、青木ぃ!」

 

セコンドにいる篠田トレーナーの声が震えるほど熱を帯びている。

 

「よっしゃあ!木村の勝利が勢いをつけておるわ!」

 

青木は相手の動きを鋭く読み取り、連打の合間の一瞬の隙を逃さずに畳み掛ける。

 

多少の被弾もあったが、ダメージは圧倒的に相手に蓄積されていった。

 

2ラウンド目、ついに追い詰めた相手にトドメの連打を浴びせると、若手ホープは力なく音もなく崩れ落ちた。

 

文句なしのKO勝ち。会場は熱狂の渦に包まれ、青木へ惜しみない拍手と歓声が降り注ぐ。

 

コーナーに飛び乗り、勝利の喜びを全身で噛み締める青木。

 

その姿を見つめながら、俺の頭にはっきりと蘇る獅子御さんの言葉。

 

 

 

「ボクシングの世界は広い。お前らが飽きる暇なんてないくらい、ずっと手に汗握ることが待ってる」

 

 

 

胸の奥が熱く震え、鼓動が激しく鳴り響く。

 

もう、辞められない。

逃げられない。

 

勝利の歓声が耳をつんざき、リングの灯りがまばゆく輝く中で、俺は確信する。これからもこの世界で戦い続けるんだと。

 

青木。辞められないよな、ボクシング。

 

楽しくて、辞められないよな!ボクシング!!

 

ボクシングは、もう、逃げ場でも、ただの遊びでもない。

 

俺たちの、生きる道なんだ。

 

 

 

 




次から、鷹村と獅子御のスパーリングの話になります
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