はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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武闘親友
去り行く嵐の前に


 

 

鷹村の四回戦目が終わった。

 

右手首に痛みを抱えたままの試合だったが、そんなことはおくびにも出さず、ゴング直後から豪快な攻め。相手が様子を見ている隙を逃さず、初回に一閃の右ストレートが炸裂した。

 

乾いた衝撃音とともに、相手の体が糸の切れた操り人形のように後ろへ倒れ込む。会場が一瞬息を飲み、すぐさま歓声が爆発した。

 

「どうだ!俺様の実力は!」

 

リング中央で両腕を掲げ、笑い声を轟かせる鷹村。

 

「馬鹿者!今回はどうにかなったが、次はどうなるかわかったもんじゃないわい!」

 

控え室に戻ると、鴨川会長が顔を真っ赤にして調子よく笑っている鷹村を怒鳴りつけていた。

 

篠田トレーナーは深く息を吐き、八木マネージャーは「やれやれ」と肩をすくめる。

 

そんな控室の空気はいつも通りに賑やかなのに、木村と青木は、違和感を覚えていた。壁際、賑やかな輪から一歩引いた場所に獅子御が立っている。

 

腕を組み、何か、鷹村たちのやりとりを眺めるように誰にも黙ってそこでジッと佇んでいた。声をかけられるまで、その視線は微動だにしなかった。

 

「……獅子御さん、なんかあったんすか?」

 

青木が軽く首をかしげて尋ねる。

 

「あ、いや、別になんでもないさ」

 

答えは短く、そして笑顔は薄い。

 

その笑みは作り物のように整っていたが、瞳の奥にはわずかな揺らぎがあった。

 

それは誰もが見過ごす程度の、ほんの小さな波紋……だが確かに、静かにそこにあった。

 

 

 

 

平日の夕方。

秋の気配が街に忍び込み、風は少し冷たくなり始めていた。

 

鷹村の第四試合が終わってしばらく。ジムも今日は休養日。

 

篠田マネージャーも、他のジム生たちもそれぞれの時間を過ごしている。獅子御も、授業が終わればまっすぐ帰宅する日だった。

 

とはいえ彼の一日は普通の高校生よりずっと濃い。

 

授業に出席し、課題をこなし、放課後はジムで木村や青木の練習相手、選手たちの調整を手伝う。

さらにスポーツ医療の特別講義にも参加しており、休養日といえど頭は常に何かを考えていた。

 

そんな彼が、今日は珍しく、鷹村の姉である京香と待ち合わせていた。

 

駅前のカフェテリア。

 

窓から差し込む西陽がテーブルの木目を黄金色に染め、湯気の立つカップの縁で小さな光が瞬く。

 

店内は平日の夕刻らしい静けさに包まれ、遠くの席からは読書をする紙の擦れる音がかすかに響く。

 

京香は指先でカップを包みながら、向かいに座る獅子御の様子をじっと見つめた。

 

その目は探るようでありながら、姉としての温かさも滲ませている。

 

「誠司くん、どうかしたの?」

 

声は柔らかいが、その奥には、何かしらの変化を見逃さない鋭さがあった。

 

獅子御は、テーブルに置かれたコーヒーに手を伸ばさないまま、じっと視線を落とす。その眉間には、ジムでは見せない深い影が落ちていた。

 

まるで、頭の中で何度も同じ問いを繰り返しているような表情。

 

ほんの短い沈黙。

 

京香は口を開こうとしてやめ、その間に、彼の中の遠い記憶や思考がゆっくり浮かび上がってくるようだった。

 

「京香さん……」

 

名を呼ぶ声は低く、押し殺すような響き。感情の色を悟らせまいとするが、ほんの僅かに揺れている。

 

「また守ちゃんのこと?」

 

問いかけに、獅子御は首を横に振った。

しかしその仕草も、どこか迷いを含んでいる。

 

「……いや、俺自身のことだ」

 

短い言葉。けれど、その重みは湯気の向こうで確かに伝わってくる。

 

京香の眉がわずかに動く。

 

彼が自分のことを話題にするのは珍しい。

これまでは弟である守に関わる話がほとんどだった。だからこそ、今回の悩みにも弟の影が間接的に差していることを、彼女はすぐに察した。

 

その予感は、冷めかけたカップの香りよりも濃く、二人の間に漂っていた。

 

「守くんの道を作るためには、俺はこのままじゃいられない……」

 

その言葉に宿る熱は、一瞬の思いつきや夢物語ではなかった。長い時間をかけ、胸の奥で何度も噛み締め、形を整えてきた計画。

 

今、獅子御が通う私立高校はスポーツの強豪校で、同時にスポーツ医学の分野に特化した学科を持っている。

 

そして先日、母親を通じてもたらされた一通の打診。

 

それは、アメリカの名門大学からの特待生入学の誘いだった。

 

ボクシングの本場、アメリカ。

そこで最新のスポーツ医学を学びつつ、本場特有の人脈と信頼を築く。

 

それは単なる学問のためではない。

 

鷹村が戦うヘビー級。

 

その世界チャンピオンたちは、例外なく怪物ぞろいだ。彼らのリストに、日本人の名前が載ることすら珍しい。挑戦権を訴えても、興味を持たれなければ一笑に付され、門前払いされるのが現実。

 

ならば、認めさせればいい。

 

本場のリングに立つ理由を、相手に与えればいい。

 

そのために必要なのは、リング外での強固なコネクション。

 

現地のボクシング関係者やトレーナー、医療スタッフ、プロモーター。彼らに「鷹村守」という名前を刻み込ませること。そして、戦う理由を作らせること。

 

獅子御はずっと、それを現実の選択肢として温めてきた。

 

鷹村守という稀有な存在を、アメリカのボクシング界に轟かせるために。

 

「相変わらず、誠司くんは守ちゃんのことを考えてくれてるのね」

 

京香の声は、少しだけ和らいだ響きを持っていた。

 

しかし、その瞳の奥には、弟を想う姉としての複雑な感情が揺れている。誠司が何を背負おうとしているのか、その重さを察していたからだ。

 

「自分のためですよ」

 

獅子御は淡々と、しかし一切の迷いなく言った。

 

「守くんが……鷹村守が世界を取るその瞬間を。拳一つで世界をひっくり返すところを、俺は見たいんです」

 

それは紛れもない真実だった。

 

だが、その言葉の裏には……もしそのために、自分の人生を丸ごと投げ出すことになっても構わないという覚悟があった。

 

ただし、その覚悟だけは、口に出すことも、顔に出すこともなかった。

 

黄金色の西陽が傾き、テーブルの影がゆっくりと伸びていく。京香はカップの縁に指を沿わせながら、獅子御の瞳の奥を見つめ続けていた。そこには、まだ言葉にならない炎が、静かに燃えている。

 

けれど……正直に言えば、揺れていた。

 

鴨川ジムの居心地の良さ。

木村や青木、そして懐いてくれる宮田。

時に笑わせ、時に競い合うことができる鷹村。

気のいいトレーナーや、マネージャー。

厳しいながらボクサー思いの鴨川会長。

 

仲間たちの笑顔と、汗の匂いが混ざる練習場の熱気。

 

あの空間は、ただのジムではなく、帰る場所になりつつあった。そこから離れることを考えるたび、胸の奥で何かが引き留める。

 

みんなに相談すれば、きっと「気負いすぎだ」と笑って言われるだろう。

 

鴨川会長なら、豪快に笑い飛ばしながら、

 

「そんなもん、わしに任せとけ。お前さんは自分の力を活かせばいい」

 

と諭してくるに違いない。

 

そして何より、鷹村が認めるはずがない。

 

【売り込むまでもなく、俺様の実力を世界は必ず知ることになる!!】

 

――そう言い切る姿が、容易に想像できた。

 

けれど、それでは駄目だ。

 

その道は鷹村から、あまりにも多くを奪う。

世界チャンピオンという夢を追う中で孤立し、やがて道を踏み外してしまう危うさを、獅子御は感じていた。

 

そんな鷹村守を、彼は見たくなかった。

 

だからこそ決断は重く、足は前に出なかった。

 

「卓さんは、相変わらず?」

 

話題を変えるように獅子御が問いかけると、京香は年長者らしい落ち着いた笑みを浮かべた。

 

「卓兄さんも、相変わらずね。あ、でも……誠司くんのお父さんとは、うまく仕事をやってるみたいよ」

 

京香の言葉に、獅子御は一瞬だけ視線を落とす。

過去の件……守が起こした傷害事件。

それは鷹村家にとって深い傷のままだ。

 

だが、兄である卓は守のことを思い遣っていた。

必要とあれば、グループ会社の役員の地位さえ用意する覚悟で、今は仕事に専念している。

口には出さないが、家族を想う一面を、京香も獅子御も分かっていた。

 

それでも……守はボクシングに生き、そして、ボクシングに死ぬことを選ぶだろう。

 

京香はゆっくりとコーヒーを口に運び、カップを置くと、静かに瞼を伏せた。その眼差しは、これからの未来を否定も肯定もせず、ただ静かに受け止めているようだった。

 

「誠司くん。私はね……もっと、貴方自身のことも大切にしてほしいと思ってるの」

 

その言葉は優しく、けれど揺るぎなく、まるで大切な誰かを案じるような深い思いが込められていた。

 

獅子御は一瞬だけ視線をそらし、笑みを浮かべてそれを受け流す。

 

それは少しの照れ隠しであり、同時に本音をごまかすための防御だった。

 

京香の自身も、言葉にしない感情が静かに宿っていることがわかっていた。しかし、それを決して態度に出そうとはしなかった。

 

幼い頃から、守をかばい、時に共に無茶をしては叱られ、暴れん坊で手を焼く弟に振り回されながらも、獅子御は守の一番の味方だった。

 

そんな彼の存在は、姉として京香にとっても大きな支えだった。何より、京香や卓が安心できるのは、いつもそばにいて守を見守ってくれる獅子御の存在があってこそだった。

 

「小さい頃から、ずっと守ちゃんと一緒にいて。中学のあの一件のあとからは、ジムに入って守ちゃんの手助けをずっとしてくれた。守ちゃんにとっても、こんな友達は本当に珍しいし、貴重な存在だと思う」

 

そう言葉を続ける京香の声には、暖かさと共に、どこか言葉にしきれない感情が秘められていた。

 

「でもね……あなた自身のことも、大事にしなきゃだめよ?」

 

その言葉は単なる友人への忠告ではなく、

誰かを想う者が抱く、繊細な願いにも似ていた。

 

もし獅子御の人生が、守のためだけに犠牲になっているなら、それは自分たちの甘えでしかないことも、京香はよく理解していた。

 

だからこそ、彼女は諭す。獅子御にも、獅子御自身が歩むべき道が、きっとあるはずだと。

 

その言葉は、やわらかな夕暮れの中、二人の間に静かに染み渡っていった。

 

「わかってるよ、京香さん。でも……」

 

カップの中で揺れるコーヒーが、夕陽の朱色を映して波打つ。

 

「やっぱり、俺の夢は、アイツが世界を取ることだから」

 

迷いのない声。

 

だが京香は、その言葉の奥底に、まだ口にされていないもう一つの決意が潜んでいるのを感じ取っていた。

 

「……そういうところよね、本当に」

 

思わずため息が漏れる。

 

別の方向を向いてはいるけれど、どこか似ている二人。守の親友を長く続けているだけあって、似た者同士だということを、改めて思い知らされる。

 

「なら、私も色々と手助けするわ。守ちゃんと、誠司くんの夢のためだもの」

 

京香の言葉には、揺るぎない覚悟と温かな決意が込められていた。

 

「ありがとう、京香さん」

 

獅子御は深く頷き、ゆっくりと背筋を伸ばした。

 

その背中には、まだ誰にも明かしていない“もう一つの道”の影が、静かに寄り添っているのだった。

 

 

 

 

「鴨川会長」

 

後日。

 

ジムの雑踏がすっかり静まった夜遅く、他の者たちが帰路につく中、獅子御はひとり残っていた。

 

薄暗い会長室の窓からは、夜の街灯りがぼんやりと差し込んでいる。

 

意を決して、獅子御は静かに口を開いた。

 

「高校を卒業後……俺はアメリカへ留学するつもりです……」

 

その言葉は、重く、しかし真摯に会長室の静寂を切り裂いた。彼が続けるのを待つように、部屋の空気は一層張り詰めていく。

 

獅子御は息を整え、そして真の目的を打ち明けた。会長はしばらく沈黙したまま彼の言葉を受け止める。

 

やがて、深くゆっくりと息を吐きながら、温かい声で言った。

 

「そんなことは、わしらおいぼれたちに任せればいい」

 

その言葉には経験と慈愛が宿っていた。だが、獅子御の覚悟はその言葉に揺らぐことはなかった。

 

篠田トレーナーや八木マネージャーが静かに見守る中、会長室の空気はますます緊迫したものとなる。

 

「……そうか。お主がそう言うのなら、わしは引き止めるつもりはない」

 

鴨川会長の声は穏やかであったが、そこに秘められた覚悟の強さを獅子御は感じ取っていた。

 

「だが、いいのかい?君の人生なんだよ?」

 

八木マネージャーのまなざしは鋭く、真剣そのものだった。

 

「男には、見えた未来を手にしたい欲がある。鴨川会長はよくそれを理解していると思います」

 

獅子御の言葉は、焦りや不安ではなく、

胸に灯った確かな意志の証だった。

 

実際、会長も獅子御と同類なのかもしれない。

あの若者を初めて見た時に感じた揺るぎない確信。

 

【こいつは世界チャンピオンになる】

 

そう思わずにはいられなかったのだ。

 

「ふん、抜かしおるわ、青二才が」

 

にやりと笑いながら会長が言う。その軽口の向こうに、深い期待と信頼が滲んでいるのを獅子御は知っていた。

 

入門当初、会長に尋ねられたことがある。

 

「何のためにここに来たのか」と。

 

「道を作るため」と答えた獅子御。

 

そして今も、その道作りは続いているのだと確信している。

 

会長の笑みが少しだけ深くなった。

 

「よかろう、青二才。覚悟のほど、しかと見届けさせてもらおう」

 

その言葉が放たれた瞬間、部屋の空気の重さが少し和らいだ。言葉を超えた固い絆と、未来への約束が静かに刻まれているのを獅子御は感じていた。

 

しかし、獅子御は一呼吸置いてから、さらに重い決意を告げた。

 

「だから、その前にやりたいことがあるんです」

 

獅子御の視線は会長の瞳に真っ直ぐに突き刺さった。

 

「やりたいことじゃと?」

 

会長の声にわずかな強さが宿る。

まるで、背中を押しつつも、その覚悟を試すかのようだった。

 

「鷹村守……彼との戦いを」

 

その言葉は、静かに、しかし確かな重みを持って部屋に響き渡った。

 

獅子御はこれまで、頑なに鷹村とのスパーリングや試合形式の打ち合いを固辞してきた。

 

その理由は明白だった。

 

鴨川会長が教えるボクシングの型を、自分が崩してしまうのではないかという恐れ。

 

会長の教えは、強さだけでなく、心技体の均衡を重んじる。それを自ら壊してしまうことは、ジムの信念を裏切ることになる。

 

しかし今、獅子御は確信している。

 

己の技術も精神も、会長の教えから逸れることは決してない。だからこそ、今ならば鷹村と真正面から拳を交えることができる。

 

その経験は、アメリカでの未知なる戦いにおいて、何よりも強力な力となるだろうと。

 

そんな覚悟を胸に、獅子御は静かに、だが揺るぎない声で言った。

 

「……もう何も心配はいらない」

 

篠田トレーナーや八木マネージャーも傍らで静かに見守る中、会長室に緊張が満ちる。

 

「……そうか。お主がそう言うのなら、わしは引き止めるつもりはない」

 

鴨川会長の声は穏やかだった。しかしその口調の裏には、揺るがぬ覚悟が秘められているのを獅子御は感じ取った。

 

篠田トレーナーも八木マネージャーも息を飲み込み、場の空気は一瞬で引き締まった。

 

そこには、ただの試合以上の意味が込められていることを、皆が知っていた。

 

 

 

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