はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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ウォームアップタイム

 

 

夕方のジム。

 

走り込みを終えて汗だくで戻ると、リングサイドで腕を組んだジジィが待っていやがった。

 

あの目つき……また何か企んでやがるな?

 

ジジィは、俺様がボクシング始めた日からの付き合いだ。俺様がまだまだボクシングに甘かった頃も、拳を痛めた時も、減量の壁にぶち当たった時も、そのぜんぶ見られてる。

 

だから、こうやって何も言わずに黙って立たれると、逆に何を考えてやがるか気になっちまう。

 

「……鷹村、右手首の調子はどうじゃ」

 

「おう!もう痛みは抜けたし、全力で打っても問題はねぇよ」

 

ジジィの口元がニヤッと上がる。

 

分かってんだよ、その顔。次の試合の日程か……それとも新しいトレーニングメニューを試すつもりだな?

 

「そいつは上出来じゃ。では、走り込みと筋肉量を戻すトレーニングをするぞ」

 

その言葉に思わず唖然としちまう。

 

「……なんだよ、このまま維持すんじゃねぇのか?」

 

「今のお主には全力のコンディションが必要なんじゃ」

 

……全力?ハッ、そんなもん日本じゃ出す相手がいねぇよ。同じヘビー級でも俺様と張り合えるやつなんざ皆無だ。どいつもこいつもまるで歯応えがありゃしねぇ。それなら木村や青木を相手にしてる方がマシだっての。……最近じゃスパー相手も海外頼み。だから全力なんざ遠い話になっちまってた。

 

「俺様の全力ねぇ……そんなの受けられるやつは日本にゃ——」

 

「何を言っておる。目の前におるじゃろう」

 

ジジィの視線を追うと——そこにいた。

 

リング脇で、サンドバッグをぶっ叩く獅子御 誠司。

 

……打ち込みの質が違う。普段はもっとラフに、スタミナや腕の筋肉を鍛えるような打ち方をしているが、それとは全く違う。

 

間合いも、踏み込みも、拳の抜き方も、ぜんぶが本番用だ。

 

あれは、何かを試して、何かを掴もうとしている打ち方……いや——違ぇな。俺様を殴るための拳だ。勘がそう言ってる。

 

始動点と終着点、その最短距離をカットするパンチ。軌道が読みにくく、目の前に突然現れるパンチ。死角からとんでもない威力で急所を的確に撃ち抜いてくるパンチ。

 

ステゴロの喧嘩の時にしか味わえなかったそれが、リングで味わうことができる。

 

自然と口の端が持ち上がる。

目が合った瞬間、火花が散った気がした。

 

こいつ……随分と待たせやがって……やっと来やがったか。

 

「……ジジィ」

 

「半月後じゃ。そこで、お主と獅子御のスパーリングをするぞ」

 

グッと拳を握りしめる。ボクサーになって初めてこうもワクワクする。

 

待ってたぞ。

 

俺様がボクシングを始めた頃から。

 

ずっと、ずっと……!!

 

「待ってたぞ。待ってたぞ、誠司ぃ……!!」

 

声が勝手にデカくなった。

サンドバッグを叩いていた獅子御に届いたのか、拳がピタリと止まり、静かに笑いやがった。

 

上等だぁ!

 

半月後……俺様の全てを、てめぇにぶつけてやる!

 

 

 

 

 

一方の獅子御も、すでに調整段階へ入っていた。

 

「獅子御さん!」

「相手は俺らがやります!」

 

声をあげたのは木村と青木。スパーリングの調整役を自ら買って出た。

 

獅子御の適正体重は上限200ポンド(約90キロ)のクルーザー級。絞ればスーパーミドルまで落とせるが……減量で体力を落とす鷹村と戦っても本来の力は発揮できないと、獅子御本人は鴨川会長に言っていた。

 

それに、今回のスパーはただの調整ではない。

 

獅子御は、このスパーリングの様子を密かに撮影するつもりだった。アメリカで鷹村守を売り込むための、決定的な“証拠”として。

 

鷹村に減量のハンデを負わせず、ベストコンディションで臨んでもらうこと。

それが、この試合の最大の狙いであり、鷹村の真の実力を見せる唯一の機会だった。

 

もちろん、その事実は鴨川会長以外には伏せてある。

 

撮影が公になると、選手たちは無意識に動きを制限し、変に意識してしまう。それでは本当の実力を映し出せず、嘘臭い映像になってしまうのだ。

また、アメリカの関係者に見せる際、情報は統制されているほうがインパクトも増す。過度な情報が漏れれば、駆け引きが薄まり、相手の警戒心を煽ってしまう。

 

だからこそ、獅子御は鴨川会長のみと連携し、極秘裏に撮影計画を進めていた。

 

「じゃあ……とりあえず、付き合ってくれ」

 

木村がヘッドギアとボディプロテクターを装着し、リング中央へ進む。

獅子御は無言で構え……わずかに前足をずらす。

 

(普段は宮田とのスパーでしか見られない、本来のスタイル……。目に焼き付けろ、盗むんだ)

 

呼吸を整え、木村が踏み込んだ瞬間。

 

視界が跳ねた。

何を受けたのか、まったくわからない。

脳の奥で鈍く、重たい痛みが波のように広がり、意識を刈り取ろうと迫ってきていた。

 

(な、なんだ!?どこになにを喰らったんだ!?)

 

混乱の中、横合いから鋭い衝撃が走る。テンプルに叩き込まれた一撃が脳神経を揺らし、膝の力が一気に抜け落ちた。

 

身体がガクンと崩れかけ、必死にロープをつかむ。

 

なんとかダウンは免れたが、体中に響く痛みが深刻さを告げている。

 

(は、はぇぇ……!今の一撃に反応する時間すらなかった……)

 

ヘッドギアとボディプロテクターがなければ、確実にその一発で終わっていた。だが、木村はその痛みを飲み込み、意地だけで立ち上がった。

 

「も、もう一丁!!」

 

必死の叫びとともに、木村が踏み込む。だが、その第一歩を踏み出した瞬間、再び視界が歪んだ。

 

リング下から呟く声が聞こえる。

 

「やっぱ外から見てるだけじゃ、わかんねぇな……」

 

「当たり前だぁ!」

 

振り返ると、青木が驚きの色を隠せず身を乗り出していた。

その隣には、いつの間にかロードワークから戻った鷹村が腕を組み、冷静ながらも鋭い眼差しでリングサイドに立っている。

 

「なんすか、鷹村さん……偵察っすか?」

 

青木の視線は明らかに呆れ混じりで、せっかく気を使って鷹村がロードワーク中にスパーリングを始めたのに、戻ってきたら意味がないだろうと物語っていた。

しかし鷹村は、そんな空気をまったく気にせず、挑発するかのように言い放つ。

 

「俺様がそんな小物みてぇな真似、するわけねぇだろうが」

 

鷹村の鋭い視線の先には、獅子御に押し込まれ、何度も強烈な打撃を受けながらも必死に食らいつく木村の姿があった。

 

「奴は変わんねぇ。今さらスタイルを変えるわけがねぇ。付け焼き刃で来たら……その瞬間に殴り倒す」

 

その声にはまるで獣のような凄みが宿っていた。

闘争心むき出しの獅子御がリングで木村と真っ向から打ち合う姿を、鷹村はじっと見つめている。

 

鷹村に気づかれぬよう、青木は隣にいる宮田へ小声で囁いた。

 

「なぁ宮田。鷹村さんと獅子御さんって、昔っからの知り合いだろ?」

 

「そうらしいよ。小学校から中学まで、ほぼ毎日素手で殴り合ってたって」

 

「……やっぱり二人そろって、バケモンだな……」

 

そんな話を交わす間も、木村は息を切らしながらリングを降りてきた。

汗で髪が額に張り付き、肩で激しく息をしている。

 

顔は汗でぬれ、髪の毛が額に張り付いている。肩で激しく息をしながら、木村はリングを降りてきた。

 

「あ、青木ぃ……交代……」

 

ボロボロの身体を引きずるようにしながらも、声は震えずに発せられた。

 

「どうだった?」

 

木村がヘッドギアを外し、ボディプロテクターも脱ぎ捨てる。だがすでに、木村の顔には腫れが浮かび上がり、ボディには複数のあざが広がっていた。

 

鷹村のパンチが剛腕の一撃ならば、獅子御のパンチはまるで雷光のように一点にインパクトを叩き込む一閃の拳だ。

 

「鷹村さんとは別ベクトルのバケモンだ……」

 

青木は力強く拳を握りしめ、勢いよくリングに上がる。

 

「おっしゃあ! 次は俺だ!」

 

しかし彼の意気込みはもろくも崩れ、三ラウンドを耐え抜いた後はボロ雑巾のようにリングを降りていった。

 

(木村さんと青木さん……相手に合わせてスタイルを微妙に変えていた。やはり獅子御さんは、後輩に何かを掴ませようと狙っているんだな)

 

そんなことを考えながら、二人に代わり宮田がリングに上がった。

 

まだ高校に入学したばかりの宮田もまた、獅子御とのスパーリングから新たな何かを掴み取ろうとしていた。

 

 

 

 

鷹村のパンチがいつもより冴えて見えるわい。

 

獅子御とのスパーリングに臨む鷹村の姿を見守る者たちの瞳が輝き、期待の色に染まっているのが手に取るようにわかった。

 

その日は、河川敷沿いのいつものコースを走っておった。

 

ワシは原付に跨り、鷹村のロードワークに付き添いながら、奴が繰り返す鋭いパンチの連打を影のように追いかけておった。

 

冷たい風が頬をかすめ、朝露に濡れた草の匂いが鼻をくすぐる。

 

鷹村は無心にシャドウボクシングを続け、己の拳と対話しているかのように見えた。

 

だが、ワシの胸にはひとつの心配があった。

 

確かに鷹村の調子は申し分なく良くなっておる。

しかし、それがかえってワシの心をざわつかせるのじゃ。

 

本調子になった鷹村が、ワシの教えたボクシングの軸を見失い、己のスタイルを独りよがりに変えてしまわぬかと。

 

ワシのボクシングは基本に忠実であることを何より重視し、その基礎を鷹村には徹底的に叩き込んできたつもりじゃ。

 

だが、まだ伝えきれていないことも多い。

 

これから世界を相手に戦う鷹村が、しっかりとその土台を守り抜いて挑んでくれるかどうか。ワシが長年の経験で培った理論と技術が、本当に世界に通用するのか。

 

その答えはまだ見えておらん。

 

しかし、胸の奥で小さく燻る不安だけは、否定できんかったのじゃ。

 

そんなワシの不安をよそに、鷹村は淡々とシャドウを続けながらも、鋭い声で言い放った。

 

「心配するな、ジジィ」

 

その言葉にワシは振り返った。

 

「何をじゃ?」

 

「アンタが教えてくれたボクシングを崩すつもりはねぇ。俺様は世界チャンピオンになる男だ。そのボクシングは鴨川源二が叩き込んだボクシングだと決まってる」

 

ワシは何も言えず、ただ静かにその言葉を受け止めた。その目は揺るぎなく、強い意志が宿っておった。

 

「……」

 

「俺様は、このボクシングで世界を取る。だから何も心配するな」

 

その自信に満ちた笑みが、ワシの胸の不安を少しずつ溶かしていくようだった。

 

「ふん、粋がりおって、青二才が」

 

そう呟いてそっぽを向いたが、内心では確かな熱情が燃えておった。

 

己の拳で世界を取ると決めたあの若者を、ワシは全身全霊で支えねばならん。減量の影響で力を落とすことなく、ベストな状態で臨ませるため、トレーニングを積み上げていく。

 

若者の背中を押し、世界へ送り出す。

 

それがおいぼれたワシの役目であり、使命じゃ。

 

明けゆく空を見上げながら、ゆっくりと息を吐いた。

 

 

 

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