はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
俺の名前は伊達英二。
かつてはWBA世界フェザー級1位、日本、そしてOPBF東洋太平洋フェザー級チャンピオンだった。
リングの上では冷静さを保つことを信条としてきたが、あの頃のオレはまだ若く、世界を知らぬ無謀さを抱えていた。
23歳で夢にまで見た世界の舞台に立った。
敵地メキシコ……リカルド・マルチネスとの対戦。
結果は惨敗。二ラウンドで意識を刈り取られ、オレは何もできなかった。まるで子どもが大人に翻弄されるように、リングの中央で立ち尽くすしかなかった。
あの瞬間、オレの胸の奥で何かが折れた気がした。
帰国して間もなく、さらに追い打ちが襲った。
愛する妻、愛子の流産。
オレはリングで夢を失い、家庭で大切な命を失った。二重の喪失が、胸を容赦なく抉る。握りしめた拳が震える。
あの日、オレは初めて、拳を置くことを選んだ。
その後の生活は、表向きには平穏だった。妻の兄の会社に就職し、仕事を覚え、順調に出世した。
新しく生まれた息子の雄二と三人で暮らす日々は穏やかで、外から見れば幸福そのものだったはずだ。
だが夜、静まり返った寝室で天井を見上げると、あのゴングの音が耳に蘇る。
心の奥底で、敗北の記憶だけは消せずにいた。
何度も思った。もう一度リングに立つことは、できるだろうか。あの屈辱と痛みを、もう一度自分の胸に刻む勇気はあるのだろうか。
そんな迷いの中、オレの背中を押したのは、愛子だった。
「もう一度、挑戦してもいいのよ」
彼女は静かにそう言った。
声は柔らかく、それでいて揺るぎない強さを持っていた。
その笑顔の奥に、薄く光る涙を見つけたとき、オレは胸の奥で何かが弾けるのを感じた。
ああ、やるしかない。
もう二度と逃げるわけにはいかない。
オレはカムバックを決めた。
あの日の敗北も、失った命の悲しみも、すべて抱えて、もう一度リングに立つ。
それがオレの決意だった。
そんな時、知り合った鷹村守に「いい刺激になる」と言われ、鴨川ジムに足を運んだ。
ドアをくぐった瞬間、何か違和感を覚えた。
現役ランカーたちが集まっている――だが、記者もカメラマンもいない。
空気は静かで、それでいて張り詰めている。
胸の奥の血が少しずつ熱くなるような、あの独特の重みがあった。
「おう!おっさん!」
背中から声が飛んできた。
振り返ると、試合用のガウンとパンツ姿の鷹村が立っていた。
汗が額を光らせ、体は既に戦闘態勢。
表情は飄々としているのに、目の奥には明らかな鋭さが宿っている。
――生意気な奴だ。おれを“おっさん”呼ばわりしやがって。
だが、不思議と腹は立たなかった。
こういう気安い言い方をしてくるのも、オレたちの間では自然な距離感なのだ。
長く戦いを共にした盟友ではないが、互いを認め合う、微妙な信頼感がある。
促されるまま、オレは地下の練習場へと降りた。
階段を下りるにつれ、重く湿った空気が肌を這う。地下のフロアに足を踏み入れた瞬間、オレは息を飲んだ。
リングを囲むようにビデオカメラがいくつも据えられ、光を反射して異様な光景を作っている。
まるで非公開の公式戦……いや、公開されない決戦を見せつけられるかのような緊張感。
「鷹村くん、今回はオフレコなんだから……」
八木マネージャーの低い声が耳に届く。
だが、空気の張りは、針一本通す隙すらない。
息を吸うたび、肺の奥まで緊張が染み込んでくる。
気づけば、心臓も荒く打っていた。
これは練習じゃない。
何かが、始まろうとしている。
「いいじゃねぇか、八木ちゃん。ギャラリーがいねぇと盛り上がらねぇしな」
鷹村が笑う。
その笑みは普段通り――だが、目の奥だけは、試合前の獣のように鋭かった。
「なんじゃ、声をかけられるランカーには全員声をかけたのか」
鴨川会長の声に振り返った。その鋭い眼光が、まっすぐオレを射抜いてきた。
「……貴様も、復帰を決意しているようじゃな」
喉の奥が、わずかに鳴る。
「ま、見ていくがいい」
「見ていくって……何を……」
「――ワシが見出したボクサーの、本当の姿じゃ」
会長の声が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
鷹村はガウンを脱ぎ、ゆったりとシャドーを始めた。
軽く腕を振るだけで、筋肉の線が浮き上がる。
身長185センチ、リーチは189センチ……数値だけ見ればヘビー級だ。だが、その巨体が信じられない速さで動く。空気を裂く音がシャドーから響き、場の空気がわずかに重くなる。
これが鷹村 守。
ただの化け物じゃない。
出会った頃から、すでに日本チャンピオンクラスの力を持っていたと会長が言っていた。
喧嘩の延長みたいなインファイトを、鴨川が「科学」で磨き上げ、野性と理論を併せ持つ、理想のボクサーへ向かうように鍛え続けている。
ただ、ミドル級が主戦場とはいえ、普段は90キロ近く。そこから20キロの減量をしてリングに立つ。
普通なら減量でボロボロになるはずなのに、そいつをやり切った上で、試合では笑って相手を叩き潰す。
日本じゃ重量級の相手がいないせいで試合が組めず、ランカー三人を同時に相手にしてスパーで全員KO……そんなのはもう人間の領域じゃない。
そんな鷹村が減量というハンデから解放されればどうなるか。
目の前で軽く動いているだけでも分かる。あの腕が本気で振り下ろされれば、並の選手なら命が危ない。
オレの目は思わず釘付けになる。あの身体、あの動き……もう単なるボクサーの域じゃない。全身から発せられる殺気と集中力が、空気を震わせている。
オレはリングに視線を移す。
そこに立っていたのは、180センチ後半はあろう長身の男。体に無駄な肉は一切なく、まるで彫刻のように削り出された筋肉が光を反射していた。
見た目だけならライトヘビー級か、クルーザー級と言っても違和感はない。
あれが鷹村の相手なのか?
鷹村はヘビー級。
体格差、一階級や二階級の差など、あの男にとっては遊びの範囲なのかもしれない。だが、全力をぶつけたら……いや、並の選手なら命すら危ういだろう。オレの胸の奥がひりつくように緊張した。
この瞬間、ただの練習ではなく、戦いの気配が確実に漂っていることを、オレは肌で感じていた。
「よ、宮田」
近くで構えていた宮田に声をかけた。
中学を卒業したばかりだが、その身体は明らかに仕上がっている。
肩幅、腕の厚み、脚の筋肉――見るからに鍛えられていた。
だが、それ以上に目つきが変わっていた。冷たく、静かに相手を見据える瞳に、少年らしい無邪気さはほとんど残っていない。
「なぁ、鷹村の相手は誰だ?海外から呼んだとか?」
オレは自然と身を乗り出して聞く。
「獅子御 誠司さん。鴨川ジムのトレーナー補佐で、鷹村さんの幼馴染ですよ」
オレは思わず息を飲んだ。
「……は?トレーナー補佐が鷹村と?死ぬ気か?」
プロでもない、指導補佐の男があの鷹村とリングに立つ?とても正気の沙汰とは思えない。
「さぁ、どうでしょうね」
宮田は薄く笑った。
笑みは少年らしい軽やかさを帯びているのに、その奥に、何か含みを持たせているような冷たさがある。
この笑みはただの冗談じゃない。オレの直感がそう告げていた。
「お前……その顔、何か知ってるな?」
思わず尋ねる。
宮田は肩をすくめて、軽く視線を逸らす。
「いや、別に……ただ、雰囲気がすごいな、って思っただけです」
ああ、そうか。
あえて教えてくれないのか。
リングの獅子御の立ち姿を改めて見る。180センチ後半はある長身、無駄な肉のない彫刻のような体。
立っているだけで、周囲の空気が微妙に変わるのが分かる。
オレの胸の奥がひりつく。
宮田はすでに獅子御という男の実力を知っているのだろう。けれど、オレには教えない。あえてはぐらかしている。
「宮田……お前、知ってるな?」
微妙に笑いながらも、宮田の目がわずかに鋭く光った。
ああ、やはり。
奴は、リング上の相手が鷹村と同等か、それ以上の力を持つことを知っている。でもオレには言わない。
わざと知らせず、なにかを煽ろうとしている。おそらく鷹村の入れ知恵だろうが……まぁいい。オレは少し肩の力を抜きつつも、背筋に冷たいものを感じていた。
リングの四隅。
鷹村のコーナーには鴨川会長と篠田トレーナー、獅子御のコーナーには木村、青木、八木マネージャー。
両者とも公式戦そのままの緊張感をまとっている。
この場にいる全員が、その笑みに微妙な不安を覚えているのが分かる。
獅子御 誠司。
奴はプロじゃないはずだ。
だが、立ち姿を見ただけで、並の素人ではないことは一目で分かる。重心の取り方、筋肉の張り。その全てが肩書と矛盾しているように見えてならない。
オレの心臓は早鐘を打つ。
「よぉし!始めるぞ!」
レフェリー役は宮田の父。深い青のシャツに紺のスラックス。まるで試合のために着てきたような服装だ。
鷹村が強いのは、この場の全員が知っている。
問題は相手……獅子御 誠司だ。
情報はほとんどない。それでも、鍛えられた身体と纏う空気が、ただ者じゃないことを物語っていた。
俺は息を潜めた。
今日ここで繰り広げられるのは、ただのスパーリングじゃない。
常識の外にある、何か……そういう匂いがしていた。
▼
「守くん」
それは、鷹村が傷害事件を起こしたあとのことだった。
街の喧噪から外れた河原。水の流れが遠くでかすかに響き、湿った夜風が草の匂いを運んでくる。
二人はそこで殴り合っていた。
理由なんてあってないようなもの。
ただ、拳を交わすことでしか語れない何かを吐き出すための、静かで激しい時間だった。
互いの頬や唇から血がにじみ、拳は腫れ、腕は鉛のように重くなっていた。それでも止まらなかった。いや、止められなかった。
やがて、最後の一撃を終えて、立ち上がったのは獅子御だった。
一方、鷹村は仰向けになり、河原の小石を背に感じながら、大の字で息を荒げていた。胸が上下し、呼吸が焼けるように熱い。それでも立つ気力は、もう残っていなかった。
獅子御はその姿をしばらく見下ろし、静かに言葉をかけた。
「守くん」
「ちっ……いつもテメェは気にくわねぇ」
鷹村は口の端から血を垂らしながら吐き捨てる。
「勝ってるくせによ……」
そう、いつもそうだ。
勝っているくせに、こいつは手を差し伸べてくる。
突き放すことも見下すこともなく、ただ前へ引き上げるように。
――こんなものじゃないだろ?
――もっと先があるだろ?
――立て、守くん。まだ終わっちゃいない。
獅子御の声はそう告げているようだった。
「今にも、守くんは……もっと、もっと強くなるさ」
その口調には迷いも曇りもなかった。
ただ確信だけが、そこにあった。
鷹村は片眉をつり上げ、不敵に笑った。
「そうなれば……俺様は無敵だな!」
獅子御も笑う。その笑みは夜の闇の中でもはっきりとわかるほど、穏やかで温かかった。
「あぁ、そうさ。守くんは無敵さ」
その頭上には、雲ひとつない夜空が広がっていた。
星々が鋭く、冷たく、そしてどこまでも遠く輝いている。
まるで、この二人が向かおうとしている未来のように――果てしなく、掴みがたく、それでも確かにそこにある光だった。
……そして今、あの夜の続きがリングで始まる。
「ボックス!」
宮田の親父さんの合図が響く。
鷹村はグローブを握りしめ、まるでその星空を踏みしめるように一歩前へ出た。
(待ってたんだな……俺様は。ずっと。この瞬間を……!)
対する獅子御は、低く沈む構え。ガードは下げ、胸をさらしている。
打ってこい。
そう言っているみたいだ。
あれは挑発なんかじゃない。
確信のある奴だけができる構え。
鷹村が切り込む。
最初のジャブ――早い。これまで見たどの鷹村よりも速い。閃光のように拳が走り、戻ると同時に次が撃ち込まれる。
点じゃない。面で相手を押し潰す攻撃だ。
周りの声が耳に入る。
「鷹村のやつ、なんてジャブだ!」
「電光石火だぜ……!」
「目がおいつかねぇよ!」
日本のボクシング界で名を轟かせているプロのランカーたちが、繰り出される鷹村の攻撃に目を奪われていた。
セコンド側から見ていた鴨川会長も息を呑む。型はまさに基本に忠実。ボクサーとして誇らしく、強い力を感じさせる姿だ。
(これが鷹村の全力……年甲斐もなく、胸が高鳴るわい)
鷹村の体はもうヘビー級の域にある。
普段は20キロも絞ってミドルで試合をしてるが……今日は違う。
ベストコンディションの鷹村――それを見られる奴が、日本にどれだけいる?
リングを見ている誰もが、無意識のうちに拳を握っていた。
これが、ただのスパーだって?
笑わせるな――そんな空気じゃない。
リングサイドの鴨川会長は、拳を握りしめたまま汗ばむ手のひらを感じていた。隣の篠田トレーナーは、左右に身を振って閃光のような連打を捌き切る獅子御を凝視している。
(問題は……獅子御くんだ。さすがに、この速度は――)
鷹村の攻撃は“面”で襲いかかる。
逃げ場を塞ぎ、息を詰まらせ、削り潰す。
避けるだけでは、あっという間に追いつかれ、噛み千切られるだろう。
だが獅子御は、その危機を真正面から迎え撃った。
鋭さの極みに達した鷹村の左。
もはや軌道は霞のように見えない。
誰もが直撃を確信した瞬間、獅子御の拳の甲がふっと重なり、最大威力が乗る刹那を外へとそらした。
伊達の目は、その神業を確かに捉えていた。
思わず声が裏返る。
「ば、ばかな……!受け流しやがった……!」
あの速射砲のような連打を、パーリングで合わせる。理屈では有り得ない。宮田もまた、自らの師がやってのける光景に、心拍を乱されていた。
(あんな速度……合わせられるのかよ……!)
反射神経や動体視力という言葉では追いつかない。
それは五感を越えた、経験と勘の極地。長年、鷹村と拳を交え続けた獅子御だけが持つ、防御の奥義だった。
(これでも……ステゴロの頃よりは速く撃ってるつもりなんだがな……!)
攻め立てる鷹村の胸に、一瞬だけざわめきが走る。
会長仕込みの正統派スタイルで全力を叩き込んでいるのに、拳はまるで煙を掴もうとしているよう。
掴めない獲物ほど、燃え上がる闘争心。
その刹那。
「……っ!」
攻撃をしていたはずの鷹村に衝撃が走った。咄嗟に構えたショルダーブロックで急所は外したが、巨体がわずかに浮き、鷹村は一歩、二歩と下がった。
「鷹村さんが……下がった!!」
木村の声が弾ける。
後退したことで、獅子御は鷹村の“殺しの間合い”から、鷹村自身を追い出していた。
「……今のは、なんだ」
伊達が低く呟く。
見事な防御と捌きに目を奪われていた刹那……気づけば鷹村が後退していた。何が起こったのか、チャンピオンの目を持ってしても、明確な答えが掴めない。
「パーリング直後の、連結したカウンターだよ」
宮田の口調はあっさりしている。
だが、その言葉に伊達は思わず声を荒げた。
「あ、あれがカウンターだと!?冗談はよせ!鷹村のキレのあるパンチに被せたってのか!?」
「それができるのが、獅子御さんなんだ」
宮田は短く言い切った。
「あれで……ただのトレーナー補佐だと?悪い冗談だろ……!」
伊達の頭の中は、理解不能という言葉で埋め尽くされる。
ショルダーブロック越しにも伝わる、獅子御の拳の重み。芯に響く強烈な衝撃。何発も受ければ、肉も骨も削り取られるだろう。
(ま、誠司なら……これくらい当然だな)
鷹村は、獅子御の反応を見て静かにそう思った。
だが、その目は次の瞬間、猛獣のように研ぎ澄まされる。
一気に左の差し合いが火を噴く。
鷹村の閃光の連打。そのわずかな隙間を、獅子御の鋭いカウンターが抉る。
拳と拳が紙一重で交差し、火花を散らすたび、リングの外から息が漏れる。
力と技。
破壊と制御。
互いに異なるベクトルの頂点同士が、真っ向からぶつかっていた。
(壮絶な主導権争い……)
外から見ればそう映るだろう。
だが、リング上の二人にとっては――
(こんなもん……挨拶代わりにもならねぇ!)
鷹村が一気に踏み込み、ボディを狙う。
獅子御が得意とするパーリングはミドルレンジでこそ真価を発揮する。
詰められれば、受ける以外にない。
普通なら、だ。
だが、獅子御は違った。
「ぐぅ……!」
鷹村のリバーが獅子御の脇腹を深く抉る。
同時に……獅子御の打ち下ろしの左が、鷹村の顔面を直撃。
肉を裂くような鈍い衝撃音が、リング全体に響き渡る。
「相打ち……!」
周りで見てた選手たちから震えるような声が飛ぶ。
そして乾いたゴングの音が、空気を切り裂いた。
第一ラウンド終了。
互いに構えを解く。
だが、その目からは一切の火が消えない。
口元には、同じ笑み。
「こんなもんじゃないでしょ、守くん」
「当然だぁ!!」
その笑みは、たった今までが“助走”に過ぎなかったことを告げていた。
ここからが、本当の戦いの始まりだった。