はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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死闘演舞(2)

 

 

第一ラウンドは、まさにプロの目を釘付けにする幕開けだった。

 

湿った空気と、熱が漂う鴨川ジムの地下練習場。

 

この場に集まっているのは、いずれも現役でランキングを争う精鋭のプロボクサーばかり。

 

観客席などなく、リングサイドで腕を組んで無言で見つめる姿が並んでいる。誰も軽口を叩かない。そこにあるのは、拳と拳の交錯を見逃すまいとする研ぎ澄まされた視線だけだ。

 

鷹村の技の冴え。

 

一撃一撃が、スパーの枠を越えた殺傷力を帯びる。

 

 

それを、獅子御は正面から受け、時にわずかな隙を突くカウンターで返す。ただ耐えているのではない。攻めと受けがせめぎ合い、リングの中央で火花を散らしていた。

 

「……鷹村……」

 

リングサイドで腕を組む鴨川会長の目に、わずかな驚きが走った。

 

体重制限という枷を外した鷹村は、国内で敵なしの存在だ。ヘビー級のパワーに加え、スピードも精度も申し分ない。

 

そんな怪物と正面から撃ち合える者など、日本には存在しないはずだった。

 

にもかかわらず、獅子御は怯まず、むしろ間合いを支配し、時には余裕さえ漂わせる。

 

会長にとっても、それは完全な誤算だった。

 

木村、青木、宮田の息子と軽い撃ち合いをする姿は何度も見てきたが、本気の獅子御は別物だった。

 

これはヘビー級のベストコンディションに堂々と渡り合うボクサー。しかも、リング外から見ても「まだ奥がある」と感じさせる。

 

会長の心のざわめきを察したのか、鷹村がニヤリと笑い、言葉を投げた。

 

「驚くのはまだ早いぜ、ジジィ。誠司のやつ、こんなもんじゃねぇ」

 

地下の空気が重い。

それは観客のランカーたちも鴨川会長も感じ取った。その場にいて、1ラウンドを目撃した者なら理解できる“底知れなさ”が、獅子御の背後に揺らめいている。

 

だが、それをもってしても鷹村の目に揺らぎはない。

 

「問題ねぇ……俺様が勝つ……!」

 

瞳に宿る光は、挑発ではなく確信だった。

 

だが、鷹村の瞳を受け止めた鴨川会長は、言葉を返せずにただ見つめるしかなかった。地下練習場にいる全員が、同じ思いを抱いていた。

 

この戦いは、常軌を逸している、と。

 

第二ラウンド。

 

ゴングが鳴った瞬間、また空気が変わった。

 

獅子御が足を使いはじめる。

鷹村を中心に、リングの外周を細やかに刻むステップで回る。

 

シューズがマットを擦る、かすかな音。その合間に混じる、二人の荒くも規則正しい息遣い。地下の練習場。外の喧騒とは無縁の、ここだけの閉ざされた空間で、音という音が研ぎ澄まされて響く。

 

「す、すげぇ……!」

 

「獅子御さん、こんなに早く動き回れるのかよ……!」

 

低く押し殺した声で驚きを漏らす木村と青木。

 

二人はこれまで何度も獅子御と手を合わせてきたが、今見ているのは別次元の姿だった。

 

普段の彼は、自分たちのペースに合わせ、あえて速度も間合いも抑えていた。そう、今までは“リミッター付き”だったのだ。

 

だが今、その枷は完全に外れている。

 

だが、鷹村にはそんな小細工は通用しない。ステップインのタイミング、攻撃の読みを外せば、致命打が飛んでくる相手だ。

 

(動き回って撹乱かぁ……?小賢しいぜ!)

 

鷹村の目が獲物を捉えた。

 

鋭く踏み込み、動き回る獅子御の顔面へ、右のストレートを撃ち込む。ドンピシャのタイミング。誰もが「入った」と思った瞬間だった。

 

だが、その拳は空を切る。

 

獅子御が前足を軸に、半身をひねりながら滑るように回避。そのまま鷹村の真横へ踏み込み、右を鋭く突き込む。

 

肉を叩く鈍い音が、地下の空間に響いた。

 

(くそ、味な真似を……!)

 

痛みを押し殺しながら、鷹村も反撃を放つ。

 

しかしそれも軽やかにかわされ、逆にワンツーが顔面とボディへ襲いかかる。辛うじてガードで防ぎ切ったが……次の瞬間、視界から獅子御の姿が消えていた。

 

(いない……!?)

 

「鷹村ぁ!右じゃあ!!」

 

会長の声が空気を裂く。反射的に右へ意識を向けた、その刹那、切り裂くような鋭いフックが鷹村のテンプルを捉えた。

 

視界が一瞬、白く弾ける。

 

撃ち抜かれた一撃は、鋭く、そして芯に響く。鷹村の膝をマットへ落とさせる。重い音が響き、地下の空気が一瞬止まる。

 

「……ダ、ダウン……!」

 

宮田の父が呆然とつぶやく声。

 

跪いた鷹村を、獅子御は一瞥もしない。

 

何事もなかったかのように、ゆっくりとニュートラルコーナーへ歩みを進めていった。

 

その背中に、見守るランカーたちは言葉を失っていた。

 

リングを囲むプロたちの視線が、一様に鋭くなる。誰も声を張らない。押し殺した息が、湿った空気に混ざっている。

 

「な、なんてこった……あの鷹村がダウンするなんて……」

 

低く漏れる声。その隣で、腕を組んだ伊達英二が短くつぶやいた。

 

「……アウトサイドピボットだな」

 

宮田がわずかに眉をひそめる。

 

「……アウトサイドピボット?」

 

伊達は目を離さずに説明を続けた。声は淡々としているが、わずかに興奮を帯びている。

 

「ミドル級のロビンソンや、ヘビー級のジョー・ルイスが使ってた技だ。攻撃しながら相手の外側に回り込み、真横から連打を浴びせる……フットワークの高等テクニックだな」

 

宮田は短く息を吐く。

 

「それって普通は、攻撃の切り替え時に使う程度の技術でしょ?」

 

伊達が片口を上げる。

 

「獅子御は違う。鷹村のジャブにパーリングを合わせられる感覚を持ってる。あいつがやれば、相手には本当に“目の前から消えた”ように感じるはずだ」

 

その言葉に、宮田もわずかに目を細めた。リング上では、跪いたままの鷹村が呼吸を整えている。1発で視界が蕩けた。ぐらついていた視界はすでに回復しているが、痛みはまだある。汗がマットに滴り落ち、その音さえ聞こえてきそうだ。

 

「……まだまだやれるぜ」

 

低く唸るような声とともに、鷹村がゆっくりと立ち上がる。

 

8カウントをダメージ回復に費やした。

足も手も問題なく動く。

 

ニュートラルコーナーにいる獅子御は、まるで鷹村が立ち上がることを当然と知っていたかのように、無駄な動きもなく拳を構える。

 

「――ボックス!」

 

宮田の父の声と同時に、再び空気が張り詰める。

先ほどの攻防では、明らかに獅子御が優位に動いていた。

 

足を使った幻惑に、鷹村が完全には対応できていない……いや、本来の鷹村の階級であるヘビー級の動きにまだ対応できていない。明らかな階級内での経験が不足している……それは会長の目にも明らかだった。

 

だが同時に、胸を突き上げる驚愕もあった。

 

獅子御は、本場のヘビー級に近い動きを、地下リングで体現してみせたのだ。

 

それは、いずれ鷹村が踏み込むべき階級のスピードと精度……その“現物”を、今まさに彼に叩きつけている。何より、それは鷹村の経験不足を補い、さらに上へ引き上げる吉兆でもあった。

 

そして、鷹村にも変化は訪れていた。

 

(……だんだん慣れてきたぜ。全力の……俺様のダイナマイトボディの動きに)

 

リングシューズの擦れる音が、先ほどよりも滑らかに響く。獅子御のフットワークに、鷹村がついに追従し始めていた。

 

その吸収力は驚異的だった。

 

すこし前まで翻弄されていた獅子御の足捌きを、自分の呼吸に組み込み、タイミングと角度を合わせていく。アウトサイドピボットの動きにも、もはや表情一つ変えない。死角から飛んでくる鋭い一打を、最小限の動きで躱してみせる。

 

「すげぇ、鷹村さんの速度も上がってるぞ……」

 

周囲のランカーたちが低くざわめく。

 

だが、伊達英二だけは一言も発さず、獅子御の拳を凝視していた。

 

開始点と終着点。その最短距離を、余分な動きを削ぎ落として放たれる一撃。伊達の脳裏に、忘れもしないメキシカンボクシングの覇者、リカルド・マルチネスのパンチがよみがえる。

 

あの精密で、冷酷で、無駄のない打ち抜き方。獅子御の拳は、それを彷彿とさせる軌道を描いていた。

 

互いに足を使った攻防が続くが、決定打は出ない。

フットワークのレベルが拮抗している時……距離を詰めれば角度を外され、角度を取れば距離を潰される。

 

実力が拮抗しはじめている中、中間距離やロングレンジでの決着は、ほぼ望めない展開になっていた。

 

このままでは埒が明かない。

 

ならば――。

 

鷹村が一歩、大きくステップインした。

 

長距離戦の膠着を断ち切り、インファイトへと舵を切る。その意図を察した獅子御も、構えをわずかに低くし、危険領域での撃ち合いに応じる。

 

(ここからは殴り合いだぁあーーっ!)

 

リング中央、肉を打つ乾いた音が連続した。

 

肩がぶつかるほどの距離での、息詰まる主導権争い。二人の動きは依然として信じられないほど速い。だが今は、それ以上に拳の回転が増し、攻防の密度が濃くなっていた。

 

左右のボディをえぐる重い音。

顎を狙うアッパー。

わずかな間合いを殺すショートフック。

 

互いに一歩も引かず、応酬は鋭さを増していく。

 

地下練習場の空気がどんどん熱を帯び、湿った汗とリングを擦る音が外から見ている外野にも届く。足音、息遣い、拳が肉を叩く音が連続し、まるでリング全体がひとつの生き物のように脈動していた。

 

攻守入り混じる超接近戦。

 

手数だけを見れば鷹村の方が多い。

だが、有効打となる鋭い一閃、その精度では獅子御もまったく引けを取らない。

 

怯むどころか、わずかな隙を突いて確実に鷹村の急所を狙う。

 

しかも、ただ殴り合っているわけではない。攻撃と同じだけ、細やかな防御と位置取りの駆け引きが入り混じっていた。

 

鷹村は左手のひらで獅子御の内側の腕をわずかに押さえ込み、打撃のタイミングを奪う、巧みなパーミング。

 

一方の獅子御は、その意図を読むと同時にステップイン&スイッチで軸足を入れ替え、角度を変えてガードの死角から打ち込む。

 

「密着しても、自分だけが打てる状況を作る」

 

それこそが、至近戦を制する上で最も重要な技術。

 

手数はあくまで、その状況を形成するための手段にすぎない。いかに相手の姿勢を崩し、自分だけが拳を通せる角度を作るか。

 

その主導権争いが、今まさにリング中央で燃え上がっていた。

 

互いの拳が短い距離で交錯し続ける中。

 

鷹村の目がわずかに細まった。獅子御の踏み込みと同時に腰を沈め、全身のバネを上へと解き放つ。

打ち下ろし……肩から肘、肘から拳へ、重力と体重をすべて乗せた渾身の一撃が獅子御の頭部めがけて振り下ろす。

 

リードカウンター。

 

宮田が小さく息を呑む。

 

カウンターをボクシングに取り入れている宮田から見ても、その読みはドンピシャだ。獅子御も踏み込んだばかりで手は鷹村の方が早い。

 

そして、破壊力は、一瞬でも受け止めれば致命傷になりかねない。

 

鷹村の渾身の打ち下ろし……しかし獅子御は、動じるどころか絶妙なタイミングで腕を引き、体重移動で振り下ろされた一撃をかわす。

 

一瞬の隙に、反撃の右が鷹村の頬をかすめる。

 

「おお……!」

 

「避けた……そして返した!」

 

地下練習場に小さなどよめきが広がる。

 

鷹村の拳は強烈だが、獅子御の重心移動と読み、さらに鋭く走るパンチは、鷹村をさらに上回る。

 

それをきっかけに徐々に、攻守の主導権が獅子御の方に傾き始めたのだ。

 

鷹村が仕掛ける右、左、ボディへのコンビネーションを獅子御は、半歩外にずれながら受け流し、逆に隙を作らずに返す。

 

ほんのわずかなタイミングの差で、鷹村が攻めても決定打は出せず、徐々に圧力を受ける展開になっていた。

 

伊達から見て、獅子御の肩書きであるトレーナー補佐なんてものは、とうの昔に吹っ飛んでいた。これほどまでに競り合い、技術を持つボクサーがどこにいる。

 

理論と経験、並外れた身体感覚。この僅差の攻防は、まさにボクサーの理想像をそのまま描いた戦いだ。

 

リング上の二人は、息遣いと足音だけで目に見えない幾つもの攻防を繰り返す。

 

鷹村が振り回す拳は豪快だが、獅子御はその豪快さを吸収して返し、わずかな間に確実にダメージと圧力を積み重ねていく。

 

ランカーたちのどよめきは、徐々に大きくなる。

 

極限の駆け引きと緊張感。

 

鷹村は諦めていない。しかし、明らかに、獅子御の足捌きと間合いに押され、徐々に劣勢を強いられていることを自覚していた。

 

そしてその変化を、観る者すべて……そして鷹村を指導する鴨川会長も、確かに感じ取っていた。

 

 

 

 

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