はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
二ラウンド目が終わり、コーナーへと歩を進める鷹村。
その背に、普段の豪胆さとは違う重みが漂っていた。
リングサイドから見れば、彼の肩はわずかに上下し、額には玉のような汗が流れ落ちている。
表情には、明らかな疲労の色があった。本来のヘビー級に戻ったとはいえ、あれほど芯を食うパンチを幾度も受け続ければ、肉体はもちろん、精神にかかる圧力も計り知れない。
おそらく、今の鷹村は、これまで経験したどの公式戦よりも桁違いのプレッシャーと疲労にさらされている。
それにしても――獅子御 誠司。
鴨川源二は心の中でその名を反芻した。
奴には、チャンピオンの座を夢見る野心や、スポットライトを浴びようとする欲がないとばかり思っていた。
だが、今の攻防を目の当たりにすれば、技術もセンスも鷹村に引けを取らぬどころか、互角に渡り合える領域にあるのは明らかだった。
もし獅子御がその気になれば、鴨川ジムから二人目の世界チャンピオンが誕生する日も夢ではない。
しかし、獅子御にはその意思はない。
これほどの技術と感覚を持ちながら、未練もなく裏方に徹する覚悟。
その事実は、胸に「惜しい」という思いと同時に、言葉にしがたい尊敬を抱かせた。
「無駄だぜ、ジジィ。誠司はボクサーにはならねぇよ」
タオルで汗を拭われながら、鷹村が言い放つ。その声音は冗談めいていながらも、芯の通った響きを持っていた。
会長が密かに抱いていた「野心を持たせる手はないか」という希望を、正面から否定する強い意志のこもった言葉だった。
「なぜじゃ、鷹村。なぜそう言い切れる」
問いかけに、鷹村は迷いなく答える。
「約束したからな」
視線は、リングの向こうに立つ獅子御を真っ直ぐに捉えている。
「俺様が拳で世界をひっくり返す。それを特等席から眺めるってな」
その背中には、未来の景色が宿っていた。
獅子御は、鴨川会長や木村、青木、宮田。ジムの誰よりも早く、そして誰よりも深く、鷹村が世界を取ると信じた男だ。
それは言葉として交わされた時期こそ曖昧だが、おそらく鷹村がまだ小学生だった頃から、獅子御の中では揺るぎない確信となっていたのだろう。
誰に何を言われようと。
誰に何を指図されようとも。
獅子御はその信念を曲げなかった。
「俺様は、奴との約束を果たさなきゃならねぇ。奴がずっと曲げなかった期待に、答えなきゃならねぇ」
セコンドアウトの声が響く。
鷹村が立ち上がる。
会長は言葉を飲み込んだ。
ヘビー級という未知の領域――ここで彼にできるのは、アドバイスではなく、ただ信じて託すことだけだった。
「勝てるか、獅子御に」
その問いに、いつものように「当然だ」とは言わない。鷹村はただ、振り返って笑みを浮かべるだけだった。
二人の過去は、表には出ない数えきれない拳の交錯で紡がれてきた。
だが、鷹村が明確に勝ち越したことは、一度もない。
もし勝っていれば、彼は獅子御を小物と侮っただろう。
だが、そうはならなかった。
獅子御は、生涯の喧嘩の中で、唯一、鷹村に勝ち越していた男なのだから。
▼
第三ラウンド。
ゴングの一撃が、湿り気を帯びた空気を震わせた。
その瞬間、二人の間にあったわずかな“間”が消える。
両者とも、最初からトップギアだ。
獅子御がリング中央へ歩み出るや、鷹村も半歩の距離を詰める。
互いのリーチが届くかどうかの位置で、フェイント、パーリング、ステップワークが立て続けに交錯する。
獅子御の足は、相手の視界から溶けるように左右へと揺れ、同時に上体を細やかにスリップさせる。
その動きに合わせ、鷹村は左の軽いジャブを連射。
しかし、ただの牽制ではない。
打ち終わりの瞬間、手のひらで獅子御の前腕を抑え込み、次の動きを奪う。だが獅子御も、腕を払うと同時に体重を前足に移し、軸足を切り返す。
スイッチと同時に打ち込まれる右ショート。
鷹村は首をひねって紙一重でかわし、逆に相手の懐に体を滑り込ませる。
火の出るような近接戦闘。炸裂するのは、互いの「距離支配」の技術。
鷹村は相手の腰の位置を外しながら打てる角度を作り、獅子御はその瞬間を見抜いて逆角度へ抜け出す。
足が止まるのは、ほんの一瞬。
そこから繰り出されるショートフック、アッパー、ボディ……。
すべてが、踏み込みと体捌きの融合で放たれた一撃だ。
観ている者たちは、もはや何が起きているのか目で追うのが精一杯だった。攻撃がヒットしても、大きな衝撃音よりも先に、二人の足音と息遣いが空間を支配している。
「……化け物同士の技比べだ」
誰かが、息を飲みながら呟いた。
リング上では、互いの手数は減っていない。だが、打つ瞬間までの駆け引きが、回を追うごとに濃密になっていく。
一手でも読みを外せば、一撃必倒のパンチが飛んでくる。そんな緊張感が、地下の空気を刺すように張り詰めさせていた。
観客席といっても、地下練習場の端に立つだけのスペースで、ランカーたちは息を殺して二人を見つめていた。
視線は誰一人として逸らさない。瞬きをするのさえ惜しむほどだ。
「……すごいな」
木村が低く呟く。
「まるで外国でやってる世界戦を、至近距離で見てるみたいだ」
隣の青木が口角を上げる。
「このスパーだけで金が取れるぜ。オレ、チケット売る準備しとくか?」
冗談めかした声だが、目は本気だ。その言葉に、宮田や伊達も反応はせず、ただリングに釘付けになっていた。
目の前で展開されているのは、国内タイトルマッチや東洋戦ではまず見られない、洗練された高等技術の応酬。
それも、まるで身体能力の限界を踏み越えたかのような速度と精度でだ。
靴の擦れる乾いた音、ロープが震えるわずかな揺れ、そして、タイミングを奪い合う二人の鋭い息遣い。
その全てが、この密閉された地下空間で増幅され、
観客の心臓を内側から叩き続けていた。
そして、均衡は、唐突に崩れた。
一瞬の隙――鷹村のステップが半歩遅れた、その刹那を獅子御は見逃さない。軸足が床を強く蹴り、低く潜り込むように懐へ入り込む。
「っ……!」
鷹村の視界が揺れる。
そこから先は、怒涛のような連打だった。
右のショートフックが肋をえぐり、左アッパーが顎をこじ開ける。続けざまにミドルレンジからの左右のブロー。拳が空気を裂く音と、鷹村のガードを揺さぶる衝撃が立て続けに重なる。
「うお……!」
木村の声が震える。
「押されてる……あの鷹村さんが!」
鷹村も必死にガードを組み直すが、獅子御のステップと角度変化が追撃を許し、横、下、正面……あらゆる死角から拳が差し込まれる。
「これが……本気の獅子御さんかよ」
青木のつぶやきが、誰の耳にも重く落ちた。少しでも隙を見せれば、最短距離をカットして拳が飛び込んでくる。息を抜く暇もない。
リング上、鷹村の表情は険しい。しかし、その両足は沈まず、拳はなおも前を向いている。
全身で衝撃を受け止め、かすかな呼吸の間に次の一撃を返す機会を探っていた。
だが、獅子御は手を緩めない。
その眼は、獲物を仕留める瞬間を見定めた肉食獣のように、冷静かつ鋭い光を放っていた。
(縦の拳……構えが小さい?ショートレンジのアッパー……?)
一瞬、鷹村の脳裏をかすめる予測。しかしその答えは、目の前の動きと一致しない。
縦に構えた右拳……通常のパンチなら、縦から横へと回転を加えて威力をさらに上乗せする。
だが、獅子御の右は、縦の形を崩さぬまま、次の瞬間には一直線に加速していた。
(ち、ちげぇ!縦のまま、拳を前に――)
あえて回転を殺し、速度だけを極限まで引き上げる。縦のまま飛び込む拳は、わずかなガードの隙間すらも切り裂く、細身の刃のようだった。
狙いすました急所……鼻と唇の間の人中。
そこに拳が吸い込まれるように突き刺さる。
「ッ――!」
瞬間、鷹村の巨体がわずかに揺れた。
痛みというより、脳の奥に直接響く鈍い衝撃。
踏ん張る足にまで、重く鈍い痺れが降りてくる。
(くそ……こいつは強烈に効く……)
わずかな硬直。
その隙が、致命的だった。
鷹村の思考を引き裂くように、噛み殺す一閃がテンプルへと突き刺さった。
縦拳による人中への突き上げは、きっかけ作りだ。
小さく、速く、そして鋭く。ステップインと同時に軸足を切り替え、腰の回転を丸ごと乗せたショートフックが襲いかかる。
一撃目で意識を揺らし、二撃目でその基盤ごと崩す……獅子御の必殺の連撃。
それはかつて、路地裏での喧嘩の最中にも幾度となく鷹村の意識を刈り取った、因縁のコンビネーションだった。
鷹村が無意識下で手を伸ばす。
だが、それは獅子御の姿を捉えることなく、空を切った。
(……マズい……立っていられねぇ……)
脳はまだ戦おうとしている。
だが、震える足がその意志を裏切る。
巨体が、ゆっくりと沈んでいく。
目を見開いたまま、鷹村の膝がマットを叩いた。
リングの端で見守っていたランカーたちが、一斉に息を呑んだ。
湿った地下の空気ごと、その場を支配していたのは……獅子御の拳だった。
▼
わしは声も出さず、ただリングの端で見守っておった。目の前で繰り広げられる光景に、胸の奥がざわつくのを感じる。
2度目のダウンは、1度目とは明確に違っておった。
鼻の下と上唇の間にある筋のような溝――人中を、獅子御は正確に突いた。
リング上でそこを突かれれば、瞬時に相手の動きを止める致命的な急所になる。
さらにダメ押しのテンプル。
鷹村の全身を襲う衝撃が、冷たい鉄槌のごとく容赦なくのしかかる。
わしは拳を握り、息を殺す。
膝をついた鷹村を目の当たりにして、現実を理解せざるを得んかった。
(……狙っておったのか。このコンビネーションを決めるわずかな瞬間を……)
心中で呟く声は、自分の耳にも届かぬ。
これまで積み重ねてきたボクシング、世界を取る男の背中。たしかにそれは紛れもなく事実だ。だが、獅子御は過度な見込みではなく、純粋に地力で鷹村を凌駕しておる。
ヘビー級の戸口に立ったばかりの鷹村では、その地力の差は決定的であった。
だが、獅子御の表情は淡々としておったわ。勝利を確信したようでも、やり切った顔でもない。まるで次の瞬間の鷹村の反応を待っておるかのように、静かに、膝をついた鷹村を見据えておる。
カウントの鐘が鳴る前に、鷹村が立ち上がれるかどうか――その不確定さが、わしの胸を締めつける。
目の前のリングは、単なる練習場ではなく、人生の縮図のように思える。
鷹村の意識が揺れ、身体が重力に引かれるたび、師としての心が痛む。
わしはただ、拳を握ったまま、獅子御の静かな鋭さと鷹村の姿を目に焼き付けておった。
▼
くそ、やられた……!
あーあ。何度目だっけか、このコンビネーションを食らうのは……。
あの縦拳からテンプルへの連撃、路地裏でも何度か食らったが、ボクシングのリングで浴びると格段に威力が違う。
容赦なく、しかも精密。
ちっとは加減しやがれってんだ……!
くそ、視界がぐにゃぐにゃ揺れる。
リングの上でこんな感覚を味わったことはない。
意識の端っこでジジィの声が聞こえる気がするが、まるで遠くの霧の向こう。焦点を合わせるのもままならない。
誠司との喧嘩は、いつもこうだ。
勝った気がしても、どこか引っ掛かる。
完勝できたことなんて一度もない。
今回も……このまま負けるのか、俺様は。
一瞬、負けるのも仕方ないか……と、ほんのわずかに諦めかけた自分がいた。
頭の奥で、膝にかかる重みと、全身に残る衝撃が「もう駄目だ」と囁く。
理屈じゃなく、身体が正直にそう感じている。
だが、その声をかき消すように、心の奥底で燃えるものがある。
んなわけねぇ……!
俺様の胸の奥で、かすかにだが確実に火花が散る。諦めるなんて選択肢は、この先も一度たりともなかった。
鼓舞するのも、己を奮い立たせるのも……くそったれ、そんな生ぬるい言葉じゃ足りねぇ。
全身の筋肉、神経、目、耳、感覚のすべてが、怒りと覚悟で満たされる。
誠司を、絶対に……このリングの上で超えてみせる……!
膝をついたままでも、呼吸を整えつつ、体の芯から力を漲らせる。
ふざけるなよ、誠司……!
その冷静な眼、無駄のない動き、正確無比な拳……俺様を簡単に倒せると思ったら、大間違いだ……!
拳の重さを、スピードを、間合いを、全て自分のものにする……。俺様は、ここまで来たんだ……!
ボクシングと俺様を合体させれば、俺様は無敵だ!!
今こそ――反撃の時だ……!
胸にこみ上げる怒りと覚悟。
震える膝を押さえ、巨体を起き上がらせる。
俺様の全てを誠司に叩き込む――その気迫が、リングの空気を震わせた。
意識はまだ混濁している。頭の中は霧のようにぼやけ、呼吸も重く、足取りは揺らいでいる。
それでも、目の奥の炎は消えていなかった。
心は死んでいない。
勝利への確信も揺るがず、折れず。
その気配は、先ほどの鷹村とは明確に違っていた。
足元のフラつきや脳の奥に残る鈍い衝撃をものともせず、全身から発せられるオーラが、リング全体の空気を変える。
「さぁ、ここからだよ、守くん……」
獅子御の瞳に、微かな笑みが浮かぶ。
決して挑発ではない。
ただ、純粋に期待を込めた目だ。
目の前で、化け物のような男が殻を破り、羽化を始めようとしている――その瞬間を、獅子御は静かに見守っていた。
鷹村の背中に、世界の重みと可能性が凝縮されていた。
その炎を受け止め、獅子御は静かに拳を構える。
リング上での死闘は、ただの戦いではなく、互いに未来を試す戦いへと変わろうとしていた。