はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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激闘の後、もう少し続く日常を

 

 

長いスパーの末に意識を失った鷹村は、地下練習場の長椅子で目を覚ました。

 

まだ頭の奥に鈍い響きが残っている。

 

視界の端には、見慣れたプロボクサーたちの顔が並んでいた。

 

「……大丈夫か?鷹村」

 

伊達が覗き込み、眉をわずかに寄せる。そんな元チャンピオンの顔を見て、鷹村は自分がどうなったのか。戦いの結末はどうなったかを悟った。

 

「……どうだった、おっさん。面白ぇもんが見れただろ」

 

鷹村は身体を起こさぬまま、口元だけで笑う。そこには悔しさも、怒りもない。ただ全力を出し切った満足さだけがあった。

 

そんな鷹村の表情を見て、伊達は唸る。

 

元チャンピオンで、世界のリングも踏んだ伊達にとって、このスパーはただの練習試合ではなかった。

 

「面白ぇもんどころじゃねぇよ……あんな逸材、どこで……いや、聞くまでもねぇか。鷹村の幼馴染って言われりゃ納得だわな」

 

おどけた口調に、周囲から笑い声が漏れる。だが、その目は誰ひとり笑っていなかった。

 

全員が、今回の戦いで見えた新しいテクニックやボクシングへの向き合い方。それらを試したくてたまらない……そんな目をしていた。

 

鷹村も同じだ。獅子御との死闘で知れた感覚を、自分のボクシングにどう落とし込むか、脳が勝手に組み立てを始めている。

 

後半。

 

朧げな意識の中で、自分の目指すボクシングの完成形を垣間見た気がした。それを手懐けるには、まだ課題は山のようにある。

 

「とりあえずお前が起きたことを会長に知らせてくる」

 

伊達がそう言い、ほかのプロたちも地下から出ていった。

 

残された鷹村は、壁にもたれたまま目を開けていた。

 

頬にはまだ汗が残り、首筋からは熱が立ち上っている。

 

だが、その表情はどこか清々しく、まるで深い眠りから覚めた直後のように晴れやかだった。

 

「……フッ」

 

口元が自然と緩む。痛みも疲労も、今はどうでもいい。

 

リングの上で、己の中に眠っていた何かが確かに目を覚ました。

 

そんな感覚があった。

 

これまでの自分は、力でねじ伏せるだけの獣だったかもしれない。だが、獅子御との死闘で、その獣に理性と研ぎ澄まされた刃が加わった。

 

攻めも守りも流れも、すべてが一本の線で繋がったような新しい手応え。

 

「……面白れぇ。やっぱり、ボクシングは面白れぇや」

 

小さく呟き、天井を見上げる。

 

あれほど拳を交えたのに、まだ身体の奥に熱が残っている。まだ先がある、まだ強くなれる。そう確信できる熱さ。

 

上の階から、鴨川やジムの面々の声が響く。

 

それでも鷹村は、しばらく長椅子にもたれたまま、余韻を噛みしめていた。

 

まるで、長い旅の途中で新しい道を見つけた旅人のように。

 

 

 

 

一階の治療室。

 

白い蛍光灯が、夜の静けさを無遠慮に切り裂くように眩しく光っている。獅子御は軋む膝を押さえながら、ベンチにゆっくり腰を下ろした。

 

試合を終えて、まだ数刻。

 

シャツを脱いだ上半身には、青黒いあざや擦過傷が点々と散っている。どれも鷹村守の拳が刻んだ勲章だ。じんじんと熱を持ち、肌の下で血がうねる感覚がまだ残っている。

 

「しかし……」

 

湿布を手にした木村が、半ば呆れたような、それでいて妙にうれしそうな笑みを浮かべる。

 

「あの鷹村さんを、あそこまで追い込むとは……言っちゃあアレだけど、獅子御さんも大概バケモノっすね」

 

「普通じゃねぇよ」

 

青木がすぐさま肩をすくめる。

 

「俺だったら、初回で顔面砕けてる」

 

言葉は冗談めいていても、その奥にあるのは確かな敬意だ。何せ憧れの鷹村と互角以上に打ち合える人間が、ずっと自分たちのそばにいたのだから。鼻が高くて仕方がない。

 

宮田は椅子に腰を掛けたまま、黙ってそのやり取りを聞いていた。

 

(……力押しじゃなく、読み合い……地力でも互角以上だった。あれは才能だけじゃ説明がつかない。一体どんな練習を、どんな経験を積んできたんだ……)

 

鋭い視線の奥で、少年のような好奇心が揺れている。その視線に気づかぬまま、獅子御は苦笑して、ペットボトルの水を喉に流し込んだ。

 

「まぁ……おかげで全身バキバキだけどね。守くんの拳は、やっぱり洒落にならないよ」

 

「そりゃ当たり前だって」

 

木村が笑い、青木が続けて吹き出す。その笑い声が、張り詰めていた空気を少しだけ和らげた。

 

今回のスパーは、獅子御にとって間違いなく満足のいくものだった。

 

本来の階級での鷹村のポテンシャルを存分に引き出し、理想像の扉を、ほんの少しこじ開けることができた。

 

撮影した動画は、知り合いの編集部に回し、海外向けのプロモーション映像として仕上げるつもりだ。

 

……ふと、頭の片隅を留学のことがよぎる。

 

アメリカの大学でスポーツ医学を学ぶ。

そう決めた未来。

 

けれど、この空気。この仲間。この温度感。

 

そう長くは続かないと考えた瞬間、胸の奥に鈍い引っかかりが残った。

 

(……もう少し、ここにいよう)

 

そう思うと、自然と肩の力が抜けた。

 

目の前には、氷嚢を肩に乗せながらもくだらない話で笑う木村と青木。

 

黙ってこちらを見つめる宮田。

 

この輪の中で過ごす時間は、きっと異国では手に入らない。

 

氷嚢の冷たさがじわじわと熱を吸っていく。獅子御は、ほんの少し息を整えてから口を開いた。

 

「……みんなに、大事な話があるんだ」

 

その声色に、笑い声がゆっくりと止まる。

誰も言葉を挟まず、彼の次の一言を待っていた。

 

そして、獅子御は心の中で改めて決める。

まだ、この仲間たちと、同じ道を歩もう、と。

 

 

 

 

地下の練習場。

 

氷嚢を頭に押し付けながら、鷹村はソファにだらしなく腰を沈めていた。額から垂れる汗が首筋を伝い、シャツが背中にぴったり張り付く。

 

まだ呼吸は少し荒く、試合の熱が体から抜けきらない。

 

怪我の具合を確かめるため、鴨川会長が腕や肩に触れながら目を細める。しばし沈黙の後、ふと思い出したように口を開いた。

 

「そういえばな、鷹村……獅子御は高校卒業後、アメリカに渡るそうじゃ。大学でスポーツ医学を学ぶと伝えられたわ」

 

「――何い!!?」

 

氷嚢が床に転がり、パックの中で水がしゃばっと音を立てる。鷹村はバネ仕掛けのように跳ね起き、目を見開いた。

 

「アメリカだとぉ!?誰がそんなことを許可した!おい、テメェか、ジジィ!」

 

「馬鹿者!ワシは何も指図しておらんわ!」

 

鴨川は眉を振り上げ、杖の先で床をコツンと鳴らす。

 

「俺様の許可なく留学だぁ!?ふざけんなコラ!勝ち逃げはゆるさねぇぞ!!」

 

吐き捨てるような怒声が壁に反響し、空気が一瞬凍る。椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、靴裏が床を叩く音が部屋全体を震わせた。

 

一階へ繋がる階段へ向かおうとしたその肩を、篠田トレーナーが左から、八木マネージャーが右から必死に押さえ込む。

 

「落ち着け!まだ治療中だ!」

 

「落ち着いて鷹村くん!処置が終わってないってば!」

 

鷹村は腕を振り払い、今にも押し切ろうとするが、鴨川会長は片手を上げ、二人を制するように静かに首を振った。

 

「獅子御は……お主が世界を目指す足がかりを作るつもりらしい。向こうで学んで、いずれそれをお主らに還元するつもりじゃと」

 

その言葉が、熱く滾っていた鷹村の胸に、冷たい水を注いだ。眉間の皺がわずかに緩み、荒い息が一度深く整う。

 

「……チッ、あいつらしいじゃねぇか」

 

口の端が持ち上がり、短い笑いが漏れる。

氷嚢を拾い上げ、もう一度肩に押し付けた。

 

「いいだろう……時間はねぇが、できるだけのことをして恩は返してやるよ」

 

処置を終えた鷹村は、階段へ向かう足をゆっくりと進める。

 

地下の湿った空気を背負いながら、一階へ。

 

そこには、既に仲間たちのざわめきが待っていた。

 

階段の上では、木村や青木、宮田たちが獅子御の周りに集まっている。

 

どうやらもう事情を聞いていたらしい。

 

……獅子御が、アメリカに行ってしまう。

 

それが鷹村のためだと言うのなら、止めるのも野暮というものだ。

 

なら、鷹村ができることは、獅子御が引き出してくれた力を自分のものにする努力と鍛錬。そして、彼を盛大に送り出す思いだ。

 

「よし!盛大に送別会をやるぞ!派手にな!」

 

鷹村が拳を突き上げると、ジムの面々も「おう!」と威勢よく声を合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……え、あの……そのことなんだけど」

 

盛り上がってどこで送別会をするか話している仲間たちに、獅子御は視線を泳がせ、首の後ろをぽりぽりとかいた。

 

その仕草に、場の空気が微妙にざわめく。

 

「渡米は一年後で……あれ?会長に聞いてなかった?準備に時間もらったし、それまでここでトレーナー補佐や事前の勉強をするつもりなんだけど……」

 

一瞬、音が消えた。誰かの喉がごくりと鳴る音だけが響く。

 

木村がぽかんと口を開け、青木は「え?」と間抜けな声を漏らす。

 

宮田は眉をわずかに上げただけだが、その横顔も驚きを隠せていない。

 

伊達に至っては、ただ無言で顔を手で覆っていた。

 

重い沈黙が、ジム全体を覆う。

 

そして……。

 

「はぁあああああ!?」

 

鷹村の怒号が天井を突き抜けた。

 

「ジジィ!なんでそれ先に言わねぇんだよ!」

 

「す、すまん。わ、忘れとったわ!」

 

開き直る鴨川に、木村と青木が同時に眉をひそめる。

 

「おかげで送別ムードになっちまったじゃないすか!」

 

「返せよ俺らの涙返して!」

 

宮田までもが腕を組み、ため息をつくしかなかった。

 

「うるさいわい!人間、忘れることぐらいある!」

 

二人の声が被り、響きがジムの壁で跳ね返る。

 

だが、小物たちの抗議などどこ吹く風。

 

鷹村の脳裏に浮かんだのは「あと一年」という猶予。獲物を見つけた獣のようにギラリと目が光り、獅子御へと視線が突き刺さる。

 

「そうだ!誠司!テメェあと一年あるなら毎日スパーやるぞコラァ!」

 

声は怒鳴りというよりも、挑戦状を叩きつける咆哮だった。

 

「馬鹿者!あんな戦いを毎日してたら命が幾つあっても足りんわ!第一、貴様は減量もしなければならんのじゃぞ!」

 

会長が必死に制するが、鷹村は鼻で笑い、口元を吊り上げる。

 

「だったら獅子御も同じ階級まで減量だコラァ!」

 

「鬼かアンタは!?」

 

「俺様だぁああ!!」

 

吠えた瞬間、鷹村の両腕が左右に伸び、近くにいた木村と青木を容赦なく巻き込む。

 

片腕で首を引っ掛け、もう片腕で脇を抱える。三人が取っ組み合うたび、ギシギシと床が軋み、鴨川会長が杖でガンッと鷹村を殴りつけ、「落ち着かんか!」と怒鳴るが、すでに誰も聞いていなかった。

 

そんな騒ぎの渦を、獅子御は少し離れたベンチから眺めていた。

 

肩を軽くすくめ、息を吐く。

 

唇の端に、小さく笑みが浮かぶ。

 

笑みといっても、嘲りではなく――ほんの少し、名残惜しさを隠すための笑み。

 

視線の先では、相変わらず鷹村が木村と青木を引きずり回し、罵声と笑い声が入り混じっている。

 

この喧しさも、あと一年。

 

そう思うと、ジムのざわめきが不思議と愛おしく感じられた。

 

 

 

 




次からは幕内が鴨川ジムに入り、そして獅子御が旅立つところになります
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