はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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小話 「鷹村京香」

 

 

鷹村 京香。

 

鷹村家の長女にして、守の姉。

聡明で容姿端麗。

 

兄の卓が社長を務める鷹村建設を支え、アメリカの大学で学びながらも日本と往復する日々。

 

それでいて、弟の減量期には干しシイタケや栄養管理の差し入れを欠かさない面倒見の良さを見せる。

 

守にとっては「逆らえない存在」であり、数少ない弱みを握る人間でもあった。

 

鷹村を「守ちゃん」と呼ぶ唯一の人物。獅子御が「守くん」と呼ぶのとはまた違う、血のつながりから来る距離の近さ。

 

その日、珍しく鷹村が姉を呼び出した。

 

いつもなら「減量だ」「食事制限だ」と理由をつけて京香が勝手に訪ねてくるのに、今日は鷹村のほうから姉を呼び出していた。

 

「……京姉」

 

「なぁに?守ちゃん」

 

柔らかな声。だが、その一言で守の肩が自然と竦む。減量期でもないのに、彼が改まった顔をしていた。

 

「誠司のことなんだが……一年後にはアメリカに留学する話になってる」

 

「えぇ、そうね」

 

京香は小さく微笑む。

 

その微笑みは、守にとって幼い頃から安心を与えてきたものだ。

 

……だが同時に。

 

(……クソッ、やっぱ京姉の笑顔は怖ぇ)

 

幼い頃から、悪さをした守を一瞬で見抜き、にこやかな笑みのまま締め上げてきた姉の顔。笑っているのに、背中を氷の刃で撫でられるような緊迫感が滲む。

 

「スポーツ医学を学ぶには、本場のアメリカが一番。彼には向いているわ」

 

守は無言で頭を掻く。

 

良き姉であり……年上好きな自分の嗜好の根源でもあり……少しばかりシスコン気味な自分を作った原因でもある。

 

(……まぁ、それを知ってんのは誠司ぐらいだがな)

 

他のメンツに知られたら、記憶をなくすまでぶん殴り……下手をすれば撲殺しかねない。

 

それでも今、守の胸を締めつけているのは、姉の微笑みだった。

 

凄みを孕んだあの笑顔。

 

だがそれ以上に、今は姉の笑みに圧されていた。

 

それはただの安心を与えるものではない。本気で何かを隠しているときに、京香が必ず浮かべる「ごまかし笑い」。

 

(やべぇ……この笑みはマジで何か企んでやがる……!)

 

だから守は、少しずつ事実確認を進めることにした。

 

言葉の端々から、姉の胸の内をこじ開けるために。

 

ちなみに今日、守は京香と会うことを獅子御には伝えていない。

 

それに誠司も今夜は宮田が家に泊まりにきているようで、宮田の父親から直接確認済みだ。

 

(くそったれ……俺様ですら呼ばれたことねぇのに、なんで宮田だけ呼ばれてんだよ……!)

 

胸の奥で嫉妬が渦を巻く。だがそれを振り払うように、守は心の中で唸った。

 

(いや、今は置いとけ……今は京姉だ)

 

「京姉も今はアメリカの大学だよな?」

 

「そうね。卓兄さんの手伝いで日本に戻ることも多いけれど、卒業の見通しは立ってるわ」

 

京香の声は相変わらず穏やか。だがその穏やかさが、守の胸をさらに締め付けていく。

 

卓は鷹村建設の社長。

 

経営の実務面では京香の学んだ経済学・経営学の知識が頼りにされており、彼女は秘書のように兄を支えている。

 

だから京香は三ヶ月ごとに帰国しては、日本で業務や家族の世話をこなし、再びアメリカへと戻る。

そして今はバケーション。三ヶ月、日本に滞在できる。

 

守は知っている。

 

その間、京香と誠司がよく顔を合わせていることを。

 

一緒に食事に行った話も聞いているし、誠司が「京姉さんとこんな話をした」と楽しげに報告するのも何度も耳にした。

 

だからこそ、安心していた。

 

誠司が手を出すことはない、と。

 

 

 

 

 

……だが、その逆はどうか?

 

 

 

 

 

「……誠司が行く大学だが……京姉の通う大学のスポーツ学科に留学するんだよな」

 

「誠司くんは優秀だもの。勉強もできるし、英語も私が色々教えたから……日常会話も、ビジネス会話も難なくこなせるわ」

 

京香は穏やかに断言する。

まるで手塩にかけた成果を自慢するかのように。

 

守は眉をひそめた。

 

胸の奥に、嫌な予感がじわりと広がっていく。

 

昔から、誠司は頭が良かった。

 

喧嘩や素行不良で内申点はズタボロのはずなのに、進学した高校は県内でも指折りの進学校。宮田に勉強を教えるほどで、その学力は常に群を抜いていた。

 

殴り合いの腕っぷしも、ノートの中身も、どちらも「普通」とはかけ離れている。

 

そして、そんな誠司の「家庭教師」を務めていたのが、他ならぬ京香だった。

 

(そうだ……忘れてたが、あの頃から誠司をどう導くかなんて、京姉にとっちゃ朝飯前だったんだよな)

 

真剣勝負で相手を潰すような守と違って、京香は“言葉”で相手を操る。

 

叱るときは柔らかく、褒めるときは徹底的に。幼い頃から散々味わってきた“飴と鞭”を、誠司も同じように浴びていたのだ。

 

その立場の強さを思い出した瞬間、守の胸の奥に嫌なざわめきが広がる。

 

「……留学の推薦を出した教授……京姉の知り合いなんだよな」

 

意識して声を落とす守。だが京香は、まるで用意していたかのように即答した。

 

「ええ。誠司くんのことを話したら、『ぜひ会ってみたい、教えてやりたい』と仰ってね」

 

にっこりと微笑む。

 

それは、何の含みもない姉の笑顔に見えた。

 

だが守には違って見える。

 

そこまで聞いた瞬間、守の背筋に冷たい汗が一筋流れた。

 

会話の端々、状況証拠……どれを拾っても、危険信号しか点滅していない。

 

野球で言うなら、スリーアウトどころではない。延長も抗議もなく、もう試合そのものが没収されるレベル。

 

(明らかに狙ってる……!何をとは言わねぇが……京姉は、マジで誠司を狙ってやがる!)

 

その確信は、守の脳内で鐘のように鳴り響いていた。

 

「京姉……まさか、誠司のこと……」

 

「守ちゃん?」

 

京香は小首を傾げ、唇の端を柔らかく吊り上げる。

意味ありげな微笑み。

 

けれどその目の奥には、鷹村家特有の“獲物を見据える色”が一瞬、閃いた。

 

「女の子はね……分かっていても、はっきり口にされるのは困るものなのよ」

 

守の喉が、ゴクリと音を立てる。

 

(……間違いねぇ。京姉は……マジだ)

 

弟という立場を抜きにしても、京香は掛け値なしの美人だ。

 

気品と聡明さを備え、誰もが振り返る容姿を持ち、なおかつ面倒見がよく、家族の誰よりも強い。

 

だが、その京香は“ただの美人”ではない。

 

鷹村家の長女……守と同じ血を持つ、鷹村の女なのだ。

 

その笑顔の裏には、守と同じく肉食獣の本能が潜んでいた。

 

そして、その視線の先にいるのが獅子御だった。

 

粗暴で孤立しがちな弟。彼のそばから唯一離れず、真正面から向き合ってきた存在が、獅子御である。

 

守がどれだけ暴れても、周囲から孤立しても、彼だけは背を向けなかった。

 

そして時に殴り合い、時に肩を貸しながら、弟を人として繋ぎ止めてくれていた。

 

京香は、その姿を何度も目にしてきた。

 

 

――ああ、この子は、守を導ける人だ。

 

 

だが、それだけではなかった。

 

誠司は有能で、要領も良い。学力は突出しており、人の扱いにも長けている。

 

ただ強いだけの男ならいくらでもいる。

 

だが彼は、頭も心も備えていた。

 

そんな稀有な人材を、京香は見逃す気などさらさらなかった。

 

(逃がさない。誠司くんは――私が掴む)

 

そう決めたのは、ずっと前のこと。だからこそ、京香はゆっくりと、だが着実に動いてきた。

 

家庭教師として勉強を見て、言葉の端々にさりげなく未来を示す。

 

食事に誘えば、何気ない会話の中に価値観を刷り込んでいく。

 

学業、進路、人脈――外堀をひとつずつ埋めるように、彼を逃げられない場所へと導いていった。

 

まるで麻縄を少しずつ締め上げていくように。

 

気付いた時には、彼はもう抜け出せなくなる。

 

そして何より獅子御の両親も、その想いを知っていた。

 

むしろ歓迎すらしている。

 

理由は単純だ。獅子御の父が務める総合商社は、建材・電材・空調・エレベーターなどの分野で、鷹村建設と深く繋がっていた。

 

正規の取引でありながら、互いの事業を強固に支える関係性は、家族の信頼関係とも密接に結びついている。

 

京香はその事情も熟知していた。

 

商社と建設会社……双方にとって有益な関係を軸にしつつ、誠司の行動範囲や選択肢を絶妙に制御できる。

 

学業面、進路面、そして家の事情までも、すべて計算済み。

 

(あとは、誠司くん自身が気付くだけ……)

 

京香の微笑みは変わらない。

だがその裏には、計算され尽くした情熱と執念が、炎のように燃え続けていた。

 

繰り返し言おう。

 

京香は“ただの美人”ではない。

鷹村家の長女――守と同じ血を持つ、鷹村の女なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、その事実が、守の脳裏に戦慄と混乱を巻き起こす。

 

(……ってことは……待てよ?……京姉と誠司がくっ付いたら、俺様は誠司を義兄さんと呼ばなきゃならないってことか!?冗談じゃねぇぞ!くっつくのは別にいいが、あいつを義兄さんと呼ぶのは死んでも嫌だああああ!!)

 

翌日、守は獅子御にこの焦燥を伝えられず、珍しくイライラを抱えたまま鴨川ジムの練習に臨んだ。言えば京姉に殺されかねない――野生の勘で、鷹村はそれを直感していた。

 

抑えきれぬ苛立ちが、拳に、動きに変わる。

 

気がつけば、鷹村のグローブは獅子御の顔面を直撃した。

 

「オーケー、死にたいようだね、守くん」

「上等ダァ!かかってきやがれってんだコンチクショウ!!」

 

リングの上で二人の死闘が幕を開ける。

 

打ち合い、避け、踏み込み、互いの呼吸が乱れ、音が鳴る。熱気が渦巻き、周囲の観客の声も遠くに消えたように感じられる。

 

鴨川会長は、そんな二人の姿を見て深く溜息をつく。そして容赦なく、叱責の雷を落とす。

 

「貴様ら揃って何をやっておるのだ!」

 

二人揃って叱られる音が、リングの隅々に響き渡るのだった。

 

 

 

 

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