はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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青春時代(1)

 

 

 

鷹村守との付き合いは、小学校での喧嘩から始まった。

 

……いや、喧嘩というにはあまりに原始的だったかもしれない。

 

ぶっちゃけ、あれは“拳闘”に近い。

ボクシングの皮を被った、何かもっと野生的な、動物同士の縄張り争いに似たものだった。

 

互いに言葉は少なかったが、拳が言葉以上に雄弁だった。怒りも、戸惑いも、感謝も──全部が拳を通して伝わった。

 

猛獣のような鷹村の荒れ狂う暴力の嵐の中で、それを捌き、避け、急所に拳を叩き込む。その繰り返しが、俺たちにとっての会話であり、関係のすべてだった。

 

鷹村は、俺の拳を何度も食らううちに、どんどんタフになっていった。

テンプルをぶん殴っても、動じるどころか、さらに突っ込んでくる。歯を食いしばり、血を吐きながら、俺のスタイルを力ずくでねじ伏せにくる。獣じみた進化だった。

 

だが、それで終わる気はなかった。

潰されるなら、それはそれ。潰されてもスタイルを保てばいい。拳の置き位置さえ整えれば、身体の軸で打撃は出せる。密着されたって、マウントを取られたって、急所を狙って一撃ぶち込めば、相手は必ず怯む。

 

そうすれば、わずかでも距離が空く。

そこから再び立ち上がり、次の一発を狙う。それだけだ。

 

「そんな位置からできんのかよ……このインチキめ」

 

「クマみたいな相手に言われたくないね」

 

やがて、鷹村と俺のやり取りには、人が集まるようになってきた。

昼休み、放課後、体育館裏、路地裏の空き地──俺たちの“試合”が始まると、いつの間にか野次馬ができるようになった。

 

少し金を持ってる高学年や、近隣の中学生たちは、賭け事を始めた。

「今日はどっちが勝つか」

「何ラウンドで決着がつくか」

「鼻血が出るのはどっちか」

──そんな下世話な話題が、小学校の噂になり、俺たちの名前は知らぬ間に広まっていった。

 

当然、当時はグローブなんて高価なものは持っていなかった。

素手。殴るだけじゃない。足技、肘打ち、投げ技、倒した後のマウント、膝蹴り、噛みつき寸前の張り手まで──なんでもありだった。

 

“ルールのないボクシング”。

俺たちは、毎日のように、それを繰り返していた。

 

場所は決まっていなかった。

校庭の隅、物陰、放課後の裏道、古びた神社の裏手、商店街の裏路地……。

俺たちが拳を交わせる場所なら、どこでもリングになった。

 

そんな泥まみれの戦いの中で、いつからか、自然と下の名前で呼び合うようになっていた。

 

「守くん」

「おう、誠司」

 

呼び方は荒っぽくても、そこには確かな絆が宿っていた。

 

拳で通じ合う友情。

血で固めた信頼。

誰にも割り込ませない、二人だけの“試合”。

 

それが、俺と鷹村の、原点だった。

 

小学校を卒業し、そのまま同じ中学に進学した。

周囲から見れば、俺と鷹村は“仲のいい幼なじみ”に映っていたらしい。

 

けれど実際のところ、そんな甘っちょろいものじゃなかった。

 

俺たちは、互いに相手を越えようとしていた。

拳を交えることでしか、相手の強さを確かめられない。言葉を交わすよりも、殴り合う方が性に合っていた。

 

拳の応酬は友情であると同時に、誇りと執念のぶつかり合いでもあった。

 

中学に上がっても、それは変わらなかった。放課後、体育倉庫の裏、校庭の隅、人気のない階段の踊り場。あいさつ代わりに拳が飛び、顔を腫らして笑う日々。

 

俺たちの中では、それが“普通”だった。

だが、外の目は、違った。

 

小学校時代に撒いた“伝説”が、妙な形で中学にまで伝わっていた。

 

「ヤバいやつがいる」

「喧嘩が異常に強い」

「試合みたいに殴り合う二人組」

 

そんな尾ひれ付きの噂が、不良たちの耳にまで届いていたらしい。

 

最初は、隣のクラスの奴。次は他の学年。そして、他校。面白がったのか、実力を試したかったのかは知らないが、やがて俺たちは、“挑まれる側”になっていた。

 

その頃の俺と鷹村は、ほぼ互角。

 

互いの手の内を知り尽くし、スタイルも技術も頭打ちになっていた時期だった。

 

だから、刺激を求めていた。

 

ちょうどよかった。外から来た“実験台”は。

 

売られた喧嘩は、すべて買った。いや、買ったどころじゃない。徹底的に“叩き潰した”。

 

手加減?そんなものは知らない。

 

俺は、急所だけを正確に突くことに専念した。

 

肋骨の間。横腹。顎先。テンプル。

 

人が嫌でも膝をつく場所を、的確に撃ち抜いた。

 

鷹村は、相手の動きも技も無視して、ただ力でねじ伏せた。顎を砕くようなフック。へし折るようなボディブロー。相手が止めるまで止まらない。

 

喧嘩のたびに、生徒が一人減る。

 

そんな冗談が、本気でささやかれるようになっていった。それでも、挑んでくる奴は後を絶たなかった。

 

そして、気づけば、俺たちには異名がついていた。

 

「鷲と獅子」。

 

誰が言い出したのかは知らない。

だがそのあだ名は、確かに俺たちを象徴していた。

 

天から見下ろすように獲物を急襲し、骨ごと持ち去る鷲。狙った獲物を逃がさず、確実に仕留める百獣の王。

 

ただ、どれだけ名前がつこうと、俺たちはいつも通りだった。

 

拳を交え、殴られ、血を流しながら、明日も生きていた。

 

まだ、その頃は。まだ、“学校の中”で収まっていた。

 

保健室送りになった奴は多かったが、命に別状はなかった。教師に目をつけられたり、生徒指導室に呼ばれたりはしたが、それだけだった。

 

ギリギリのところで、“子ども”としての枠に守られていた。

 

だが、それも限界だった。

すべてが変わったのは、中学二年の夏だった。

 

梅雨が明けたある蒸し暑い日。

蝉が喧しく鳴いていた午後の終わり。

 

 

 

鷹村が、傷害事件を起こした。

 

 

 

 

 

鷹村守。

 

その名は、一部ではすでに有名だったが、背景までは知らない者が多かった。

 

建設業界では名の知れた企業、「鷹村開発」。

 

鷹村は、その社長の次男として生まれた。

 

上には成績優秀な長女、スポーツ万能な長男。

そして下には、要領のいい三男──弟がいる。

 

典型的な“大企業のボンボン”と呼ばれてもおかしくない立場。

 

だが、守は、そうしたレールに沿って生きるにはあまりにも異質だった。

 

人並み外れた身体能力。常人の二倍はあるんじゃないかと思わせる体力と腕力。そして何より、破裂寸前の導火線みたいな好戦的な気性。

 

それが、彼の“普通”だった。

 

中学に入ってからも、問題は絶えなかった。

校内での乱闘、他校とのトラブル、地域住民からの通報。たびたび、鷹村の父親が頭を下げに奔走していた。

 

なかには、あと少しで少年院行きになってもおかしくない案件もあったと、後になって知った。

 

もちろん、俺の知らないところで、だ。

 

俺は基本的に「殺さない」「止めを刺さない」がポリシーだった。相手に手加減はしない。だが、相手が負けを認めたなら、それ以上は追わない。

 

だが鷹村は違った。

 

気を抜けば、拳が止まらない。

言葉よりも先に骨が折れる。

興奮すれば、境界線が見えなくなる。

 

俺がいくら注意しても、力の制御なんて彼には“訓練中の課題”程度にしか映っていなかった。

 

──そんな中で事件は起こった。

 

長男は名門大学のラグビー部に所属し、スタンドオフとして活躍。プロ入りも期待される逸材だった。

 

ある日、鷹村は不本意ながらも兄の試合を観に行っていた。

 

その試合、兄のチームは負けた。

 

拮抗した試合だったが、結果的に逆転負け。

観客席から飛んだ、ひとつの野次が最悪だった。

 

「おい、あの鷹村って奴のせいで負けたんじゃねえのか?」

 

瞬間、守の目の色が変わった。

 

会場の通路にいた観客、学生、通りがかりの者を含め、約20名。

 

その全員が、鷹村守の拳によって叩き伏せられた。

言い訳はなかった。正当防衛でもなかった。

 

ただの、“衝動”だった。

 

暴力の嵐は、兄の試合よりも後味の悪い爪痕を残した。

 

そして、守を守ろうとしていた家族の意思も終わった。

 

15歳未満という年齢ではあったが、もはや「未成年」という言葉では庇いきれなかった。学校も、社会も、家族さえも、彼を庇いきれなかった。

 

ついに、親は彼を見限った。

「実家を出ろ」と。

 

正確には、“追い出した”のだった。

 

こうして鷹村守は、社会的には「親の庇護下にある少年」でありながら、家族の傘からは放り出された。

 

孤立無援の、“怪物”として。

 

 

 

 

「守くん」

 

一人、河原のベンチに座る鷹村に声をかけた。

 

事情は姉から聞いていた。普段から連んでいたこともあって、「何かと守をお願いね」と頼まれてはいたが、俺と鷹村の関係は、そんな甘いもんじゃない。

 

いまの鷹村は、見るに堪えない。

 

自分の暴力性に気づかず、いや、気づきながらも目を逸らし、手当たり次第、気に入らないものを壊している。まるで、抜き身の刃だ。

 

「誠司……」

 

その目は、ギラギラとした獣の光を宿していた。

 

家族に縁を切られた理由も、兄の名誉のために衝動で動いたことも、鷹村自身が一番よくわかっている。

 

わかっていながら、正しく生きられない。優しさを知らぬまま、不器用に転がり続けるしかない。

 

俺には、わかる。

 

暴力は、どこまでいっても暴力だ。自衛のため、競技のため、どれだけ理由をつけようが、それを振るうたびに俺たちは蝕まれていく。

 

親に迷惑をかけていることも、自分の心が壊れかけていることも、痛いほどわかっている。

 

けれど、一度知ってしまったのだ。

 

暴力の味を。

 

それでしか発散できない欲。それでしか救えない叫び。鷹村も、俺も、もうそのステージにいる。戻れやしない。

 

拳に、打撃に、暴力に……酔っている。

 

「……もう、俺様に突っかかるな、誠司」

 

感情の抜けた声で鷹村が呟いた。

 

「次、お前とやったら……俺様、お前を殺してしまう」

 

その言葉には、事情を語らぬ戦友への、せめてもの優しさがあったのかもしれない。

 

──そんなもん、片腹痛い。

 

珍しくセンチメンタルになっている鷹村の顔面を、俺はためらいなく殴り抜いた。もちろん急所だ。手加減なんてしない。

 

「何を調子いいこと言ってんだよ、守くん」

 

仰向けに倒れ、動かなくなった鷹村を見下ろしながら、拳を握りしめて言った。

 

理性的な獣のつもりかよ。甘えるな。優しさなんざいらない。

 

「お前は、俺の宿敵(ライバル)だ。……簡単に殺せるなんて、思うんじゃねぇよ」

 

鷹村の目がギラリと光った。

再び、猛獣が牙を剥いた。

 

「前言撤回だ……!そう望むなら、今ここで殺してやるッ!!」

 

「来いよ、鷹村守ッ!!」

 

怒号が河原に響いた。張り詰めた空気が、真夏の夜の闇を震わせる。

 

互いに一歩も引かず、真正面から突っ込んだ。

拳と拳がぶつかるたび、骨が軋み、皮膚が裂け、血飛沫が舞った。歯が折れ、鼻が潰れ、何度も地面に叩きつけられた。

 

砂を噛み、唾を吐き、立ち上がってはまた殴り合った。

 

どちらかが倒れるまで。いや、倒れてもなお、戦いは終わらなかった。

 

叫びも、怒りも、呪詛も、すべては拳の中にあった。少年と呼ばれるにはあまりに過酷で、残酷な夜。

 

憎しみがあった。

理解もあった。

 

否定と肯定が混じり合い、互いのすべてをぶつけ合うことでしか伝えられないものが、そこにはあった。

 

日付が変わっても、なお続いた。

殴り、蹴り、組み伏せ、押し返し、また殴る。

 

やがて、全身を傷とあざで染めた二人は、言葉も出せないほど息を切らし、泥と血で汚れたまま、無言で大の字に倒れ込んだ。

 

河原の野原。

 

虫の音と遠くの川のせせらぎが、かすかに耳に届く。

 

空を仰げば、やけに星が綺麗だった。

 

まるでこの地獄のような夜を、天だけが静かに見下ろしているかのように。

 

何も言わず、ただ並んで、空を見ていた。

 

拳でしか語れなかった……そんな夜だった。

 

 

 

 

 

その日から、鷹村はまともに学校へ顔を出さなくなった。

 

教室の空席を気にする者は少なかった。元より浮いた存在だったし、誰も彼の事情に首を突っ込もうとしなかった。だが、俺は知っている。あいつはただの怠け者なんかじゃない。

 

誰よりも真っ直ぐに、自分の信じた強さだけを頼りに生きてきたやつだ。だからこそ、あの夜、全てをぶつけ合った後に残ったのは、怒りでも悔しさでもなかった。──空っぽな、ただの虚無だった。

 

「鷹村、最近見ないな」

 

「夜にバイトしてるらしいぜ。新聞配達とか、夜勤の工場とか……」

 

そんな噂話が廊下に流れていた。だが、俺にはどうでもよかった。奴が何をして、どこで生きていようと関係なかった。

 

俺も、積極的に関わろうとはしなかった。……いや、できなかった。

 

あの夜、拳を交えて理解した。今の俺たちは、近づけばまた、ぶつかるしかない存在なのだ。どちらも妥協できない性分で、言葉で済ませられるほど器用じゃない。無理に歩み寄ったところで、互いの誇りがまた火花を散らすだけだ。

 

だからこそ、俺は一歩引いた。

 

だが、背を向けたわけじゃない。

 

俺は、来たる日に備えた。──再び、奴が俺の前に現れるその時のために。

 

「鴨川ボクシングジム」。

 

古びた看板の下で、俺は拳の握り方を覚えた。腹に力を入れて息を吐く方法、顎を引いて前を睨む目線。どれもこれも、彼と再び並び立つために必要なことだった。

 

後に、そこは鷹村守が運命的に導かれる場所となる。あいつにとっての恩師が待ち構え、拳ひとつで世界を目指す日々が始まる場所だ。

 

──そして俺は、そこで待つことを決めた。

 

奴は世界チャンピオンになる男だ。

 

俺が前世でテレビの向こうから憧れた、拳ひとつで世界をひっくり返す伝説のスターだ。

 

だけど今はまだ、その光に届かない。

 

だから、追いつく。追いついて、肩を並べて、今度こそ拳を交える日を──お互いを「必要とする」日を、待ち続ける。

 

それはまだ、遠い未来の話かもしれない。

 

けれどその未来に向かって。

 

青春が、今まさに始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

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