はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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the First beyond(2)

 

 

「こいつが、今日から入門する幕之内 一歩だ!」

 

数日後の昼下がり。

 

鷹村は土手で拾った少年を連れて、鴨川ジムの引き戸を勢いよく開け放った。

 

「よ、よろしくお願いします!」

 

深々と頭を下げる幕之内。その表情は人の良さそうな笑みを浮かべていて、どこか気弱そうですらあった。

 

闘志、野心、強くなりたいという欲望……ボクシングジムの空気に似つかわしい光は、まだその瞳には見えなかった。

 

その様子に、奥から現れた鴨川会長の額に青筋が浮かぶ。

 

「鷹村ぁああ!!」

 

「おうジジイ!こいつが――」

 

「ええから来いっ!」

 

杖の先で鷹村の首を引っ掛け、そのまま巨体をずるずると奥の部屋へ引きずり込む会長。

 

場の空気が一気に荒々しくなる中、一歩は完全に置き去りにされ、所在なげにジム内を見渡す。

 

バンテージを巻く練習生、サンドバッグを叩く音、シャドーを踏む姿――そのどれもが、彼にとって未知の世界だった。まるで異国の地に立たされたように、視線だけが落ち着きなく揺れる。

 

そんな中、脇で様子を見ていた獅子御が、一歩に歩み寄った。

 

「はじめまして、幕之内くん」

 

「あ、はい……その……」

 

言葉が詰まる一歩に、獅子御は穏やかに名乗る。

 

「俺は獅子御。ここでトレーナー補佐をしてる。守くん……鷹村くんのことは、いつものことだから気にしなくていいよ。どれ」

 

そう断りを入れてから、一歩の肩や腕に手を当てた。筋肉の質、骨格、肉付き……軽く押しただけで、素質の片鱗は伝わってくる。

 

「……うん、確かに噂通りだ。ハードなパンチを打てる腕をしてる」

 

「あ、あの……」

 

突然身体を確かめられた戸惑いと、褒められたような気恥ずかしさに、一歩の声が上ずる。獅子御は手を離し、真正面から彼を見据えた。瞳に曇りはなく、真剣そのものだった。

 

「君は、プロボクサーになりたいかい?」

 

「は、はい!なりたいです!」

 

一歩は勇気を振り絞るように答えた。

獅子御は小さく頷き、静かに告げる。

 

「なら、ひとつだけ、アドバイスだ」

 

「え……」

 

「なりたいと思ったもの。それを積み上げること……それがボクサーの根だ。どんなに才能があっても、忘れたら根こそぎ折れる」

 

「……は、はぁ……」

 

理解したかどうかは定かでない。だが、幕之内は真剣な顔でうなずき、鷹村に呼ばれて更衣室へと向かっていった。

 

その背中を見送りながら、木村と青木がひそひそ声で獅子御に話しかけた。

 

「獅子御さん。アイツ、本気でボクシングやるつもりなんですかね」

 

「どう見ても気弱そうな、ただの高校生にしか……」

 

獅子御は二人を制するように、短く答えた。

 

「人を見かけで判断しちゃいけないよ。リングに立つまでは、何があるか誰にもわからない」

 

彼の眼差しには、わずかに確信めいた光が宿っていた。

 

 

 

 

 

そして鴨川会長の決定で、幕之内の素質を測るためにいきなりスパーリングが組まれることになる。

 

通常なら基礎体力を作る走り込み、フォームを固めるシャドー、サンドバッグやミット打ちといった順序を踏むものだ。

 

実際、木村や青木も獅子御の細やかな指導の下、基礎を積み重ねてここまで来た。

 

だが……それをすっ飛ばして、いきなりリングへ。

 

無茶を通り越して破天荒な判断。それが鴨川ジムの会長だった。

 

「会長……本気でやらせるつもりなんですかね。あんな素人と」

 

リングシューズを履き直しながら呟くのは宮田一郎。ついさっきまで獅子御とミット打ちをしていたが、今はグローブを練習用に替え、真剣な表情でリングに上がっていく。

 

「まぁ、会長が一郎くんを選んだのは正解だよ」

 

獅子御が淡々とつぶやくと、宮田は怪訝そうに振り返った。

 

「正解? もっと適任がいるでしょう。今年入った新人とか……」

 

視線を向ければ、壁際に数人の若いジム生が緊張した面持ちで見ている。初心者の相手なら十分な経験を持つ連中だ。それなのになぜ、会長は自分を選んだのか。宮田の眉間に疑問が浮かぶ。

 

そこで、獅子御が補足する。

 

「始めたばかりの素人に、加減なんてできない。やりすぎて怪我をさせるか、逆にこちらが不意に被弾して怪我を負うか……。その点、一郎くんなら必要な時は抑えられるし、何より力の差を見せつけられる」

 

「……差を見せつける、ですか」

 

「そう。圧倒的な差を感じさせれば、すぐに折れるか、あるいは這い上がるかが見える」

 

「心を折っていいんですか?」

 

宮田の問いは、年齢のわりに鋭かった。

獅子御は頷き、言葉を重く続ける。

 

「ボクシングは命に関わる競技だ。優しさで続けるものじゃない。プロを目指すなら、折れる心はむしろ危険だ」

 

短く告げられたその言葉に、木村と青木が息を呑む。普段は温厚に見える獅子御の口調が、刃のように冷たかったからだ。

 

「なるほどね……で、どうやりますか?」

 

宮田は静かに問い返す。

獅子御の眼差しは揺るがなかった。

 

「まずは様子見。1ラウンドは四割の力で。ガードができてないなら顔へ、守りが形になっていたらボディで痛みを刻む」

 

「……それで崩れたら、その程度」

 

「うん。でも、もし耐えられたら……」

 

「え?」

 

「それはそれで、面白いことになる」

 

一瞬の沈黙。

リングに上がる宮田の足取りがわずかに重くなる。

 

「なんたって……守くんが拾ってきた奴だからね」

 

リングサイドに立つ獅子御の言葉に、宮田は小さく息を吐き、視線を正面へと定めた。

 

その先には、まだ借り物のグローブに手を通したばかりの、幕之内一歩が震えるように立っていた。

 

「と、指示は出してみたけど……やっぱり素人みたいな動きだなぁ……」

 

一歩は開始のゴングが鳴った瞬間から、がむしゃらに腕を振り回していた。

 

力任せに、狙いも軌道も定まらない大振り。パンチというより、子供の喧嘩の延長。

 

宮田は余裕を持ってステップを刻み、一定の距離を保ちながらその出鱈目な動きを見極めていた。

 

「これじゃあ、見るまでもないな……」

 

内心でそう呟く。獅子御は「様子見」と言ったが、様子を見る価値すら怪しい。宮田の足取りには、無意識に侮りが混じり始めていた。

 

「スパーリングか、入門希望者?」

 

声をかけてきたのは篠田トレーナーだ。ロードワークを見終えて戻ってきたところらしい。

 

「篠田トレーナー。守くんが連れてきた子ですよ」

 

「ふーん……」

 

篠田は腕を組んでリングを見上げる。

 

腕を振り回す幕之内の姿には、煌めくような才能など微塵も感じられない。それどころか、危なっかしくて見ていられないレベルだった。

 

(ほんとに……素人か?)

 

相対する宮田が、一番強くそれを実感していた。

 

がむしゃらに前へ来る動きは、予想よりもずっと単純。ステップアウトさえしておけば捕まることはない。このまま力任せに振り回して、スタミナを失えばそれで終わりだ。

 

「馬鹿野郎!亀だよ亀!ガードを上げろ!」

 

鷹村の怒鳴り声が練習場に響いた。ハッとしたように幕之内は振り回していた腕を止め、慌ててガードを固める。

 

(……そう来るか)

 

宮田の口元に小さな笑みが浮かぶ。

 

獅子御さんの言った通りだ。ガードを意識すれば、今度は逆に大きな隙が生まれる。

 

「獅子御さんの指示、ドンピシャってわけか……」

 

ステップイン。

軸足を鋭く踏み込み、全身のバネを込めた拳が鳩尾へ突き刺さる。

 

「――っ!」

 

苦鳴とともに幕之内の身体が折れ曲がり、必死に上げていたガードが下がった。

 

その瞬間、宮田は迷わず左フックを叩き込む。

 

四割の力に抑えてはいたが、的確に入った一撃はそれでも充分だった。

 

「ぐっ……!」

 

一歩の身体が宙に浮くように揺れ、そのままロープ際へ崩れ落ちる。

 

リングがわずかにきしむ音。

 

会長は腕を組んだまま眉一つ動かさず、獅子御はただ静かにその様子を見据えていた。

 

(……ヘッドギアがなかったら、終わってたな)

 

宮田の胸中に冷たい感覚が走る。だが同時に……妙な……手応えのなさのような、そんな違和感もあった。

 

(な、なんだ……ボディを打たれて……その後何が……)

 

「おい!馬鹿野郎!ガード下げやがって!一歩!立てぇ!!」

 

鷹村の怒鳴り声が、ジムの天井を震わせるように響き渡った。

 

その声に応えるように、幕之内はまだ霞む視界の中で、必死に床を探るように手を伸ばした。腕に力が入らない。

 

膝は笑い、足は鉛のように重い。

 

それでも…。ゆっくりと、リングの床を押して立ち上がろうとしていた。

 

「立つか」

 

宮田は構えを解かずに、その様子を冷静に見ていた。

 

確かに倒し切る手応えはなかった。だが、素人なら痛みに心を折られて、うずくまっていてもおかしくはない。

 

そこに立ち上がろうとする幕之内の意思を見て、宮田の眉がわずかに動いた。

 

「少しは根性あるようじゃのう」

 

鴨川会長の低い呟きが、リングサイドにいた面々の耳に届く。皺の奥に潜んだ眼差しは、幕之内を値踏みするように光っていた。

 

宮田はリング外に立つ獅子御に声を投げた。視線は外さないまま、短く問いかける。

 

「獅子御さん」

 

「まぁ、想像通りってところかな。たぶんガードは下げるなって、守くんが……」

 

「いいか!このラウンド、とにかくガードを上げろ!何があってもガードは下げんなよ!」

 

耳打ちも何もあったものじゃない。鷹村の大声が練習場に木霊し、幕之内の耳を直撃する。獅子御は苦笑し、肩をすくめた。

 

「……ってことらしい」

 

「オーライ」

 

鴨川会長の「ファイト」という短い合図とともに、再びラウンドが動き出す。

 

(動きが変わった……?)

 

宮田の構えを見て、幕之内はすぐに違和感を覚えた。

 

(試すには丁度いい)

 

一発、二発とジャブを繰り出す。その軌道は徐々に鋭さを増し、精度を上げていく。外から見ている木村と青木はすぐに気づいた。

 

「パンチの質が変わった……宮田のやつ、試してやがる」

 

「あぁ、獅子御さんの型だ。最短距離の、真っ直ぐなジャブ……」

 

リングの中、一歩は息を荒げながら必死にガードを固めていた。

 

(す、すごい……グローブが急に大きくなったみたいだ!守るだけで精一杯……!)

 

打ち出している宮田は苛立ちを覚えていた。

 

(まだ上手くできない……くそ、イメージはできてるのに、ほんの僅かにズレる!)

 

それでも、幕之内は下がらない。甘いガードではあるが、恐怖に駆られて逃げる様子は微塵もない。

 

(殴られ慣れてる……?それとも、ただの意地か?だが……ガードだけじゃ通用しない!)

 

宮田はジャブを牽制に使い、軸足を強く踏み込むと、再びボディへ鋭い一打を突き刺した。深く抉るような衝撃に、幕之内のガードがわずかに落ちる。

 

「あ!馬鹿タレ!」

 

鷹村の絶叫も虚しく、すかさず左フックが直撃した。幕之内の身体はくぐもった音とともに、再びリングへ沈む。

 

「ここまでじゃな」

 

会長は静かに結論を口にした。誰の目にも、もう立ち上がる余力は残されていないように見えた。

 

だが……鷹村だけは違った。

 

「馬鹿野郎!ボクサーになれなくていいのか!テメェの覚悟はその程度だったのか!」

 

叱咤が突き刺さる。倒れた幕之内の身体がビクリと反応する。

 

「葉っぱ十枚取った頑張りはどこに行ったんだ!!」

 

脳裏に蘇る。

 

何度も失敗しながら、泥だらけになりながら、それでも葉っぱを追い続けたあの日。

 

胸の奥にあった「強いって、なんだろう?」という疑問。

 

その答えを知りたくて、ボクシングに出会った自分。

 

(僕は……僕は、ボクサーになるんだ!!)

 

全身の痛みを無視して、幕之内は再びロープを掴む。息は荒くとも、その瞳には強い光が宿っていた。

 

会長も、獅子御も、木村も、青木も。

 

誰もが息を呑む中で、幕之内は再び立ち上がるのだった。

 

 

 

 

幕之内vs宮田について

  • 試合のダイジェストでアメリカ編を早く
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