はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
伊達英二。
かつてフェザー級の日本チャンピオンと呼ばれた男。
一度はグローブを置き、リングを離れたが、26歳にしてカムバックを決断した。
衰えた肉体に喝を入れるように、そしてかつての感覚を取り戻すために、伊達は今、誰よりも熱心にトレーニングに明け暮れていた。
だが、彼にはもうひとつの習慣があった。ここ最近は月一……いや、多い時には月二のペースで、とある場所を訪れるのだ。
「おーす!今日もよろしく頼む!」
ジムの扉を開け放ち、快活な声で挨拶する伊達。
「また来よったか」
「鴨川会長、今日もよろしくお願いします!」
「ふん!挨拶する相手が違うだろうに」
鼻を鳴らした鴨川会長は、篠田トレーナーに後を任せて足早にジムを後にする。今日はジム生の試合があり、会長と八木マネージャーは付き添いで出かける予定だ。戻ってくるのは夜遅くなるだろう。
残されたリングには、すでに汗を流し終えた男がひとりいた。
鷹村とのスパーリングを終え、タオルで首筋を拭っていた獅子御である。
「おう!獅子御!今日も頼むわ!」
「また来たんですか、伊達さん……飽きないですよねぇ……ほんと」
「まぁ、出稽古の費用は払ってんだ!硬いことは無しだぜ」
屈託のない笑みを浮かべる伊達。その顔には元王者らしい自信と、再起にかける執念が混じっていた。
最近の伊達は、鴨川ジムに顔を出しては獅子御と拳を交えることを習慣にしている。
鷹村と獅子御の激闘を見届けたあと、獅子御が「日本滞在は一年限り」と耳にした伊達は、即座に鴨川ジムへ出稽古を申し込んだのだ。
最初の一度は快く迎えられた。だが二度、三度と続くうちに、さすがの鴨川会長も眉を吊り上げた。
「ええい!しつこいんじゃ!」
罵声を浴びせられても、伊達は怯まなかった。
むしろ笑い飛ばし、ついには財布を叩いて出稽古費用を払うと申し出たのだ。
金銭的に常に頭を悩ませている鴨川ジムとしては、無碍にする理由はなくなった。結局「迷惑をかけぬ範囲で」という条件付きで、伊達の通い稽古は黙認されることとなった。
そして、その費用は本来、スパー相手である獅子御に還元されるはずだった。だが、当の本人は固辞し、すべてジムの運営費に回されている。
獅子御自身はトレーナー補佐としての立場にあり、報酬もアルバイト程度。その処遇は不当だと思う仲間も多かったが、高校生活や留学準備との両立が必要なこともあり、会長や八木マネージャーと話し合った結果、今のような柔軟な形態に落ち着いていた。
なにより、獅子御のスタンスは最初から明確だった。
自分は「鷹村守を世界チャンピオンに導く」ためにここにいる。
その一点に全精力を注いでいるがゆえに、金銭的な利益や名声にはまるで関心がなかった。
だが、その純粋さが知らず知らずのうちに、ある人物の心を大きく揺さぶっていたのだが、当の獅子御本人だけが、それに気づいていないのだ。
「伊達さん、今日は一人じゃないんすね」
獅子御がタオルで額を拭いながら、軽く顎をしゃくる。
「あぁ、去年の新人王を連れてきた。ウチのジムの期待の星さ」
誇らしげに言って、伊達は隣に立つ若者の背を押した。
「沖田 佳吾です!よろしくお願いします!」
声を張り、まっすぐに頭を下げる沖田。その真っ直ぐな態度に、木村と青木が顔を見合わせた。
「へぇ、今のフェザー級5位か」
感心したように木村が口にすると、沖田は少し肩をすくめて微笑む。
「木村さんや青木さんだって、それぞれの階級で上位じゃないですか。それに俺の前の新人王ですし」
事実、沖田の言葉に嘘はない。木村と青木は彼の前の新人王であり、現在も上位ランカーとして地力を示している、
「そ、そう言われると鼻が高いぜ」
「だな、俺たちもまだまだ現役バリバリよ」
嬉しさを隠せず照れ笑いを浮かべる二人。だが、その隙を見逃す男は一人もいなかった。
「小物同士が戯れあってるな!」
リングサイドから鷹村がニヤニヤしながら言い放った。
「守くん、もっと言葉を選ばないと」
横から獅子御が窘めるが、その声音にはどこか棘がある。まるで「小物」という評は否定できない、と言わんばかりに。
「バケモノ二人だからな……」
「言い返せねぇのが悔しいぜ……」
木村と青木は唇を噛んで視線を逸らすしかなかった。だが、沖田は違った。
鋭い眼差しを獅子御へと向けていた。
(この人が……獅子御 誠司。伊達さんが、なぜかこだわり続ける相手……)
その視線には、畏怖と探究心が入り混じっていた。新人王の肩書きを持つ自分でさえ、この場に立つと「小ささ」を突き付けられる……そんな直感を覚えていた。
「よし」
伊達が軽快に両手を叩き、視線を獅子御に向ける。
すでに練習着に着替え、身体を解すようにシャドーを始めていた。
「今日も頼むぜ、獅子御!」
リングに足をかける伊達。その背中を、沖田は無言で追った。
師であり、憧れであり、そして今は一人の挑戦者でもある伊達。その男がなぜ獅子御に固執するのか。沖田は、これからその一端を目にすることになるのだった。
「今日はどういうテーマにします?」
獅子御はすでに構えながら問いかける。
「なるべく攻めてきてくれ。掻い潜って、反撃を当てたいんだ」
伊達の眼差しには迷いがない。獅子御も小さく頷くと、二人は自然にファイティングポーズを取った。
リングサイド。スパーを終えたばかりの鷹村が、宮田と並んで様子を眺めている。
「今日はおっさんの方がディフェンス寄りか」
「どう切り返すか……見ものですね」
カンッ――と、乾いたゴングが響いた。
伊達は最初、慎重にステップを刻みながら距離を計る。対する獅子御は、鷹村とのスパーと同じく、ややガードを下げ、全身をしなやかに揺らして構えていた。
(誘ってやがるな……)
伊達が思い切ってステップインした、その瞬間。
視界が弾かれる。
「ジャブ……!? なんて速さだ……!」
沖田が驚愕の声を漏らす。拳が発射されてから着弾するまでが一瞬。真っ直ぐな軌道を描くその鋭さは、まるでメキシコの覇者たちのジャブを思わせた。
「誠司のやつ、寄せてるな」
鷹村がぼそりと呟く。
「寄せてる……?」
宮田が首を傾げる。
「メキシカンスタイルはな、打ち終わったと思ったタイミングでさらに伸びる。止まらねぇ弾丸みてぇなもんだ。それをあいつは真似してる」
「……あの人、引き出し多すぎだろ」
宮田は呆れと感嘆を隠せない。
リングの中では、獅子御のジャブ、ワンツー、フックが絶え間なく繰り出されていた。伊達は鮮やかなヘッドスリップ、ウィービングでそれらを紙一重で躱していく。
(俺の目標は再び世界に挑むことだ。その緊張感を、今こうして味わえる……こんな贅沢、逃してたまるか!)
額に汗を浮かべながら、伊達は攻防の波を潜り抜ける。その姿に沖田はただ目を見開くしかなかった。
(なぜだ……!どうしてこんなボクシングをする人間が、プロになっていない!?わからない……まるで意味がわからない!)
だが、沖田の混乱をよそに、リング上の流れは確実に傾き始めていた。獅子御の足さばきが徐々に伊達の逃げ道を削り、空間を狭めていく。
(……!コーナーに……追い込まれた!)
気づけば、伊達の背後にはロープ。
左右には獅子御の足運びが壁のように立ち塞がり、退路は完全に断たれていた。左右の逃げ道も獅子御の足運びで封じられていた。
(……やられたな。押し込まれたんじゃねぇ、自然に追い込まれてる……!)
伊達の額に汗が滲み、鼻先に汗が滴る。獅子御は構えを崩さず、ただ重心を小さく揺らすだけで、獲物を檻に追い詰めるように空間を支配していた。
「速ぇだけじゃねぇ……位置取りがいやらしいんだ」
木村が唾を飲み込むように呟く。
「足を半歩動かすだけで、逃げ道を潰してる。リングを広く使ってるのは伊達さんのはずなのに……逆に狭められてる」
宮田の目には驚愕と分析が混じっていた。
リングの中央。
獅子御が一瞬、ジャブのモーションを見せた。伊達の反応を誘い、そのわずかな隙に右のショートフックが弾ける――。
「っらぁああ!!」
伊達がウィービングで潜り抜け、体をひねりながらカウンター気味にボディを叩き込む。重い鈍音が鳴り響き、沖田は思わず息を呑んだ。
「……当たった!」
しかし、獅子御は表情ひとつ変えず、身体を滑らせるように距離をずらす。次の瞬間、左のジャブが鋭く伊達を突き放していた。
「う、嘘だろ……!今のを効かせられねぇのか!?」
沖田の胸に衝撃が走る。あの一撃なら自分の膝は間違いなく折れていた。だが獅子御は、受け流すように吸収し、さらに攻撃へと繋げている。
(この人は……いったい何者だ……。伊達さんがここまで必死に食らいついているのに……余裕すら漂わせてる……!)
リングサイド。
鷹村の口元が歪む。
「ククッ……やっぱ伊達のオッサンは面白ぇ。しっかり食らいつく」
「けど、獅子御さんが本気で潰しにいったら……」
宮田が険しい声で呟くと、鷹村は肩を竦めて笑った。
「そっから先がお楽しみだろ。おっさんと誠司のスパーは、いつも“ここから”だ」
再び、獅子御の足さばきが伊達の逃げ道を締め上げる。コーナーに追い込まれた瞬間、リングサイドの面々の胸に、緊張が走った。
(力の差が……圧倒的だな。あの感覚……かつてリカルド・マルチネスと対峙したときと同じだ……)
額に汗を浮かべながら、伊達は拳をギュッと握りしめた。思い出すのは、かつて世界王者に惨敗したあの瞬間の圧力。
今目の前にいる獅子御も、まるでそのオーラを纏っているかのようだ。それでいて、彼はトレーナー補佐希望だという。
神様はイカれてる、としか思えない。
(だが、それでこそ価値がある。高い出稽古費用を払った甲斐もある)
踏み込む伊達。
ショルダータックルめいた力強い押しで、獅子御との距離を無理やり生み出す。今回のディフェンストレーニングは、まさにこうした追い詰められた状況での反応を鍛えるためのものだ。
(楽に戦える相手なら、こんなことは必要ない!)
距離を作った瞬間、伊達は拳を構え直す。
その型を見て、沖田は思わず拳を握りしめた。
あの構え……伊達にしか出せない型だ。
コークスクリューブロー――相手の胸を叩き、心を揺さぶるハートブレイクショット。
獅子御は後退しており、ガードにわずかな隙がある。今がチャンスだ――!
(ここだ……っ!)
伊達の渾身のブローが放たれる。
だが、獅子御には届かない。
ショルダーブロックを巧みにブローの内側から差し込み、ブローの軌道を逸らす。
さらにその隙に、獅子御は縦拳のカウンターを伊達の顔面へ叩き込んだ。
重い衝撃が脳を揺らし、伊達は膝をつき、リングに崩れ落ちる。
(だ……伊達さんのハートブレイクショットが……こんなにも簡単に……)
沖田の目は驚愕で見開かれた。
「狙いすぎましたね、伊達さん。コークスクリューブローはモーションが大きいので、手が速くても相手の方が速ければ簡単に対処されます」
膝をつく伊達に、獅子御は淡々と、今回の敗因を指摘した。
「あぁ……狙いすぎた。少し熱くなっていたな」
伊達も冷静に指摘を受け止める。
コークスクリューブローはその特性上、モーションが大きく判別されやすい。出すタイミング、モーションの微調整。
すべてが課題だと理解していた。
獅子御とのスパーリングは、そのまま伊達の高レベルな技術のぶつかり合いとなった。
目の肥えた観客が見れば、思わず唸るほどの内容だ。
しかし、伊達自身はまだ自分の理想とする動きに届いていないことを痛感し、悔しそうに眉を寄せる。
(……まだだ。まだ理想には届かない……!)
額に汗を浮かべながら、伊達は再びジャブを出し、コンビネーションを試す。しかし、獅子御は冷静に読み、的確に避け、隙を突く。
力任せでは通じないことを、伊達は再確認するのだった。
そんな伊達が、ふと沖田に目を向ける。
「沖田、お前もここでやってみろ。貴重な経験になる」
一瞬、沖田は驚いた表情を見せる。しかしすぐに、目の奥に闘志が宿った。
「……はい、わかりました!」
リングに上がる沖田。緊張で少し硬さがあるものの、心の奥には期待と覚悟が混ざる。伊達はその背中を見て、軽くうなずく。
(沖田。お前は俺を目指しているようだが……世の中にはすげぇ奴がいる。だから……本物の経験を積ませてやる……!)
沖田にとっても、獅子御とのスパーリングは未知の世界。目の前で繰り広げられる高いレベルの攻防に、呼吸を忘れるほど引き込まれる。
リング上では、再び伊達と獅子御、そして沖田も加わり、緊張感あふれる出稽古が繰り広げられるのだった。
幕之内vs宮田について
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試合のダイジェストでアメリカ編を早く
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しっかり二人の試合を書く