はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

24 / 34
華麗なる打たれ強さを求めて

 

 

第三ラウンド目。

 

そのラウンドは、ある意味で幕之内 一歩の“魂”を示す時間となった。

 

ゴングが鳴った瞬間から、幕之内は前へ、前へ。

 

被弾を厭わず、宮田に食らいついていく。鼻血を散らし、頬を腫らし、身体を打ち据えられながらも、それでも足を止めなかった。

 

観ている者には、あまりにわかりやすい「インファイターの姿」。

 

傷だらけになりながらも前進するその姿は、まるで拳そのもので己を語る闘志の塊だった。

 

だが、ボクシングは気持ちだけで勝てる競技ではない。宮田は冷徹に、そして精密に、幕之内の前進を受け流していった。

 

ピンポイントで鳩尾を打ち抜くブロー。

 

足の出し入れを利用し、打たせずに打ち返すステップイン&アウト。

 

的確で、無駄がなく、ダメージの蓄積を確実に積み上げる技術。

 

リザルトで見れば、宮田の圧勝。技量、経験、冷静さ、すべてにおいて上回り、幕之内を寄せ付けなかった。

 

だが同時に、こうも思わせるラウンドだった。

 

「素人が、あそこまで食らいついた」と。

 

「倒されてもおかしくない場面で、三度も立ち上がった」と。

 

そして何より、「最後まで前に出続けた」と。

 

確かに宮田の完勝であり、幕之内は完敗した。

 

だがボクシングほぼ未経験の少年が、三ラウンドを戦い抜いた事実は、ジム全体に衝撃を走らせた。

 

ただ……被弾の多さはあまりにも顕著だった。

 

パンチを恐れぬ勇気は、観客を熱狂させる資質だ。だが、その代償として選手生命を縮めることは歴史が証明している。

 

獅子御はリング下から、その姿を見つめながら眉を寄せる。

 

(……やっぱりな。彼は打たれ強さを“武器”にする。だが、それは同時に最大の“リスク”だ。放っておけば、気づかぬうちに壊れていく)

 

翌日。

 

鴨川ジムの朝練習が一段落した後、獅子御は意を決して鴨川会長に声をかけた。

 

「鴨川会長。俺にも……彼にアドバイスをさせてもらえませんか?」

 

鴨川会長は獅子御をじっと見据える。その瞳には歴戦の指導者らしい、鋭い洞察があった。

 

「……貴様、宮田側じゃなかったのか?リベンジを煽ることで、小僧の闘志を燃やすつもりなんじゃがのう……なぜじゃ?」

 

「えぇ……。確かに一郎くんのライバルとして彼は申し分ありません。ですが――」

 

獅子御は視線を練習場へ移した。汗だくで縄跳びを続ける幕之内の小さな背中。

 

「……彼が長くボクシングを続けられるように。少しでも、その助けになれればと思います」

 

「ふむ……」

 

しばしの沈黙の後、鴨川会長は静かに頷いた。

 

「なるほどのぅ。なら、ワシが面倒を見られぬ時は……貴様に任せてもよかろう」

 

「……ありがとうございます」

 

その瞬間、獅子御の胸に確信が芽生えた。

 

幕之内 一歩というボクサーは、間違いなくここから歩み出す。

 

だから、何かを託せるのなら、それもまた自分の役割でもあると。

 

 

 

 

「というわけで、今回、俺は一郎くんにアドバイスはしないつもりだから!」

 

「どういうわけなんですか、それ」

 

夕食の食卓。

 

獅子御の家に泊まりに来ていた宮田は、箸を止めて怪訝そうに眉をひそめた。

 

となりに座る獅子御は、涼しい顔でそう宣言してみせたのだ。

 

宮田親子を招いての食事会は、いつしか獅子御家の恒例行事になりつつあった。

 

とりわけ獅子御の両親は、宮田の父をよく気にかけていた。

 

男手ひとつで息子を育て上げる苦労を親として尊敬し、その大変さを知っているからだ。

 

ジムで仕事をし、少し疲れをにじませながらも、真っ直ぐに息子を見守るその姿は、同じ親として尊敬に値するものだった。

 

食卓を囲めば、母は自然と「おかわりどうぞ」と皿を差し出し、父は「最近はどうですか」と気さくに話を振る。

 

まるで、遠い親戚か古い友人を迎えるかのような温かさだった。

 

それに……獅子御の妹の視線が、どこか熱っぽく宮田に注がれていることも、両親が二人を好意的に迎える理由のひとつなのかもしれない。

 

だが、和やかな空気の裏で、時間は確実に流れていた。

 

獅子御の旅立ちは、もう目と鼻の先に迫っている。

 

宮田もまた、異国での生活に備え、準備を進めていた。最低限の英会話やリスニングを、獅子御や、ときには鷹村の姉、京香から教わりながら。

 

宮田の描くプランは明快だ。

 

留学生活は三年を目処にする。

 

その間、現地のボクシングジムに入門し、一年でプロ試験を突破。そして残り二年で、現地のプロ相手に揉まれながら己を研ぎ澄ます。

 

……一年以内でプロになるなど、正気の沙汰とは思えない無謀な計画。

 

だが、宮田の目は本気だった。

 

無駄な三年にはさせない。

 

獅子御は心の中でそう誓う。

 

すでに現地の住まいの近くにあるボクシングジムを、獅子御はいくつも候補に挙げていた。

 

背を支え、背中を押すのは、トレーナーとして宮田の面倒を見ると決めた自分の役割だと分かっているから。

 

さて、そんな準備期間の中なのだが、獅子御は三ヶ月後に控えた幕之内とのスパーリングについて、宮田にアドバイスをするつもりはなかった。

 

もちろん練習を見ることはする。だが、幕之内対策やスパーリングの細かな助言は、あえて口にしない。

 

その姿勢は一見冷たいようでいて、実際には大きな期待と信頼の裏返しだった。

 

「今回のスパーリングが、多分一郎くんの最後の真剣勝負だ」

 

獅子御はご飯を咀嚼し、飲み込んでから静かに言葉を紡ぐ。

 

「俺が教えたこと、俺から吸収したことの総決算になる。自分で情報を集めて、戦略を組み立てて、三ヶ月後に待っている幕之内に挑むことだな」

 

宮田は目を細め、口の中で言葉を転がすように呟いた。

 

「……どうしてそんなに、皆して拘るんですか」

 

その声音には苛立ちが滲んでいた。

 

鷹村も、木村も、青木も、鴨川会長でさえも、そして獅子御までも――幕之内ばかりに肩入れしているように見える。

 

何がそんなに特別なんだ。

 

宮田の胸に、どうしようもない反発が湧き上がる。

打たれてばかりの、無鉄砲なインファイター。あのどこに、彼らが夢中になる魅力があるというのか。

 

宮田はこの数年間、ただひたすらに技術を磨いてきた。

 

ハードパンチャーの豪打を掻い潜り、技巧で相手を封じ込める。

 

父が成し得なかった「テクニックによるボクシングの強さ」。

 

その証明こそが自分がボクシングに打ち込む意義だった。

 

そして、その可能性をすでに体現している獅子御に追いつくために……血の滲むような努力を重ねてきたのだ。

 

だからこそ、獅子御までもが幕之内を特別視することが、どうしても許せなかった。

 

重い空気の中、獅子御はふっと表情を変え、箸を握り直した。その仕草ひとつで、場の雰囲気がピンと張り詰める。

 

「……じゃあ、一つ条件だ」

 

静かに切り出す声には、これまでとは違う硬さが宿っていた。

 

宮田は無意識に息を呑む。

 

「三ヶ月後のスパーリングの結果次第だ。もし一郎くんが手を抜いたり、相手を侮ったりしたら……俺と一緒にアメリカに行く話は無しにする」

 

「な、なんだよそれ!」

 

宮田の声が食卓に跳ね返る。湯気を立てていた味噌汁さえ、その瞬間冷めてしまったかのようだった。

 

「宮田のお父さんも、それでいいですよね?」

 

獅子御が視線を向けると、宮田の父は眉ひとつ動かさず、箸を置いてから深く頷いた。

 

「……ああ。ここで全力を出せないようなら、アメリカで手痛い目に遭うことになる。甘さは命取りだ」

 

低く響くその声には、父親としての厳しさと、息子への揺るぎない信頼が混ざっていた。

 

彼自身、若き日に夢半ばでリングを降りた男だ。

 

その悔しさも、未練も、誰より分かっている。

 

だからこそ息子には、どんな苦境でも逃げずに戦い抜いてほしかった。

 

父さんまで……。

 

宮田は思わず言葉を詰まらせる。反発したいのに、心の奥底で理解してしまう自分がいる。

 

次の瞬間。

 

胸の奥で、燃えるような感情が弾けた。

 

悔しさ、誇り、負けられない意地。すべてが闘志へと変わり、目の奥が炎のように輝く。

 

きっと、宮田は本気で幕之内に勝ちに行くだろう。そんな宮田相手に、どう幕之内を育て、立ち向かわせるか。

 

トレーナーとしての視点で見れば、これほど面白い未来はなかった。

 

獅子御は胸の奥に、抑えがたい高揚と熱を感じていた。

 

心拍がわずかに早まるのを感じながらも、表情は静かに、冷静を装う。

 

しかしその内側では、これから繰り広げられる“教育と鍛錬の戦場”に心が躍っていた。

 

 

 

 

さて、幕之内の練習についてだが、ひとまず鴨川会長が別件でジムを離れる日は、丸一日を彼の指導に充てられるようになった。

 

「よ、よろしくお願いします!」

 

緊張で肩を僅かに震わせる幕之内に、獅子御はまず身体の状態を丁寧に確認する。

 

筋肉の張りや疲労感、呼吸のリズム、動きのキレ――プロを目指す者として最低限の健康チェックだ。

 

鴨川会長が目指す「コテコテのインファイター路線」。それを踏まえ、獅子御は独自の視点で幕之内を導くつもりだった。

 

「幕之内くん。君はプロを目指すんだよね?」

 

「え、はい……そのつもりですが……」

 

その答えとともに、微妙に俯き、身体を小さく見せる幕之内。彼の顔には、「君には無理」と言われるのではないかという怯えがほんのり滲んでいた。

 

しかし獅子御は、その表情に一切とらわれず、淡々とヘッドギアとボディプロテクターを手渡していく。

 

「お、いつもの獅子御セットだ」

 

青木が茶化すように口にするが、経験者なら知っている。

 

獅子御が本気で指導する時、ヘッドギアとボディプロテクターは必ずセットで用意されるものだ。木村、青木、宮田も、その洗礼を受けた経験者である。

 

「幕之内くん。君はおそらく不器用で、器用な技術を駆使したパフォーマンスは期待できないだろう。愚直に一本筋を通す。パワーで相手をねじ伏せるインファイター向きだ」

 

獅子御はそう告げると、幕之内の肩や胸にしっかりと装着されたボディプロテクターの固定具を、力を込めて固く締めた。

 

「インファイターは、どうしても攻撃を受けやすく、リスクが高い。打たれ強さは君の武器になるだろうが、それが逆に君の命を蝕むことにもなり得る」

 

その言葉と、真剣な眼差しに、幕之内は思わずごくりと唾を飲み込む。

 

「ボクサーとしての寿命が……短くなる、ということですか……?」

 

「早合点するんじゃない。だからこそ、トレーナーがいるんだ」

 

獅子御は静かにそう告げると、練習用のグローブを手に取り、リングへと歩を進めた。

 

「今からやるのは、インファイターとして君のボクサー生命を伸ばす手助けになる練習だ。言葉で説明しても多分無理だから、体に覚えさせる」

 

「え、それって……」

 

幕之内が言いかけた瞬間、獅子御のジャブが額に直撃する。

 

「パンチは見えたか?」

 

「み、見えましたけど……!」

 

「なら反応できるってことだな。とにかく向かってくるパンチを手で受けてみろ。あ、ガードはあげないでね」

 

「えええー!?そんな無茶で……がぁ!」

 

たまらずガードを固めた瞬間、横からフックが飛んでくる。

 

幕之内は容赦なくリングに叩きつけられた。

 

床の衝撃が全身に伝わるが、ヘッドギアとボディプロテクターのおかげで肉体的ダメージはほぼない。

 

それでも、全身の筋肉は極度に緊張し、心臓は破裂しそうなほど早鐘を打っていた。

 

「プロテクターがあるからダメージはないだろ?ほら、はやく立て!」

 

幕之内は必死に立ち上がる。

 

息は荒く、汗が額や首筋を伝って滴る。呼吸を整えようとする暇もなく、獅子御の次のジャブが迫ってくる。

 

「む、むちゃくちゃだ、この人……!!」

 

必死で手を出す幕之内。

 

しかし全く間に合わず、ジャブは容赦なく連打されていく。その度に彼の手足は反応を強いられ、筋肉にかかる負荷は尋常ではない。

 

「な、なんか、いつもの獅子御さんらしくないな」

 

青木が呟く。その声には驚きと軽い戸惑いが混ざっていた。

 

普段の獅子御は、相手に合わせて丁寧にステップやパンチを教え、動きを一つずつ確認させるタイプだ。

 

しかし今、リングで展開されているのは、その“丁寧”とは真逆の、即応性と反射神経を徹底的に鍛えるやり方だった。

 

木村も横で小さく頷いた。

 

目の前で繰り広げられる光景はただの練習ではなく、まるで戦場の中で生き残りをかけたシミュレーションのように見えた。

 

幕之内は汗だくで、呼吸を乱しながらも全神経を飛来する獅子御のジャブに注ぎ、なんとか手を出そうと悪戦苦闘。

 

細かい技術指導はほぼなく、すべてが“感覚で覚えろ”という状況だ。

 

「いつもは色々丁寧に教えてくれるけどな」

 

木村の声には半分感心、半分驚きが含まれていた。獅子御の指導方法が変化していることは明らかで、だからこそ目の前の練習は、ただの反射神経強化に留まらず、幕之内の精神と身体の限界を同時に試す過酷な訓練になっていたのだ。

 

「一歩のやつは、難しいことを言葉で説明しても意味ねぇんだよ」

 

サンドバッグに打ち込む練習を終えた鷹村が静かに声をかける。

 

その目は幕之内の動き一つ一つを追い、分析している。獅子御のパンチが当たるかどうか、回避できるかどうか――すべてはタイミングと感覚の世界だ。

 

「ありゃパーリングの練習だな」

 

鷹村は観察しながら言った。

 

だが、ただのパーリングではない。ここで求められているのは相手の攻撃に反応するだけでなく、無意識に体を動かし、攻撃を逸らし、なおかつ生き残る能力だ。

 

「パーリング?ディフェンスの高等テクニックじゃないすか」

 

木村は少し驚きの色を浮かべる。

 

これまで一歩のような未経験者に、このレベルの練習を課すことは稀だ。

 

しかし、今の幕之内は恐怖と痛みをものともせず、必死に食らいついている。

 

「一歩のやつにそんな真似できますかね?」

 

青木の声には半分の疑念、半分の興味が混ざる。彼自身、ここまで追い込まれた状態でパンチを避けることの困難さを知っているからだ。

 

「言葉じゃ無理だな。だから身体に叩き込んでるんだ。パンチのタイミングで手を挙げ、外に逸らす。そうしねぇと効いちまうからな。一歩に本気のダメージを与えつつ、そのダメージを防ぐために、本能的な部分で身体に擦り込ませてる」

 

鷹村は低く、理屈を説明しながらも、目の奥には警戒の色が見える。

 

練習方法自体は正しい。

 

だが、リスクが高い。

 

少しでも反応が遅れれば、怪我や恐怖心の植え付けにつながる危険を孕んでいる。

 

(このやり方、下手すればパンチに対する恐怖心を植え付けることになるし、故障の危険もある……一歩がどこまで吸収できるか……見ものだぜ)

 

木村、青木、鷹村はそれぞれ、リングの幕之内と獅子御の緊迫したやり取りを目の当たりにし、息を詰めて見守る。

 

汗が光る幕之内の額、瞬間的に反応する手の動き、そしてパンチの軌道を微妙にずらす足のステップ。

 

すべてが、この短い練習の中に詰まっていた。

 

リングの中心で、幕之内の全身は緊張と疲労で悲鳴を上げそうだった。だが、目には確固たる闘志が宿っている。痛みと恐怖に包まれながらも、彼は必死に手を挙げ、身体を回し、ジャブの軌道を逸らす。

 

ジャブ一発一発が、反射神経と判断力の限界を押し測る。

 

汗と血流が熱を帯びた筋肉をさらに硬直させ、床に響く衝撃音が耳にこびりつく。

 

その中で、幕之内はただ、前に進むことだけを考えていた。

 

獅子御の眼差しは鋭く、まるで全ての動きを読み取り、次の瞬間を試しているかのようだ。

 

それでも幕之内は恐怖に抗い、痛みに耐え、必死に食らいつき、逆に力を奮い立たせ、必死に応えようともがくのだった。

 

 

幕之内vs宮田について

  • 試合のダイジェストでアメリカ編を早く
  • しっかり二人の試合を書く
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。