はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
パーリングを身につけるための打撃を捌く練習。
あえて獅子御に任せていた鴨川会長は、リング上で幕之内がタコ殴りにされながらも、必死に手で拳を捉えようとする姿を、まるで魂の鼓動を確かめるようにじっと見据えていた。
その視線には不安も、期待も、そして指導者としての責任が深く刻まれている。
「……心配ですか?」
静かに声をかけてきたのは宮田の父だった。
別の場所でサンドバッグを叩く宮田もまた、拳を打ち込みながら、リングの攻防を横目で観察している。
宮田の父子ともに、二人の行く末を決して無関心ではいられない。
鴨川は視線を外さずに口を開く。
「……ファイティング原田、西城正三、藤猛……打たれても前に。被弾を覚悟で相手をなぎ倒してきたボクサーはチャンピオンになった。だが――その栄光の裏で、試合のダメージの蓄積によって後遺症を抱えた者も多い」
その声には、幾多の死闘を目にしてきた者にしか滲ませられない、重苦しい響きがあった。
友であった猫田もまた、その後遺症に苦しみ、夢半ばでボクシングから身を引かざるを得なかった。
あの時の無念が、いまだ鴨川の胸を灼き続けている。
「小僧を初めて見たとき、ワシはなんら魅力を感じなんだ。才能も感じられん。闘志も覇気もない。とても優秀な逸材とは思えんかった。だが――」
鴨川の声がわずかに熱を帯びる。
「……それでも、あの小僧は見せたんじゃ。諦めぬ心を。被弾を恐れずに前へと出る勇気を。ワシは確かに、それをこの目で見た」
宮田の父は静かに問いを返す。
「だから、会長手ずから育てる気になったと?」
問いに鴨川は答えなかった。
ただ唇を結び、リングで幕之内を扱いている獅子御の姿を凝視した。
その瞳には、かつての仲間たち、倒れていった選手たちの姿が重なっている。
「……獅子御は、ある種の天才じゃ。鷹村と同じ野心を持っておれば、世界の頂すら射程に入った逸材じゃった。そんな獅子御が、小僧に何かを見出したのだ」
被弾を恐れぬ強靭な心。
力で相手をねじ伏せる覚悟。
鴨川が見た幕之内のファイトスタイルは、まさしくその道に合致していた。
だが同時に、それは寿命を削る危険な戦い方でもある。だからこそ、獅子御が施しているのは一つの試みだった。
被弾を減らし、打ち合いの中で相手の攻撃をチャンスに変える技を身体に刻み込ませること。
「両の拳に勇気を込められる小僧が、どこまで進化を遂げるのか……年甲斐もなく、ワシの拳まで疼いてしまうわい」
会長の言葉に、宮田の父は静かに目を細める。
宮田はアウトボクサー。
広いリングを動き回り、相手を翻弄し、的を絞らせぬ。
幕之内にとっては最も相性の悪い相手だ。
だが、そこを攻略し、至近距離での打ち合いに持ち込めれば、幕之内の土俵が広がる。
三ヶ月後。
それぞれの情熱を注ぎ込まれた若き才能が、同じリングで火花を散らす。
ただのスパーではない。そこに宿るのは二人のトレーナーの誇りと信念。
宮田の父は、鴨川の背から立ち上る熱を確かに感じ取っていた。
それは師と師が拳を通じてぶつかり合う、もう一つの闘いの予兆だった。
▼
パーリングを身につける練習が始まって一週間。
帰路に着く幕之内の足取りは重い。
鴨川会長の組むメニューは苛烈だった。
週の七割はロードワークにパンチミット、サンドバッグを叩き続ける単調で過酷な反復。
全ては三ラウンドを死にもの狂いで戦い抜くための下地作り。筋肉を削り、肺を焼くその反復は、粘り強く強靭なスタミナを持つボクサーを産むには重要な工程だ。
そして残り三割は、獅子御とのトレーニング。
だが、それは「練習」という言葉で片づけられる代物ではない。
幕之内に待っていたのは一方的な打撃の雨。
ヘッドギアもボディプロテクターも意味を成さず、ただひたすらに獅子御の拳が突き刺さるだけだった。
偶然、反射的に手が合うことはあったが、それも束の間。技術を会得したとは到底言えない。
(防具をしてるのに……痛みが残ってる……芯まで響いてくる……)
幕之内は頬を撫で、腹をさすりながら息を吐いた。
獅子御のパンチは宮田のそれを思わせた。
いや、それ以上だった。
精密機械のように洗練され、モーションが全く読めない。気づいたときには拳が目の前にあり、衝撃が身体を貫いている。どうすれば、あの拳に合わせられるのか。
鴨川会長のしごきも地獄だ。
だが獅子御との時間は、別の意味で苦痛だった。
「殴られるだけ」という屈辱。自分が何もできないまま一方的に蹂躙される惨めさ。それが心を削っていく。
(……もしかして、嫌われてるのかな。僕なんかボクサーには分不相応で……ただタコ殴りにされてるだけなんじゃ……)
そんな弱気が胸をよぎったその時、背後から声が飛んできた。
「どうした、一歩」
振り向けば鷹村、木村、青木の三人。
汗でシャツを濡らしながらも、その目には心配と興味が半分ずつ混じっている。厳しい練習の後でも、後輩の様子は見逃さない。だが、どこか兄貴分の茶化すような空気もあった。
「い、いえ……ただ……獅子御さんとのトレーニング、ほんとに身についてるのかなって」
言葉にした瞬間、自分でも苦い気持ちになった。情けない。けれど、胸に渦巻いていた不安は止められなかった。
次の瞬間。
「……おら」
木村の拳が、迷いなく突き出された。
ジャブ。ほんの寸止めの試しだ。
だが、その軌跡は冗談では済まされない鋭さを帯びていた。
反射。
幕之内の手がすっと前に伸び、飛び込んできた拳を遮っていた。
「え……」
自分でも気づかぬうちに、身体が動いていた。
頭で考える前に、獅子御の猛攻を受け続けたあの日々が反応を刻み込んでいたのだ。
ジャブが止まったままの空間に、重たい静寂が落ちる。木村の口元にニヤリと笑みが浮かんだ。
「……身体は覚えてきてるようだぜ」
その一言が、幕之内の胸に突き刺さる。
心臓がドクンと大きく跳ねた。
ずっと空回りだと思っていた努力。
無意味に殴られ続けているだけだと思っていた時間。
だが、確かに、自分の身体に刻まれつつある。
「……」
胸の奥に小さな炎が宿る。まだ頼りなく、弱々しい炎だ。けれど、その灯は確かに存在し、消えることはなかった。
「パンチに恐怖心を抱くのはボクサーにとっちゃ致命的だ。だが、パンチの危険性を知った上で、どう対処できるかってのは全然別の話だ」
鷹村の声は、冷たくもどこか熱を帯びている。
幕之内は思わずハッとした。
「だから……身体に覚えさせる……」
「普通なら、何度ももらったらビビって下向いちまう。だがテメェは、真っ向から向き合ってんだ。それだけでも、ボクサーに必要なもんを持ってる証拠だ」
鷹村の言葉は鋭く、しかしどこか誇らしげだった。
幕之内はしばし無言のまま、自分の拳を見つめる。
腫れと痛みで真っ赤に染まったその拳が、少しだけ違う光を帯びて見えた。
▼
「なにぃ!? 前に出て戦いたいじゃと!?」
数日後。
鷹村に勧められて擦り減ったシューズを買いに出た幕之内は、偶然にも宮田と出くわした。
道端で交わした言葉は、やがてボクシングへの姿勢そのものへと及ぶ。
宮田は、己がどうボクシングと向き合っているかを話してくれた。
パワーで圧倒する相手を、技術で打ち砕く。
顎を砕かれた父の無念を継ぎ、その理想を形にするために、死に物狂いで拳を磨いているのだと。
その姿勢に触れた瞬間、幕之内の胸に熱が込み上げてきた。
(こんな相手と……真っ向から戦いたい!)
思いが迸った。
目の前に立つ宮田は、ただ強いだけではない。父の想いを背負った、技術の化身。
だからこそ、そんな相手と正面から拳を交えたい。自分のすべてを賭けて挑みたい。
そして、翌日にジムに来た幕之内は、その想いを鴨川会長にぶつけた。
「前に出て、みすみすカウンターの餌食になるだけじゃぞ……!」
鴨川の目は烈火のごとく光っていた。
「それを躱すためには、より過酷な特訓が必要になる!」
「覚悟はできてます!会長、やらせてください……!」
幕之内の声は震えていなかった。揺るぎない意志を湛えた瞳に、鴨川会長は一瞬たじろぐ。
だがすぐに怒気にも似た熱を全身に漲らせ、手にしていたパンチミットをリングに叩きつけた。
「よっしゃあ!そこまで言うならその特訓を課してやる!泣き言を言うんじゃないぞ!?」
「はい!よろしくお願いします!」
拳と拳がぶつかり合う前に、意志と意志がぶつかった。こうして幕之内は、さらに過酷なロードワークへと駆り出される。
カウンター対策には、一瞬の加速、一瞬の踏み込み。そのために必要な脚と心肺を、地獄の鍛錬で叩き上げるつもりなのだ。
その頃。
練習場では、獅子御がパンチミットを構えて宮田と向き合っていた。
「だってさ。どうする?一郎くん」
獅子御の声は、挑発というより愉快そうだった。幕之内の覚悟を受け、宮田がどう応えるのかを楽しんでいるのだ。
宮田は静かに答えながら、鋭いジャブを叩き込んだ。
初めて幕之内と打ち合った頃よりも遥かに切れ味を増したジャブが、パンチミットを鋭く弾く。
「もちろん、全力でねじ伏せますよ。俺の技術で」
言葉は冷静。だが、その拳に宿る闘志は隠しきれなかった。
メラメラと燃え盛るその熱は、幕之内に触発されて昂っている。
獅子御はその熱を真正面から受け止め、思わず笑みを浮かべた。
(……いいね。一郎くんも、幕之内くんも。互いを高め合う好敵手だ。こりゃあ楽しいスパーリングになりそうだな)
そして獅子御は決めた。
幕之内への練習を、さらにもう一段階上に引き上げる。
迫る決戦に向け、拳を交える両者の炎を、本物の闘志に鍛え上げるために。
幕之内vs宮田について
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試合のダイジェストでアメリカ編を早く
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しっかり二人の試合を書く