はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
とにかく短くても筆を進めます。
「月刊ボクシングファンの藤井です」
その声がジムに響いた瞬間、空気がわずかに揺らいだ。
訪れたタイミングは、マネージャー八木から見れば最悪に近かった。世界挑戦を控える伊達をはじめ、名だたる選手たちが一堂に会する「約束の日」。外部の目に触れれば大騒ぎ必至の光景を、どうにかジム内に収めたい。
そんな思惑を、まるで読んだかのように現れたのが藤井だった。
「おぉ、藤井さん! ご無沙汰!」
伊達の声は明るいが、どこか張り詰めた色を帯びている。
「これは全日本チャンプに返り咲いた伊達選手じゃないですか。それに……」
藤井の眼光が周囲を舐める。そこにいたのは沖田。去年の新人王であり、既にランキング5位。彼の他にも、名前を聞くだけでファンが色めき立つような実力者が揃い踏みしていた。
異様だ。
直感が告げる。これはただの集まりではない。
ましてや、以前から耳にしていた“噂”があった。
鴨川ジムに「怪物がいる」と。
そいつはプロでもなければアマでもない。ただのトレーナー補佐。
だが現役王者やトップランカーと互角に渡り合うほどの実力を秘めていると。
眉唾ものの話。
しかし今この光景を前にすれば、藤井の胸に否応なく信憑性が芽生えてしまう。
「世界を狙うボクサーを放っておいて、新人探しなんて、藤井さんらしいや」
木村が軽口を叩けば、隣の青木も同調するように笑う。二人とも新人王を経験し、藤井の取材も受けてきた。
だが木村の瞳には笑みの裏に鋭さが宿っていた。
近々ランキング一位として王座挑戦が決まる。その張り詰めた気配は、記者歴の長い藤井だからこそ敏感に察知できた。
「これだけの錚々たるメンツが揃ってるんだ。一体何が始まるんだ?」
問いかけに答えたのは、レフェリー姿に着替えた鷹村だった。
「お、鷹村。その格好は?」
「今から地下でスパーを始めるからな。俺様がレフェリーをやるのよ。ただ、ちょっと本格的なスパーになりそうだからな、俺様も格好つけなきゃならなくてな!」
胸を張って笑う鷹村の姿に、藤井は思わず目を細める。彼が「本格的」とわざわざ言う。その意味を考えれば、自然と期待が高まった。
「へぇ……誰がやるんだ?」
「宮田と、新人だよ」
その言葉に、藤井の心臓が一拍跳ねた。
宮田一郎。技巧派で鳴らし、国内外で注目され続ける才能の塊。その彼と、噂の「新人」が交える。
記者として、この場に立ち会えることがどれほど幸運か。
「ほぉー、こりゃラッキーだ。八木さん、いい写真撮りますから!取材OKですよね?」
藤井がカメラバッグを揺らして笑みを浮かべると、八木マネージャーは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「二人とも事情があるから、部外者はあまり入れたくなかったんだけどね」
その声に、藤井は逆に胸をざわつかせた。事情……つまり、外には出したくない何かがある。
だが鷹村は豪快に笑い飛ばす。
「まぁおっさんや他のメンツも気になって来てるんだ!今更だな!」
その場にいた伊達や他のランカーたちまでもが笑みを見せる。だが笑いの奥には同じく緊張と期待が漂っているのを、藤井の眼は逃さなかった。
これは、ただのスパーじゃない。
記者魂が告げていた。
地下で始まるその光景は、後に誰もが語る「物語の序章」になるかもしれない。
(これだけのボクサーが気にする試合だ。宮田くんの相手は……一体何者なんだ?)
藤井は胸の奥でそう呟き、手にしたペンを無意識に握り締めていた。
▼
地下のリングは、異様な熱気と静けさが同居していた。
狭い空間を満たす汗とレザーの匂い、わずかにきしむ床の音、緊張に乾いた喉を鳴らす観衆の息遣い。そのすべてが、ただのスパーではないことを告げている。
リングにはすでに二人の若きボクサーが立っていた。
宮田一郎。
冷たい鋼を思わせる視線を湛え、落ち着き払った様子でグローブを構える。
対する幕之内一歩。
額にわずかな汗を滲ませながらも、真っ直ぐ前だけを見据え、全身を戦いに捧げる覚悟を漂わせていた。
ヘッドギアはない。グローブは試合と同じ本物。
もはや“練習”の領域を越え、正真正銘の「戦い」が始まろうとしていた。
宮田の瞳には、研ぎ澄まされた冷静な計算が宿っていた。
(幕之内は打ち合いに強い。それはこの三ヶ月間の練習を見て、嫌というほど思い知らされてきた。パーリングの精度も格段に上がった。間合いを潰して前に出てくるつもりだろう。だが――そんなものは関係ない)
彼の脳裏に蘇るのは、この短期間で幕之内が積み上げてきた進化の軌跡だ。
あの獅子御に叩き潰され続けていた頃の、無防備で拙い姿はもうない。
今では木村のジャブをはじき返し、確実に前へ進む感覚を掴みつつある。
伸びしろと可能性。それらを誰より近くで見せつけられてきたのは、他ならぬ自分だ。
だが、まだ甘い。まだ粗い。
見せパンチやフェイントに過剰に反応する癖は消えていない。その一瞬の揺らぎこそ、致命的な穴となる。
そこを突けば、勝負は一気に自分へ転がり込む。
(油断はしない。慢心もない。チャンスがあれば、1ラウンドで終わらせる!)
胸の奥で烈火のような闘志を燃やしながら、宮田は父の言葉を思い出す。
「一郎……最後の日本での真剣勝負だ。迷うな」
その声は、幼き日から背を押し続けてくれた存在の証。宮田は深く頷き、余計な感情を削ぎ落とすように息を吐いた。
ふと、リングの外へ視線を向ける。
そこには篠田トレーナーと並び立つ獅子御の姿があった。二人は腕を組み、表情を変えず、ただ静かにこちらを見据えていた。
偏らぬ眼差し。幕之内と宮田、両者を等しく見届ける立場。
その公平さが、逆に胸を熱くさせる。
(充分だ……。俺がここで示す。これまで積み上げてきた全てを!)
宮田は拳を握り込み、指先にまで血が通うのを感じた。
リング上で証明する。――俺のボクシングを!
一方で幕之内は、鴨川会長の言葉を胸に刻んでいた。
(力を抜け……焦るな。だが引くな。前へ! この三ヶ月で学んだこと、全部ぶつけるんだ!)
喉の奥で心臓が暴れ、今にも身体を突き破りそうになる。
だが彼はその鼓動を必死に押さえつけ、リングの中央を真っ直ぐに見据えた。
勝つための道はただ一つ。宮田の間合いを潰し、得意のカウンターを封じ、殴り合いに持ち込むこと。
――それこそが、自分に残された唯一の勝機だった。
伊達の眼差しは鋭く、木村と青木は拳を握り、沖田は息を呑んでいる。日本のトップを張る男たちが、二人の一挙手一投足を注視していた。
そして藤井。彼のカメラのファインダーには、ただ二人の若者の姿が映っているだけだった。
だが、レンズを覗くその胸の奥が、焼け付くような高揚に支配されていた。
「まるでデビュー前のスパーとは思えない空気感だ……」
その呟きは誰に向けられるでもなく、ただ熱気に溶けた。
リング中央に立つのは鷹村だ。
「両者構えて!」
その声と同時に、宮田と幕之内の表情が変わる。
少年の顔は消え、そこにあるのは覚悟を決めた「ボクサーの顔」。
一歩も引かぬ気迫と、相手を呑み込もうとする覇気。互いの視線が火花を散らし、空気そのものを震わせる。
最後にコーナーへ戻った二人の胸には、同じ言葉が刻まれていた。
(勝負だ……宮田くん!)
(来いよ、幕之内。そのハードパンチ……技術で叩き潰す!)
地下に漂う沈黙は、やがて爆発する鐘の音を待っていた。