はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
第一ラウンド。
先に前に出たのは幕之内だった。
(距離を取れば、宮田くんのアウトボクシングの餌食だ……!)
必死に前に出る幕之内。
焦る心を押さえつけるように、腕は硬く、脚は無理にでも前へと踏み出す。
シャドーボクシングではイメージできていた。だが、その感覚とは全く違う、目の前の生きた相手の存在感が、重く、圧迫する。宮田の動きは幕之内のイメージをはるかに上回っていたのだ。
(すごい……!なんて足運びだ!シャドーでは捕まえられたはずなのに、実戦では全く別物だ……!)
宮田のステップは空中を滑るように軽やかで、見るものすべてを幻惑させる。
鷹村や木村、青木ですら目を見張るそのフットワーク。獅子御が得意とするアウトサイドピボットを自在に操り、さらに軽く跳ねるように足を入れ替え、距離とリズムを微妙にずらすシャドウシャッフル。
その動きの中で、幕之内は自分が時間の流れから置き去りにされたかのような感覚に陥る。足を踏み出すたび、体は宮田の動きに翻弄され、距離感は一瞬で崩れる。
軽やかなフットワーク。
前後左右に揺れながらも、狙われる隙は一切ない。
幕之内の踏み込み、腕を伸ばしてもパンチはすべて空を切る。
まるで相手が見えない糸で、自分の動きを操っているかのような感覚。
初心者の幕之内の心は次第に焦燥と恐怖で満たされていく。
そして、そのとき。
「がっ……!?」
一瞬の隙に、鋭いパンチが幕之内を襲う。開始点から着弾点へ、光の速さで移動するように放たれる拳。
見た目の華麗さの裏に潜む、確かな威力。
打たれた瞬間、体の芯に重みが刺さり、思わず息を飲む。
沖田の隣で観戦していた伊達が、ぽつりと呟いた。
「フロートライク・ア・バタフライ、スティングライク・ア・ビー……」
言葉には静かな驚嘆と尊敬が滲む。
沖田や他のランカーたちも知る、ステップの魔術師──モハメド・アリが生み出した、軽快で無駄のないフットワークの極意を示す言葉。
宮田の動きは、洗練された理論の上でリングを舞っている。
「あの歳で、あの足捌きかよ……冗談きついぜ」
伊達の言葉に、沖田は無言で同意する。
視線の先で、宮田はまるでリングを自由に操るかのように軽やかに動き、攻撃のチャンスをうかがっている。
獅子御とのスパーリングで吸収した技術を独自に組み上げた宮田のステップは、下手なプロなら裸足で逃げ出すほどの一級品だ。
(もしあんな動きをする選手が、俺と同じ階級でプロデビューしたら……背筋が凍るな……)
内心、伊達経由で聞いたアメリカ遠征の話に、少しだけ安堵する自分もいた。
宮田は容赦なく、幕之内の動きを完全にコントロールしている。
インファイターでハードパンチャーな幕之内を攻略するために、緻密に計算されたステップと牽制で、幕之内の心理を読み切っているのだ。
(このままじゃダメだ!アウトボクシングに持ち込まれたら、僕に勝ち目はない……!攻めるんだ、前に出るんだ!)
幕之内は軽快なステップに翻弄されかけながらも、逆に自分を奮い立たせる。
目の前の相手の動きに恐れを抱きつつも、足が自然と前へ前へと突き出される。
まるで猛獣が距離を詰めるかのような、勢いのある飛び込み。
(強引に距離を奪いにきたか……!)
その瞬間、宮田は瞬時に判断し、距離を奪われないようステップバックで後退しつつ、牽制のジャブを打つ。
だが、幕之内の突進は止まらない。
リズムも間合いも無視して、自ら距離を縮める強引な戦法に出る。
リング上の空気は一瞬で張り詰め、見ている者の呼吸さえ止まったかのように感じられた。
床を踏みしめる足音、パンチの風切り音、微かに揺れるロープ。すべてが鮮明に意識に飛び込んでくる。
(後ろに下がりながらのパンチは威力がない……!被弾を恐れてはいけない……前に出るんだ、体をぶつけるんだ!)
(止まらないか……ならこれだ!)
幕之内の目は鋭く燃え、全神経が拳と足に集中する。間合いを詰めながら、肩や腰の力をギリギリまで使って突進する姿は、猛獣が獲物に飛びかかる瞬間のようだ。
それを見越した宮田は、まだわずかに距離を保ちながら、拳を構え、重心を完璧にコントロールする。肩や腰に伝わる力の蓄積が拳に集中し、全身が弾のように硬く締まる。
まさに「破壊力の予告状」。
(構えた……来る……大きいのがくる……!)
読んだ幕之内は、反射的にパーリングの姿勢に入る。拳を合わせ、腕を強張らせて、衝撃を逃す準備をする。
しかし、その瞬間、宮田の動きは幕之内の予想を超える。
(かかった……!)
強打を放つフリをした宮田は、逆の拳を鋭く、ほとんど透明な速さで振り抜く。
パーリングの準備で僅かにガードを下げた幕之内の頬に、衝撃が走った。
皮膚の表面を抉るような痛みと、鈍く骨まで響く衝撃。耳元で鈍い衝撃音が響き、頭が一瞬くらくらと揺れる。
(浅いか……!)
クリーンヒットした手応えではないことに宮田の顔は歪む。
直前でリバースカウンターを察知した幕之内が腰をわずかに引いたため、インパクトは完全には届かなかった。
それでも、体の芯に鈍い衝撃が走り、膝が揺らぎ、幕之内の腰がぐらつく。呼吸が一瞬止まり、痛みが筋肉を駆け抜ける。
まるで電流のように走る痙攣が腕や脚に伝わり、全身が硬直したかと思えるほど身体が鈍さの渦にいた。
(もらった……!いけぇええ!)
宮田は、まさにトドメを刺すかのように拳を構えた。肩や腰の力が拳に集中し、放たれれば相手の意識を吹き飛ばすほどの破壊力。
だが──
(やっと、距離を詰められた……!)
鋭い思考の直感と共に、幕之内のボディーブローが宮田の脇腹を捉える。拳の衝撃が筋肉を抉り、内臓を揺らすように響いた。
「うぐ……!」
苦悶の声と共に、宮田の動きが一瞬止まる。
鋭い痛みと衝撃が全身に伝わり、ステップもパンチも、わずかに寸断されたかのように見えた。
(ここだ!いけぇーー!)
勢いに任せて前に飛び出す幕之内。
肩と腰を完全に連動させ、脚の力を踏み込みに変換する。
拳の感触、床の反発、リングロープの揺れ……すべてを体で感じ、前へ、前へと突き進む。
しかし、その瞬間、場内に鋭く鳴り響くゴングの音。
「ストーーップ!1ラウンド終了!」
レフェリーである鷹村の声が、張り詰めた空気を一気に解き放つ。
宮田は痛みを堪えながらコーナーへと戻り、額には汗が滲む。肩や腕の疲労が全身に残るが、その動きからはまだ冷静さが消えていない。
幕之内は悔しさを滲ませながらも、拳を握りしめ、鴨川会長のいるコーナーへと歩を進める。
その表情には、揺るぎない闘志と、次のラウンドへの決意がはっきりと刻まれていた。
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「スゲェー戦いだったな」
思わず漏れた青木の声に、木村も大きく頷く。
二人とも、幕之内がここまで宮田に食らいつき、翻弄されながらも攻め続けたことに驚きを隠せない。
宮田の全開の足捌きは、見ているだけで息を呑むほどだ。
カメラを構えていた藤井も、シャッターを切る手を止め、一瞬息を呑む。
「……ほんとにノーライセンス同士の試合なのかよ。それにあの幕之内という選手……宮田くんの足捌きとカウンターを恐れず、猛然と飛び込んでいくとは……並のボクサーじゃないな」
リングのコーナーでは、椅子に座った幕之内の額の汗を、鴨川会長が丁寧に拭う。水を口に含ませ、口を濯いで吐き出させる仕草も、指導者としての冷静さと優しさを感じさせる。
「どうじゃ、小僧」
「す、すごいです……宮田くん……まったく捉えることができませんでした」
強靭なスタミナを培ってきたつもりの幕之内だが、それを遥かに凌ぐプレッシャーの中での戦いだったことを、言葉少なに伝えるだけでも伝わる。鴨川会長は反対側で座る宮田親子を一瞥する。
(あやつめ……。普段の練習では隠しておったな。小癪な真似を……)
「で、でも会長。1ラウンドの終わり際に宮田くんを捉えることができました。あれを続ければ、宮田くんのアウトボクシングは潰せます」
胸を張り、自信と興奮を込めて言う幕之内。しかし鴨川会長の視線は、穏やかに見えてもどこか険しさを帯びていた。その瞳は長年の経験で培われた洞察に満ち、次の一手のリスクを瞬時に見抜いている。
「……2度も同じミスを奴はせんじゃろう」
会長の声には低い重みがあり、リングでの緊迫感を思い起こさせるようだ。
「それに……あの近づき方は、お主にとっても危険が大きい戦術になる」
幕之内は一瞬言葉を飲み込み、拳を握り直す。心臓が早鐘のように打ち、額には汗がにじむ。呼吸を整えながら、声を絞り出すように答える。
「僕には……これしかありません。多少の被弾は、覚悟しています!」
声に震えはあるが、瞳は真っ直ぐ会長を見据えていた。その目には恐怖よりも、闘志と決意が宿っている。
会長はしばらく無言で見つめ、指先で軽く顎を撫でる仕草を見せた。やがて、ゆっくりと口を開く。
「そうか……なら、お主の思うようにやってみせろ」
声には優しさも含まれているが、その奥には確かな重みと期待感があった。
「はい!!」
幕之内は全身で頷き、拳をしっかりと握りしめる。
胸の奥で炎が燃え上がるのを感じる。
リングに戻ったとき、その炎は力となり、次のラウンドを制するための決意へと変わっていた。
一方、宮田もセコンドに立つ父と真剣な眼差しで向き合っていた。
「どうだ? 一郎」
父の問いに、宮田は冷静だが感慨を含んだ声で答える。
「あれで3ヶ月前までは素人だったなんて、信じられないレベルだよ、父さん」
その言葉には驚きと敬意が滲む。
3ヶ月前までは腕を振り回すだけの素人同然だった幕之内が、今では明確な戦略を持ち、リング上で状況に応じて自分を変えられるボクサーになっている。
パーリングも的確で、勝負勘や場慣れ感まで身についていた。3ヶ月前の素人とは思えない、リング上での冷静な対応力だ。宮田の視線がコーナーの幕之内を追いながら、父に小さくつぶやく。
「打たれ強さも増してるな……。木村さんや青木さんとのスパーで、ある程度打たれても耐えられるように仕込まれてたんだろう」
その言葉に、父は苦笑混じりに頷く。指先で軽く顎を撫で、宮田の視線を追いながら静かに言葉を返した。
「まったく……無茶な練習をするものだ」
宮田も肩をすくめ、軽く息を吐く。額の汗をぬぐいながら、リングでの感覚を思い返す。
「ほんとにね……でも、ああやって距離を潰されると、こっちもやりづらいのは確かだ」
言葉の端には、多少の焦燥と警戒心が混ざっている。鴨川会長の無茶なトレーニングは、ただの体力増強ではなく、幕之内の気質や正確性、打たれ強さを最大限に伸ばすための計算された戦略だった。それを理解すれば、多少の苦労も納得せざるを得ない。
「どうする?」
父の問いかけに、宮田はゆっくりと息を整え、落ち着いた口調で答える。
「相手が何も考えず突っ込んでくるなら……それを叶えさせてやる。でも、絶対に打たせはしない」
その言葉には、冷静さと自信、そして戦術への揺るぎない確信が込められていた。
拳を軽く握りしめ、肩の力を抜きながら、宮田はリングを見据える。幕之内が距離を詰めてくるのなら、させてやればいい。
しかし、その瞬間に打たせることだけは、絶対にしない──心の中で再び自分に言い聞かせる。
「接近戦の極意は、相手に打たせず、自分が打てる状況を作ることだ、父さん」
短く、しかし力強くつぶやいたその言葉には、戦術家としての宮田の鋭い眼差しと冷静な分析が滲んでいた。
その瞬間、鷹村の低く響く声がコーナーに届く。
「セコンドアウト!」
合図と同時に、宮田は静かにリングへと足を踏み入れる。軽く足を運ぶたび、前ラウンドの衝撃が体に残っていることを感じる。
視線を絡め合う二人の戦士の間には、前ラウンドの衝撃と緊張感がまだ渦巻き、次の一撃への準備が、リング上の空気をさらに張り詰めさせていた。