はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
獅子御 誠司。
鴨川ボクシングジムの門を叩いたその男を見たとき、まず最初に胸の奥に湧いたのは、警戒でも好奇でもない。
ただ、ひとつの言葉にならぬ“得体の知れなさ”だった。
およそ五十年近く、わしはこのジムを預かってきた。多くの若者が門を叩いては、リングの上で己を試し、ある者は夢を追い、ある者は静かに拳を置いて去っていった。
そのすべてを見てきた。
時代が変わろうと、入門者の種類はおおよそ二つに大別できる。
ひとつは、プロを目指す者。
もうひとつは、あくまで趣味の範疇に留まる者。
この分け方は乱暴かもしれんが、長年の勘というやつは馬鹿にならん。
目を見ればわかる。拳を握る仕草ひとつで、リングに上がる覚悟の重さが見える。
前者の目には、迷いの奥に確かに燃えるものがある。炎のように静かで、けれど触れれば火傷するほどの熱が、拳からも滲んどる。
後者もまた、尊い。己を律し、身体を鍛え、ボクシングという競技と真摯に向き合う者たちじゃ。
汗を流し、痛みを知り、人間として強くなることを求めるその姿勢は、プロ顔負けの覚悟を宿すこともある。
どちらであれ、わしは否定せん。
ボクシングとの関わり方は千差万別。
リングの上に立たずとも、拳は人生を語れると信じておる。
だが、獅子御 誠司のそれは、どちらにも明確には当てはまらんかった。
見た目は明らかに逸材だった。
鋭く澄んだ目の奥には、一切の濁りがなく、動きに淀みはない。
身のこなしや筋肉のつき方ひとつ取っても、遊びで鍛えた者とはまるで違う。これは、身体を「道具」として理解し、極限まで使い込んできた者の体だ。
そう思わせるものがあった。
だが、肝心の“熱”がなかった。
プロ志望にありがちな、勝ち上がりたいという渇望。あるいは、趣味として己を高める者に宿る、満ち足りた静けさ。
そういったものが、奴には欠けていた。
目の前に立つこの若者からは、生きている実感そのものが、まるで抜け落ちているようにすら思えた。
「小僧。お主は、何を目指してここへ来た?」
唐突に、そう問いかけた。
試すような言い方だったかもしれん。
だが、やつは表情ひとつ変えず、まっすぐな声で言った。
「……道を作るために」
その一言が、嘘とも本音ともつかず、やけに耳に残った。
言いようのない空虚さ。それでいて、消えかけた灯火のような、わずかな意志。
その両方を、あの目は確かに宿していた。
──こやつは、何者なのか。
それが、わしの中で芽生えた最初の問いだった。
以来、獅子御 誠司という男の正体を見極める日々が、静かに始まった。
入門の手続きは、マネージャーの八木が担当した。
書類も履歴も、特におかしな点はない。挨拶も受け答えも丁寧で、礼儀正しい。
当初の印象は、悪くないどころか、むしろ良すぎるほどだった。
提示したロードワークのコースも、初回から時間内に余裕を持って完走。心肺機能、基礎的な筋力、バランス、身体の使い方……いずれも申し分なし。何より驚いたのは、それらを“当たり前のように”こなして見せたことだ。
己の限界を探るような挑戦でも、成長への渇望でもない。まるで、最初からゴールが見えているかのような淡々とした動き。
素材としては、間違いなく一級品。
だが、肝心なものがない。
奴は頑なに、リングに立とうとはしなかった。
まったく上がらなかったわけではない。
試合を控えたジム生のミット打ちに付き合ったり、フットワークの確認などはしていた。
だが、それだけだった。
本気で拳を交えること。
それを奴は、徹底して避けていた。
己の内に宿る熱と、相手の魂とをぶつけ合う“試合”。その本質に、指先ひとつ触れようともしなかった。
プロになるわけでもない。
だが、ただの遊びと切って捨てるには、あまりにも動きが鋭い。
生まれつきか、それとも積み重ねてきたのか。身のこなしひとつ取っても、目の肥えた者にはすぐにわかる。
あれは間違いなく「才能」じゃ。
相手が構えを見れば、重心の位置を即座に見極め、スパーを観察すれば、選手の癖や息づかいすら掴み取る。ボクシングの経験そのものは浅いはずなのに、まるで老練なセコンドのような眼を持っておるのが不気味じゃった。
だが、そういう「観る」才能には敏感なくせに、己の拳に向き合うことには、まるで興味を示さん。
試合に出たいわけでもない。
けれども、周囲の人間にはやたらと関心を持つ。
マネージャーの八木や、トレーナーの篠田、宮田父の指導を真剣な顔で眺めて、記録も戦績も調べ上げる。
それでいて、自分の打ち込みにはどこか熱が入っていない。
まるで、己が主役であるはずのリングに、他人事のような顔で立っておる。
これはもう、宝の持ち腐れ……なんて生易しいもんじゃない。言うなれば、精緻な彫刻を施された陶器だ。一見れば見事な逸品。だが、いざ手に取ってみれば、中空で軽い。
……形だけで、魂が入っておらん。
長いこと、わしはそう思っていた。
正直に言えば、惹かれるものなんざ、なかった。
魅力も、覇気も、何かに賭けようという執念すらない。「育てよう」と心から思える核が、決定的に欠けていた。
そんな奴が、なぜここにいる?
なぜ、ボクシングを選んだ?
……わしには、さっぱりわからん。
だが、そんな評価が、まるで天地がひっくり返るように覆されたのは、わしがボクシング人生で初めて、「本物の世界チャンピオンになれる男」と出会った、ほんの数日後のことだった。
▼
あの頃の鷹村は、犬のように気まぐれで、野良猫のように警戒心が強かった。
日雇いの仕事を転々としながら高校へ通い、夜はどこで何をしているのか誰にもわからない。路上で喧嘩を売られれば、問答無用で叩きのめす。そんな暮らしだった。
世間のルールなんぞ、最初から守る気なんてない。
だが、それでも──目立つのは仕方がなかった。
何せ、顔つき、骨格、歩き方、拳の握り方……すべてが「闘うため」に組み上げられたような器だったのだから。
初めて見たとき、わしは確信した。
──こやつは、世界を獲れる。
だが同時に、真っ当に道場へ通って汗を流すようなタマではないことも、すぐにわかった。
こっちが真顔で正論を語ろうもんなら、鼻で笑って背を向ける。そんなやつだ。
だから、わしは餌を撒くことにした。
「ならば、公認で暴れられる場所を紹介しよう。人を殴り倒して──褒められる場所をな」
「……は?」
一瞬、目を細めた。冗談と思ったのか、それとも……興味を引かれたのか。
「ボクシングのリングの上にだ」
わざと軽口を叩く調子で言ってやった。真剣さを悟らせぬように。
すると奴は、肩をすくめて笑った。
「ボクシング?ルールとかあるの苦手なんだよ。……でもまぁ……いいぜ?暇つぶしにはなるだろ」
──こやつ、まだ何もわかっておらん。
だがええ、火はついた。あとはどう燃え広がるかだ。
「なら、ついてこい」
わしは背を向け、歩き出した。
ジムの玄関口をくぐるその刹那まで、奴は気の抜けたような笑みを浮かべていた。まるで遊びにでも行くような顔つきでな。
だが、足を一歩中へと踏み入れた瞬間──その目の色が変わった。
ジムの奥、ちょうど手をテーピングしていた獅子御がいたのだ。
張りつめた空気。
時間がほんの一瞬、止まったように思えた。
気のせいではない。
温度が、物理的に下がったような錯覚さえ覚えた。
鷹村の眼が、狼のように鋭く細まる。ただの喧嘩ではない、「勝負」の匂いを、本能が嗅ぎ取ったのだ。
わしはその表情を、見逃さなかった。
──久しく、血が騒いだ。
胸の奥がざわつき、背筋が粟立つ。長年の勘が、脳裏で警鐘を鳴らす。
出会わせてはならん二人を、わしは導いてしまったかもしれん。
それでも、もう遅い。
時は動き出してしまったのだから。
▼
鴨川ジムに入って、しばらく経った。
その日が近い気がしていた。
朝から妙な予感があった。
鴨川会長が八木さんと一緒に外で次の試合の打ち合わせに出たと聞いてから、なおさらその予感は強くなっていった。
午後、いつものように篠田さんに頼み込み、トレーナーとしての視点や、試合の読み方、練習メニューの組み方を教わっていたとき。
ジムの扉が、重たい音を立てて開いた。
入ってきたのは、鴨川会長に連れられた……鷹村守だった。
あの頃とは、何もかもが違っていた。
別々の高校に進み、連絡など取ることもなかった。
だが、その姿を一目見てわかった。
体は一回りも二回りも大きくなり、筋肉はまるで彫刻のように洗練されていた。
明らかに“闘い”を生きてきた身体だった。
鷹村の目が、こちらを捉えた。
次の瞬間、暇つぶしのような表情が、獣のように研ぎ澄まされる。
「……おい、ジジィ。これが目的か?」
声は低い。
だが、静かに確かに怒っていた。
「目的?なんのことじゃ」
鴨川会長が、わずかに困惑したように答える。
「違うよ、守くん。俺がここにいるのは偶然……ってことにしておこうか」
柔らかく笑いながら、獅子御が言った。
だが、その目は笑っていなかった。冷静に、鷹村の一挙手一投足を見ている。
「……獅子御。貴様、こやつと顔見知りじゃったか」
驚いたような会長の声も届かぬまま、鷹村が無言でこちらに歩を進めてくる。
俺も、自然と立ち上がっていた。
気づけば拳に力が入っている。喉の奥が乾き、背中に汗が滲む。
一歩、また一歩と距離が詰まる。
その歩幅に、ためらいはなかった。
まるで、あらかじめ決まっていたかのように。
無言のまま、互いが射程に入った、その瞬間。
「うらぁっ!!」
「とぁあっ!!」
裂けるような風音が空気を引き裂く。
鷹村の拳が、唸りを上げて振り下ろされる。
ただの殴打ではない。斧のような重さと速さが宿っていた。
俺は、かろうじて頭を傾けて紙一重でかわす。
その瞬間、反射的に拳を返す。
狙いはこめかみ……テンプルだ。
倒すつもりで打った。
だが、鷹村はそれを感じ取り、上体を逸らしてかわした。そして、まるで合図を交わしたように、同時に距離を取り直す。
静寂。
ジムの空気が、凍りついたように変わっていた。
縄跳びを止めた者、サンドバッグを叩く手を止めた者、トレッドミルの上で固まった者までいる。
誰もが動けず、息を呑んでいた。
一瞬の応酬。
それはまるで、雷光と雷鳴の会話だった。
「腕は鈍ってねぇようだな、誠司」
鷹村が、わずかに口元を吊り上げて言った。
「そういう守くんもね」
言葉とは裏腹に、俺の呼吸はまだ荒れていた。指先が震えているのは、興奮か、それとも──。
互いに技を交わし、拳を感じ合った直後の沈黙。
その場に流れたのは、確かにどこか懐かしい空気だった。
かつてのスパーの余韻。殴り合いのあとにだけ生まれる、あの奇妙な友情のようなもの。
だが──それは、ほんの一瞬の幻だった。
鷹村が、ゆっくりと拳を下ろし、視線をリングへと向けた。
そして、リングを指差す。
「おあつらえ向けの場所があるじゃねぇか。そこで決着をつけようぜ」
口元は笑っているのに、目が笑っていない。
昔よりも鋭く、野性を増した視線。勝負の匂いを感じ取った猛獣が、本能のままに牙を剥いている。
この瞬間のために生きていた。
そんな風にも見えた。
……だが、俺は、首を横に振った。
「いや。今やっても、意味がない」
その言葉が、場の空気を一変させた。
リングを指した拳が、わずかに震える。
「……は?」
鷹村が言葉を失う。
それは、俺にとっても初めてだった。
拳を交えることを、“しない”という選択。
かつての俺なら、真っ先に飛び込んでいたはずだ。
「誠司……てめぇ、逃げるのか?」
低く、押し殺したような声。だがその奥には、失望にも似た感情が滲んでいた。
「違うよ。戦わないんじゃない。戦う“理由”が、今はまだ足りないだけだ」
俺は鷹村から視線を外し、ゆっくりと鴨川会長の前へ歩を進めた。
会長の顔はどこか迫力があった。その目は見逃さない。俺の決意も、覚悟も。全てを、見透かすような眼差し。
俺は深く、頭を下げた。
「鴨川会長。彼を、よろしくお願いします」
ジム全体が静まり返った。
その一言に、すべてが込められていた。
一瞬の沈黙。
会長の声は、地の底から響くように低く、鋭かった。
「……これが、お主の言う“道”というわけか?」
その問いに、俺は何も言わず、ただ静かに、強く、頷いた。
「おい、誠司!逃げんのかよ!」
「逃げないよ、守くん。ただ……君はまだ、鴨川ジムのボクシングを知らない。それを知ってからの方が、きっと今までよりもっと、楽しい喧嘩ができるはずだよ」
「……言ったな?」
鷹村はニヤリと笑った。
まるで、狩りの前に牙を研ぐ獣のように。
「なら、それまで逃げんじゃねぇぞ」
そのまま、会長に向き直ると、叫ぶように言い放った。
「おいジジィ!……ボクシングとやらを教えろ!!」
その瞬間、空気が変わった。
静寂が、凍りついた時間のように場を包む。
誰もが、それを感じていた。
まるで雷鳴の前触れ。嵐の胎動。
何かが動き出した、そんな確信。
それは、喧嘩じゃない。
ただの勝負でもない。
拳と魂がぶつかる、リングの物語。
ボクシングの名の下に、運命が、ゆっくりとリングに上がった。