はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
視界が歪む。
色彩がにじみ、輪郭が滲んでいく。周囲の声は、遠い水底から響いてくるように濁り、意識はぐにゃぐにゃと形を失いながら流れていく。
――直前の記憶がない。
何が起こった?
どうして倒れている?
カウントの声が、遥か彼方から響いてきた。
(ダメだ……立てそうにない……)
全身が鉛のように重い。
拳も、足も、意思と反して沈み込む。
どうして自分はこんな目に遭っているのだろう。
何のためにここに立っていたのかさえ、一瞬わからなくなる。
それでも――思考とは裏腹に、身体は立ち上がろうとしていた。
ロープにすがりつき、震える脚で立とうとする。だが、どうしようもなく崩れ落ちてしまう。
キャンバスに顔を押しつける感触。
うつ伏せのまま、会長の声が遠くで響いた。
(……すいません、会長。あれだけ面倒を見てもらったのに……何一つ、成果を……)
胸を締め付ける後悔。
立ち上がれない。
もう、ダメなのか。
四つん這いになり、重い首を持ち上げる。
視線の先――そこには宮田がいた。
(……宮田くん……)
彼は、すごい。
僕のパンチを何発受けても、倒れずに立っている。
渾身のアッパーに、カウンターを合わせるすごいボクサーだ。
それが宮田一郎だ。
そう思った。
だが……違った。
宮田の肩が、大きく上下している。
その顔には、はっきりとした疲労が刻まれていた。
(……どうして……そんな顔をしてるんだ……?)
信じられなかった。
あの宮田が……僕と打ち合って、肩で息をしている。
僕が……宮田くんを追い詰めているんだ。
僕が……僕のボクシングが……。
背中に、手が届きそうなんだ。
胸の奥で、何かが爆ぜた。
(立て……立て!立て!立て!!)
まだ終わっていない。
僕はまだ全部を出し切っていない!
手も足も……まだ動く!
ここで倒れたら、何のために殴られ続けてきたんだ!
何のために……ここまで必死で耐えてきたんだ!
諦めるな。
逃げるな。
ここで立たなきゃ、全部が無駄になる!
(立て!立つんだ!!)
魂が叫ぶ。
心臓が爆音のように胸を打ち鳴らす。
まだだ。
まだ――僕は戦える!!
▼
幕之内は、立ち上がった。
リングサイドから、割れんばかりのどよめきが響き渡る。
誰の目にも決定的なダウンだった。普通なら終わっていた。だが、幕之内は立ち上がってきた。
その姿に周りにいるプロボクサーたちが驚愕し、声を失う。
だが、一番驚くべきはずの宮田は……冷静だった。
まるで、この男が立ち上がることを最初から知っていたかのように。
ふらつきながらも拳を構える幕之内に、宮田はすぐさまファイティングポーズを取った。
その眼差しは揺るがない。
だが、身体は正直だった。
幕之内の大砲のようなボディブローが、確かに宮田の奥深くに突き刺さっている。
強靭な腹筋を作り上げてきたはずだった。
それなのに……たった数発で、脚が重くなり、呼吸が浅くなる。
(……効いてる。あのパンチは……まだ響いてやがる……!)
全力を振り絞れるのは、このラウンドと、次のラウンド。
これ以上もらえば、均衡が一気に崩れる。
幕之内は、この短い間で信じられないほど成長し、そして強さを示してきた。
……今になって理解できた。
なぜ獅子御が、鷹村が、鴨川会長が、幕之内にこだわり続けたのか。
ボクシングに必要なものは何か。
打たれ強さか?
テクニックか?
パンチの多彩さか?
それとも戦略か?
――違う。
本当に必要なのは、折れぬ闘志。
幕之内は、それを最初から握りしめていた。
普段は気弱で、押しに弱くて……一見するとナヨナヨした少年。
だが、その内側には、常人には到底持ち得ないほどの闘志と、無意識の負けん気が燃えている。
だからこそ、その存在は異様で、時に苛立ちを覚える。
……そうか。
幕之内を気に入らなかった理由。
それは、幕之内の闘志に、自分の闘志が呑まれるかもしれないと……心のどこかで恐れていたからだ。
だが、もう関係ない。
そんなものは関係など、ない。
ここから先は、恐れも、理屈もいらない。
立つのはどちらか一人。
勝つのは、闘志を貫いた方だけだ。
(負けるはずがない。俺はずっとボクシングと向き合ってきた)
宮田の瞳に烈火のごとき闘志が燃え上がる。
幕之内を射抜くように睨み据え、拳を握り締める。
(ずっと理想のボクシングの背中を追い続けてきた。すべてを賭けて、ここに立っているんだ!)
最後の勝負だ、幕之内。
その折れぬ闘志に、俺は絶対に負けない!!
鷹村の「ファイト」という言葉と同時に、互いの拳が宙を切る。
幕之内は全身を振り絞るように前へ、宮田はカウンターを狙って鋭く差し込む。
ほんの一瞬、二人の拳が交錯しそうになったその刹那。
澄み切った金属音が、地下ジムに響き渡った。
それは第二ラウンド終了の合図だった。
その音を皮切りに、幕之内は膝から崩れて駆けつけた鴨川会長に支えられてコーナーへと戻っていく。
張り詰めた緊張の糸が断ち切られ、観衆の誰もが大きく息を吐く。
それは歓声でもなく、ため息でもなく、ただ、この試合がまだ続くことに対する驚きと安堵の入り混じった吐息。
宮田は深く息を吐き、拳を下ろした。
幕之内は汗に濡れた髪を揺らしながら、荒い呼吸を繰り返す。
両者の視線が再びぶつかる。
そこにあるのは疲労ではなく――揺るぎない闘志。
「……本当に化け物だな、幕之内」
その言葉を聞いたのは宮田の父だけだった。
そういう宮田の口元がわずかに笑みを形作る。
幕之内は、その言葉に気づく余裕すらない。
ただ息を整え、次のラウンドに向けて心を燃やし続けていた。
第三ラウンド。
勝敗を決する戦いが、いよいよ始まろうとしていた。