はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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ドミナンス(3)

 

 

視界が歪む。

 

色彩がにじみ、輪郭が滲んでいく。周囲の声は、遠い水底から響いてくるように濁り、意識はぐにゃぐにゃと形を失いながら流れていく。

 

――直前の記憶がない。

 

何が起こった?

 

どうして倒れている?

 

カウントの声が、遥か彼方から響いてきた。

 

(ダメだ……立てそうにない……)

 

全身が鉛のように重い。

 

拳も、足も、意思と反して沈み込む。

 

どうして自分はこんな目に遭っているのだろう。

 

何のためにここに立っていたのかさえ、一瞬わからなくなる。

 

それでも――思考とは裏腹に、身体は立ち上がろうとしていた。

 

ロープにすがりつき、震える脚で立とうとする。だが、どうしようもなく崩れ落ちてしまう。

 

キャンバスに顔を押しつける感触。

 

うつ伏せのまま、会長の声が遠くで響いた。

 

(……すいません、会長。あれだけ面倒を見てもらったのに……何一つ、成果を……)

 

胸を締め付ける後悔。

 

立ち上がれない。

 

もう、ダメなのか。

 

四つん這いになり、重い首を持ち上げる。

 

視線の先――そこには宮田がいた。

 

(……宮田くん……)

 

彼は、すごい。

 

僕のパンチを何発受けても、倒れずに立っている。

 

渾身のアッパーに、カウンターを合わせるすごいボクサーだ。

 

それが宮田一郎だ。

 

そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが……違った。

 

宮田の肩が、大きく上下している。

 

その顔には、はっきりとした疲労が刻まれていた。

 

(……どうして……そんな顔をしてるんだ……?)

 

信じられなかった。

 

あの宮田が……僕と打ち合って、肩で息をしている。

 

僕が……宮田くんを追い詰めているんだ。

 

僕が……僕のボクシングが……。

 

背中に、手が届きそうなんだ。

 

胸の奥で、何かが爆ぜた。

 

 

(立て……立て!立て!立て!!)

 

 

まだ終わっていない。

 

僕はまだ全部を出し切っていない!

 

手も足も……まだ動く!

 

ここで倒れたら、何のために殴られ続けてきたんだ!

 

何のために……ここまで必死で耐えてきたんだ!

 

諦めるな。

 

逃げるな。

 

ここで立たなきゃ、全部が無駄になる!

 

 

 

(立て!立つんだ!!)

 

 

 

魂が叫ぶ。

 

心臓が爆音のように胸を打ち鳴らす。

 

まだだ。

 

まだ――僕は戦える!!

 

 

 

 

 

 

幕之内は、立ち上がった。

 

リングサイドから、割れんばかりのどよめきが響き渡る。

 

誰の目にも決定的なダウンだった。普通なら終わっていた。だが、幕之内は立ち上がってきた。

 

その姿に周りにいるプロボクサーたちが驚愕し、声を失う。

 

だが、一番驚くべきはずの宮田は……冷静だった。

 

まるで、この男が立ち上がることを最初から知っていたかのように。

 

ふらつきながらも拳を構える幕之内に、宮田はすぐさまファイティングポーズを取った。

 

その眼差しは揺るがない。

 

だが、身体は正直だった。

 

幕之内の大砲のようなボディブローが、確かに宮田の奥深くに突き刺さっている。

 

強靭な腹筋を作り上げてきたはずだった。

 

それなのに……たった数発で、脚が重くなり、呼吸が浅くなる。

 

(……効いてる。あのパンチは……まだ響いてやがる……!)

 

全力を振り絞れるのは、このラウンドと、次のラウンド。

 

これ以上もらえば、均衡が一気に崩れる。

 

幕之内は、この短い間で信じられないほど成長し、そして強さを示してきた。

 

……今になって理解できた。

 

なぜ獅子御が、鷹村が、鴨川会長が、幕之内にこだわり続けたのか。

 

ボクシングに必要なものは何か。

 

打たれ強さか?

 

テクニックか?

 

パンチの多彩さか?

 

それとも戦略か?

 

 

 

 

――違う。

 

 

 

 

 

本当に必要なのは、折れぬ闘志。

 

幕之内は、それを最初から握りしめていた。

 

普段は気弱で、押しに弱くて……一見するとナヨナヨした少年。

 

だが、その内側には、常人には到底持ち得ないほどの闘志と、無意識の負けん気が燃えている。

 

だからこそ、その存在は異様で、時に苛立ちを覚える。

 

……そうか。

 

幕之内を気に入らなかった理由。

 

それは、幕之内の闘志に、自分の闘志が呑まれるかもしれないと……心のどこかで恐れていたからだ。

 

だが、もう関係ない。

 

そんなものは関係など、ない。

 

ここから先は、恐れも、理屈もいらない。

 

立つのはどちらか一人。

 

勝つのは、闘志を貫いた方だけだ。

 

(負けるはずがない。俺はずっとボクシングと向き合ってきた)

 

宮田の瞳に烈火のごとき闘志が燃え上がる。

幕之内を射抜くように睨み据え、拳を握り締める。

 

(ずっと理想のボクシングの背中を追い続けてきた。すべてを賭けて、ここに立っているんだ!)

 

最後の勝負だ、幕之内。

 

その折れぬ闘志に、俺は絶対に負けない!!

 

 

 

 

 

 

 

鷹村の「ファイト」という言葉と同時に、互いの拳が宙を切る。

 

幕之内は全身を振り絞るように前へ、宮田はカウンターを狙って鋭く差し込む。

 

ほんの一瞬、二人の拳が交錯しそうになったその刹那。

 

澄み切った金属音が、地下ジムに響き渡った。

 

それは第二ラウンド終了の合図だった。

 

その音を皮切りに、幕之内は膝から崩れて駆けつけた鴨川会長に支えられてコーナーへと戻っていく。

 

張り詰めた緊張の糸が断ち切られ、観衆の誰もが大きく息を吐く。

 

それは歓声でもなく、ため息でもなく、ただ、この試合がまだ続くことに対する驚きと安堵の入り混じった吐息。

 

宮田は深く息を吐き、拳を下ろした。

 

幕之内は汗に濡れた髪を揺らしながら、荒い呼吸を繰り返す。

 

両者の視線が再びぶつかる。

 

そこにあるのは疲労ではなく――揺るぎない闘志。

 

「……本当に化け物だな、幕之内」

 

その言葉を聞いたのは宮田の父だけだった。

そういう宮田の口元がわずかに笑みを形作る。

 

幕之内は、その言葉に気づく余裕すらない。

 

ただ息を整え、次のラウンドに向けて心を燃やし続けていた。

 

 

 

 

第三ラウンド。

 

 

 

 

勝敗を決する戦いが、いよいよ始まろうとしていた。

 

 

 

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