はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
第3ラウンド。
ゴングが鳴った瞬間、飛び出したのは宮田だった。
幕之内はまだ第2ラウンドのダメージを引きずっている。
呼吸は浅く、足取りにわずかな重さがある。
それでも、拳を下げようとはしない。
宮田の視線が鋭く光る。
(幕之内が復活する前に……あの剛腕を振るう前に……その希望を奪う)
宮田の動きは滑るように速かった。
リングの縁を踏み、軸を切り替え、幕之内の射程を絶妙に外す。
そして、一瞬の隙間に体を滑り込ませると、腰を沈め、拳を突き刺した。
幕之内の体幹がわずかに沈む。
呼吸が押し出され、顔が歪む。
宮田はそこを逃さない。角度を変えながら、淡々と同じ場所を狙い続ける。
左腹部、みぞおち、肋骨の下――。
打たれるたび、幕之内の足がほんの僅かに流れ、前進の圧が削られていく。
(足を奪う……動けなくなるまで叩き切る!)
宮田の脳裏には、冷たい計算が宿っていた。
一撃で仕留める必要はない。
積み重ねで崩す。
それが最速の道だ。
幕之内は拳を振り上げる。
しかし、その拳は空を切るばかり。
宮田は踏み込みを読んで、伸びきった腕を避けるように踏み込み、再びボディを突き上げた。
幕之内の肩が震え、息が漏れる。
それでも、前に出ようとする動きは止まらない。
鴨川会長の顔が険しくなる。
(ボディが崩れれば……打たれ強さの要であるバネが消える。そうなれば……もう小僧に打つ手は残っておらん……!)
宮田の手応えは確実だった。
幕之内の足は、明らかに重さを増している。
攻め続ければ。
あと一歩で完全に仕留められる。
だが、その猛攻に幕之内は必死に抗っていた。
荒い呼吸、揺れる視界。
それでも、目の奥に宿る光だけは消えていない。
(一発……一発さえ入れれば、流れを変えられる!)
その焦りが、逆に宮田のカウンターを誘う。
振り抜いた拳は虚空を切り、代わりに鳩尾に突き刺さる重い左。
続けざまに顎を狙う右ストレートが視界を白く弾けさせる。
リング脇から青木が叫ぶ。
「くっそぉ……一歩のやつ、いいようにやられるだけだ!」
木村が歯噛みしながら続ける。
「このままじゃヤバい……止めた方がいいんじゃねぇか!?」
だが、その横で伊達は短く言い放った。
「――待て」
「伊達さん!」
青木が振り返る。
「反撃する手なんてねぇ!このままじゃ、プロデビュー前に潰れちまう!」
「確かに危険だ」
伊達の視線はリングから逸れない。
「だがな……幕之内の眼は、まだ死んじゃいねぇ」
青木と木村が息を呑む。
確かに、幕之内の体は限界に見える。
だが、その瞳だけは、立ち向かう炎を燃やし続けていた。
伊達の隣で試合を見据える沖田は黙っていた。
理由は一つ。あの眼を、沖田は知っている。
伊達が、かつて見せた眼だった。
どんな絶望にも膝をつかず、最後まで諦めを許さない眼。
リング中央では、宮田が淡々と攻めを重ねる。
冷徹なまでに合理的な攻撃。
狙いはただ一つ――幕之内の再起を封じること。
(だったら、その闘志を根底からへし折ってやる!)
宮田のボディが、深々と幕之内に突き刺さった。
肺が縮む。視界が霞む。足の踏ん張りが完全に抜ける。
「〜〜っ……!」
幕之内の動きが止まった。踵は落ち、重力に抗えない体。
もう終わりだと誰もが思った。
「小僧ぉぉお〜〜!!」
鴨川会長の声がリングに響く。
宮田は一歩、距離を取る。
とどめを刺すために構えた。
(これで終わらせる!)
体重を乗せた渾身の右ストレート。
これを受ければ、幕之内は崩れる。
誰の目にもそう映った。
勝利の確信とともに宮田が拳を突き出した、その瞬間。
(……小さく……細かく……)
幕之内の身体が、わずかに動く。
崩れ落ちそうな意識を、歯を食いしばって引き留め、残った力を左手に込める。
(ギリギリまで引きつけて……腕を出す……)
ほんの一瞬、最小の動き。
拳の内側をすり抜けるように差し込まれた幕之内の手。
インパクト寸前で軌道が逸れる。
無防備になった宮田の顔面が、目の前に晒された。
(これが……残った……最後の……力だァアアアア!!)
幕之内の右ストレートが、唸りを上げて放たれ、藤井の構えたカメラが、その決定的瞬間を捉えた。
【最初は失敗の連続になる。捨てパンチ、フェイントに反応して、逆にカウンターを食らうこともあるだろう。それでも構わない。大事なのは、渾身の一撃を弾いて返せる“間”を作ることだ】
ふと、青木、木村、鷹村の脳裏に、獅子御の言葉が蘇った。
【相手が起死回生を狙う一発、あるいはこちらを沈めるための必殺。それをパーリングでいなし、間髪入れずに切り返せればどうなる?】
それができれば、相手の意表を突き、試合の流れを一気にひっくり返すことができる。
起死回生の、砲弾のような一撃が、宮田の顔面を突き抜ける。
凄まじい打撃音と汗が、リングの中央で散った。
「い、一郎……!!」
宮田の父が絶叫する。
勝利を確信していた矢先に、息子は撃ち抜かれた。
その光景は、かつて顎を砕かれた自分の記憶を呼び覚ます。
だが、これはラッキーパンチじゃない。
狙い澄ました、必然の一撃。
「こ、この土壇場に来て……パーリングを成功させおった……!」
幕之内は、あえて選んだのだ。
ボディを晒し、足を犠牲にして、
宮田へ渾身の一撃を叩き込む道を。
驚愕する鴨川会長はもちろん、様子を見ていた青木や木村、伊達を含むプロボクサー、そしてレフェリーを務める鷹村までもが、目を見開いていた。
(す、すごい手応えだった……倒した……僕が、宮田くんを……)
完全なる意表を突いた手応えに、幕之内は安堵に似た感覚を覚えた。
だが。
(目が……まだ死んでない……?)
視線の先、宮田が立っていた。
瞳孔は開き、鼻や口からは血が滴っている。
それでも、その目には鬼火のような闘志が燃えていた。
「――っ!」
振りかぶった左フック。
幕之内の視界に、その動きが焼き付く。
そこまでが、幕之内が目撃した最後の記憶だった。
鈍い衝撃音がリングに響く。
宮田の左が幕之内の側頭部を撃ち抜いた。糸が切れた人形のように、幕之内はキャンバスに崩れ落ちる。
「な……なんて……底力だ……」
宮田の父の声が震える。
たった今、幕之内から繰り出された強烈な右ストレートを喰らったというのに、宮田はまだ立っている。
信じられない闘志と本能だけで、立ち続けているのだ。
「ダウン!ニュートラルコーナーへ――」
そこまで言った鷹村の声が途中で止まった。宮田が、左を打ち抜いた構えのまま、動かない。
「……一郎?」
宮田の父が呟く。
鷹村が宮田の目を真っ直ぐに覗き込む。
その眼差しはまだ生きていた。だが……体は、もう限界を超えていた。
鷹村は、幕之内が完全に動かないことを確認し、手を交差させて試合終了を告げた。
リングの上に、二人の影が沈黙する。
勝ったのは――宮田だった。
だが、そこに歓喜はなかった。
あまりにも過酷で、あまりにも消耗し尽くした勝利だけが、リングに残されていた。