はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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章の終盤の話を書く時は、「夕空の紙飛行機」をループで聴いて書いてます。


再会の約束(1)

 

 

「え、宮田くん……もう来ないんですか!?」

 

激闘を終えた翌日。

 

まだ痛みを残したまま、鴨川ジムを訪れた幕之内は、驚きと困惑が入り乱れた声をかけでジムの空気を震わせた。

だが、その問いに宮田の父は、わずかに目を伏せて静かに頷いた。

 

「君とのスパーで負ったダメージを抜くために休養している。だが……ここで練習することは、もう難しいだろう」

 

リングでは試合を控えた木村が篠田トレーナーが持つミットを打ち、その木村の試合の前座を務める青木がサンドバッグを叩いている。いつもと変わらない練習風景。だが、その言葉だけが異質に響いた。

 

幕之内の胸に冷たいものが落ちていく。

 

「そ、そんなに……!?ボクシングができないほど……」

 

必死の声に、宮田父はかすかな笑みを浮かべた。その笑みには、哀しみと誇りが入り混じっていた。

 

「そうじゃない。一郎は……日本を離れる」

 

静かに告げられた一言が、幕之内の胸中を一変させた。

 

幕之内の頭の中で、あのスパーの光景が蘇る。

 

目の前が真っ白になるほどの宮田の右。

 

それを必死にパーリングで捌き、最後の力で打ち込んだ右ストレート。

 

それでも宮田を倒しきれなかった。

 

鮮やかな左のフックで、キャンバスに崩れ落ちる自分。

 

あれは、ただのスパーリングじゃなかった。

 

互いの魂をぶつけ合った戦いだった。

 

もう、二度と、あんな風に、拳を交わせないのか。

 

「え……そんな……」

 

胸の奥から、言葉というより吐息に近い音が漏れた。

 

視界の端で、鴨川会長が静かに腕を組み、何も言わずに窓の外を見ている。

 

沈黙が、幕之内の背中に重くのしかかる。宮田の父は、そんな彼を正面から見据え、淡々と告げた。

 

「日本を離れるのは、鷹村の試合の後だ。獅子御くんと一緒に、一郎はアメリカへ旅立つ。……今はその準備に忙しいんだろう」

 

言葉が落ちる音が、やけに大きく響いた気がした。

幕之内は何も言えなかった。

 

あのスパーのとき、宮田の目には確かに、別の景色が映っていた。その視線の奥に、もう自分がいないことを、薄々わかっていたのに。

 

それでも、胸の奥に言いようのない喪失感が広がっていく。

 

悔しさでも、寂しさでもない。

 

もっと曖昧で、どうしようもない感情が。

 

幕之内の返事はなかった。

 

ただ、力なく垂れた拳の指先が、ぎゅっと握られているのを、宮田の父は見逃さなかった。

 

 

 

 

場面は変わる。

 

夜の宮田宅は静かで、どこか落ち着かない空気が漂っていた。

 

幕之内と同じように、宮田の顔にも湿布が貼られ、頬や眉間に痛々しい痕が残っている。

 

その姿のまま、宮田は淡々と荷物をスーツケースへ詰め込んでいた。

 

床には無造作に置かれたジムバッグ、海外行きの航空券。

 

試合が終わったその翌日から、宮田の生活はもう別のベクトルで動き始めている。

 

アメリカ。ボクシングの本場。

 

獅子御との出発は目前に迫っていた。

 

スーツケースは宿泊先のホテルへ送る手配を済ませてある。そこで一泊し、その後は獅子御と同じアパートメントに腰を落ち着ける手はずだ。

 

事務的な動きのすべてが、宮田を強制的に前へと押し出していく。だが、心だけは、まだどこか、リングの中に置き去りだった。

 

そんな宮田の背後で、黙って荷造りを手伝っていた獅子御が、不意に声をかけた。

 

「一郎くん」

 

短い呼びかけに、宮田は手を止めず、視線だけをスーツケースに落としたまま応じる。

 

「……なんですか、獅子御さん」

 

「いい戦いだったよ。これは本気で言ってる」

 

穏やかながらも、底に熱を宿した声だった。だが宮田は、その言葉を鼻で笑い飛ばすように小さく息を吐いた。

 

「負けた試合に、いいも悪いもないですよ」

 

返事は短く、乾いていた。

だが、獅子御は怯まず続ける。

 

「でも、全部をぶつけられただろう?」

 

宮田の手が、ふっと止まった。

沈黙が、部屋の空気を重くする。

 

答えはない。だが、その代わり、宮田の拳が静かに語っていた。

 

握り締めた手のひらの奥で、何かがまだ燃えている。

 

あの瞬間の感触。

 

幕之内のパーリングから返された右が、人中を的確に捉えたとき、意識は一瞬、途切れかけた。

 

視界の端が白く滲む中、反射のように振り抜いた左フック。

 

その手応えだけは、今も鮮明に残っている。

 

拳の奥に刻まれた記憶の熱が、負けを認めることを頑なに拒んでいた。

 

――結果は、引き分け。

 

だが、宮田にとってはどうだ。

 

ボクシングを始めて三ヶ月の素人に、互角に持ち込まれたのだ。事実だけ見れば、負け以外の何物でもない。

 

ただ、不思議なことに、悔しさや恥ずかしさよりも、胸に残ったのは別の感情だった。

 

納得はできない。だが、後悔もない。

 

獅子御の言う通り、すべてをぶつけた。それでも倒せなかった。それだけのことだ。

 

けれど、心のどこかで、あの瞬間をもう一度と……そう、願ってしまっている。

 

獅子御は、黙ったまま荷造りを続ける宮田を見つめていた。その視線には、見抜いている者だけが持つ確信があった。

 

「一郎くんと幕之内くんは、きっと、良いライバルになる」

 

宮田は、鼻で笑いながらも問い返した。

口元にわずかな自嘲を浮かべて。

 

「獅子御さんと、鷹村さんみたいに……ですか?」

 

獅子御は、一瞬だけ柔らかく笑みを見せ、首を横に振った。

 

「俺は守くんの“宿敵”にはなれる。でも――“ライバル”にはなれない」

 

淡々とした声。そこには微かな寂しさが滲んでいた。

 

「プロで競り合う未来は、俺にはないからな」

 

宮田は無言で、その言葉を飲み込んだ。理解していた。だが、その奥に見えた“譲れない覚悟”に、心がざわつく。

 

「でも一郎くんは違う」

 

獅子御は視線を外さない。

 

「納得してないんだろう?幕之内一歩との試合に」

 

その瞬間、宮田の拳が、微かに震えた。

 

図星だった。

 

答えは言葉にならない。

 

ただ沈黙だけが、雄弁だった。

 

「……」

 

「まぁ、その答えは、アメリカで探せばいいさ」

 

獅子御は肩をすくめ、軽く笑って見せる。だが、その奥にある光は、決して軽いものではなかった。

 

宮田は、沈黙を破るように問いを投げた。

 

「……獅子御さんは、アメリカで何をするつもりなんですか?」

 

その声には、無意識に混じった“羨望”があった。獅子御は、ためらいもなく答える。

 

「決まってるだろ?」

 

その目は、夜の闇よりも濃く、まっすぐだった。

 

「――守くんを、世界に連れていく」

 

その言葉は、約束というより“宣告”だった。

 

静かな部屋の中で、未来を切り拓く音がした。

 

 

 

 

 

 

河川敷を駆け抜ける夕暮れの風が、二人の頬をかすめる。オレンジ色に染まった空の下、遠くで川面が鈍く光り、風が草を揺らして小さなざわめきを立てていた。

 

本来ヘビー級である鷹村は、ミドル級まで体重を落とさなければならない。

 

それは、削り取るという言葉が生ぬるく感じるほどの減量……水分、脂肪、時に筋肉さえも削ぎ落とし、限界のさらに先で立ち続ける戦いだ。

 

その過酷な日々に、これまで獅子御は黙って寄り添ってきた。練習、スパー、ロードワーク。鷹村の呼吸が乱れるその瞬間まで、獅子御は一歩も退かなかった。

 

呼吸ひとつ乱さず、二人は黙々とロードワークのペースを刻む。

 

「ったく!テメェも暇だな、誠司!アメリカ行きの準備はどうしたよ!」

 

汗をかくために長袖のトレーニングウェアを着る鷹村は、吐き捨てるように隣にいる獅子御に言った。本来なら準備で忙しく、練習に付き合う余裕もないはずだが、獅子御は笑いながら、軽く首を振る。

 

「ほとんど荷物は送ったよ。あとは身ひとつで旅立つだけさ」

 

「京姉と一緒に行くんだろ?……つくづく大事にされてんな。俺様とは大違いだぜ」

 

皮肉げに笑う鷹村。その声音には、相変わらず囲い込みに行っている姉の戦略さながらの攻略法への畏怖と、ほんの少しだけ嫉妬の棘が混じっていた。

 

姉の京香は、宮田と共にアメリカへ渡る獅子御に同行する予定だ。

 

心配だから――そう言った京香の笑顔を、鷹村はまだ鮮明に覚えている。

 

「たまたまだよ。京香さんもバケーションの終わりだし、卒論で忙しいはずだから、俺たちの面倒を見る余裕なんて無いはずさ」

 

軽く受け流す獅子御に、鷹村はそれ以上の追及をやめた。

 

姉の恋心を無闇に踏み荒らすような真似。それは、鷹村にとって死刑宣告に等しい。命がいくつあっても足りないことを、彼は誰よりも理解していた。

 

「どうだかな……ま、いい」

 

鷹村は口元を歪め、いつもの調子を取り戻すように笑った。

 

「とにかく、その前に俺様の華々しい勝利を、しっかり目に焼き付けとけ!」

 

その言葉に、獅子御も笑みを浮かべかけたが、彼は足を止めた。鷹村も、わずかな違和感に気づく。振り返ったその先で、獅子御の瞳は、冗談を許さぬ光を帯びていた。

 

河川敷の夕暮れ。オレンジの陽が二人の影を長く引き、風が草を鳴らして過ぎていく。

 

空気の温度が、一瞬にして変わった。獅子御は、拳を握るように言葉を絞り出した。

 

「守くん――」

 

「……なんだよ」

 

「アメリカで、俺は君を世界に連れていく」

 

その声に、迷いは一片もなかった。

 

鷹村は、言葉を返さない。

 

ただ、その目で応えた。

 

笑い飛ばすことも、軽口でごまかすこともできなかった。

 

なぜなら、その宣言が、これまでの獅子御のすべてを背負った覚悟だと鷹村は本能で理解した。

 

この一年、獅子御は全てを計算してきた。

 

鷹村とのスパーを繰り返し、映像を撮り、情報を仕込み、あらゆる駒を動かしてきた。

 

全てはアメリカという、ボクシングの聖地に鷹村の名を刻むため。

 

だが獅子御の胸中には、その先の景色まで、あまりにも鮮明に描かれていた。

 

鷹村が世界を獲る。

その瞬間を、自分の目で見届ける。

 

だが物語は、そこで終わらない。

 

そのさらに先に、宿命の決着が待っている。

 

初めて拳を交えた、あの日の続きを果たすために。

 

河川敷を抜ける風が、汗に濡れたシャツを冷やす。

夕陽は沈みかけ、空は赤と群青が溶け合うように混ざり合っていた。

 

それはまるで、二人の未来を暗示するかのように……燃える紅と、深い蒼の境界線。

 

獅子御は、一歩前に出て、言葉を落とす。その声は静かだった。だが、内に潜む熱は、燃え盛る炎にも劣らなかった。

 

「アメリカでやるべきことが終わったら――」

 

わずかな間を置き、まっすぐに鷹村を射抜く。

 

「日本で、決着をつけよう」

 

鷹村の目に、一瞬だけ、炎が揺れた。ゆっくりと口角を上げる。その笑みは、挑発でも虚勢でもない。純粋な戦士の笑みだった。

 

「それは……ボクサーとして、か?」

 

獅子御は、首を横に振る。

 

「いや……鷹村 守と、獅子御 誠司としての決着だ」

 

沈黙が落ちる。

 

二人の視線が正面からぶつかり合う。

 

その目は、初めて獅子御が鷹村に喧嘩を仕掛け、そして鷹村に何もさせず叩き伏せた、あの日と同じ光を宿していた。

 

鷹村が唯一、「あぁ、こいつには勝てない」と直感した、あの目だ。

 

次の瞬間、鷹村は吐き捨てるように笑った。

 

「上等だ。その頃には世界を制した鷹村 守様が、テメェを倒して“真なる地上最強”と名乗ってやる」

 

獅子御は、ほんの僅かに口角を上げた。

 

「それまで、負けるなよ」

 

「……お互いにな」

 

夕陽は、すでに地平線に沈みかけていた。

長く伸びた二人の影が、河川敷に並ぶ。

 

汗の匂いと風のざわめきが混じり、遠くで電車の音が小さく響く。

 

そして、二人の背中が、再び走り出した。

 

踏みしめる足音は、やがて未来のゴングと重なり、

決して逃れられない約束の音として、空に溶けていった。

 

 

 

 

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