はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
鷹村の試合は、終始相手を寄せつけない圧倒的な展開だった。
減量によるハンデを一切感じさせず、リング中央で暴れまわるその姿は、まるで檻を壊して飛び出した獣の如く。
対する相手は、ボッコボコに叩きのめされ、わずか1ラウンドで立っているのがやっとという有様で、最後はセコンドがタオルを投げて試合終了となった。
完封勝利。
観客のどよめきと歓声が、後楽園ホールの天井を揺らす。その熱気の渦中にいて、幕之内一歩は胸の奥で別の震えを感じていた。
強い。やっぱり、すごい。
憧れである鷹村の強さは、ただ技術やパワーだけじゃない。あの減量の日々を、自分は間近で見てきた。
汗に濡れ、食うものも削り、気が立った猛獣みたいになっても、最後まで歯を食いしばってやり遂げる姿。
その覚悟、その信念に、何度圧倒されたことか。
(……プロって、こんなに厳しいんだ)
あの地獄を抜けてリングに立ち、笑う鷹村。
その姿を見た時、胸に鈍い痛みが走った。
宮田がいない寂しさに甘えて、腑抜けていた自分が恥ずかしい。
負けてられない。
憧れのボクサー……鷹村 守みたいに、笑われないように、死ぬ気でやらなきゃ。
そんな決意を胸に、幕之内はホールを後にした。
試合の熱気を背中に、改札へ続く通路を歩く。
外は夜の気配が濃く、ビルの間を抜ける冷たい風が汗ばんだ頬を撫でていった。
その時。
「よぉ、幕之内」
不意にかけられた声に、足が止まった。驚いて顔を上げると、階段の上に一人の男が立っていた。
「宮田くん……!?」
息を呑む。
階段の上、街灯に照らされた横顔は、どこか遠い世界の人間みたいだった。
背筋を伸ばし、黒いジャケットのポケットに片手を突っ込んだまま、宮田一郎は静かにこちらを見下ろしていた。
「宮田くんも、鷹村さんの試合を見にきてたんだ」
「……あぁ」
短く答えた声は、いつもより低く聞こえた。
「明日には、俺は獅子御さんとアメリカに行くからな。日本で見られる最後の試合だった」
さらりと口にされた言葉。だが、その一言は、幕之内の胸に深く突き刺さる。
……明日。明日、宮田は日本を発つ。
それは、ずっと頭のどこかでわかっていたはずの事実。
けれど、こうして本人の口から聞かされると、どうしようもない現実感が襲ってきた。
心が沈む音が、自分にだけ聞こえた気がした。
前を向こうとしていたはずなのに、その瞬間、視界が暗くなる。
「そ、そっか……」
言葉が、喉の奥で重くなった。
宮田はそんな幕之内を見て、かすかに笑った。けれど、その笑みの奥には、どうしようもなく拭えない何かを抱えていた。街灯に照らされた横顔が、少しだけ影を帯びて見える。
「宮田くん、あのスパーリングのダメージは……もう平気?」
無意識に漏れた問い。
それは、あの夜の記憶を引きずっている証だった。
最後に拳を交わした日の衝撃が、まだ心の奥で熱を持っている。
本当に、痛かったのは身体じゃない。
この距離、この時間が、たまらなく痛い。
宮田は、答える代わりに一歩踏み出した。
そして、スッと空を切る音がした。
電光石火のようなジャブ。
鼻先をかすめる風が、まるで「これが俺だ」と告げるようだった。
「とっくに全快だ」
軽く肩をすくめ、口の端を吊り上げる。
その目には、鋼みたいな意志が宿っていた。
「アメリカに行けば、本場のボクシングジムに入るつもりだ」
本場のアメリカンボクシング。
言葉だけで、距離の果てしなさを突きつけられる。太平洋の向こう、いつも釣船の上から見ていた地平線の彼方に行く宮田。
想像するだけで遠くて、見えない。
幕之内の胸の奥で、何かがきしむ音がした。
「……も、戻ってくるんだよね!?」
気づけば、声が出ていた。
必死だった。
言葉に縋るような自分に、情けなさを感じる暇もない。
戻ってきてほしい。
また一緒に練習したい。
火花が散るようなスパーリングを、もう一度――。
そんな期待と願いが、胸の奥から噴き出す。
宮田の前で、幕之内はまるで親の帰りを待つ子供みたいな顔をしていた。
その目の奥にあるのは、不安と希望が入り混じった光。
宮田は、ほんの一瞬、視線を落とし……小さく、ため息をついた。
その吐息が夜気に溶けて消えるのを、一歩はただ見つめるしかなかった。
夜風が吹き抜け、二人の間の空気をさらっていく。街の雑踏のざわめきが、やけに遠く聞こえた。まるで二人だけが、時間の外に取り残されたみたいに。
「……ここに来たのは、鷹村さんの試合を見るのもあったが――」
宮田の声が、風に乗って静かに届く。
「お前に会える気がしたからだ」
「え……」
思わず漏れた幕之内の声は、驚きよりも戸惑いの響きを帯びていた。
宮田は、その目に真剣さを宿していた。
柔らかな光を落とす街灯の下、その視線はまっすぐで、逃げ場を与えない。
「アメリカでの生活は……3年。その後、俺は日本に帰ってくる」
一拍置いて、口元がわずかに動いた。
「だが……鴨川ジムに戻るつもりはない」
「な、なんで!? も、もしかして……あのスパーリングのせいで……」
デリカシーの欠片もない幕之内の言葉。一瞬、宮田の眉がピクリと動く。苛立ちが、わずかに視線に滲んだ。だが、その苛立ちの奥には、確かに……あの日の記憶があった。
「あぁ、そうさ」
言葉が、鋭く空気を裂いた。
「ボクシングを始めて三ヶ月のお前に、俺は負けたんだ」
一歩の胸が、ドクンと跳ねた。
やっぱり……。
そう思った瞬間、その続きを告げる声が重なる。
「だがな」
宮田の声が、低く響く。
「恥ずかしいとか、悔しいとか、そんな安っぽい感情からジムを辞めるんじゃない」
階段の上に立つ宮田は、薄い街灯の光に包まれ、影を長く伸ばしていた。その影が、一歩の足元まで届いている。見下ろす視線が、決意の色を帯びて光った。
「お前と同じジムにいたら……プロのリングで、本気で戦えないからだ」
「……!!宮田くん……」
一歩の心に、何かが鋭く突き刺さる。
その意味を、宮田は迷わず言葉にした。
「プロボクサー、幕之内 一歩」
名前を呼ぶ声が、夜の空気を切り裂くように重かった。
「俺はアメリカで必ず成長してみせる。そして帰ってきた時」
短く息を吸い、言葉を叩きつける。
「お前との決着をつける」
その瞳には、炎のような光が宿っていた。
それはただの宣言じゃない。
宮田の覚悟であり、決意だった。
アメリカでの過酷な日々を生き抜くための糧。本場のリングで揉まれ、骨を削り、魂を磨く理由。幕之内 一歩を今度こそ、完膚なきまでに叩き伏せる。
そのための言葉だ。
一歩は、返す言葉を探せなかった。
喉の奥が焼けるように熱く、何かが込み上げてくる。悔しさか、寂しさか、それとも……胸を突き動かす何か別の感情か。
答えを出す前に、宮田はもう一度、階段を見下ろして言った。
その声は風に乗り、夜の空気を震わせる。
「そのために、俺は行く。だから待ってろ、幕之内」
胸に突き刺さる一言。その瞬間、一歩の迷いは吹き飛んだ。何かが、心の奥で火を噴くように燃え上がる。
「……わかったよ、宮田くん」
言葉に力がこもる。
「三年後、日本のプロのリングで待ってるよ……!」
そのまっすぐな眼差しに、宮田はふっと口元を緩めた。暗闇の中、その笑みだけが鮮やかに見えた。
「その頃、テメーは階級を制した日本チャンプになってるかも知れねぇな」
「え、そ、そんな……日本チャンピオンなんて……」
「この俺と互角に渡り合ったんだ。それくらいしてもらわないと困るぜ」
言葉にこめられた皮肉にも似た挑発。けれど、その裏にある信頼を、一歩は感じ取っていた。宮田は本気で言っている。だからこそ、胸が熱くなる。
「……うん、そうだね」
一歩は拳を握りしめた。
「僕は、日本チャンピオンとして……アメリカから帰ってきた宮田くんを迎え撃つよ!」
「楽しみにしてるぜ」
宮田の声に、迷いはひとかけらもなかった。
「僕もだよ、宮田くん……!」
一歩の声が夜空に溶けていく。
その時、風が吹いた。
街路樹の葉がざわめき、二人の間をすり抜けていく。
その風が、別れの合図のように感じられた。
宮田はゆっくりと背を向け、遠ざかっていく。振り返らない。その背中が、逆にすべてを物語っていた。
強さを追い求める者の孤独と、前を向く覚悟。
一歩はただ、その背中を見送った。
やがて、宮田の姿は夜の雑踏に紛れて見えなくなる。残ったのは、胸を焦がす熱と、交わした約束だけ。
三年後。
必ず、日本チャンピオンになってみせる。
そして、あの男と決着をつけるために。
一歩は、そっと拳を握りしめた。
その拳は、もう震えていなかった。
第一部、完!次からはアメリカ編です!!