はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
鷹村がボクシングの練習を始めて、まだ数分しか経っていない。
だというのに、ジムの空気はすでに一変していた。
鎖がギシギシと軋み、サンドバッグがまるで風船のように揺れまくっている。上下左右、問答無用の打撃が、機械的なリズムではなく、本能の咆哮として叩き込まれていた。
パンチのたびに空気が震え、コンクリートの床に鈍い振動が走る。
力任せなだけではない。拳の入り方、足の踏み込み、重心のかけ方。
無秩序の中に、獣じみた洗練があった。
練習生たちも、門下生たちも、声ひとつ出せない。
息を潜めるように、サンドバッグの向こう側の異質な存在を見つめていた。
俺から見れば、それは相変わらずの“鷹村守”だった。
イタズラに拳を振り回しているように見えて、その実、力の乗せ方が理にかなっている。
「打ちたい方向に打つ」のではない。
「壊したい方向に壊す」。
それが、奴の拳だ。
そんな様子を、鴨川会長が腕を組んで見ていた。
口にこそ出さないが、すでに頭の中では“型”を作り始めている。
壊す力を、技術へ。獣の牙を、武器に変える算段だ。
しばらくして、汗だくになった鷹村が、チラチラとこちらを見てくる。
だが、俺は無視を決め込んだ。
八木さんと一緒に、次の試合を控えている選手のケアに集中する。バンテージの巻き直しと軽いマッサージ、それに動きのチェック。
それを見た鷹村が、あからさまに舌打ちをした。
舌打ち一つで全てがわかる。
あいつは、俺が自分に構わないのが気に入らないのだ。
ずっと、俺たちは“どつき合い”で言葉を交わしてきた。
それが、今は無視されている。
だからこそ、奴は吠える。
「サンドバッグばっかり打ってても全然スッキリしねぇや。おいジジィ、リングでスカッと殴り合いさせてくれねぇか?」
会長は笑って、こう返す。
「それよりもスカッとすることがあるわい」
「ほんとかぁ!?」
まるで犬のような反応だった。
期待に満ちた声でそう言った鷹村を、会長は外に連れ出す。
数秒後。
ジムの外から、原付のエンジン音と、鷹村の「おいクソジジィ!!」という悲鳴が同時に響いた。たぶん、ロードワークの初級編だろう。会長は基礎に厳しい。まずは足腰を作ることがすべてだ。
その背中を見送っていたジムの空気が、ふとゆるむ。
待ってましたとばかりに、八木さんとストップウォッチを押し終えた篠田さんが俺に話しかけてくる。
「驚いたよ。まさか誠司くんが、あの子と知り合いだなんてね」
「まったくだ。あの子と君に接点があるなど、夢にも思わなかったよ」
八木さんや篠田さんがそう言って肩をすくめる隣で、ジムの隅からこちらを見ていた宮田くんの父親……元プロボクサーのその男も、興味深げに視線を向けてくる。
その視線に込められた問いは明白だった。
「あいつは何者なんだ?」
みんなが、無言でそう訊ねている。
俺はそれに、言葉で応える必要があると感じた。
だが、すべてを語るつもりはなかった。
当たり障りのないことだけを、淡々と告げる。
小中学校の頃、俺と鷹村は毎日のように殴り合っていたこと。
中学の後半からは疎遠になり、高校は別々の道を選んだこと。
あいつが起こした、あの傷害事件には触れなかった。
触れるべきではないと思った。
俺の口から話すことではない。
あれは、あいつ自身の過去だ。
「なるほどな……小中と、あんな男と殴り合っていたわけか」
宮田くんの父が腕を組みながら、低く呟く。
「君の“芯”の強さがどこで培われたのか、少しわかったような気がするよ」
その言葉に、俺は軽く会釈するだけにとどめた。
何かを肯定したわけでも否定したわけでもない。ただ、受け止める。
と、そのとき。
遠ざかっていた原付のエンジン音が、再び近づいてきた。そして、乱暴にジムのドアが開け放たれる。
「おいジジイ!明日こそ誰かをぶん殴らせろよッ!!」
息を切らしながら、汗だくの鷹村が怒鳴り込んでくる。顔は真っ赤で、だが目はどこか楽しそうだった。篠田さんが驚いたようにストップウォッチを見つめながら、ついでに俺をチラと見る。
「その前にこれじゃ」
会長が、鷹村に一枚の紙を渡す。
「なんだよこれ?」
「今日お主が走ったコースじゃ。明日からは、朝と夕方に三周ずつ走ること。毎日じゃ」
「ふ、ふ、ふざけんなぁあああああああッ!!」
ジム中に響き渡るような怒声を最後に、鷹村はまた扉をバタンと閉めて去っていった。
「……篠田くん、タイムは?」
「30分切ってます。誠司くんから話は聞いてましたが……身体能力が、ちょっと尋常じゃないです」
その言葉に、鴨川会長がジロリと俺を睨んだ。
鋭い視線が刺さる。
「スパーリングは、しませんよ」
思わず口にした俺の言葉に、会長は鼻を鳴らしながら、悪態のように呟いた。
「わかっとるわ。誰がお主に頼むか」
そう言ったあと、表情ひとつ変えずに言葉を続ける。
「ただし。明日のロード、お主も付き合え」
それは提案でも頼みごとでもない。
ただの命令だった。
▼
「朝のロードワークの時間じゃ」
そんな一言から、すべては始まった。
まだ夜が明けきらぬ早朝、しんと静まり返る街の片隅。薄暗い空に、ぼんやりと街灯の明かりが残る時間帯。
その静寂を破るように、鴨川会長の一言がボロアパートの廊下に響き渡った。そのアパートの一室に住んでいるのが、鷹村守。
破天荒で、傍若無人な男だった。
音を立ててドアが開き、寝癖だらけの頭のまま青筋を浮かべる鷹村が現れた。
「けっ、んなもん、やってられっかよ……!」
それに対し、鴨川会長が鼻で笑う。
「獅子御は、息を吐くようにこなすのだがな。……思いのほか期待外れじゃったかのう」
挑発に近い言葉に、鷹村の眉がピクリと動いた。
まさに売り言葉に買い言葉。
そういう意味では、鷹村も非常にわかりやすい男だった。
「んだとぉ!?」
そして、その横で、なぜか俺もそのやりとりを見ていた。いや、正確に言えば、「なぜか」じゃない。すでに分かっていた。
会長の狙いは最初から俺だった。
昨夜のこと。鷹村と出会い頭に少しばかり本気になりかけた時、鴨川会長はそれを黙って見ていた。
そして何かに気づいたように、ふっと笑ったのだ。
「ふむ。こやつ、鷹村を焚きつけるにはうってつけじゃな」
そう言った時の目は冴えていて、すでに何手も先を見ているようだった。
つまり、俺は”燃料役”として選ばれた。鷹村の中に眠る闘志を、火薬のように爆ぜさせるための、着火剤。
ボクシングの指導において、会長の老獪さは随一だが……よりによって俺を使うとは、なかなか悪趣味である。
朝の空気は冷たく澄んでいて、眠気の残る体にはちと堪える。それでも、俺はシューズの紐をきゅっと締めた。
「さっさと走らないと置いていくからね、守くん」
「……おうよ、テメーにだけは負けたくねぇってな」
鷹村が肩を回し、フッと笑う。
その目に宿るのは、間違いなく“火”だ。
会長の目論見どおり……いや、それ以上に、鷹村の中で何かが目覚めつつあった。
そして、鴨川会長はその後ろを原付で悠々と走る。
時折、クラクションを鳴らしては怒鳴る。
「遅いぞォ鷹村ァ!後ろからバイクで轢かれたいか!?」
「ジジイうっせぇ!もっと静かに走れ!」
鷹村が悪態をつきながらも、しっかりとした足取りで走る。
そして、その前を俺が走っていた。
引き合いに出された身としては、正直たまったもんじゃない。だが、実際問題として、俺はロードワークには慣れていた。
中学三年の頃から、俺は鴨川ジムにちょくちょく顔を出していた。ジムの空気を肌で感じ、選手たちの鍛錬を間近で見て、時には一緒に走ることもあった。
試合を控えた選手に付き添い、調整に合わせてペースを作る。何もない日でも、基礎的なトレーニングは欠かさず続けてきた。
俺にとって、走ることは日常だった。
それは義務感でもなく、苦行でもない。
日々のルーチンワークの一つ。
呼吸を整え、一定のリズムで地面を蹴るあの感覚は、むしろ心を落ち着ける時間でもあった。
だからこそ、その朝も、俺は自然と鷹村の前を走っていた。後ろから原付で煽るように追ってくる鴨川会長の声が、耳にこびりつく。
「獅子御!もうちょい速く走らんか!鷹村が怠けるじゃろうが!」
「んだとぉ!?これでもこっちは走らされてんだぞぉ!!」
理不尽すぎる罵声である。鷹村も信じられないような顔で鴨川会長を見ていた。
だが、当時の様子に驚いていたのは、会長自身だったらしい。
後になって聞いた話だが、会長の目論見は、あくまで“軽い挑発”だった。つまり、俺を「比較対象」として鷹村の前に置くことで、対抗心を煽る。
もし俺がバテて脱落すれば、それで御の字。鷹村のプライドは満たされ、上機嫌で走り切る。そういうマッチポンプ的な演出だった。
……だが、蓋を開けてみれば。
俺は鷹村と、ほぼ互角のペースで走り続けた。
むしろ、下手をすれば前を走り続けていた時間のほうが長かったかもしれない。
それが鴨川会長の嬉しい誤算だった。
それは、俺の走力に対してだけじゃない。
鷹村にとっても、予想外の刺激になってしまった。
火を点けるつもりが、予想外に燃え上がったのだ。
会長は、その誤算を一切顔に出さなかった。
むしろ当然のような顔で、翌日もまた俺を叩き起こし、ロードワークに加えた。
「獅子御、今日も燃料役を頼むぞ。手を抜いたら承知せんぞ」
まるで、こっちの事情なんか一切関係ないとでも言いたげに。
「……あのジジイ、容赦ねえな」
朝靄に包まれた舗道を走りながら、俺はぽつりとつぶやいた。ただ、苦笑がこぼれる。文句の一つや二つ、言ってやりたかったが、飲み込んだ。
鷹村が真剣にボクシングに打ち込む。
その原動力の一部になれるのなら、それはそれで本望だった。
▼
その日を境に鷹村のボクシング人生が幕を開けた。
鴨川会長による、正統派スタイルのボクシングを叩き込まれる日々。スパルタでありながらも、そこには確かな哲学と、経験に裏打ちされた理論があった。
一方で俺はというと、基本的に鷹村の「燃料役」としての日常を送っていた。
もっとも、やること自体は以前とそう変わらない。
俺自身、リングに上がるつもりはない。高校の学業もある身だ。だからトレーニングも、無理のない範囲で、自制しながら行っている。
その代わり、ジム内では、選手のサポートや裏方の仕事を積極的に任されるようになってきた。
最近では、篠田さんや八木さんからも信頼を得て、選手のサポートも本格的に任せてもらえるようになってきた。
ミット打ちの相手、サンドバッグの補助、テーピングの巻き方など、プロの現場で求められる実践技術を、少しずつ身体に染み込ませていく。
さらに、試合運びのコツやマッチメイクの知識、選手の体調管理や減量法――そういった現場の「空気」も、この場所で学べる。
その道は、ボクサーとしてのそれではないかもしれない。だが、その道こそが俺にとって必要なものでもあった。
そんな日々の中。
ついに、鷹村が初めての試合を迎えることとなった。
あの破天荒な男が、リングに立つ。最初は遊び半分だった鷹村が、本気で、真剣にボクシングに向き合い、闘う男になった。