はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
私は、かつて鴨川ジムに所属していたプロボクサーだ。
全盛期には“東洋の閃光”とまで呼ばれ、東洋太平洋フェザー級王者の座まで上り詰めたが、あれが限界だった。
第7回目の防衛戦。
重ねてきた経験と技巧、すべてを注いだ試合で、私は相手の一打で顎を砕かれた。文字通り、粉砕だった。敗北のショックと、自分の限界を悟った私は、そのままグローブを置いた。
引退後はボクシングを憎むようになった。リングに背を向け、酒と煙草に逃げ、自堕落な日々を送り……ついには、妻も去っていった。
だが、そんな私を立ち直らせたのは、皮肉にも再び“拳”だった。
まだ幼かった息子の一郎が、ガレージの隅でシャドーボクシングをしていたのを見たとき、胸の奥に鈍い衝撃が走った。
背筋、拳の構え、視線……どれを取っても、私以上の才能がそこにあった。
息子は、私の生き直しだった。
彼の才能を信じ、導くことが、私に残された“もうひとつの戦い”だった。
そんな私と息子が、再び鴨川ジムの門をくぐることになったのは、運命だったのかもしれない。
そこで彼に出会った。
「獅子御くん」
鴨川ジムの一角で、ひときわ異質な空気を纏った青年がいた。
名は獅子御 誠司。
人当たりのいい顔をしているのに、研ぎ澄まされた刃のような感覚。身のこなしすべてが、他者を寄せつけない何かで覆われているようだった。
彼が鴨川ジムに来た時、直感めいたものを感じた。
……こいつは危険だ。
その佇まいに暴力の香りが漂っているわけではない。むしろ、静かで落ち着いていて、所作には礼儀すら感じる。
それでも、彼の周囲だけは妙に冷えているような、あるいは異質な熱気に包まれているような、説明のつかない不協和音があった。
最初は私も、彼をジムの若者たちのひとりとして見ようとしていた。だが、時が経つにつれて、彼の存在は徐々に他の誰とも違う輪郭を見せ始めた。
誰よりも静かで、誰よりも強い。
練習に臨む姿勢は真摯で、理に適っていて、無駄がない。にもかかわらず、彼は一度たりともスパーリングを行おうとしない。
リングに上がるのは練習生の頼みによる足運びの練習や、試合を控えた選手のサポート、ミット打ちに限る。
鷹村守とのスパーすら、何度も誘われながら拒み続けている。
しかし鷹村と彼は、まるで長年の盟友のように笑い合っていた。睨み合うわけでもなく、挑発し合うわけでもなく。ただ、互いの牙の鋭さを無言のうちに認め合い、並び立っているように見えた。
まるで獣同士が、自分と同種の猛獣だと理解し合った上で、あえて争いを避けているかのようだった。
それが妙に、不気味だった。
私には、ひとつだけどうしても拭えない疑問があった。
「なぜ、彼は鷹村とのスパーを頑なに拒み続けているのか?」
その強さを持ちながら、なぜ闘わない?
彼には明確な闘志がある。鍛錬も怠らない。技術も申し分ない。なのに、リングには決して上がらない。まるで、自分の中の“なにか”を封じ込めるかのように。
獅子御は、ただの逸材ではない。彼のなかには、底が見えない。あの鷹村すら、どこか一線を引いて接しているのがわかる。
だが、その一方で彼は、実に面倒見がよかった。
息子の一郎に対しても、トレーナー目線で真摯に接してくれた。ミット打ちも、サンドバッグも、黙々と支えながら、必要なときにだけ的確なアドバイスを与える。
感情をあまり表に出さない青年だが、ジムの誰よりも“人の弱さ”に敏感なのかもしれない。だからこそ、無闇に殴り合うことを避けているようにも見えた。
一郎が彼と練習を重ねるなかで、時折見せる笑顔と小さな会話。そのなかに、父親として私は確かな「信頼」の芽を感じ取っていた。
それでも、やはり私は思う。
獅子御 誠司という男は、いつか“何か”になる。
いや、なってしまう。
そんな予感が、胸のどこかにこびりついて離れないのだ。
鷹村はすでにプロの世界で頭角を現し、デビュー戦から無敗を貫いている。全試合、KO勝利。破竹の勢いという言葉を絵に描いたような男だ。
なのに、獅子御はその鷹村とのスパーを、一貫して断ってきた。
そして、ある日。
私はついに直接問いただした。
「なぜだね、君は鷹村とのスパーリングを避け続ける?臆しているとは思えん。君の実力は、ここにいる誰もが認めている。だが、それでも拒む理由はなんだ?」
私の問いに、獅子御は一瞬の迷いも見せずに、すぐさま答えた。その声には曇りも躊躇もなかった。ただ事実を述べるように、凛として静かだった。
「理由は単純です。今やれば、逆戻りしてしまうからですよ」
「逆戻り……?」
思わず聞き返してしまった。彼の言う意味が、一瞬では飲み込めなかったからだ。
「まだ、守くんは完全じゃない。つま先から頭のてっぺんまで、鴨川会長の型に染まり切っていない。いま僕とやらせれば、きっと中途半端なまま、勝ち筋を覚えてしまうんです」
まるで、未来を見ているかのような口ぶりだった。
この時、 背中に、ぞわりと氷のような寒気が走ったのを今でもはっきり覚えている。
まるで己の子供が、生まれた瞬間から地図の上で歩くルートを指し示されているような……そんな感覚だった。
獅子御は、鷹村を恐れていたのではない。
むしろ、その才能を深く理解し、尊重していた。
彼が鷹村とのスパーリングを拒むのは、潰さないためだったのだ。
まだ染まり切っていない未完成な状態で、自分とやればどうなるか。鷹村は、会長が丹精込めて築き上げている型の途中段階で、「勝ててしまう」ことを知ってしまう。
結果だけを見れば勝てる。
しかしそれは、未完成の力を肯定してしまう道でもある。
「あの男はね、会長の手でちゃんと“仕上がらなきゃ”いけないんですよ。俺はそのあとで構いません」
そう言い切る彼の眼差しには、戦う者としての冷徹な理性と、職人のような観察者の静謐さが同居していた。
それは、ある意味で鷹村守より“遥かに怖い”と、私は感じた。
そして、息子の一郎が、ある偶然から彼とスパーリングをすることになった。
リングの上で交差した拳。
その瞬間、私は確信した。
あの日見たあの言葉の真意が、ようやく腹の底に落ちた。
宮田一郎。
私の息子は、私の背中を見てボクシングを始めた。まだ小学生の頃、私の古いグローブをつけて、鏡の前でシャドーを真似していたのを思い出す。
中学生の時、私の後を追って一郎も鴨川ジムの門を叩いた。高校生時代でスカウトを受け、鴨川ジムに入門した鷹村よりも一郎の方が早かった。
一郎にとって、鴨川ジムは青春そのものだった。
その一郎が、ジム内でやや浮いた存在であった獅子御 誠司に、少なからず敬意を抱いていた。
獅子御は、一郎より後に入門した男だ。
しかし、彼の放つ空気は異質だった。
まるで別次元の知識と経験を持っていた。ボクシングの動きに、誰もが驚かされた。ただのマスボクシングでさえ、彼とやれば何かが変わる。
一郎は、何度も獅子御からスパーリング後にアドバイスを受けていた。
「あの距離で打つと、ジャブのリズムが崩れるよ」
「君は右を出す前に、左肩が少し上がる。そこ、見切られる」
言葉は端的で、淡々としていた。
だが核心を突いていた。
まるで、一郎の脳の奥に直接届くような指摘だった。その助言で、一郎の動きは何度も明確に変わった。だが、それでも一郎にはどうしても理解できないことがあった。
なぜ、あれほどの才能がありながら、獅子御はプロを目指さないのか。
なぜ、自らの力をひた隠しにして、ジムの裏方のようなポジションに甘んじているのか。
一郎の中では、それは“燻り”と映っていた。
「誠司さん。ミット持ってよ」
「あぁ、構わないよ。一郎くん」
二人の会話は、いつものように穏やかだった。
しかし、その静けさの裏で、一郎の中の悪魔が囁いた。
……ここで試せ。あの男の正体を。
ミットが差し出されたが、その位置ではない。
一瞬のスキを見た。
獅子御の顔面。
ガラ空き。
迷いは一秒もなかった。
一郎は、ミットではなく、その向こうの顔面へと、拳を伸ばした。
だが。
その拳は、寸前でミットに防がれた。
ミットを構えたままの獅子御の目が、じっと一郎を見ていた。
「……なんのつもりかな?一郎くん」
静かな声。しかし、その奥にある冷気に、ジムの空気が凍りついたような錯覚を覚える。一郎は、笑ってごまかすでもなく、真正面から言った。
「誠司さん。俺とスパーリング、やってください」
挑戦だった。一郎も、なぜそんな言葉を口にしたのかは分からない。きっと、獅子御という存在へ、拳で触れなければいけない気がしたのだ。
獅子御はミットを外し、ゆっくりとため息をついた。
「……リングに上がれ。ただし、2ラウンドだけだ」
その声は、決して怒っても、呆れてもいなかった。
まるで、何かを悟ったような、諦めのような、静かな響きだった。
私は、一郎側のリングサイドで見守るしかなかった。
だが、どこかで確信があった。
この2ラウンドで、息子の“何か”が壊される。
そんな予感が、嫌でも胸を締めつけていた。
▼
「……ああもう、重てぇな」
独り言のように呟きながら、俺は重装備のギアを着けていく。
ヘッドギア、ボディプロテクター、そして16オンスのスパーリンググローブ。すべてが「絶対条件」だと伝えられた。
渋々ながら、従うしかない。
ギアの装着が進むたびに、動きにくさが増す。肩に圧がかかり、胴回りが膨れ上がるような違和感。スピードとタイミングを命とするアウトボクサーにとって、この装備は鈍器のように重くのしかかってくる。
まるで「お前のスタイルは通用しない」とでも言われているようだ。
俺のボクシング歴は長い。父と一緒に取り組んできた練習と模擬試合、経験も自信はある。
父とのスパーでも、せいぜいヘッドギアだけ。最近はそれすら省くこともあったくらいだ。
なのに、なぜここまで厳重な装備が必要なんだ?
リングを見上げる。
そこには、すでにグローブを装着した獅子御 誠司の姿があった。彼がパンチミット以外でグローブを着けるところなど、初めて見る。
言葉を選ばずに言えば、異様だった。
ただのスパーリング。たかが2ラウンド。
なのに、空気はまるで公式戦のように張り詰めている。
この緊張感。リングに漂っている“気配”が、そうさせているのだ。
「……鷹村さんが見たら、悔しがりそうだな」
小さく呟きながら、俺はリングへと足を踏み入れる。今は鷹村も会長と一緒に県外に出ている。戻ってくるのは日が沈んでからだろう。
時間はまだ昼過ぎ。
食った昼飯もこなれてきた。体も軽い。
コンディションに関しては、申し分ない。問題は……相手、か。
向かい合った獅子御さんが呟く。
「一郎くん。正直に言えば……このスパーリングは、君の“色々なもの”を変えてしまうかも知れない」
その言葉には、妙な響きがあった。脅しではない。ただの警告でもない。まるで、それが既定の事実であるかのように、淡々と。
「……それが何だって言うんだ」
俺は短く返す。すると、獅子御は口元だけで笑った。
「変わっても……俺は責任を取らないってことさ」
冗談のようでいて、本気。そんな空気が、会話の奥に張り詰めていた。俺たちはそれ以上何も言わず、互いにコーナーへ下がる。
セコンドには、父が控えていた。
「一郎。相手の実力は未知数だ。前半は様子を見て、後半から一気にペースを取りにいけ」
「……オーライ」
言葉数は少ない。だが、それで十分だった。
父の声には、いつもの厳しさだけでなく、どこか沈んだ重みがあった。
気にするな。相手が誰であろうと、俺は俺のボクシングをするだけだ。
このスパーリングは、たった2ラウンド。
だが、その短い時間の中で、俺はあの獅子御(ししお)という男の“深さ”を測ることができればと思っていた。
いや、正確には──測ってやる、つもりだった。
父が静かにゴングを鳴らす。
その音に反応し、俺はいつものように軽やかなステップでリングを巡り、臨戦態勢に入った。
だが、目の前の相手を見た瞬間──俺の中に妙なざわつきが生まれる。
(……構えが異質だ)
足は確かにオーソドックス。
だが、拳の位置がやけに低い。
顔面がら空きに見える。あれでどうやってディフェンスするつもりなんだ?
俺のようなリーチの短い選手に対して、わざわざガードを下げて挑発してるのか?
いや、それにしては妙に堂に入った佇まいだった。ただの素人の構えじゃない。
(……舐めてるのか?)
苛立ちが湧いた。胸の奥で、冷えた火種が静かに燃える。その火を拳に込める。まずは牽制のジャブだ。
「どう反応する……?」
そう思って拳を伸ばした瞬間、世界がズレた。
……気づいた時には、俺の身体はなぜか右を向いていた。
(……あれ、なんで俺……右を──)
「一郎!!」
父の怒鳴り声で、意識が現実に引き戻された。
一瞬遅れて、頬に走る鈍い痛み。
いや、痛みというよりも“衝撃”。
反射的に足を使ってバックステップを取る。
だが、遅い。
獅子御さんは、まるで俺の後退を予測していたかのように、一拍の間すら与えず距離を詰めてくる。
その足取りには、無駄がなかった。
しかも、軽い。まるで重力を無視して動いているかのような感覚。
(本当に、マネージャー志望なのか!?)
ボクサーになるつもりはない、そう言っていた。
だが、今目の前にいる獅子御という男には、鷹村さんとやり合っていたときと同じ圧力を感じる。
正面から拳を交えている今ならわかる。
この男の実力は、冗談でもなければ、駆け引きのためのブラフでもなかった。
(くそ……!離れろ!)
焦燥が背筋を駆け抜ける。経験で鍛えた判断が告げていた。ここに居てはいけない。今の位置は、危険すぎる。すぐにステップバック。練習してきた通り、下がりながら牽制のジャブを放つ。
そのはずだった。
だが、獅子御さんは、その仕草すらも見越していたかのように動いた。
下げていた手が、まるで羽のように軽やかに持ち上がり、俺のジャブを真正面から受けるのではなく、手の甲で軌道を“ずらした”。
一瞬、それが何を意味するのか理解できなかった。
(なっ……早っ……!)
体の感覚が思考に追いつかない。目の前の相手が、まるで時間の流れを支配しているかのような錯覚すら覚える。
そして次の瞬間だった。
視界の左端で何かが閃いた、と思った。
その直後、横合いから“爆風”のような衝撃が襲い、全身が宙を舞う。
足がマットを離れた感覚。体が自分の意思を離れ、空中で回転しながら落ちていく。その無力感は、スローモーションのように脳裏に刻み込まれた。
気づけば、俺の体はリングに叩きつけられていた。
「一郎ーーっ!!」
父の叫ぶ声が遠くで響く。鼓膜の奥がジンジンと痛む。
呼吸ができない。
肺に空気が入ってこない。
胸がひくつき、空気の代わりに焦りだけが押し寄せてくる。
それでも意識は、かろうじて明瞭だった。
というより……焼きついた“あの技術”の残像が、頭から離れなかった。
手の甲で、俺のジャブを“ずらす”。
あれは、パーリング。
ボクシングにおいて、熟練者しか使いこなせない高度なディフェンステクニック。
ただ受けるのではない。相手の拳がもっとも威力を乗せてくる瞬間を見極め、その軌道ごとズラすことで、ヒットポイントを根本から失わせる。
俺はそれを、テレビの中でしか見たことがなかった。世界のトップ選手が、まるでマジックのように披露するアレ。
実戦で使うには、洞察・反応速度・距離感。
そのすべてが揃っていないと無理だ。
日本で、それを“自然にやってのける”奴がいるなんて……。
そして、パーリング直後のあの一撃。何が飛んできたのかも、どう倒されたのかも……全く覚えていない。
カウントが耳に入る。
なんとか膝をつき、グラつく体でロープにすがるように立ち上がる。膝が笑っていた。だが、意地がそれを止めた。
「まだやれます!!」
声が割れた。自分でも驚くほど、掠れていた。
スパーリングが再開すると、今度は飛び込まない。下手に手を出せば、またやられる。そう直感が告げていた。
(あの一撃が何だったのか、父さんなら見えてたかもしれない。でも……)
それを聞くなんて、そんな情けないこと、できるか。
(自分の目で、確かめてやる……!)
ジリ、ジリと距離を詰めながら、間合いを計る。
体はまだ重いが、感覚は研ぎ澄まされている。
今度こそ、見極める。
相手が間合いに入った。タイミングを見計らい、わずかなステップインと同時にジャブを繰り出す。
その瞬間だった。
「おっぐ……!?!」
目の前に、突如“巨大なグローブ”が現れたような錯覚。パンチの軌道が全く見えない!本能が拳を追うより早く、顔面に衝撃が突き抜けた。
その一撃で獅子御さんから視線が逸れた。
その一瞬が命取りだった。
「っ……!!」
視界の端で、相手が体が右へと軸を捻るのが見えた。踏み込みと同時、姿勢を斜めに崩しながら、利き腕を円を描いて振り抜いてくる。
(ボディか……!?リバーだッ!!)
そう認識できたのは、拳が俺の脇腹に深く沈んだ後だった。
「……がっ、はっ……!!」
まるで肝臓を刃物でえぐられたような衝撃が腹の中を突き抜ける。喉が勝手にひしゃげた音を出し、意識が一瞬、遠のく。
脚が耐えきれず崩れ、横に吹き飛ばされる形で、再び、マットへと叩きつけられた。
▼
(な、なんてボクシングだ……)
リングに沈む一郎の姿。
その光景は、単なるスパーリングの光景ではなかった。まるで、海外の試合……いや、別の何かを目撃したような錯覚にすら陥る。
私は拳を握りしめながら、胸の内でそう呟いていた。
あの男……獅子御誠司。
息子が測ろうとしたその相手が、いかに異質で、どれほど“強大”だったのか。たった数秒。ほんの数合で、私の中の常識という常識が、ことごとく破壊された。
(……なるほど、鷹村が固執するわけだ。そして、彼が崩してしまうと危惧していた訳も理解できる)
拳を交えた者にしかわからない、触れた瞬間の理解。
一郎が知覚できたのは、おそらく「パーリング」……拳を払うあの動作だけだろう。
だが、それ以前の段階で、すでに勝負は決していたのだ。
獅子御のパンチは“異常”だった。
あまりにも合理的。あまりにも無駄がない。
軌道にブレが一切ない。引き手から拳の着弾点まで、一寸の蛇行もなく一直線。
まるでコンピュータが弾道を計算して放った弾丸のように、最短最速でヒットポイントを撃ち抜いてくる。
しかも、その動作にほとんど“予備動作”が存在しない。
いや、正確には、すでにパーリングの動作そのものが攻撃の始動になっていたのだ。
通常、ディフェンスの後に体勢を整え、反撃へと移るのがボクシングのセオリーだ。
だが、彼は違う。
防御と攻撃が完全に連続している。
まるで一つの動作で完結するように、払って、殺して、撃ち込む。
これはもはや、常識的な“カウンター”ではない。
受けて、返す。
そんな温いものじゃない。
敵の攻撃が“死んだ”瞬間に、そのわずかな隙間を撃ち抜く一撃。言葉にできないほど精密で、恐ろしく鋭利な攻撃。
私が今見ているのは、プロのリングではない。
いや、もしかすると……並のボクサーだと到達できない、未踏の高みなのかもしれなかった。
立ち上がった一郎が、必死に繰り出したジャブ。あれは親の贔屓目なしに見ても、あれは完璧なタイミングだった。
ステップと連動し、体重も乗っていた。
十分な距離、十分な間合い。
理論上、どんな相手にも牽制として機能するはずだった。
だが、獅子御くんは、まるで“予知”でもしていたかのように反応した。
一郎が足を踏み込んだ、そのわずか半歩前。
すでに迎撃の体勢に移っていた。
リードカウンター。
攻撃の初動を読み、相手の打ち終わりではなく“打ち始め”に叩き込む一撃。
その一撃で一郎を釘付けにすると、今度は横にステップイン。重い一打が横から叩き込まれる。
リバーブロー。
一郎の身体がふっとび、そのままリングに沈んだ。
完璧なタイミング、完璧な角度、完璧な体重移動。
(これが、あの男の……)
思わず私は、自らの掌を見下ろしていた。
「まだ……カウント、終わってないですよね……!」
目を向けると、倒れていた一郎が立ち上がっていた。怪我をしにくい16オンスのグローブに加え、ヘッドギアとボディプロテクターを付けているというのに、その表情は苦悶に満ちてた。
呼応するように獅子御くんもファイティングポーズをとる。
ボクシンググローブをはめていた時代の自分を思い出す。
もし、一郎が現役時代の自分だったら?受けた衝撃は言葉では済まないだろう。それが誇らしく、そして羨ましかった。
これだけは確かだ。
獅子御誠司。この男のボクシングは、冗談でも、ハッタリでもない。
本物だ。
私は身震いした。
もし、この男が本気でボクシングに打ち込み、その恐るべきポテンシャルを世間に知らしめたら?
(……世界が、変わるぞ)
リングの外から見る者にもわかる。これは異端であり、革命であり、ある意味で“怪物”の誕生だった。
私はただ、呆然とその姿を見つめていた。かつてプロだった自分が、何一つ口を挟めないまま。